僕は幼少の頃から『作る』ということが好きなタイプの子どもだった。その延長で大人になってからも小説を作ったり(書いたり)しているわけだけれど、そういう自分にとって、以前からどうしてもなじめないことがあった。それは週刊・月刊などの連載もの・・・

 物語を毎週少しずつ読んでいく、というやり方がストレスなのだ。せっかく気持ちをフィットさせても、一回分は短くてすぐに終わってしまうし、次の週にまた新たに気持ちをフィットさせて読み始めるのが大変。・・・いちいちそんな面倒なこと考えないで、軽い気持ちのまま雑多に消化していければいいじゃん、と多くの人は思うところだろうけれど、それが僕にはどうしてもできなくて。

 基本的に『連載』ではなく『書き下ろし』指向なのですね。読むにしても、書くにしても。

 もっとも、文芸書という分野では、書き下しのほうが一般的だと思う。ドストエフスキーは連載中心の仕事をしていたみたいだけど、多くはゲーテの古典的名作『ウェルテル』のように、一冊作って、世に送る、というパターン。

 書籍ではないけれど、僕にとって初体験だったファイナルファンタジーの『X(10)』もそうだった。「一気に楽しんだ」という意味で。
 ゲームショップのモニターで神秘的な異界シーンなどが盛んに流され、世の中が大騒ぎしていた夏・・・あれから一年が過ぎたとき、たまたま仕事を辞めて、とりあえず失業保険が出るものだから、ここぞとばかりにプレステ2とFFXを買い込み、カレーの作り置きまでたっぷり用意して、まるまる一週間、完全にドップリと、うわさのFFの世界に埋没した。朝から晩まで、一日のうちで外出は銭湯に行くだけ、もう目がしょぼしょぼ、みたいな状況で物語に入り込んだもんだから、それはもう最高に頭がおかしくなるくらい感動しまくりだった。これこそゲームの醍醐味ってやつか! と人生観変わった、マジで。


 浅くずるずる、というより、一本できちんと、という。
 せっかくなら集中してガツンと楽しみたい。


 そういう自分なものだから、作るものも『書き下ろし』的なものになるのはいたしかたないところ。しかし一般的に、特にライトノベルやマンガなどでは、週刊・月刊連載ものや、5巻6巻と続いていくものが多い。もちろんドドンとまとめ買いして、わしわしと読み進めるのも読書的幸福の一シーンではあるけれど、一冊の本で完結ということも悪いことではないはず。密度がきちんとしていれば、すぐに淘汰されずに読み継がれる可能性も高まるだろう。

 このへんのことで世の中の普通と、林直樹的な価値観と、少なからずズレがあることは事実のようなので、できれば何か補完するようなことをしておいた方がいい、と思った。

 そこで、メイキング、でこざいます。

 (実際に2006年に僕が掲示板に書き込んだ文章を引用しながら・・・)



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  2006/08/26(Sat) 22:22

  今日は涼しかったということもあるんだけど
  一日中椅子に座って自分のことやってました。
  本を読んだり、ネットに書き込みしたり、小説書いたり。
  毎年、夏が終わる頃から創作・勉強に打ち込むスタイルではあるんですけど
  きたなきたな、という感じかも。ありがたいことでございます。

  ちなみに、僕は春と秋に創作に励む傾向があって、
  これはやはり稲作農家の血筋の影響かな、と思ったり。
  うちは父親がすでに勤め人で、農業のことは何もわからないんだけど
  夏が過ぎて涼しくなってくると、なんとなく「さあ、収穫だぁ」と
  身体がざわめくような気分になってくるわけです。(笑)


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 2006年の夏から秋にかけて、『オーヴェリクス』の初稿は書かれた。

