GREAT HERO  1   2-3  4   5   6   7   8   9

『グレートヒーロー』


1章


 オレの名前はリュウ。高官試験に落ちたリュウ。もともと受かるかどうか半信半疑の挑戦ではあったが、はっきり結果が出てしまうと、やはり落ち込む。
 これがもしも自宅で答案を書いて郵送する、とかだったら、これほどには落ち込まなかったかもしれない。しかし、久しぶりの首都に行って二週間暮らし、都会の素晴らしさを実感してしまったし、それに試験会場には、魅力的な女子も多かったのだ。受験者の1/4くらいは女性で、草色のしなやかなカーディガンや、チェック模様のベストを着た女性たちが、目を輝かせて試験にチャレンジしている姿は、オレには眩しいくらい魅力的に感じられた。特に法学試験で横に座った小柄で丸顔の女の子など、問題用紙を回したときに返してくる笑顔から、おそらく素直で朗らかな性格だろうと察せられるのに、そんな人の良さは脇においといて、試験が始まると静かに問題に目を落とし、着実にペンを走らせていく・・・オレだって試験中だったし、じろじろと横を見るわけにはいかなかったけれど、すでに恋してしまったかのようなときめきを感じて、ちらちらと何度も横を見てしまった。
 オレの田舎では見たこともない素敵な女性たち。オレだって試験に受かればこういう人たちと毎日仕事をするんだ・・・と、そんな期待もあったわけ。
 すべて、夢と消えましたけど。

 今は夜行列車と乗合馬車で都会から帰ってきたところ。
 シラー湖の脇の停車場に昼前に着き、何人かの人たちといっしょに下りて、あとはのんびり家まで歩いて帰る。
 いつもの穏やかにカーブした道が、青々とした湖の脇に続いていて、その近くの畑では腰をかがめて働く人たちの姿が見える。馴染みの春の匂いが、人なつこい猫のように身体にまとわりついてくる。
 二週間ほど滞在した首都から戻ってみると、ここの全てが妙にちっぽけなものと感じられてしまう。しかしオレはこれからこのティエコ村で、きっと一生を過ごすのだ。くやしくて、悲しいけれど、むしろ開き直りたい気持ちにもなってくる。
 まあ、しかたない。試験に受かるだけが人生じゃない・・・そんなことを考えながら、なじみの田舎道を歩いて帰るオレだった。

 オレの家は教会兼、学校兼、駄菓子屋だ。兄弟は説明するのもめんどうなほどたくさんいる。というのも、オレの両親は、オレが11歳のときにそろって行方不明になって、それで、ここに預けられたのだ。ここの『父さん』は、子供を預かるのが趣味みたいな人だから。

「おかえり」
 と、笑顔で母さんが迎えてくれた。洗濯物を干し終え、教会のまわりの花壇の手入れをしていた母さん。試験の結果は既に電報で知らせてある。
「頑張ったね。一人で寂しくなかったかい?」
「一人じゃないよ。むこうには人がたくさんいた。アリの大群のように、どこをむいても人だらけ」
「ははは、疲れたろ。今日はゆっくりおし」
「うん、今日はね。でも、明日からはどうしよう?」
「ヒマなら弟たちの勉強でも見ておやりよ」
「あのさぁ、勉強は、もういいよ。何か別のことで頑張りたいな」
「そしたら、町の逆立ち競争にでも挑戦するかい?」
「夏祭りの?」
「そうさ、父さんは優勝したことがあるんだよ。今から練習すれば間に合うわ」
「オレはいいよ」と首を振って苦笑した。「それだったら船の方が好きだ」
「そうだね、それがあんたらしいね。ま、とりあえず、お昼を食べて一眠りするんだろ?」
「うん、夜行列車は全然眠れなかった」
「おつかれさま。母さんは、戻ってきてくれたことも、神さまのはからいだと思ってるよ。そりゃちょっとは残念だけど、リュウにはリュウの人生があるはずさ。別に都会の試験だけがすべてじゃないわ。ね?」
 ・・・そりゃそうですが、母さんがそういうこと言うのは、ちょっと違うかな、と思ったり。

 田舎らしい春の匂いのする寝床で数時間眠ったところで、弟のキーロウに起こされた。
「おーい、リュウにい、大変だー」
「な、なんだよ・・・」
「おれたちのグレートヒーローを出せっていうやつが現れた」
「はあ?」
『グレートヒーロー』とは、オレたち兄弟(オレとキーロウ以外にも小さいのが八人いる)の所有する二人乗りヨットの名前だ。湖の南端のボート屋に預けてある。
「あれはオレたちのものだ。勝手に誰かに使わせるわけないだろ」
「ところが、どっかから来たお偉いさんらしくてさ、問答無用って感じなんだ。やばいよ、これ」
「なんなんだよ、ったく・・・」
 眠い身体と、試験で落ち込んでいる気持ちに鞭を打って、オレは寝床から下り、速攻で服を着て、とにかくキーロウと共にボート屋にむかった。
  
 道の途中から、困った仕草のフルブラウトさんの姿が見えた。オレに勉強を教えてくれた人だ。田舎者のわりに知識はあるのだが、威厳があるタイプではない。そんなオヤジを困らせている相手は、オレと同じ年くらいの少年だった。脇に執事らしい老人がひかえている。オレには二人の見覚えがあった。昼の乗合馬車でいっしょに停車場に下りた二人だった。
「おーい、ちょっとまったー! オレたちの船に手を出すなー!」
「おお、リュウか」とフルブラウトさんは喜んだ。「ワシもボート屋として、おまえらの信頼を裏切るようなことはしとうない。しとうないが、なにせ、お客さんがお客さんじゃから・・・」
 はあはあと息をきらせて走り着いたオレたちを、そこにいたクラシカルな服装の少年がいぶかしそうに眺めてきた。
「おまえたちが、この船の持ち主だというのか?」
「悪いかよ。誰がなんと言おうと『グレートヒーロー』はオレたちの『グレートヒーロー』だぜ」
 謎の少年は、服装だけでなく、髪や肌もきれいに整いまくっていた。それだけでも都会から来たとわかる。車輪付きの台車で水のそばまで移動してある『グレートヒーロー』に触れて、不思議そうに首を傾げた。
「君たちは、この船の本当の意味を知っているのかな?」
「意味? 『偉大な英雄』って意味だ。きまってんだろ、そんなの」
「違う。名前ではない。この船の、真の存在意義を、だよ」
「誰にも負けない二人乗りのヨットだ。挑戦なら受けるぜ。しかしな、見ず知らずのやつをこの船に乗せるなんて、そんなことはゼッタイできない」
「そうかな?」
 やつは口元に笑みを浮かべてオレを見た。
「僕はエミリオ。よろしく。君たちの船に、スキッパーとして乗せてもらうことをお願いする」
 その澄んだ眼差しに、急にドキドキしてしまう。
「じょ、じょーだんじゃねーよ。おまえは知らないだろうけどな、この『グレートヒーロー』は、すごく特別な船なんだ。そんじょそこらのやつに、興味本位で乗せてやれるような、そんな安っぽい船とはわけがちがうんだ」
「わかっているよ。だから、来たのさ。さあ、船を水に下ろそう」
「そんなえらそうに言う前に」とキーロウが横から言った。「ちゃんと自己紹介したらどうなんだ」
「おっと、これは失礼。しかし詳しいことは言えないのだ、ゆるして欲しい。ただ、僕はこの国の未来を考え、大切な捜し物をしている最中なのさ。決して我欲のために行動しているのではない。未来のための、素晴らしい可能性のためなんだよ。理解して欲しい」
「そんなの、理解できるわけないだろ」とオレは吐き捨てるように言った。「いきなり来やがって、えらそうに。ところで、おまえ、そんなに堂々とこれに乗りたいとおっしゃる以上、ヨットは操れるんだろうな?」
「もちろん」
「この『グレートヒーロー』をだぞ」
「とりあえず風を受けて進むくらいの訓練はしてきた」
「そうか。だったら、ぐちゃぐちゃ言っててもはじまらねえな。一回だけだ。オレがクルーになってやる。言っとくが、この湖は夕方に山下ろしの風が吹く。その逆風を利用して、クローズで半分までスイスイ上れたら、認めてやってもいい」
「半分というのは、湖の半分ということでいいのか?」
「ああ。東の丘の教会が目印だ」
「ありがとう」
「ちっ、礼を言うのは早いと思うぜ。なんてったって『グレートヒーロー』だからな。普通の船といっしょにするな。『勝手が違う』とかほざいたって、チャンスは一回だけだ。この風にもたついたら即失格だ。今日ダメだったら、おとなしく引き下がってもらう。いくら金を積まれたって、二度目はない。この約束はゼッタイだぞ」
「わかった。よろしく」

