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トニオ・クレーゲル
トーマス・マン 高橋義孝訳 新潮文庫
ブッダのことば スッタニパーダ 中村元訳 岩波文庫
100年以上前に書かれた
100ページに満たない小説。
しかしこれが
小説を書く自分にとっての
出発点となりました。
今も原点であり続けています。

「作家」という職業の悩みに
焦点を絞った作品ではあるけれど
「創作すること = 生きること」
と捉えると、深いし、誰にでも
関わりのある内容となるはず。

翻訳を通しても
マンの堅牢で濃い表現はすごい。
(N)




 最近はライブドアの不正株取引(自作自演による株価つり上げ)が話題になったが、僕としては「そもそも株とは投資であって、価格変動の差益を狙って売買すること自体どうよ」って、ものすごく根本的な疑問を以前から持っていたりする。確かに流れを把握して上手く立ち回れば効率的に金儲けできるのかもしれないけど、しかし「人生とは何か?」という文学や哲学の視点に立てば、そういう立ち回りから得られるもなんて、はっきり言ってゼロなんじゃないの、と。ライブドア社長堀江氏・ホリエモンは「金で買えないものはない」と、あえて正直な本音を語ったようだけれど、むしろ逆ではないのか。「金で買えるものなんて、本当は何もない」。日本のことわざで言うところの「武士は食わねど高楊枝」みたいな話ですけど。

 僕にとって「トニオ・クレーゲル」とは、昔ながらの正しさと、ハイパーな現実とのギャップという問題を、最初から含んでいたし、今もその渦中にある。
 
 ちなみに、かなり話が広がってしまうけど、神話的な世界ではイケイケの経済行為を否定する教えは多いはずだ。
 例えばイエス・キリストは短い人生の後半で、神殿に行ってぶちぎれるところがある。両替など商売する者たちの腰掛けを押し倒し「祈りの家を強盗の巣にするな」と。(マタイ21-12)
 仏教においては、もっとも古い教典『スッタニパーダ(「ブッタの言葉」岩波文庫)』の中で、報酬についての面白いエピソードが残されている。要約してしまうと、ある日ブッダは農夫から「あなたの仕事はなんですか?」と質問をされ、「正しい行いを教え諭すことで社会に実りをもたらす」と答えるのだが、それを聞いて「なるほどわかりました」と農夫がお礼に食べ物を差しだすと、ブッダは「教えの報酬として得たものは私でも食べられない、捨てなさい」と答える。そして水の中に食べ物が捨てられると、チッタチッタと煙を上げて沸き立った、と。(「田を耕すバーラドヴァージャ」)
 イスラムでは「利息を取って金を貸す行為」そのものがコーランで禁じられているらしい。晩年のミヒャエル・エンデも指摘していたとおり、確かに経済社会の諸悪の根元は金利であって、常に成長を求めるということは、人と自然のバランスを壊し、地球的な破壊に突き進むことである・・・

 昔から存在する「正しさ」の教え。それはそれで真実と思うのだが、そういう真実を信じて100%実践することは、現代社会ではとても難しいと思う。「そんなの古い」とヒトコトで片づけてしまった方が、賢い生き方なのだ。
 僕の知り合いで経済誌に記事を書く人がいるのだけど、彼は皮肉を込めてはっはりと「トニオ・クレーゲル問題は終わった」と言ってしまう。まあ、神話の諭す「正しさ」と、現代社会のギャップは、トニオが悩んだ内容と全く同じというわけではないけれど、自分を律して正しくある生き方と、欲望のままに疾走する芸術との狭間に混乱してしまったトニオの悩みは、広い意味で共通するんじゃないかなと、僕は前から思っていて。

 もちろん作者トーマス・マンにおいて、このギャップは、若き日に発表された「トニオ・クレーゲル」のみでなく、彼の一生を通じてのテーマだったと思うのだが、ここではまずは「トニオ・クレーゲル」。

