ある男子の恋の反省会

(注・『恋愛』ではございません)

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 そこは、あまりにささやかな場所だったので、なかなか気がつく人はいなかった。本当はずっとそこにあり続け、むしろ知らない人の方が少ないくらいだというのに、たいがいの人は無視して通り過ぎていく。それがいけないことだと責めるつもりはないけれど、なんだかもったいないな、と思ってしまう。

 人を好きになったことはありますか?

 その最初のドキドキは、やがていつも、ひとつの選択に直面してしまう。セックスをするのかしないのか。もちろん結婚までのフルコースでいくつもりならば遠慮はいらないかもしれないけれど、人との出会いはそればかりではないから、手探りでまっくらな部屋を進む子供のように、とまどい、つまずき、足を止める。

 突き進むことが善なのか。
 とまどうことは悪なのか。
 なぜ、とまどってしまうのか。

『人生は長くない』という、これは一般論。けれども、あわてて走らなくてはいけないほど短くもないと僕は思う。少しとまどってみるのも、美学というものかもしれない。

 僕自身は、実際のところ、語り尽くせないほどの豊かな恋愛経験があるわけではなく、たいがいは一方的な想いだけが沸き上がり、実ることなく時が流れていく現実に、自分自身が翻弄されてばかりだった。

 迷惑をかけた人に、ごめんなさい、とは、ずっと言えなかった。人を好きになることが迷惑なことだとは認めたくなかったし、今でも全てが迷惑事だったと考えているわけではないけれど、ただ、うまく育たなかったアサガオに祈りをささげるようなことは、しておきたくて。

 今日は、とてもいい日。そのように感じられることに感謝したい。



 

 
 過去と現在……そんなふうに余裕を見せて語れるようになることが、ずっと憧れだった。ほとんど語るべき経験を持ち合わせていない十代の頃から、僕は「〜だった」的な過去語りを真似て文章を書いたものだ。
 もちろん、あまりうまくいったためしはなく、本人としても不満ばかり。いつか本物の『過去』を語れるようになりたいな、とずっと思っていた。

 ちなみに、現在は、かなりバラ色だ。夢色ハートというやつ。現実はまだ不完全なものだけれど、ほとんど疑いのない不思議な二人の台地に、新しい暮らしの場を作ろうと、せっせと石やら木材やらタイルやらを運び上げている最中。

 いつか新しい台地の上での安定した暮らしをしながら、過去にはこんなこともあったね、と語り合えたとしたら、きっと幸せなことだろう。

 そういうことが、ずっと僕の憧れだった。



 

『M』という文字には、憧れがつきまとってきた。マゾや開脚のことではない。ふくよかで女性的な『M』の発音のこと。自分がもともと中性的な『N』の人だから、ということもあるかもしれないけれど、いつも『M』の音に恋をして、抱きしめたくなってしまう。

 現在の自分なりに、多少、大人の余裕を見せて語ってしまえば、抱きしめたくなるものは、いざ、抱きしめてしまうと、意外にじゃまになったりもするのだ。自分にないものを求めるのは自然なことだが、本来ないものが、急にそこにあったりすると、むしろストレスになったり。

 だから『M』への憧れが、あまり充たされることのないまま、いつも憧れのみで終わったことは、結果的には正しいことだったのかもしれない。

 もしも自分に女性の子供ができたとしたら、名前に『M』を使うだろうか、なんてことも考えたことがあった。最初に僕がそのようなことを考えたのは、実は恐ろしく早くて、たしか高校生の頃だった。

 だからあえて、小説の登場人物に『まゆみ』という名前をつかったことがある。これこそ、まさに『M』を全面的に押し出した名前。案の定、あまりうまくはいかなかったけれど。

 僕はよく、こういう個人的なことを小説に組み込みたくなる。べつに作品のテーマとか、読者に対するメッセージとか、そういうことではないのだけれど、しかし、ただの『遊び』ということとも少し違うのだ。