 なんでこんな高飛車なやつにオレたちの『グレートヒーロー』を使わせる気になったのか、自分でも不思議だが、でも実は内心、オレたちの船の凄さに目をつけてくれた、とい嬉しさは少しあったんだ。
 オレはキーロウと馴れた手つきでセールを張りながら、おおざっぱな仕組みをエミリオに伝えた。あんまり親切にしてやるのはどうかと思いながらも、使わせてやるからには、きちんと使ってもらわないと困る。やつは狩人のような眼差しで、オレたちの説明を聞いた。真面目なのはわかるが、必ずしも船の仕組みに習熟しているようには見えない。全くの初心者ではなさそうだったが、確かに『訓練してきた』というレベルなのだろう。
『グレートヒーロー』を水面に下ろしたころには、案の定、山からの逆風が湖を超えてボートハウスに吹きつけてきた。
「いい風だなぁ、キーロウ」
「ホントだよ、リュウにい。下手なやつなら、ここから出ることだってムリっぽいよ」
「なんならセールをたたんで、こいでまん中まで行くか?」
 エミリオは湖を観察しながら「うるさい」と言った。
 フルブラウトさんが差し出したライフジャケットに、オレは袖を通した。やつも同様に着た。
「一つ、ヒントをやろう。右に100メートルほど行くと川への出口がある。そのあたりまでなら、岸辺でも結構深い。キールが触る心配がない。この間で、できるだけ加速して、川が見えたところで一気に反転するのが唯一のやり方さ。もちろん加速が足りないと、逆風で失速し、川に呑み込まれるだろうけどな」
「確かに、そこまではアビームだな・・・」
 横からキーロウがオレの袖を引っ張り「アビームってなに?」と聞いた。
「風を真横から受ける一番加速しやすい体勢のことさ。いつもやってんだろ」
「ふーん。それにしてもこいつ、ヘンな言葉、いろいろ知ってんな」
「言葉だけでなく、実際に船を操れるといいけどな。ま、キールを折ったりしたら、弁償してもらうまでさ」
「こいつ、金持ちみたいだし、いろいろ壊して、いろいろ新しくしてもらうといいな。あ、もしかして、リュウにい、最初からそれが狙いか?」
「ははは」
 オレは否定も肯定もせずに、エミリオをうながして、『グレートヒーロー』に乗り移った。今回は操舵をやつにゆずり、オレがクルーとして前部に乗る。
 オレはいちおうオールで杭を押し、位置を定めてやる。セールを下ろしていれば、こいで進むことも可能だが、風を受けている以上、オレにできるのはここまでだ。
「さあ、進めてみろ。オレたちの『グレートヒーロー』を」 
 セールが風を受けてふくらみ、大きな力が細い船体に加わった。水中のキールのしなりが感じられる。キールは角度をほしがっていた。『逃げる』角度ではなく『走る』角度を。
 やつは舵をゆるめて、わずかに船を風下に向けて調節した。船が加速する。オレはクルーとして、ロープを握りしめ、身体を風上の舷側に投げ出した。水面ギリギリまで上体を落とし、体重のすべてをロープにかける。
「エミリオ、いい加速じゃないか」
「わかってる」
「けど、このままじゃ岸に寄りすぎるぞ。上げていけ」
「加速はこのぐらいでいいか?」
「オレに聞くな」
「教えてくれたっていいだろ」
「教えたら勝負にならねえだろ」
「こっちは初めてなんだ、けちけちするな」
「くそ」とオレは手に食い込むロープを握りなおした。「合図したら10度上げろ」
「わかった」
「セールの調節も忘れるなよ。用意しとけ」
「10度くらいなら、やらなくていいんじゃないか?」
「やればわかる。水中からキールが再調整を求めてくるんだ」
「どのくらい?」
「今日の風ならカムを二回くらいだろう」
「オーケー」
「もう限界だ。10度上げ!」
「10度上げ、よし」
 船がゆるく弧を描く。カクカクとセールを調整する振動が伝わってくる。
「最初の加速は、ほぼ成功だな。問題はこれからだぜ」
「おどすなよ」
「タッキングの突入角は45度、そこから一気に反転させないと間に合わない」
「だろうな」
「死にたくなかったら成功させろ」
「こんな湖で死ぬことはないだろ」
「失敗したら、オレがおまえを殺す」
「冗談はよせ」
「半分マジだ。田舎もんは怒らせると怖いぜ」
 エミリオは真顔で舵に力を込めた。船がさらに弧を描き、角度を上げていく。
「リュウ、そろそろ、いいか?」
 このときが、あいつがオレのことを『リュウ』と呼んだ最初の瞬間だった。
「よし、やっちまえ!」
 風を受ける帆と、水中のキールが、ギリギリのせめぎ合いをしている。オレは舷側から身体を戻し、セールの反転に備える。
 いよいよ限界点に突入し、バタンとセールが角度を変え、船が逆に傾く。
 オレは急いで身体を逆の舷側に投げ出し、全体重をかけて船を支えた。揺らいだ勢いで、背が水に触れ、水しぶきが顔に当たる。後ろに飛んでいく水しぶきが、春の午後の日差しと重なりキラキラと輝いてみえた。
「リュウ、やったぞ、成功だ!」
「ああ、おめでとう」
 オレは、きりきりとロープを握りしめながら、身体が熱くなっていた。身体だけではなく、心も熱くなっていた。もう、勝負なんてどうでもいいくらいに。オレは試験に落ちたことも忘れ、全力でぶつかり合えるやつと出会えた喜びで、爆発しそうだった。