 切っ掛けはその一年前の2005年にさかのぼる。そもそも、アニメといえばヤマトかジブリくらいの認識しかなかった自分が、ふと見た夕方の『ケロロ』が「実は大人が見ても面白い作品なのだ」と気がつき、深夜に耳にした『アクエリオン』の神秘的なエンディング曲に惹かれ、「アニメって悪くないぞ」と思い始めた。
 そこにタイミングよく現れたのが、天野こずえ原作・佐藤順一監督の『ARIA』。ベネチィアを模した未来世界を舞台にした最新アニメの、音と映像の芸術的な美しさに接してしまったら、オタクとかアキバとかいったネガティブな先入観は完全に吹き飛んでしまった。

 そして、フタを開けてみれば、意外に身近にいらっしゃったアニメファンの方々の親切な指南を受けつつ、コミックマーケットにも足を運び、ツタヤレンタルを利用し、2006年春にはMacも映像鑑賞可能なiBookG4に新調して、スタッフや声優など疑問があればすぐにウイキでチェックして、てな感じで遅まきなから急速にアキバ系知識を深めていった。

 そして丸一年が過ぎ、自分でもなにかアニメっぽいことをやってみたくなった。もともと創作はやっている僕だから、何か新しい表現スタイルがあれば、自分でやってみたくなるのも自然な話。

 そしてちょうどその秋に、某出版社でライト系の小説賞が新しく始まるということで、とりあえずそれを目指して夏の終わりからサイバー小説を書き始めたのだった。



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  2006/09/06(Wed) 19:35

  僕はこのメールをひどく遠くから書いています。
  『ひどく遠く』というのは現実的な距離ではなく、
  電脳世界という距離感の喪失したもう一つの現実における
  ノスタルジーのようなものかもしれません。

  最近よく思うのは、人は他者との差異を埋めることに躍起になりつつ
  そのくせ、ひとつひとつの行為が新しい差異を生むという矛盾です。
  それはリアルもマトリックスも実際問題としてあまり変わりはないし、
  ついでに言ってしまえば、リアルとマトリックスという違いにすら、
  差異を埋め、差異を生むという、人の営みの平凡さが
  具現化されているような気がするのです。

  あなたはコントロールされる『恐怖心』について書いていますね。
  正直なところ、僕には恐怖のことがよくわからないのです。
  いえ・・・じつはその『わからない』ということこそが
  ずっと前から僕をとらえている『恐怖』そのものかもしれません。
  もし、その心のよりどころのなさこそが『敵』によるものだとしたら
  僕たちは戦うことに、意味などあるのでしょうか。

  またレスします。
  僕はちょっと風邪を移されたみたいで
  ノドがヘン、薬を飲んでます。
  そちらも気をつけて。では。

 
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 僕はしばしば人から「小説を書くのってどのくらい時間がかかるの?」と質問されるけど、今はパソコン&キーボードだから、量を書くことに関してはさほどしんどい作業ではなくなっている。(学生の頃、ノートに下書きした論文を原稿用紙20枚に手書きで清書するのに一晩かけて苦しんだ記憶があるけど)
 僕は基本的に人間の精神集中は2時間だと思っていて、それは映画やコンサートでもそうだし、サッカー観戦でもそうだし、そのくらいでけりをつけていくのが人間の生理的に自然なことじゃないかと考えている。
 創作の場合は、精神的な助走や、時間オーバーもあるから、机に向かうのはだいたい4時間くらいとしても、本当に作品に入り込んで書けるのは基本2時間。キーボードだと、それでだいたい原稿用紙換算10〜20枚くらいの分量になることが多い。
 これがワンセッション。
 現実の雑事をクリアしつつも、なんとか毎週ワンセッションをキープして、臨時的に月に2セッションを追加できれば月産約100枚。気持ちが高まって集中し、一日に2セッションしたりできれば月産140枚くらい。
 この調子で三ヶ月続くと、長編が一本できあがる計算なのだ。3〜6月とか、8〜10月とか、ひとつのシーズンの範囲内でけりをつけようとチャレンジするわけ。
 そういうノウハウは、僕なりにすでにだいたい確立してきている。

 ただし、問題は、その直し!

