私の兄弟カールとヨハンに
(甥カールと弟ヨハンに)


ああ、人々は、私のことを意地悪で、強情で、人嫌いのように思っているらしいが、どうしてそんふうに悪く言えるのだろう。口にできない理由を、知りもしないで。幼少の頃から私の心と想いは、善良なやさしい感性に充たされていたし、素晴らしいことをなしとげたいと思い続けてきた。しかし、考えてみてほしい、6年もにわたることだ、今では絶望に打ちのめされたよ。センスのない医者に悪くされ、毎年毎年「良くなる」との言葉にだまされ、最後には慢性の病の可能性に直面せざるを得なくなった。(治るまでに何年もかかるか、あるいは、たぶん治らない)もともと情熱的で、行動力或る性格として生まれ、社会の流行にも影響を受けやすい私が、早々に人々から離れ、一人にならざるを得なかった。すべてを忘れてしまおうとしたときもあったが、耳が不自由なことで倍増された悲しみによって、現実に戻されるのはどんなに残酷なことか。そんな状態であってもなお「大きな声で。さけんで。私は難聴だから」とは、どうしても言えなかった。

ああ、どうしたらそんなこと、受け入れることができるだろうか。本来なら、他の人よりもはるかに優れていなくてはならず、一度は専門家の中でも、あるいは過去の専門家も含めてさえ希なほど、優れた状態だった感覚が、衰えていることなど。受け入れられるわけがない。だから、喜んで仲間にはいるべき時に、後ろに引きこもっているのを見ても、ゆるして欲しい。この不幸には、二重の悲しみがあるのです。なぜなら、誤解を受ける必然があるから。私にはもう、友人たちと打ち解けたり、会話を洗練させたり、アイディアを交換したりということはできない。ほとんど一人でいなくてはならない。まるで流刑者のように。社交的なことに関しては、本当は十分にやっていけるのに。もし私が人々に近づこうとすると、強烈な恐怖に襲われ、難聴のことが気づかれているのではないかと不安になってしまう。

そういうわけで、ここ半年ほどは田舎で過ごしてきました。私の今の気持ちをほぼ理解してくれる賢明な医者の「できるだけ聴力をいたわるように」との薦めで。ときどき社交の輪に入りたいという欲求に負けて、そういう受付に走ったりもしたけれど、しかし、私のとなりの人が遠くからフルートの音を聞いているのに、私には何も聞こえないというのは、なんという屈辱だろう。こういうことが、私を絶望に追い込み、あとほんの少しで、自ら命を絶つところだった・・・ただ芸術だけが、私を思いとどまらせてくれた。ああ、私が内面に感じていることのすべてを形にするまで、私はこの世を去るわけにはいかないらしい。だからこの惨めな人生を堪え忍んできたのだ。感性の敏感な人にとっては特に惨めなことだ、最上の状態から、突然最悪の状態にほうり込まれるのだ。『忍耐』とは、よく言われることだが、これこそが私の指針であるべきだし、そうすることにした。運命の女神が、命の糸を断ち切るまで、どうかこの決心が揺るがないように、と願っている。良くなるかもしれないが、ならないかもしれない、心の準備はできている。28歳にして悟りの人であらねばならないなんて簡単ではないし、まして芸術家となれば、普通の人よりも難しいものだ。

- 神よ、あなたは私の内なる心を見て、そこに人間愛と、善行への欲求があることをよくご存じのはずだ。- 世間の人々よ、いつかこれを読むとき、私に対して取った行動の間違いを考え直すだろう。- 悲しみを抱き自ら慰める者よ、君たちはここに同じケースを見つけるだろう。すべての限界にもかかわらず、自らの持てる力のすべてを、気高い人として、そして芸術家として、認められるためについやした者の姿を。- 私の弟、カールとヨハンよ、私の死後、もしもまだシュミット先生が生きていたなら、病気の名前について聞いてほしい、そしてこの手紙を私のカルテに添えてくれれば、さほど遠くないうちに、世の中は私のことを死後に理解してくれるだろう。同時に、私は、あなた方ふたりが、私の小さな幸せ(もしそのように呼ぶことが許されるなら)の相続人であると、宣言しておきます。公正に分割してほしい。 互いを話を我慢して聞き、助けあってください。二人が私を傷つけたことについては、とっくの昔に許されています。二人の最近の献身に関して、本当に心から感謝しています。私よりも自由で、マシな人生が送れるよう、祈っています。善良であることを、二人の子供たちに勧めてください。金ではなく、ただそれだけが、人を幸せにするのだと。私の経験からいえば、これこそが、苦しみの中で支えてくれました。このことに、そして芸術に、感謝します。私は自殺で人生を終えるわけではないのです。- さようなら、愛が共にあらんことを。- すべての友人に感謝します。特にリヒノフスキー王子、およびシュミッド教授に感謝します。- L王子からいただいた楽器は、弟のどちらかが保管してください。争い事はしないように。誰かが良き目的のためと話を持ちかけてきたときは、売ってしまいなさい。墓に入ってなお、二人の役に立てる自分であることは幸せです。- だからそうしてください。- 喜びを持って、私は死にむかって急ぎます。- あるいはそれが、芸術家としての実力を十分に発揮しないうちに訪れるかもしれない。この過酷な運命にもかかわらず、それは早く訪れるかもしれない。遅れるように祈ってはいますが - たとえそうであっても、私は幸せです。それでもなお、この終わりのない苦しみは、私を自由にしないでしょうか?- 神の迎えが来たとき、私は勇気を持って会うつもりです。さようなら、そして私が死んでいたとしても、すべてを忘れることはしないでください。私はそう願う権利があると思います。生涯を通じて二人のことを思ってきたし、幸せになってほしいと願ってきました。- だから、そのようになって -


ルートヴィッヒ ファン ベートーベン
ハイグルンシュタット
1802年10月6日




 文中『28歳』という表現がされるが、1802年のベートーベンは32歳。おそらく28歳にして難聴であったことを兄弟たちが知っていたからこう書いたのだろう。

 この手紙の二年後に、いわゆる『傑作の森』の記念すべきスタートとなった交響曲第三番『英雄』が発表された。

 ちなみに、有名なピアノソナタ14番『月光』は1801年、つまりこの手紙の一年前に書かれた。

 段落は読みやすさの便のために付け加えたもので、原文に改行はない。



オリジナル(英・独)






    ハイリゲンシュタットの遺書(ベートーベン)

     林直樹訳