 その後も順調にタッキングをくり返し、空がオレンジ色に染まる頃には、湖の中央に着いた。
 オレはロープを操り、いったん帆を下ろした。
 そして、やつに手を伸ばした。
「おい、握手、まだだったな」
「ああ」
 やつの手は赤くなっていた。握ると女みたいなヤワな手だったが、全力で操舵したことはわかる。
「帰りは楽だ。このくらいならワイルドジャイブも心配ない」
「ああ。それにしても、本当にいい船だな」
「わかるか?」
「初めてなのに、どうしたらいいか、船が要求してくるんだ。間違っていると『違う』と伝えてくるし、正しいと『正しい』と伝えてくる。まるで生きているみたいだ」
「オレ、こんな田舎で暮らしてるけど、これに初めて乗って、一ヶ月でタッキングを憶えたぜ。半年で指導者なしで自由に沖に出れた。たぶんこれって、すごいことなんだろ?」
「ああ、むちゃくちゃすごいと思う」
「まあ、すごいっていったって、こんなとこじゃ、誰もほめちゃくれないけどな」
「あのさあ」
「ん?」
「礼というのもなんだが、僕の突然の挑戦にこんなに協力してくれたリュウに、一つ、秘密を教えてやろう」
 そう言って、やつは少しふくらんだ胸に手をあて、襟元のひもをほどいた。そして布袋を取り出した。中からは握り拳半分ほどのサイズの透明な玉が出てきた。
「『ビアトリスの玉』だ。不思議な力が込められている。僕がここに来たのも、この玉の導きなんだ」
「中に何か映るのか?」
 エミリオは笑って「映りはしないよ。ただ、光るんだ」と言った。
「光る?」
「ああ、今も光っている」
「夕日が眩しくてわかんねーよ」
「この船と共にいると、本当によく光る」
「だから、わかんねーっつうの」
「ははは。ま、そのうちリュウにも見えるようになるだろう。勝利の記念に、マストに飾っておいていいか?」
「意味わかんねー」
「フックに縛りつけておこう。袋ごとね。これならなくすこともないだろう。『グレートヒーロー』と『ビアトリスの玉』。素晴らしい協調の瞬間だよ。わかるかい?」
「なにが?」
「ここに一つの運命が始まったのだ。この国の新しい可能性を切り開く、記念すべき運命の瞬間」
「はいはい」
 オレはやつの妄想話についていけず、帆を上げて帰る用意を始めた。
 いつもならこの時間は風が静かになってくるのだが、今日はむしろ強くなってきている。湖面の小波もそれを物語っていた。
 エミリオは操舵につき、思いっきり感動の余韻に浸りながら、鼻歌を歌いスピードを上げ始めた。
 やつの宝物をマストに掲げたことが、いいことか悪いことはともかく、オレには逆にイヤな予感がしていた。いつもの山おろしから、春の季節風に変わっていたからだ。強い突風が襲えば、ワイルドジャイブの危険もある。『グレートヒーロー』は優れた船だが、自然の風を受けて進むことは変わらない。
 エミリオは調子に乗り、かつてオレが経験したことがないほどにスピードを上げた。風に対して角度をつけ、ゆるやかにタッキングしていく。風上なのだから、素直におとなしく帰る方法もあったはずだが、エミリオは勝手に高揚しきっていた。
 そのとき、オレは目の前の危険に気がついた。湖に二カ所しかない浅瀬が近づいていたのだ。温泉が湧き、水の色が変わっているので『緑の浅瀬』と呼んでいる。水深1メートル以下の場所だ。小さなポイントだから普段は気にしなくていいのだが、今は真っ直ぐにそこにつっこもうとしている。
「エミリオ、やばい、カジを切れ」
「なぜ?」
「浅瀬だ」
「どこ?」
「正面」
「聞いてない」
「早く!」
「ムリだって」
 確かに、このスピードでは急な進路変更はムリだった。
 オレたちは浅瀬につっこんだ。キールが底を打ち、船は勢いのまま、上空に投げ出された。
 しかしその瞬間、信じられないことがおきた。『グレートヒーロー』は、帆に風を受け、本当に空を飛んだのだ。オレはわけのわからないことを叫びながら、確実に『飛んでいる』ことを実感した。『ビアトリスの玉』の神秘・・・不思議な冒険の始まり・・・オレたちの知らない物語・・・
 しかし飛行は長く続かず、まもなくオレたちは湖面につっこんだ。ひやっとする春の水だ。幸いだったのは、この浅瀬のあたりは温泉が湧いているので、水温はあまり低くない。
「リュウ、浅瀬があるなら早く教えろ!」
「教えた」
「遅い!」
「おまえがスピード出しすぎだっての」
「だって、『ビアトリスの玉』をかかげた『グレートヒーロー』の凱旋だ。スピード出さないでどうする」
「わかったよ。せめて船が壊れてないことを祈るのみ」
 オレは『グレートヒーロー』を探った。横転した船体の向こう側にキールが見えた。
「大丈夫みたいだな、奇跡だ」
「言ったろ、『ビアトリスの玉』の奇跡だ」
「はいはい」
 オレは首を振りつつ、濡れた帆を水面下でたぐり寄せ、船を起こす準備を始めた。
「エミリオ、船底に回り込んで、そっちから体重をかけてくれ」
「わかった」
 やつが泳いで船を向こう側に回り込む。いったん帆を外してから、二人で協力し、なんとか船を起こし、乗り込んだ。
 すぐに二人で半分ほど水をかきだした。幸い風上だったし、ボートハウスまでもさほど遠くはない。オールでこいで戻ることも可能だった。
 そろそろ夕闇が近づいている。オールは一本しかなかったので、オレはやつに水出しを指示して、船のさきっぽでオールをこぎ始めた。
「きゃー、たいへんだ!」
 と、突然、やつは女のように叫んだ。
「『ビアトリスの玉』がなくなってる!」
「知るかよ」とオレは当然のことのように言った。「飾ったのもおまえだし、スピード出し過ぎたのもおまえだ。オレは関係ない」
「バカ言うな。『ビアトリスの玉』と『グレートヒーロー』はセットなんだ。二つで奇跡を呼び起こすんだ」
「ああ、確かに、この船が空を飛ぶとは知らなかったよ」
「探さなくては」
「後にしようぜ。オレは疲れた」
「し、しかし・・・」
「エミリオの言うことが本当なら、玉は光るんだろ? あそこは浅瀬だし、温泉が湧いて水温も高い。心配しなくても探すのは楽だと思う。そんなに気に病むことはないさ」
「場所はわかってるんだろうな」
「痛いくらい思い知ってるのは、オレだけか?」
「いや・・・そうか・・・そうだな・・・『ビアトリスの玉』だからな」
「どういう意味だ?」
「必ず『戻るべきものの手に戻る』ということだ。君は信じないだろうが、あの玉には意志があるんだ。こうやって空を飛んだのも、きっとあの玉の意志だ。まあ、探すのが容易なら、心配しても始まらないな」
「う〜ん、いまいち、納得しがたい理屈だが、いちおう、心配することないってことは本当だ。最後にちょっと余計な事故が起きたが、おまえはオレの出した課題をクリアしたことにしてやる。とりあえず、おめでとう」
「ああ」
「これから、気が向いたときは使わせてやるから、安心しな」
「いや、僕はこの船を・・・ま、いいか。こちらこそ、ありがとう。確かに、素晴らしい経験だった」
「ていうか、エミリオさん、おたく、そんなかっこつけてないで、せっせと水をかき出してくんいかな。水が重くて、こいでもなかなか進まねんだけどな」
「わかってるって。でも疲れるんだよ、これ」
 こうして、最後はずぶぬれでこごえながら、水をかきだすエミリオと、オールでこぎ進むオレという、笑いたくなるようなスタイルで、なんとかボートハウスに辿り着いたオレたちだった。
 