 というのも、僕はいったん長いものを書き始めたら、勢いが止まってしまうことを避けるために、問題先送りで話を進めることにしている。「あとで直せばいいや」「あとで調節すればいいや」と無責任にドラマを進めてしまうから、その直しや調整は、あとで絶対に必要なのだけど、それが初稿を書く時間の何倍もかかる重労働なのだ。
 
『オーヴェリクス』に関して言えば、初稿を書いたのは2006年の8〜9月、たった一ヶ月半。けれども、その後の数回に渡るリライトと、出版に向けての編集者さんとの修正作業を含めると、たっぷり二年半は費やしたことになる。
 修正作業って、大して面白いものでもないし、面白くないから精神集中が難しいし、時間もかかるし、しんどいし・・・でも、僕のやり方だと絶対的に必要な過程なのだ。



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  2006/09/07(Thu) 21:24

  僕が本当の『笑い男』なら
  「嫉妬しちゃうな」と苦笑するところでしょうね。
  彼はそういう表現のしかたが似合うタイプでしたから・・・
  僕はそんなふうに素直になることは恥ずかしくなる方で
  ついつい共時性の海に逃避したくなるんですが。

  ヘンな話ですけど、最近、僕はマトリックスで時計を持つんです。
  PHSを買ってから、リアルでは腕時計をしなくなった僕ですが、
  マトリックスでは、アナログ式の、丸い文字盤に長短二つの針が時を示す
  昔ながらの時計を・・・

  時間を超越する電脳思考の世界に
  奇妙にリアルで素朴な『時間』が持ち込まれた、
  そんな感じが、悪くなくて。

  不思議ですよね。

  そして、ふと思ったんですが、『愛』というのは、
  このアナログ式の時計に似ているんじゃないでしょうか。
  丸い文字盤に、長短二つの針があり、ときどき長い針が動くのがわかる。
  ・・・というのも、それが単に古めかしい感情にリンクしているというだけでなく、
  どこかリアルな『時間』を感じさせてくれるから。

  『愛』はイメージではない。
  それはもしかしたら、
  『時間』を知り、いとおしく感じること。
  涙も、また、しかり。

  風邪、大丈夫みたいです、ありがとう。
  今日はけっこう書きましたよ。
  なんとか今月中に終わらせたい!!


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 そもそも『オーヴェリクス』は「面白いものを書きたい」という素朴な動機から始まったもの。
 というのは、これとは別に、先に書き上げていたやや深刻な長編の直し作業で、しばらく悶々としていたという事情があり、その反動だったのだ。こういう反動は、ヘルシーだし、いいことだと思う。ベートーベンだって『運命』と『田園』を同時に作ったからこそ、あれほどの名作となったわけだし。 
 だから、今回は「とにかく面白く」と、割り切るところからスタートした。悪者をやっつけて、ラブリーなハッピーエンドに。
 あえて、今回はそれでいく、と。

 だからあるとき、つまりメインキャラがほぼ出そろって「まだボケキャラがいないではないか」とシロタマを登場させたときは嬉しかった。キーをたたく指が止まらない。これだよこれ、と思った。

 それにしても、なぜ『サイバー』なのか・・・僕自身は、クラシックギターとか、生ピアノとか、思いっきりアンブラグドを志向する人なのに。
 ひとつ言えるのは、僕はいわゆるサイバーパンクは苦手だということ。有名な『ブレードランナー』なんて、何度見ても必ず眠ってしまう。おそらく生まれも育ちも田畑に囲まれたカントリーライフだったもので、土の匂いのないコンクリートの叙情は理解できないのだ。
 つまり『サイバー』とは言っても、僕が書きたかったのは(僕に書けるのは)機械とコンクリートに囲まれた硬質な未来社会ではない。そもそも人間は、たぶん何百年たっても、硬質さだけでは生きられない。どんな時代になっても、みずみずしいキュウリや、炊きたてのご飯を口にすれば、幸せを実感する。それが人間というものだ。しかし、一方でデジタルテクノロジーは留まることなく進化を続け、日常を変えていく。
 土の匂いと、サイバーの進化。
 その延長線上にあるもの。
 ・・・そういう発想だったわけ。