 
『平行線』の反対語はなんだっただろう。

 大きな紙の上に二つの直線があったら、結果は二つだ。いつかどこかで交わるか、ずっと同じ距離を保ち続けるか。

 異性との関係について、僕はよくこのイメージを持ってしまう。『交わる』が何を意味するかは、特に限定しなくていい。身体のふれあいかもしれないし、精神的な衝突かもしれない。ただ、少しでも角度がついていれば、いつかどこかで交わるポイントが発生してしまう。

 ところで直線は、いったん交わると、あとはもう永久に交わらず、離れていくばかり。それもなんだか、悲しいことだ。

 本当は『平行線』って、悪いことではないのかもしれない。普通はあまりいい意味では使われない言葉だけれど、互いに距離を保つことは、多くの場合最良の妙薬だし、むしろ大人の知恵ということかもしれない。

 もちろん我々の現実は、大きな平面上で生きるのではなく、立体の中に生きているわけだし、人としての存在も、単純な直線ではなく、複雑な曲線というべきだ。

 それはそうなのだけど、ただ、人と人との関係には、『平行線』という発想がぴったりな場合が、わりと少なくないと思う。



 

 これは、一種のゲームかもしれない。

 自分にとって大切な人がすでにいる状態で、別の異性とも親しくなること。

 あとで相手を傷つけ、一方的に恨まれるのは嫌だから、そういう人にはこちらの事情を先にほとんど話してしまう。まだ会ってはいないけれど、ネットで知り合った大切な人がいること。「だから友達以上の関係になることはありません」と明確に宣言してしまう。

 面白いのは、そういうはっきりとした前提があると、逆に、思いのほか気さくに親しくなれること。異性と『気さくに親しくなる』ということは、僕はあまり多く経験してきたわけではないから、これはこれでかなり本気で嬉しかったりする。調子に乗って一夜のうちに何度もメールのやりとりをしたりすると、むしろこっちが本当の恋愛なんじゃないの、とも感じてしまったり。

 けれど、もし本当につきあうとなったら、やはりうまくいかないことは、もうだいたいわかっている。

 本当の僕は『自由』ということに関して頑固だし、創作にこだわることに関して遠慮がないし、ギターのローン故に女性と食事に行くお金がなくても後悔しないタイプだ。とりあえず現実の人付き合いの中で、そんな特殊な本音をさらけ出してしまうとトラブルになるから、対外的でニュートラルな人格も育ててきてはいる。しかし『つきあう』となったら、やはりそこはどうしても踏み込まざるを得ない。

 そこまで踏み込んで、なお余裕で笑ってくれるのは、あの人しかいない。



 



 あの人は、僕のことを、よく知っているのだろうか?

 ネットで知り合い、まだ会ってもいない人。

 けれど心のつながりは感じている。
 
 好きなのかどうかは、正直、僕にはよくわからない。

 ただ、一番大切な人。

 それ以上でも、それ以下でもなく。
  
 そんな人が、今はいる状況。




 

 すごくハズカシイ過去だけれど、僕は中学自体からいつも、親しくなった異性に、自分らしさをわかってもらいたいと渇望してきた。そして、気さくな友人段階から、大人の一線を越えようとしたとき、僕らしさをさらけ出し、淡い好意を完全な終了に追い込んでしまう。

 アブノーマルな性癖というわけではなく、むしろ男子として『考え過ぎている』のかもしれない。

『性』というやっかいな事柄が絡まなければ、人と人ははるかに自由に親しくなれるのに。

 そういうことが絡まなかった子供時代が、無味乾燥なものだったかというと、決してそんなことはなかった。思い返せば、そこにだってちゃんと発見や刺激が満ちあふれていた。

 例えば、夏の雲。

 大きく発達した積乱雲は、いったいどのくらいの大きさなのだろう、と考えた。その積乱雲が電線の先に見えれば、電信柱の何倍くらいの高さなのだろう、と計算してみた。

 そんな雲が、頭上に広がれば、激しい雨が降り、雷が鳴る。

 空気を裂くようなピリピリとした音や、ミサイルが落ちたかのようなズドンという音は、実際にはどうやって発生しているのだろう。電気が関係しているのは知っているし、雷の発生実験はテレビで見たことがある。けれど、自分が感じているのは、テレビの中のことではないし、実験装置によるものでもない。