「僕たちは、ボートハウスの隣の宿に泊まっている。よかったら、夕食後に、少し来ないか」
 とエミリオは別れぎわにオレに言った。
「どうかな。夜行で戻ってきて、昼寝も中断されたし、けっこう疲れてるんだけど」
「少し話しておきたいことがあるんだ。いわゆる『重大発表』ってやつさ」
「話したいことがあるなら、今、話せよ」
 とオレは言ったが、デカイくしゃみを連発した。
「ははは、僕も寒いよ。リュウも今は帰って着替えして、暖かいものでも食べるに限るさ」
「そ、そうだな」
「待ってる。ぜひ、来たまえ」
 オレは渋々頷き、寒さを振り払うように走って、キーロウと家まで戻った。

 オレは今日の出来事を兄弟や両親に説明しながら夕食を終えると、一人でボートハウスに向かった。キーロウ始め、弟たちは皆ついて来たがったが「話だけだから」と我慢させた。
 霞のかかった半月が空高く輝いていた。オレは静かな夜道を湖沿いに歩いて、ボートハウスの隣、村に一軒しかない宿屋に向かった。

 ロビーには、少年といっしょにいた初老の執事がいた。
「お待ちしておりました」
「どうも」
 オレとしては、どう挨拶したらいいかわからないぎこちなさ。とりあえず彼の案内で、二階に上がり、一番奥の部屋に入った。
 そこには、なぜか女性がいた。ベージュ色の丈の長いワンピース姿の女性。髪はショートだったが、つややかに整えられていてハッとするほど美しい。整った目鼻立ちも、もちろん間違いなく女性のものだった。
「ようこそ、リュウ」
 澄んだ声も女性のものだった。
「えっと、オタクは?」
「パトリシア・エミリオ・ローゼンバーグ。『グレートヒーロー』を自在に操る、選ばれたあなたに出会えて光栄です」
「はぁ? どどどどどーいうことですかぁ?」
「まずは、お茶をどうぞ。疲れを癒す、美味しいお茶です。ポビー、お願い」
 執事の人がカップに茶を注いでもってきてくれた。
「ど、どうも・・・」
 オレはとりあえず受け取り、立ったまますすった。
 なんてったって、オレが一番あせったのは、その女性がむちゃくちゃ美しいことだった。ボート屋のオヤジが言ってたけど、確かに『お偉いさん』らしい。こんな田舎には似合わない超スーパーなお姫様。実際のところ、国王の娘と言われてもマジで信じられる。美しさ、気品、誠実さ、知性。オレもいちおう都会にあこがれた者として、そういう素敵な人が世の中に存在することぐらいのことは想像していたけど、目の前にいきなり、ってのはどうよ。それも、今まで見たこともないほど素敵で、押さえようにも心のときめきでクラクラしてしまう。
「オ・・・オレ、エミリオに会いに来たんですけど」
「私です」
「はあ? え・・・えっと、あ、あなたさまが、も、もしかして、エミリオだったのですか?」
「そうです」
「でも、あいつ、ずいぶん失礼な、男っぽいやつでしたよ」
 彼女は目つきを鋭くして、声のトーンを下げた。
「おい、だったら言わせてもらうが、浅瀬があるということをどうして先に言わなかった。知っていれば、あんなにスピードを出すこともなかったのだ。まったく、ひどい目にあった」
「うっ・・・や、やっば、本物だよ、こいつ・・・」 
 彼女は口元に笑みを浮かべた。そして声のトーンを女性に戻して言った。
「ごめんなさい、リュウ。これには理由があるのです。私は素性を隠さなくてはならないの。だから男として旅をしています。あなたをだます目的ではないの。どうか、ご理解下さい」
「じゃあ、どうしてオレには女であることを明かしたんですか?」
「あなたは、私にとって大切な人と思ったからです」
「大切?」
「はい。話せば、長いことです・・・しかし、あなたは、私を信頼してくれました。そして、正しく導き、自在に操れるまでに。本当に心から感謝します」
 オレは首を振った。
「イヤ、それはどうかな。それ、誰だってできることじゃないと思いますよ。船が『グレートヒーロー』であったこと、そして、男としてのエミリオの才能、そっちの方が重要じゃないかな」
「いずれにしても、私は『グレートヒーロー』にたどり着いた今日、あなたと出会えた絆を信じます。それは『よきこと』です」
「よ・・・よきこと、っスか?」
「嬉しくないですか?」
 彼女は首を傾げて、キラリと澄んだ目でオレを見た。
「嬉しいというか、なんというか、混乱しちゃってます。だって、どう考えたって、おたく、スゲー金持ちみたいだし、ビックリするくらい美人だし、オレなんか、田舎の貧乏な教会の子で、兄弟ばかり多くて、都会の試験にも落ちてきたばかりだし、なんか、ホント、さえない田舎者って感じなんだけど、どうなんですか。こんなの、ありっスか?」
 彼女はまた目つきを鋭くして、声のトーンを下げた。
「アリだ。僕が男として旅をしているのにだって深い理由がある。それに比べたら、君が田舎者かどうかなんて大した問題ではない。人間というのは、生まれや、所持金で、すべてが決まるものではないのだよ。本当に大切なものは何なのか、それは本来、この国のアムンの教えにしっかりと説かれていたことだ。しかし人々はすっかり忘れ、失おうとしている。僕はそれが許せないんだ。どんなに非難されても、悪口を言われても、必ず真実を見つけていきたい。それが僕の挑戦だ。君なら協力してくれるね?」
「え? オレが?」
「そう」
 オレは逆に、エミリオが女装してるんじゃないか、女装しているエミリオと話をしているんじゃないだろうか、と思ってしまった。
「ま、オレにはよくわかんないけど、正直、目標にしていた高官試験もダメで、明日からどうしたらいいかわかんないところだったから、ちょうどいいよ。たいていのことにはつきあうよ。少なくとも、なんだか面白そうだしな」
「おいおい、単なる興味本位では困る。僕が抱えているものは、そんなに甘いものではない。僕たちの人生と、国の未来に関わることだ。命がけなのだ。それでもいいのか?」
「いや、『それでもいいのか?』って言われたって、オレ、まだ話がゼンゼン見えてないし」
「うむ。まあ、とりあえず、これから『ビアトリスの玉』を探しに行こう。つきあってくれるね?」
「今?」
「ああ。夜なら、玉の光が見える。行けばすぐに見つかるはずだ」
「マジかよ」
「すでにボート屋の人には話をつけてある。『グレートヒーロー』を水に浮かべて待ってくれているはずだ」
 オレはため息をつき、茶のカップをテーブルにおいた。
「ま、いいけどね。船に乗ることは嫌いじゃないし、きれいなお姫様と二人で、月夜の湖面に出ると思えば、ロマンチックな気もする」
「おいおい、ヘンなことを考えるな」
「ていうか、おまえも女装しているときぐらい、女らしい話し方すれば?」
「女装ではない! 逆だ! 男装だ!」
「いや、だから、わかってるから、せめてその美しい身なりのときは、憎たらしいエミリオをやるの止めてくれよ。お願いだから」
 彼女は口元に笑みを浮かべた。そして声を女性に戻して言った。
「憎たらしいエミリオも、私の一部なの。好きになるのはムリでも、どうか受け入れてください。お願いします」
「う、うん・・・ま、わかってるけどさ」
「では、私は着替えをしますので、少し下のロビーでお待ちいただけますか?」
「え、着替えるの?」
「はい、外に出るときは、必ず男の身なりで出ます」
「夜でも?」
「もちろんです」
「そ・・・そうか・・・また、エミリオに戻るのか・・・ねえ、もしよければ、女性のときには、別の名前で呼ぶことにしない?」
 彼女は真面目な表情で僕に近づき、優しく微笑んで手を差し出してきた。
 僕がそのしなやかな手を取ると、彼女は腰を下げて挨拶した。
「私のファーストネームはパトリシア。よろしければ、パティとお呼び下さい」
「は、はい・・・わかりました、パティ」
「では、リュウ、のちほど、また」
 彼女はオレの手を、扉へと導いた。
 オレは思わず一礼してから、部屋を出た。