 実は、これには、もう少し個人的なバックグラウンドも存在していたりする。
 僕が尊敬しているギタリストにウィル・アッカーマンという人がいて、彼は自分でギターも録音するけど、80年代に大ヒットしたピアノアルバム、ジョージ・ウィンストン『オータム』を製作したウィンダムヒルレーベルの創始者でもある。
 なんでも、建築設計の大学生時代に、自分のギター演奏を録音して400枚ほどレコードを作ったのが切っ掛けだったらしい。今で言うところのインディーズレーベルだったウィンダムヒルは、その後のニューエイジブームの先駆けになるものだったのだけど、僕はそのアッカーマンの元祖ニューエイジとも言うべき素朴なギターサウンドが大好き。
 彼の場合、基本はアッカーマン自身のオリジナル曲を鉄弦ギターでソロプレイ。生楽器を録音したものだけど、後付でリバーブ(エコー)やコーラスなどのデジタルエフェクトはしっかりかけてしまう。だからアコースティクだけど、クラシックの録音のような生っぽい音とは大きく違う。
 こういう音作りって、いかにも建築設計を本業としている人らしいな、と僕は思う。流木や漆喰など天然素材をメインに活用しながらも、モダンなデザインでおしゃれにまとめるのだ。
 サイバーという意味では、むき出しコンクリートやガラス、鉄などでつくられたモダンリビングこそふさわしい、とイメージする人も多いだろうけど、僕はそういうところに住みたいとは思わない。温かみある天然素材を活用しながら、しかし最先端の感性でセンスよくまとめる、というのが理想だ。

 天然素材と、新しい感性の融合。
 
 土の匂いと、サイバーの融合。



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  2006/09/30(Sat) 04:06

  とりあえず、書き終わりましたー!
  あとは校正して、あらすじ添えて、プリントアウトだぁ。
 
  なんかほんと、「仕事」って感じで
  一人で盛り上がってます。(^_^;)

  とりあえず、いいものは書けたと思います。
  状況の不正確さという意味での意見は来るかと思うけど
  面白さということに関しては、かなり自信があります。

  とりあえず、疲れました。
  しばらくは部屋の掃除とか、古い掲示板の処理とかやって
  たまっているアニメを見て、やりかけのゲームして・・・
  っていうか、まずはしっかり眠ることからですね。
  (しばらく興奮してよく眠れなかったから)

  ちなみに400字詰め換算で340枚です。


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 愛について、少し。
『オーヴェリクス』の前に書き終わってリライトで悩んでいたもう一つの長編は、主人公の恋が実らずにヒロインが死んでしまう話だった。それはそれでアリだけど、逆に、恋が実ってしまう幸福な話もあっていいだろ、両方あるほうがバランスが良いだろ、というわけで、つまり書き手側の事情を明かせば、最初から『短調の作品』と『長調の作品』は、対になって生まれていたわけ。
 もし『オーヴェリクス』を読んで、そのあまりにも幸福すぎる愛の成就にアンバランスな印象を持ったとしたら、それはこの作品単独の不備というよりも、むしろ対になる『短調の作品』を早く発表していないことにこそ問題がある、と考えてもらえるとありがたいところ。
 
 でも、ファンタジーって、基本的に、幸福で、いいのかもしれない。
 今は本気でそう思う。
 
 我々はディズニーランドに足を運びハッピーな気分を楽しみ、日常の自宅や通勤通学では悩み多いアンハッピーな小説を読みあさる、みたいなパターンが多いだろうけど、しかし自分の足下というか、日常側にこそハッピーを持ち込んで、自らハッピーになろうと試みることは、実はすごく『良いこと』なんじゃないかなと思う。ヘルシーだし。
 