 雨が上がると、壮大な天然の実験が終了する。少し残念な気がして、僕は靴をはいて外に出て、夏の空を見上げる。

 そういえば大人になってから、雨上がりに外に出て、空を見上るって、あまりしていない。



 

 ときどき『意地悪な気持ち』になる。

 人間として、逆に学ばされた気がするのは、僕は動物に対して『意地悪な気持ち』になることがあるということ。

 例えば、猫好きな僕だけれど、自分の飼い猫に対しては、けっこう虐待に近いことをしてしまった。『かわいい』のだけれど、そればかりでは物足りなくなり、ぶったり、たたいたりしてみたくなる。怪我をしないギリギリの暴力をはたらいてみたくなる。

 愛情の裏返し、と言ってしまうと美しく響くけれど、実際はそういう感情は持ち合わせていなかった。ただ、なんとなく物足りなくて、刺激的なことを欲してしまった。

 あえて過去形で語るのには理由がある。

 僕のところにここしばらく出入りしているアメリカンシートヘアの美しく賢く愛情あふれる雌猫に、僕はまだそのようなことをしていない。最初は少しグワッと何かしたくなったけれど、ずっと我慢し続けていると、一線を越えたような気持ちになった。

 信頼が構築された。

 申し訳ないことに、僕が勘違いしていたのは、そもそも彼女はそういう性格で、人間を信頼し疑うことを知らないのだ、と思っていたこと。だから、僕の友人がやって来たとき、一瞬にして態度を変え、普通の猫のように警戒心で身を包んだときには驚かされた。

 決して誰にでも心を許すわけではない。心を許してくれたのは、時間をかけて信頼を構築してきたからだった。
 
 たった今も、彼女は僕の布団の上で、丸まって熟睡している。ここにいるとき、彼女はなんの警戒心もない。音楽が鳴っても、僕が触っても、眠ければ遠慮なく睡眠を続ける。

 安らかに眠れる場所がある。それはたぶん、すごく大切なことなのだ。



 

 アニメ『ガンダム』には、サイドスリーとかサイドセブンという名のコロニーが出てきた。巨大な筒型の建造物で、宇宙空間に浮かび、回転することで重力を発生されている。だからそこに暮らす人々は筒型の建造物の内側に畑や家を造って生活している。

 アニメの中のシーンにもあるのだが、当然、そこでの風景は筒の内側のものとなる。台地は地平線となって消えるのではなく、両側からせり上がり、天井へと続いていく。

 これは、人間にとって、かなりのストレスになるのではないだろうか。すきっと遠くまで視線を送れることがなく、常に両側のせり上がった台地を目撃しながら暮らすということ。

 もちろん宇宙にいるのだから、せまくるしさを強く感じたら、筒型建造物の外に顔を出して、宇宙をながめれば、そこにはたっぷりと無限の空間が広がっている。怖いほどの無限の空間を満喫して、また、閉ざされた円筒形建造物の内壁に暮らす。

 ところで、地球は逆だ。もちろん回転しているが、遠心力で振り飛ばされるのではなく、逆に引力で我々は地上に暮らしている。遠心力は働いていないわけではないのだが、それよりもはるかに強く、引力が働いている。

 見習うべき『人と人との関係』のように。

 地球って、すごい。



 

 水に関する夢を見た。

 海のシーンもあったのだけど、最後は川だった。「地球温暖化で流量は減っていますが」と教えられた川を見てみると、巾一メートルほどの流れに、きれいに新聞紙が敷き詰められていた。透明な水が、流しそうめんの竹の水路のように、スピーディに流れている。

 こんなふうに雑草を全て取り去り、凹凸をなくして、速く流れることだけを追求するなんて、川として正しい姿ではない、と腹が立った。

 僕が育った埼玉の郊外には、田んぼがかなりあった。利根川から引いてきた農協用水が流れているが、秋の稲刈りのシーズンになると、用水の流れがほとんど止まり、川底が丸見えになる。冬に備えた渇水対策といったところだろうが、その流れが止まると、田んぼの水路には淀んだ水たまりだけが残る。