 階下のソファーに座って待っていると、執事のポビーが階段を下りてきた。
「お待たせしてすみません。まもなくでございます」
「いいよ、オレ、べつに急ぐわけじゃないし」
 どうでもいいことのように応えたが、彼はオレの前に来て「よろしくお願いいたします」と律儀に頭を下げた。
「いや、こちらこそ。ていうか、そんなに改まってお願いとか、しなくていいと思うんですけど」
「いえ、事態は切迫しております」
「はあ?」
「どうか、姫さまをよろしくお願いいたします」
「やだなぁ、結婚するんじゃないんだからさあ」
「やっと、なのです。本当にやっと、ここにたどり着きました。リュウさまにあっては、いささか意外とお感じなされるかと思いますが、姫さまは、真剣です。物事の本質を見極めようとしたとき、自ら旅立たねばならない事実を知ってしまったのです・・・」
「よくわかんないけど、それって要するに、あの人の『わがまま』ってことなんじゃないの?」
 彼は面白そうにクックッと笑った。
「リュウさまにかかって、姫さまもかたなしですな」
「それは冗談だけどさ、ほら、『ビアトリスの玉』との出会いが、何か関係あるとか?」
「もちろんでございます」
「ま、よくわかんないけど、いろいろあったんだろうなってことは、少しオレにも察しがつくよ」
「リュウさまは、とても大切なお方です。ですから、はっきりと申し上げさせていただきます。姫さまを、どうかよろしくお願いいたします。どんなことがあっても、今後は必ずあの方をお守り下さい」
「ポビーさん、期待してくれるのは嬉しいけど、オレ、よくわかんないから、どう応えたらいいかもわかんないっス。ていうか、明日になったら『やはり勘違いでした』と去って行っちゃう気もするし。全部、夢だったんだ、って。だから、こういうことは、あまり深刻に受け取らない方がいいんじゃないか、って、そんなふうにも思うわけ」
「お察しいたします。しかし、事は動き始めております。どんな事態となっても、どうか冷静に。そして、心は常に姫さまと共にあることをお忘れなく」
「は、はあ・・・」
「いいですか、決してお忘れなく」
「はい・・・」
 二階の扉が開き、階段を下りてくる足音が響いた。
「待たせたな、行こう、リュウ」
 エミリオは、もちろん男性の姿だったが、もこもことたくさん上着を着込んでいた。
「おまえ、ずいぶん厚着してきたな」
「うるさい、僕は冷え性なんだ。ていうか、いささか風邪をひいたらしい。寒気がする。さっさと終わらせるぞ」
「はいはい、おおせの通りに」
 僕は「姫さまか・・・」とつぶやき、ポビーにむかって肩をすくめた。

 オレたちが宿を出ようとしたところに、自転車でキーロウが走り込んできた。
「リュウにい、ちょっと、これ」
 やつは手に持っている封筒を差し出してきた。
「おい、来るなっていったろ。今夜は乗せないぜ。捜し物をするだけだから」
「わかってる。ただ、父さんが、これを渡してこいって」
 受け取ってみると、薄っぺらい封筒だった。
「なんで、こんなときに?」
「わからないよ。でも、急いで書いてた。あとで渡せないと困るから、渡してこい、って」
「意味わかんねー」
「オレだって、帰ってきてからでいいだろって言ったよ。でも、なんとなく顔がマジだった。『リュウの親との約束が関係している』って」
「親って、あの人、自分が親だろうが」
「そうだけど、きっと本当の親のことで、隠してたことがあるんだよ。こういうの、すげー大切なことだろ?」
「う・・・うん、まあな・・・。でも、なんで『今』かな」
「何が書いてあるかオレは知らないけど、リュウにいは、あとで必ず見た方がいい。わかった?」
「わかったよ。じゃあこの捜し物が終わったらきちんと見る。いいだろ?」
「絶対だよ」
「ところで、おまえ、ちょうどいいところに来た。これから落とし物を探しに『緑の浅瀬』に行くんだけど、夜だから水の色がわからないかもしれない。悪いけど、自転車で近くまで行って、ランプで目印になってくれないか」
「いいけど、無理に夜に探すこともないんじゃない?」
「探しているのは、夜の方が見つけやすいものなんだ」
「ふーん。ま、いいよ。行ってくる。ジャガイモ畑のあたりだったよね」
「そうだ、たのむ」
 去り際にキーロウは、エミリオにむかって「捜し物って、おまえのか?」と聞いた。
「そうだ」
「なんか、いろいろあるみただけど、リュウにいをひどい目にあわせたら許さないからな。あと『グレートヒーロー』も」
「わかっている、心配するな」
 キーロウは首を振り「それ、全然本心から言ってるように聞こえないよ。まるで作った声みたい。金持ちって、そんなもんかな。ま、いいや。行くね」と去っていった。

