自作小説とギター演奏、その他話題
どうぞ、ごゆっくり

僕が大学受験で青森からフェリーに乗って北海道に渡ったとき
「場所の喪失」を痛いほど感じていたことをおぼえている。
初めての北海道の朝に出発したディーゼル特急からの眺めは
好きな異性の胸元のように白く澄んでいたけれど、
自分の胸の内では、うずくまりたくなるような痛みが続いていた。

それは過渡的なものだ、という理解は当時からあった。
やがて僕も気を許せる異性と出会い、結婚して子供を持ったりすれば
否応なくバタバタと自分の居場所は作られていくのだろう。
それが魅力的な未来だとはあまり思いはしなかったが
苦しみからの解放がそこにあるとなれば切に願うところだった。

時間が過ぎて、病が癒えるように、苦しみは消えた。

しかし新しい居場所ができたからではなかった。
居場所がないことに、なれていったのだ。

居場所が作れないことのいいわけを本当は僕はたくさん語りたい。
語り尽くしてはき出せるものなら、どんなにみじめでもそうしたい。

でも、ときが巡っていくうちに、なんだか居場所は、
作れるようになっていたみたいだ。
ネットという情報通信の海原に。

そう、天気は悪くない。
食糧や装備もいくらかはある。
まずは一人で気ままにテントを張って、火をおこし、
この無人島暮らしをはじめようじゃないか。

無人島からは、メッセージを書いた紙を小瓶に入れて流すのだ。
もちろん浜辺には、外からのメッセージが流れ着くこともあるだろう。
僕はしかし「SOS」と呼びあうほど若くはない。
かわりに「遊びにおいでよ」と書いて流す。


「ここはここで、わりと悪くないLoopyHillだから」って。

※動画配信を始めて時間を取られています。
よろしくご理解の程を。
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