 淀んだ水たまり、というのは、やはり良いイメージではない。人間関係も同様だが、流れはあってほしい。

 でも、だからといって、きれいに敷き詰められた新聞紙の上を高速で水が流れることが、より良いとも思えない。



 



 初恋、という言葉。
 
 なんだか高級サクランボのようだ。





 

 僕の『公式初恋記録』は、小学生の最後の頃。それ以前にも、二月にチョコをもらってドキドキしたり、ということはあったけれど、いちおうこれをもって公式初恋とすることにしている。

 実は、相思相愛だったのだ。つきあったわけではないけれど、大人になってから同窓会で事情を打ち明けあったからわかっている。
 
 彼女はクラスでもベストスリーにはいるくらいませていた。身長も高く、胸も早くに大きくなり始めていた。

 よく休み時間に何人かで、身体のことを話題にして盛り上がった。彼女の主張によれば、男子は脇よりも下の方が先に毛が生えるらしい。そんなことを言われてしまうと、では、女子はどうなのか、と考えてしまう。

 そもそも、毛が生える、ということはどういうことなのだろう。なにか、ちくちくして、めんどくさかったり、常に違和感をおぼえたりするのだろうか?

 僕の家庭は性に関する話題をするのが苦手な方だったので、僕の最初の性知識の多くは、ませたクラスメートとの会話から、不安とときめきと共に得ることとなった。

 一度、クラスの担任がアンケートを実施したことがあった。新米の先生で、いろんなことにチャレンジしてくれる面白い人だったのだが、そのときは「テストじゃない。先生の勉強のために正直に書いてくれ。書いてくれたことは絶対誰にも漏らさないからな」と言って紙を回した。

 クラスに神聖な雰囲気がたちこめた。そこには、先生の教え方や態度についての踏み入った質問が多かったが、「好きな人はいますか、それはだれですか(むりに答えなくてもいいです)」という問いもあった。

 ずいぶん迷ったけど、僕はその先生のことを信頼していたし、できる限り正直に答えてあげたいから、本当のことを書くべき、と結論した。そのステップは、わりと楽にクリアできた。しかし、問題はそれだけでなく、次のステップがあった。

 僕は本当にミナミ(仮名)を好きなのか。

 迷ったけれど、ここで名前を書かないのも彼女に対して申し訳ない気がして、僕はミナミの名前を書いた。いや、書いて、消しゴムで消して、を何度かくり返したかもしれない。でも、結局、その名前を書いた状態で、先生に回収されてしまった。
 
 これが公式初恋記録。



 

 小学五〜六年のときの担任の先生は、教師になったばかりで、いろいろ面白いことをしてくれたのだが、一度「これは素晴らしいよ」とテープの録音を全員に聴かせてくれたことがあった。

 それはラジオ放送か何かのテープで、癌で死んでいく少女の日記の朗読だった。朗読の声は、淡々とした男性の声だった。たぶんNHKのアナウンサー。

 ショッキングだったのは、癌の転移が見つかるたびに、彼女の身体が切り刻まれていくこと。

※ ※ ※

 お腹の手術が終わりました。これでよくなるといいなと思います。クラスの人たちが見舞いに来てくれました……

 右足に転移が見つかりました。お母さんが帰ったあと、じっとみつめてしまう。しかし先生は生きるためには切り落とすしかないとおっしゃっています。さようなら。私の右足……

 今日は私の右足とさよならする日です。少しだけ歩いてみました。今日までありがとう、って伝えました。

 足の包帯がまだ取れていないのに、また新しい転移が見つかってしまいました。今度は……

※ ※ ※

 このようにして、僕たちと同世代の少女の身体が切り刻まれていく。一回一回の手術が、彼女を悩ませる大事件なのだが、それでも希望を失わず、ドクターを信頼して、身体のあちこちを失いながら、真面目に日記を綴り続ける。