 風は相変わらず山の方からゆるやかに吹き下ろしていた。夜中に帆を上げてタッキングするのも危険に思えて、二人でオールを使いカヌーよろしく湖を進んでいった。
「なあ、パティ」
「なんだ」
 彼女の男口調にオレは苦笑して「二人だけなんだから『男』をやめていいんじゃね? 本当は女なんだろ?」と言った。
「そ、そうね・・・でも、このカッコウで素に戻るのは、少し違和感があります」
「気にしなくていいよ、オレは前むいて、こいでるんだから」
 オレが前、やつが後ろの位置だった。
「でもね、私、あまり気を許しすぎるのは危険と思うの」
「どうして?」
「話すと長いんだけど、追っ手がせまっているかもしれないから」
「『追っ手』? あんたたち、何か悪いことしたのか? 食い逃げしたとか?」
 彼女はフフフと淑やかな声で笑った。
「私みたいな立場の者が、夜の湖であなたと二人でいること、これも絶対に許されることではないのですよ」
「不倫だからか?」
「違いますっ!」
「エミリオは、こんなことばっかりやってるから、みんなに追いかけられるんだ」
「ますます違いますっ!」
「ははは」
 オレは自分でも珍しいくらい、すがすがしく笑ってしまった。
「オレ、よくわかんないけど、でも、何かが動きだしたみたいだってことは、少し察しているよ」
「リュウは、あなたの両親に関して、何かご存じ?」
「教会兼、学校兼、駄菓子屋のオレんちか?」
「いいえ。本当のご両親のこと」
「なんだよ、いきなり。オレ、そんなこと、話したくないな」
「研究者だったのでしょ、魔法の」
「さあな。よくしらねーし、興味もねえ。オレは世の中の不思議現象ってやつが大嫌いなんだ」
「あなた、この『グレートヒーロー』が、いつ頃作られたかご存じ?」
「知らねえが、ま、古いことは確かだと思う」
「一万二千年前よ」
「はあ?」
「歴史家は、そのころ、世界中で不思議な現象が記録されていることを証明している。理由はわからないの。超能力者が現れたか、未来人や宇宙人がきて何かを授けたか。でも、何かがあったことは、ほぼ事実だし、『物体』として残っているものも、少しだけど存在する」
「すげー話だけど、オレの親とは関係ないだろ」
「うんん。魔法を調べるということは、その遺物を調べることなの」
「そーかなー」
「少なくとも、リュウのご両親に関してはね」
「パティ、君は何を知ってるんだ?」
 オレの改まった質問に、彼女は黙ってしまった。
「おい、知ってるなら教えとけよ。パティがどっか行ってから、じゃおそいんだから」
「リュウ、一つはっきり言っておきます。私は、あなたとの絆を信じます。たとえ今後、一時的に離ればなれになることがあったとしても、私の心は常にあなたとつながっています。そして、もう一つ。あなたのご両親は、とても素晴らしい方です。本人たちには、もうその自覚すらないかもしれませんが」
「う〜ん・・・わるいけど、オレ、よくわかんない。だいたい『絆』ってなんだ?」
「ヨットのロープみたいなものですよ」と彼女は急に明るく言った。「これがなければ、バラバラになってしまいます」
 オレはため息をついた。わけわかんない話ばかりだったが、しゃべっていたら、いつのまにか『緑の浅瀬』に着いていた。キーロウが持つランプの明かりも岸に見えている。
「着きましたよ、お嬢さま」
「『ビアトリスの玉』はありますか?」
「どうだろう・・・あれかな」
 オレは自分が見つけたものが信じられなかった。確かに水中で白く光るものが存在していた。オレはオールをこいで、ちょうど彼女から見える位置に進んでやった。
「そうですね。なんという強い輝きでしょう。こんな輝き、私も見るのは初めて。きっと、今夜が特別な夜であることを示唆しているんでしょうね」
「オレ、取ってきてやろうか?」
 と、後ろを振り向いたときには、すでに彼女は下着姿になり、手を水につけていた。
「いやだ、こちらを見ないでいただけますか」
「は、は、は、はい・・・そ、そ、それはもちろん・・・し、失礼しました」
 ちゃぽん、と水に落ちた音が響き、船がぐらぐらゆれた。
 やれやれ、あの人、風邪で寒気がするって言ってなかったか?

 まもなく、水中から白い光が近づいてきた。パティが顔を出した。
「はい。まるで水中ランプのようね。受け取って」
 オレは光る玉を受け取り、足下に転がすと、彼女が船に上がるのを手伝おうとした。しかし横から乗ろうとすると、どうしても横転しそうになる。後ろに移動して、舵のところから手を引くと、すんなり上がれた。
「寒い・・・」
「あたりまえだ。まあ、このへんは水温高い方だけど、まだ春だしな。泳ぐには早すぎる」
 彼女は自分で持ってきていたタオルで身体を拭き「やっぱり寒すぎです。下着も着替えていいですか?」と聞いた。
「オレに聞くなよ。ていうか、持ってきてるのか?」
「いちおう」
「だったら、着替えた方がいい。むこうむいててやるから」
「うん・・・でも、この濡れたシャツ、ぬげない・・・ひっぱってくれません?」 
「いいけど」
 月はだいぶ傾いていたが、彼女のシャツを引っ張り上げてると、その白い肩が淡い光の中で見えてしまった。そのすぐ向こうにあるらしい女性の胸も想像せずにいられない。オレは動転して、あわててタオルをその身体にまいてやった。
「さあ、身体ふけよ」
「寒い・・・」
「マジか?」
「マジ」
 彼女がガクガクと振るえ始めた。オレはおもわずその身体をタオルの上から抱きしめて、濡れた額に手をあてた。
「おい、すごい熱じゃないか」
「う、うん・・・そうかもしれない」
「なんで水に潜ったんだよ。言えばオレがやってやったのに」
「だって、私の玉だから・・・」
「そんなん、かんけーねーだろ。バカ」
「ごめんなさい」
「いいから、さっさとバンツも履き替えて、服を着ろよ。たくさん着込んであったかくしてろ。帰りはオレ一人で大丈夫だから」
「ありがとう」
 彼女が、また、もこもこの姿になると、ころがしてあった光る玉をその手に預けて、おれは船尾に移った。半分ほど帆を上げて、順風を受けて帰ることにした。岸のキーロウにむかって「ありがとう!」と叫ぶと、ランプをゆらして返事が返ってきた。

 さっさと戻って、お姫様を寝かせてあげなくては、と思ったが、なぜかこんな時間に、岸からたくさんの手こぎボートがランプを掲げてやってきていた。七〜八艘ほどだろうか。なんの騒ぎだろう、と思った。どうやら、みな、この『グレートヒーロー』を探しているらしい。
 誰かが間違えて、心配して捜索を始めたとか?
 マストに寄りかかっていたパティも気付き「大変」と言った。
「何が大変なんだ?」
「追っ手たちです」
「いや、だから、それ、まるで意味わかんないし」
「私、ここでつかまるわけにはいきません」
「でも、どうやって逃げる? ずいぶんたくさん来てるけど」
「川への出口は、あちらでしたね」
 パティは昼間のタッキングの場所を指さした。
「キールが当たるから、川には入れないぜ」
「そうね・・・では、飛びましょう」
「はあ?」
「帆を上げて、加速してください」
「いや、だからそれはもう懲りたし」
「大丈夫。今度は自信があるの。必ず成功させます」
「『成功』って、それ、どーいう意味だよ」
「私たちは飛べるの。この『ビアトリスの玉』と『グレートヒーロー』があれば。今の玉の輝きは、その可能性を強く示唆しています」
「オレ、水も危ないけど、空はもっと危ないと思うんですけど」
「心配ないわ。きっとポビーがあちらで用意してくれているから。彼なら、すべてを察して」
 オレは話についていけてない自分に、自己嫌悪すら感じた。
「もー、わかったよ。好きにしていいよ。飛ぶなら飛べよ。一万二千年の奇跡、起こせるもんなら起こしてみろよ」
「じゃあ、リュウ」
 とパティは振り返って、オレを見つめた。
「私に、キスを」
「はあ?」
「急いで」
「いや、それはちょっと。君はパトリシアだけど、憎たらしいエミリオでもあるわけで、少なくとも今のカッコウは男で、男とキスするっていうのは、すごくいけないことのように感じちゃうわけで」
「迷わないで。私は、迷ってないよ。私は、あなたとのキスを受け入れます」
「オレだって、君のことを受け入れたいよ」
「では、お願いします」
 その瞬間、オレの中に沸き上がってきたもの、それはたぶん『愛』というやつだ。玉は輝きを増し、船は操作しなくても加速を続けている。上着をもこもこに着込み男姿のパティを、オレはマストごと両腕で抱きしめた。顔を寄せると、そこには、男であるとか女であるとか、そんなことをはるかに超えた、美しい目が輝いていた。
 オレは、キスした。
 するとマストから奇妙な感覚が伝わってきた。水の抵抗が薄れていく。本当に船が水面から浮いたらしい。
 近づいていたボートからも驚きの声があがった。
「どこへ行く!」
「お待ち下さい!」
「お帰り下さい!」
 男たちの叫びを飛び越し、さらに『グレートヒーロー』はボート屋の建物も超えた。その向こう側の駐車場に停めてあった、一台の荷馬車にふわりと降り立った。それはヨット運搬用の荷馬車だった。
「おい、ロープ」
 と、脇からフルブラウトさんがロープを投げてきた。
「はへ?」
「しばらないと落ちるぞ」
「ど、どういうことっスか?」
「時が来たんだ。さっさとマストにまいて、向こう側に落とせ」
 オレがそのようにやると、反対側にはキーロウがいた。
 キーロウは受け取ったロープを荷車に縛りつけながら「リュウにい、幸せにな!」と言った。
「はあ?」
「みんな、よろしくって言ってた。母さんが、無茶しないでね、って」
「何が無茶なのかわかんねーけど、今のこれは、無茶じゃねーのか? すげー、むちゃくちゃじゃねーか?」
「違う、運命だ!」とフルブラウトさんが、いつになく自信を持って断言した。「そうだろ、お嬢さん」
「はい!」
 フルブラウトさんがグイグイとロープの張りを確認すると、御者のポビーに「いいぞ」と合図を送った。
 すぐにガタガタと馬車が走り始めた。