 19世紀後半、北ドイツの豊かな商家に生まれたトニオは、家業を継ぐことを期待され、本人もそういう最初からの思いこみはなくはなかったろうけれど、南から嫁いできた母親の血か、ロマンチックに夢見がちで、詩を書いたり、バイオリンにうっとりしたりして、積極的に勉強やスポーツをこなす優良児にはなれず、学友たちに対して劣等感を抱いていた。優等生ぶりを発揮するクラスメートへの憧れ、そしてダンスを優雅にこなす朗らかな少女への恋・・・。今でいえばオタクっぽい根暗な少年だったトニオだが、しかし大人になって郷里を去り、南の国で芸術に取り巻かれると、本領発揮して作家としての地位を確立してしまう。

 この若き小説家トニオ・クレーゲルが、ある春の日に画家の女友達リザベータのアパートを訪問し、作家としての彼が直面する問題をめぐって長い会話が行われる。それは恋愛感情とは無縁の、主に認識に関する議論なんだけど、これがなんといってもこの作品の醍醐味なのだ。素晴らしいのです。
「春は仕事がやりにくい」
「認識は人を疲れさせる」
「私は、芸術家とよばれるタイプの人を全然信用していないんです」
 ゾクゾクしませんか? 僕は中学の時にこれを読んで、まだ理解できない部分は多かったけど、とにかく圧倒されてしまった。そうそう、春は勉強がやりにくいゾ、勉強は人を疲れさせる、僕は教師とよばれるタイプの人を全然信用していない、そうそう、全くその通りだ!!

 まあ、ちょっと違うかもしれないけれど、テレビや小説など「有名人」の活躍する華やかなメディアの裏の作り手側の真実をザックリと教えられたのは、僕はこのトニオの率直な議論からだった。それは「勉強」や「教師」という、日本ならでは虚構についても示唆するものに思えて、それが自分には大きな(大きすぎる?)発見だっだ。

 たとえば、良き気分の高揚を詩に書いて発表したくなることは、わりと誰でも心当たりのあることと思うけれど、それについて彼はこんな経験を語る。「ある良家に集まりがあって、突然一人の将校がついと立ち上がった。好男子の、しゃんとした少尉さんです。まさかその名誉ある服装の手前、つまらない真似はすまいと思っていたその男がですね、断固たる調子で、自作の詩を朗読するからお許し願いたいと言い出した。 ・・・結果は言うまでもありません。一同しらけきって、口をきく者もいない。とってつけたような喝采が少々、それからどうにもならない気詰まりな空気。・・・その男の罪ですよ。その少尉はその場に立ちすくんで、途方に暮れたという格好で、自分が犯した過ちの償いをしていました」

 つまりこういうことだ。「感情っていうやつは、いつだって平凡でつかいものにならない」「そういう浅はかでペテン師式の妄想に会っては、憂鬱に微笑んでしまいます」

 素人にそういう行為をさせてしまうのは我々作家のせいではあるとトニオは認める。そういう善良な思いこみを、仕事として、歓迎しているようなそぶりをし、利用する。しかし真実としては、そんなところからは本当の作品は決して生まれてこないし、善良なあたたかい感情なんて、全くつかいものにならない。

 では、何が良き作品を生み出すのか? 彼の友人の短編作家は、春の浮ついた香りのしない超領域であるカフェに行ってしまうが「私はそういうところに行きはしない」とトニオは女友達リザベータに語る。

 そして問題になるのが、認識。つまり「知る」ということ。もしも興奮して気持ちの収拾がつかないことがあったら作家のところにいくといい、とトニオは語る。作家らはそのことを「説明」してしまうから。それで終わり。なんで興奮していたんだろうと冷める。知るとは、そういうことだ。作家があたたかい情熱を持った職業だなんて、メディアが作った嘘で、実は冷めている。仕事柄、ときには着飾って善良な作家を演じることはあるけれど、実は物事を深く認識している人ほど、冷めている。これは天職というより、むしろ呪いだ。恋をして感情が高まっている最中でさえ、全てを観察し分析する自分がいる。