 僕は一度しか聞かなかったので、細かい内容はよく憶えていないし、テープの後半がどういう盛り上がりをしたのかも定かではない。ただ、彼女の死で終わった以外は。

 聞き終わったあと、多くのクラスメートが鼻をすすっていた。僕は、泣かなかったけれど、ものすごくショックを受けた。人の死というものを、初めて生々しく理解した気がした。

 小学生に、人の死について教育できる先生って、すばらしい。そんな人に教わることができた自分はラッキーだったと思う。



 

 女の人が「え?」と、意外そうな表情をする瞬間に、萌えを感じる。いつもより少し大きく目を開いて、無防備な素顔をかいま見せて、『とまどい』と『苦笑』が混ざり合ったような表情をする。

「今日のセーター、かわいいね」
「え?」
(そんなにストレートに言われても、これ、そんなにたいしたセーターじゃないし、従姉妹のお古だし、平凡で地味な方だと思うけど、でも、嬉しいけど……)

 みたいな。

 僕は、逆の立場で、よく「う、うん……」と、とまどっていた。

「今日のセーター、にあってるね」
「う、うん……」
(そんなにストレートに言われても、これ、そんなにたいしたセーターじゃないし、従兄弟のお古だし、平凡で地味な方だと思うけど、でも、嬉しいけど……)

 みたいな。

 僕が煮え切らない返事をしていると、小学校のクラスメートのミナミは「もー、はっきりしなさいよ」と笑ってつっこんできたもの。そんなとき、彼女はすごく嬉しそうだった。

 僕も嬉しかった。



 

 小学校のクラスメートのミナミは、ときどき人間関係をややこしくとらえて悩む方だった。同じようなことは大人でもある。「どうしてあの人、あんな酷い言い方するんだろ」みたいな。
 
 一方、僕は当時、チャイコフスキー症候群だった。チャイコフスキー『クルミ割り人形』にあてられて、現実の人間関係に注意力をうまく払えないでいた。
 
 そこに生じるのは、まるで列車の上りと下りのような逆の方向性。しかし、だからこそ、妙なときめきが生まれた。

 何かのおりに、悩むミナミの真剣なグチを、僕は真面目に聞いて、理解して、よきコメントを返そうとチャレンジした。しかし「どうしてあの人」的な彼女の説明に、僕はあまり実感をもてなくて「う、うん……」と、とまどってしまう。

 でも、とりあえず、ちゃかしたり、否定したりせずに、真面目に耳を傾ける。
 
「聞いてくれてありがとう。なんだか言ったらスッキリした」

 それは100パーセント彼女が自ら空回りしていただけなのだけれど、僕はそうとは指摘できなくて、また「う、うん……」と頷いてしまう。

「ありがとう。あなたなら真面目に聞いてくれると思ったよ。ほんと、よかった」

 もちろん僕は「そういうわけでもないんだ」とは口にできない。

 だから、なんだか申し訳なくて「そのかわり、ミナミのことをもっと大切に思わなくちゃ」と、心の中で結論に至る。



 
 
 すっかり大人になった今になって、僕の書く当時の本当の気持ちをミナミが知ったら、きっと腹を立てるだろう。それは仕方がないことだと思う。『好き』という想いは、多くの場合、誤解や思い込みによって発生するものだから。

 それでいいのだと思う。

 いずれにしても、僕にとっては特別な人だった。なにせ、ずいぶん時間が経った今になっても、まだドキドキしたり、ワクワクしたり、ニヤニヤしたりしながら、こうやって回想文章を書けるのだから。

 これって結構、素敵なことだと思う。

 鑑定団のシンスケさんなら「こんなん、値段はつきませんけどな、どうか大切にしていってくださいよ、ありがとうございました」とコメントするところだ。




 

 本当は、同窓会のあと、連絡をとろうかどうしようかとずいぶん悩んだ。

 一日悩んでわからなくても、ちゃんと翌日の新聞に正解が載っているから心配ない、ということならよかったのだけど。僕にはいくら考えても、どうしても『正解』がわからなかった。

 どう行動すべきか、という『正解』。

 バカだな、と思ってしまう。

 結局、大人になってから、二人だけで会うことはしていない。たぶん、おそらく、これからも。





つづく→→→