 馬車は暗い夜道を走り続けた。パティはつらそうだった。熱があるときに馬車の振動はよくない。頭痛がするのだ。オレはせめて、彼女の頭痛を少しでも軽減できるように、身体を包むように抱きしめ続けた。

 夜が明けてくると、ポビーはスピードを緩め、川縁の目立たないところに馬車を入れた。
 ほっと一息だ。
 オレはとりあえず、早朝の淡い光の中で、父さんからの手紙を開けた。


   召還者が来たらしいな。
   いずれこうなることは予想していた。
   リュウの両親が私のところに来たときから。
   口に出すことは禁じられていたが、おまえの両親はとてもよい人だ。
   すべてを捨てる覚悟で、使命にむかって進んだのだ。
   最高に素晴らしい両親だ。
   リュウ、誇りを持て。
   そして、自信も。
   私は、おまえのもう一人の父であれたことを、心から嬉しく思っている。
   この国の未来は、おまえにかかっているのだ。
   おまえの成功を、強く信じている。
    
   すべての幸運が、リュウと共にあらんことを。


 オレは、思わず、やぶっていた。
 手紙をまっぷたつに。
 そして、くしゃくしゃにした。
 オレの本当の両親は『悪いやつ』だ。
 オレを無視して、貧乏な教会に預けて、自分のやりたいことをやって。
 そんな話、聞きたくねえ。
 
 でも、やぶってしまってから、涙が瀧のようにあふれてきた。
 自分でも収拾がつかなくて、ぼろぼろ、ぽろぽろと。


「リュウ、私がいるよ」
 と、パティが熱でほてった顔をオレに向けて、優しく言った。
「私ね、あなたとずっといっしょにいるよ」
「バカ!」
 とオレは叫んでいた。
「え・・・なんで?」
「なんでオレなんだよ、違うだろ!」
 オレはますますあふれてくる涙を拭うことさえしなかった。
 パティは、淑やかに微笑んだ。そして上着から腕を伸ばし、マストをポンポンとたたいた。
「だって、ほら、『グレートヒーロー』だから」


 執事のポビーは馬に川の水を飲ませていた。一晩走った馬からはたくさんの湯気が上がっていた。立派な馬だったが、こんなのオレの村にいたっけ? まあ、どのタイミングか知らないが、こんな馬まで用意していた、と気付いても、オレはもう驚かなかったけど。
 とりあえず、オレにはやりたいことがあった。湖を離れた『グレートヒーロー』としては、底のキールを外して、自由に出し入れできるセンターボード式に替えておくべきだろう。川で使うためには必要なことだ。もともと替えられる仕様になっているから、あまり難しいことはないのだけど、問題はスパナなどの工具がないことだった。
「ポビーさん、そのうちどこかで食事したり休んだりすると思うんだけど、そのときに工具を借りて欲しいんですよね。直しておきたいところがあって」
 すると彼は、馬車の脇の小箱を探り、工具を出してくれた。
「これでよければ」
「なんだ、ちゃんとあるんですね」
「敵はあなどれません。常に用意周到を心がけています」
「ははは」
 とオレは苦笑した。
「ところでリュウさま、何を直されるので?」
「浅い川でも使えるように、キールを出し入れできるセンターボードに、と思って」
「それは賢い選択です。お手伝いいたしましょう」
 オレは、いいですよ、お疲れでしょう、と言いたかったけれど、やはり一人で簡単にこなせる作業ではなかった。ありがたく手伝ってもらうことにした。
 浸水を防ぐ枠を外し、船底に板を固定していたボルトを外し、ボードを引き抜く。高さを固定できるように両側にレバーを取り付けて、ぴったりした元の隙間に差し込み、再び枠を取り付ける。
「サンキューです。これで川でも大丈夫っス」
 ポビーは笑顔を見せ「あと二時間ほど走った先に、仲間の宿があります。もう少し頑張りましょう」と、休ませていた馬の用意に戻っていった。
「ねえ、パティ」
「なに?」
「あの人、体力あるね」
「そりゃそうよ。世界のポビーだもの」
「どういう意味?」
「元格闘技世界チャンピオンよ」
「はあ?」
「体重別だから、とは言ってたけど。まあ、あまりあの人を怒らせないようにした方がいいと思うわ。死にたくなければね」
「それ、あまり面白い冗談には思えないんだけど」
「熱のある私に、面白い冗談なんか期待しないで」
「はいはい」とオレは首を振った。「あと二時間だって。頑張れる?」
「私は頑張ります。死にたくありませんから」
「なんだかなぁ」とオレはつぶやいた。「君が言うと、それも冗談に聞こえない」

 とりあえず、たどり着いた宿。そこは煉瓦造りの立派な屋敷だった。普通の人が宿屋として利用できるところではなさそうだ。
 しかし中に入ってみると、働く人々の馴れた対応は、やはり宿屋のものだった。若くはないし朗らかでもないが、物腰の上品な数名の女性たちが、丁寧に部屋に案内してくれた。
 食堂には激しくよい匂いが漂っていた。まだ昼には少し早かったはずだが、焼きたてのパンと、キノコたっぷりのシチューが、疲れた身体と心を解きほぐしてくれた。ぐったりしていたパティも、美味しい食事でしっかりと栄養を補給し、薬を飲んですぐにベッドにむかった。
 オレも二階の部屋に上がり、春の匂いのするベッドで、ようやく安らかな眠りについた。
 ちょうど一日前も、オレはこんな感じだったな、と思いながら。あのときは弟のキーロウに起こされたっけ。せっかくの眠りを中断されて、そこから、このヘンな展開が始まったのだ。
 今度は大丈夫だろう。
 リッチな感じの屋敷だし、世界チャンプのポビーさんも、ここには信頼をおいているようだし。