 しかし、一方でよくあるパターンとして「幸福を見つめることで自ら幸福になる」というと、すっかり行き過ぎちゃって、「あなたも幸福を信じなさい」と、むしろ宗教っぽくなることも多いかもしれない。そういうことからは、僕なりに一線を引いて、平常心で幸福を考えていくこと。


 僕自身は、若干の恥じらいを込めて告白してしまえば、「美しくありたい」と思う。それも、桜の花や、三島由紀夫の小説ような『散りゆく美学』ではなく、西洋の古典音楽のような豊穣な美しさ。
 日本は地震国だからか、サムライの国だからか、壊れてしまうものに関してはえらく繊細で、作品数もたっぷりあるけれど、ビバルディやペルゴレージのような、あるいはもっとわかりやすく『パッヘルベルのカノン』のような、心地よく前向きな美しさについては、皆無と言っていいほど貧困で、日本文化のウィークポイントだと思う。
 僕は学生の頃から、そのことに強い不満があった。できることなら西洋人として生まれたかったけれど、日本に生まれてしまったからには、自分で自分の環境を変えていくしかない。困難なのはわかっているけれど、明確な課題があるというのは、むしろ幸せなことなのだろう。

 もちろん、理想は持っていても、いざ自分で作るとなると、なかなか完全なものにはなってくれない。

 こうしてあらためて振り返ってみると、僕は「連載的なものが苦手」とか「散りゆく美学でないものを模索する」とか、出版ビジネス的スタンダードから逸脱することを指向しているし、こういう方向性では資金著者負担のある文芸社くらいしか取り上げてくれない現実がある。文芸社も最近はベストセラーを出してはいるけれど、基本は自費出版の専門会社であり、なかなか商業出版レベルのキレの良い仕事は期待できない。
 
 でも、極論だけど、結局のところ、生きた小説とは、一種の『奇跡』なのだと思う。

 作り手として僕なりにいろいろ考えるし、状況を整えようとはするけれど、書けないときは書けないし、書けるときは書けてしまう。出版についても、僕一人の力でなし遂げたとはとても言えない。それは『皆さんの協力』ということもあるのだけど、現実を越えた見えない力も、実際にかなり働いたような気がする。
 僕自身は、小説など書いているわりに理系的な思考をするタイプなのだけど、こと創作に関しては、僕のちっぽけな見識を越えた、非科学的で不思議な力が働いているような気がする。
 それがわりと嬉しくて、密かに感謝していたりもする。


 では、結局のところ『オーヴェリクス』とはなんなのか?
 ・・・僕はディズニーランドでいいと思っている。

 
 文学に興味持っている『大人』たちは「ディズニーランドなんて子ども向けの遊園地」と軽視しがちかもしないけれど、僕はそこには娯楽やビジネスを越えた、神秘的で幸福な魔法があると実感している。

 だって、ディズニーランドでデートして結ばれた二人は、幸せになれそうだし。

 二人で読んで、幸せになって欲しい・・・
 そういうふうに『オーヴェリクス』という一冊を受け取ってもらえると、作者としては一番の幸福だと思う。

 もちろん、こういう作品(ラブストーリーとしての『オーヴェリクス』)が生まれてくる背景には、作者自身の個人的な想いや事情も裏で関わっているけれど、そのへんのことも、正直、まだ道半ば。自分も含めて幸せになれる場所を作っていく努力は、これからもせっせと続けていかなくてはならない状況だけど、そういう努力は決して悪いことではないはずだし、むしろ、それこそが『生きること』なのかもしれない。

 


 拙作『オーヴェリクス』ならびに、長文のメイキングまで、読んでいただきありがとうございました。

 なにかとマイペースのふつつか者ですが、今後とも何卒よろしくお願いいたします。

 なるべく早く次作をお届けできるよう頑張ります!


 

2010年 3月18日
林 直樹
 









 

The making of -
『オーヴェリクス』