 つまり、好きな人と結ばれて抱き合ってエッチしている最中に「なるほどなるほど」とか「あれはこういうことか」とか「こういうふうに作品に使えそう」とか、考え続ける自分がいるということ。ある意味、最低だと僕も思う。「恋愛をなんだと思ってるのよ、カエルの解剖じゃないのよ!!」と言われそうなことだけど、わかっていながら、すべてを自分の創作のための取材対象にしてしまう。もちろんそれは相手に対してだけでなく、自分の感情に関しても同じだけど。

 そうやって認識を深める宿命を負った作家としての自分を、トニオは人として恥じている。しかし彼はそれだけでなく、そこからさらに一歩踏み込んで、逆転するような告白が続く。

 クールな作家としての自分だけれど、その奥では、実は平凡なものへの憧れを持っている。ちゃきちゃきと勉強やスポーツをこなす健康な生き方や、ダンスを優雅にこなす朗らかな少女への、身を焼くような憧れ。詩や小説など精神の迷路で迷うこととは無縁の人たちに対する、消えることのない劣等感。たとえどんなに自分が作家で有名になっても、集まってくるのは病気っぽい人たちばかりで、精神の健康な人たちに振り向かれることなんてない・・・

 そんなトニオのことを、女友達リザベータは、たった一言で片づけてしまう。その言葉はオチバレになってしまうのでここには書かないけれど、要は「そういうのはよくあることよ」って。「あなたはただ迷っているだけよ」って。

 そしてトニオはいったん芸術家たちのもとを去り、北の故郷を訪ねる旅に出かける。旅の間、昔の知人に会うということはせず、想い出の場所を一人で散策して。そして旅の過程で、甘い憧れと、劣等感と、芸術家としての罪を再認識して。

 トニオは最後にリザベータ宛の手紙を書く。自分の中の甘い感情を、作家として認めようと思ったこと。だからこれが再出発であること。

「リザベータさん、この愛情を叱らないでください。それは善良な、実り豊かな愛情なのです」

 真面目で伝統的な市民生活と、開放的で自由な芸術。そのどちらにも安住できないトニオ・クレーゲルという一人の作家。
 トーマス・マンの作品においては、真面目で伝統的なものの象徴として父を、芸術的で感性に従う無節操な者の象徴として母を、それぞれ対峙するメタファーとして登場することは多いが、これは広い意味でマンが生きた19-20世紀の社会変革にも重なることと思える。馬から蒸気機関へ、そして電気の世界へ。それは現代ではパソコンによる個人の株取引や、先物取引という、現物が流通せずに損得が発生するハイパーな仕組みまでに進化していて。

 「トニオ問題は終わった」ということの意味は、ホリエモンふうに極論すれば「トニオが憧れた少女だって、金があれば口説けるじゃん」って話。一万円とか二万円では無理でも、一千万だされたらどうよ。まあ、死の病でも移されない限り、たいていはオーケーだろう。まして真面目なトニオのような作家だったら、一千万もらって断る道理はないわけで。それはまあ確かに現実というものかもしれない。
 しかし、トニオ自身の心の問題として考えると、彼はそれでは決して満足しないだろう。そんなことで心が満たされるわけがない。そのときに彼が味わうのは、憧れを手に入れたという満足よりは、憧れが喪失したという絶望だろう。それは我々が電化された豊かな生活を手に入れても、満たされた気持ちになれないのと似て。

 つまり、我々はまだトニオ問題の最中にいるのではないか?
 
 正直、自分は中学でこの本を読んだときと同じように、やはりまだまだトニオ問題の最中だなぁ、とあらためて思う。最近は多くの人が「環境」について語るけれど、そういう社会全体に関する議論の最中でも、僕の中では常にトニオ・クレーゲル的な、素朴なものとハイパーなものとのギャップという、根本的な問題が脳裏を過ぎる。素朴な憧れや、満たされない気持ちについての正直な原点を、身を焼くような苦しみと密やかな幸福感とを同時に抱いて、人知れずひそやかに振り返る気持ちと重なって。
 

(2006 1/27)