  オレは夢を見た。
  嵐が吹き荒む中、オレたちは右手の方から、左手方面に向かって、丘を歩いていた。
  オレたちがたどった道は、落ち葉やゴミで一杯になり、嵐の勢いで埋もれていく。
  行く手を阻まれた。
  オレたちは最新式の機械で、溜まったゴミを吸い取っていく。
  その力はとても強く、一瞬でごみを吸い取ってしまうほどのものだった。
  なんとか道は開けた。
  ところが行く手に巨大な穴があった。
  オレはヨットの汚れを取るためにヘラを持っていたが、その大事なヘラが、誤って穴に落ちてしまった。
  穴に入るのは危険だと感じたが、ポビーが「戻り道はあるとので入っても心配ない」と助言をくれた。
  オレたちはその助言を信じ、穴に入った。
  降りていくと、壁が崩れた。
  戻れなくなった。
  もう手遅れだった。
  しかし「大丈夫、奥まで行けばきっと出口がある」とパティは言った。
  オレたちは決意を固め、背水の陣で、穴の奥まで降りて行った。
  地下は、溶岩流が流れる灼熱地獄さながらのところだった。
  命の危険を感じたが、なんとか危機を脱した。
  最深部まで行くと、地下の部屋にたどり着いた。
  事務所ふうの部屋だった。
  そこは普通に光があった。
  オレたちはすぐに脱出しないといけないと考え、地上へとつながる自動階段に乗ることにした。
  階段自体が動く、不思議な『階段』だった。
  外に出ると、綺麗に整地された広場だった。
  街路樹が整然と並んでいた。
  右手には、見たこともないのっぽの建物が、何本もあった。
  不思議なデザインだった。
  正面から見ると、板チョコレートのような概観をしていたが、どこも丸みを帯びていた。
  青空のもと、光を受けた外観は、オレンジに茶を混ぜたような色で、すごく堂々としてたいた。
  オレたちは、羽が生えた天使のことを思った。
  その広場から出ると、天使としばし別れることが予想ついたから、広場から出るのを躊躇した。
  しかし、事態は進み始めたのだ。
  オレたちは、勇気を出して進まなければならなかった。
  先立つ二人が、左手にある超巨大な自動階段に乗り込んだ。
  オレたちも意を決して乗ることにした。

 
「リュウさま、大変です、起きてください」
「な、なんだよ・・・」
「追っ手が現れました。急いで、お支度を」
「はあ?」
「時間がありません」
 オレは一瞬、不思議な未来都市か、目の前のポビーか、どちらが夢か区別がつかなかった。
 そのとき、窓ガラスが割れた。うなりと共に光るものが飛び込んできた。火の矢だった。続けざまに飛び込んできた火の矢は、油の焼ける匂いを放ち、家具やカーテンに火を移そうとしている。
 マジかよ。
「パティは?」
「連れ去られました」
「はあ?」
「うかつでした」
 オレはたった今夢で見た灼熱地獄のシーンがフラッシュバックした。
「とりあえず、逃げるんだね?」
「はい。リュウさまと『グレートヒーロー』があれば、必ず道は開けます」
 おいおい、オレになのができるんだよ、と言いたかったけれど、議論してるヒマはなかった。
 オレはベッドから飛び降りると、シャツとズボンを探した。見あたらない。立ち上がって戸棚を開けると、きれいなものがいろいろ用意されていた。適当にシャツとズボンをはくと、ぴったりだった。オレのために用意してくれたものらしい。
「これ、持ってっていいかな?」
「賢い考えです」
 オレは乱暴に半分ほどをひっつかんで、ベッドのシーツにくるめて背負った。こういうのは一瞬の早業だ。火もまだカーテンに移っていない。
「おいで下さい」
 ポビーが身を翻し、扉を出ていった。
 オレはその姿を追った。
 扉を出ると、もうポビーは階段を走り下りている最中だった。
 さすが、世界のポビー、速い!
 一階では、女たちの悲鳴が響いていた。矢を放った男たちの乱入が始まっていたのだ。
 ポビーは、フロアの入り口で立ち止まり「突破いたします、お離れにならないように」とオレに言って、走り込んでいった。捕まえようと寄ってくる男たちを、ポビーは素速く払ったり、蹴りを入れたりして、道を作ってくれた。オレは衣類をまとめたシーツを棍棒のように振り回し、男たちの手をはらい、無我夢中でポビーについていった。
 さすがにもう正面玄関からの突破は無理だった。
 裏口に回り『グレートヒーロー』を収納してある厩(うまや)に走った。
 厩は、裏側が川に面していた。
 オレたちは相談する間もなく、厩の裏の扉を強引に外していた。
 そして『グレートヒーロー』を台車ごと川に押し出した。オレは途中で船体をしばっているロープをほどき、着水と同時に船に飛び移った。
 しかしポビーは、飛び乗らなかった。オレは船底からオールを取って、差し出した。
「はい、つかまって」
 すぐに『グレートヒーロー』は着水の勢いで岸から離れてしまった。そして川の流れに乗った。
「ポビーさん、早く!」
「いえ、私はここに残ることにいたします」
「はあ?」
「リュウさま、お元気で。必ず姫さまをお助け下さい」
「わけわかんねーよ。どーしたらいいんだよ。説明とか聞いてないし。だいたい『追っ手』ってなんなんだよ。どこに行けばいいんだよ」
「あわてなさるな。彼らは、姫さまを殺しはしません。利用するだけです。私が残れば、やつら、リュウさままで追うことはないはず。あなたはご自分の成長を優先なさい。答えはすべて、リュウさま自身の中に存在しますぞ」
「ふざけんなよ!」
 オレは涙声になっていた。
「ポビーさん、あんたはどうすんのさ?」
「ご心配なく。私はもう、老いた身ですゆえ。さあ、帆を上げて。急いでお行き下さい」
 流されていく『グレートヒーロー』は、ぐんぐん岸から遠ざかり、ポビーの姿が小さくなっていく。
 追っ手たちが、彼に襲いかかった。数人は払いのけたが、世界チャンプのポビーを持ってしても、すべて倒すことはできず、ついに手を後ろでねじ上げられ、腹を蹴られ、地面に伏せられた。
「バカ」
 と、オレはつぶやいた。
 オレなんか、何もわかんねーつうの。
 逃げろって?
 答えはオレ自身の中にあるって?
 むちゃくちゃだよ。
 どうしたらいいかわかんないよ。
 とにかく『わかること』から、始めねーとな。
 今は、遠くに逃げて、よく調べて、それから、必ずあの二人を助け出すんだ。
 パトリシア・エミリオ・ローゼンバーグ・・・
 オレは、思わずマストを手のひらで、ぶっ叩いた。
 ここにいたやつ。
 ここにいなくちゃいけないやつ。
 強がったり、熱出してうずくまったり、女か男かわからない澄んだ目をしたやつ。
 会いたい。
 こんな別れじゃ、オレは納得できねーつうの。
 絶対、再会してやる。
 そして「ふざけるな」と言ってやるんだ。
 勝手にのこのこやってきて、オレの心を痛いくらい鷲づかみにして、それで突然消えるなんて、絶対ゆるせねえ!

 オレは、やけになって、帆を張った。
 幅のない川を、無茶なくらい爆走した。
 そういえば、一日前の午後にも、あいつと爆走してたっけ・・・と思いながら。




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