存在「A」の分離


 今日、自分がもう一人いることに気がついた。それはまるでレーシングゲームのゴーストカーのように半透明の存在として、僕から分離し、そこにいた。

 便宜的に、そのもう一人の僕を「A」と名付けよう。

 予兆はあった。はっきり言ってありすぎるほどたくさんの予兆があり、とてもすべてをここに書くことはできないけれど、自分の外の人間関係においても、自分の内側の心のこととしても、両方の面で明確な予兆が多数存在したのは事実だ。それは例えば、大地震の後に、地震計が細かな地震を多く記録していたとか、地震雲が出ていたとか、ネズミが集団で道を走っていくのを見たとか、そういった報告がさなれることがあるが、まさにそんな感じで、事後検証すれば明らかに関連性のわかるものが多数あった。
 もちろん地震の場合の検証は、事後に多くの人の意見を集約して全体像となるわけだが、今回の件に関しては、すべて自分中心で起きていることなので、情報の集約はできている。・・・本当の中心は、実は僕ではなく、別のところにあり、僕はただその「部分」としての役割を果たしているに過ぎない、という可能性もないわけではないけれど・・・

 大きな変化の予兆、それは間違いないことだ。情報を集約している自分としては「気構え」というか、期待と不安半ばに、来るべき変化を受けとめようとしていた。大きく揺さぶられることは覚悟していたし、今までにない激しい揺れで、ビルが倒れたり、ライフラインが寸断されたりするような、そんな困難に見舞われることも想定はしていた。
 もちろん困難がやってこなかったわけではない。ある種の内的な変化は、自分をいつも苦しくする。それは何度も経験していることなので、苦しいながらも若干の余裕もないわけではない。今回の苦しみが、今までのものと比べて強いか弱いかについてはよくわからない。そういう意味では、過去の苦しみにだってそれぞれに違いがあり、それぞれが特別だったのだ。これこそが本当の苦しみであり、真の変化だと、考えなかったことはない。毎回、同じように真摯に考え、同じように苦痛が残る。どんなに強い苦痛も、一週間寝込むとピークは去り、またゼロから出直すことになる。

 しかし今回は、ある段階でふっと楽になった自分がいた。完全に楽になったわけではないし、不安が消えてなくなくなったわけでもないけれど、今までのような一方的で全面的な苦しみとは少し何かが違っていた。何がどう違っていたかということについては、自分でもうまく説明できないのだが、苦しみが喜びに変わった、というような単純なものではなかった。

 苦しみが喜びに変わった・・・イエス、それはそうかもしれない。確証はなくても、今までとは違う変化があったことは事実だし、その変化はふわふわとしたニアンスの奥に鋭い洞察と深い傷を内包してキリリと存在していた。

 かつてない混乱の中で、僕は病を患った。さほどの大事ではないけれど、感染性の胃腸炎で、一週間下痢が続き熱も出た。病気とあっては、苦しみも一休みだ。
 病気の日の素直な願いとして、「こういうときこそ誰かいて欲しい」と思う場合と、「こういうときは一人でいたい」と思う場合と、僕の場合は両方あるが、今回は明らかに後者だった。他者に煩わされるより、とにかく一人でリラックスしてだらしなく時を過ごすこと、それが癒しだった。
 考えることがたくさんあったので、全く退屈もしなかった。下痢でトイレに行きたくて目が覚め、布団に戻っても眠りすぎで眠られず、5時間ぐらい、本も読まず、テレビもつけず、じっと考え事をしていても、それはそれで全然オッケーだったし、むしろ一人で考え事をできる時間がたっぷりあることを、神様に感謝したいほどだった。
 胃腸炎は数日で治りかけ、仕事に出てまたぶり返したりもしたが、なんとか一週間で完治した。そして病み上がりの今日は、洗濯や掃除をし、床屋に髪を切りに行った。

 夜になって僕は久しぶりにレコードを聴いた。レコードプレイヤーは、いちおうデンオンのMCカートリッジをつけたものがあり、音質はCDに負けていないはずだった。なによりもレコードは長く聴いていても疲れないのがいい。ストレスなく、交響曲やジャズなど、何枚も続けて聴けるのは、やはりレコードならでは。
 しかしあまりに久しぶりだったからだろう、最初は音量があまり出なかった。カートリッジの稼働部が硬直しているのかもしれない。レコード一枚くらい鳴らすと、やっときちんと音が出てきたけれど、なんだか「つまらない」。特別に好きだったレコードをかけても、妙に心に響かない。ではレコードが悪いのかと思い、CDで音楽を聴いてみたけれど、やはり結果は同じようなものだった。

 そしてふと、音楽に感動すべき自分が、半透明のゴーストとなり、僕から分離しているのに気がついた。
 それがAだった。

 Aは、確かに音楽に感動しているようだ。つまり僕の大切な感性を引き受け、持っていってしまったらしい。僕は焦った。それがなくなってしまったら、僕はどうしたらいいのだろう。それは僕の最も大切なものだったはずだ。僕が僕らしくあることの「源泉」とも呼ぶべきものなのだ。それをすっかり丸ごと持っていかれたら、僕は今後どうやって生きていけばいいのだろう。

 しかし、僕が焦ったのは、一瞬だけだった。すぐに察せられたのだ。これが「あの苦しみの、次のステップらしい」ということ。
 おそらく今までずっとたどり着けなかった段階であり、ついに新しい世界の入り口に来てしまった・・・

 なぜなら、半透明のAは「一人」であり、僕はもう「一人ではない」から。『2010年宇宙の旅』の二つめの太陽のような何かが、自分の中に灯りとして存在していること、それはささやかなことかもしれないが、じつは僕が認知している以上に確かな現実なのかもしれない。なによりもAの存在が、それを逆に証明していた。自分の大切なものが、Aとして分離している。

 自分の大切なものが、過去になろうとしている・・・

 僕はAに対しては、おそらくAがやって来たときと同様に、不思議と何も感じない。味も匂いもない水のような存在。ただ「それは困る」と言いたいだけだ。Aは、まだ完全には分離しきれていない。少なくとも、まだ僕のそばにいる。おそらくもうしばらくは近くにとどまってくれるだろう。
 だから今夜は、急いでこの文章を書くことにした。
 まだ変化の過程であり、わかりにくく中途半端な報告であることは十分に承知しているのだが、やがてAは遠くに去り、半透明の実体すら失い、確実性のない透明な記憶となっていくだろう。それは避けようのない現実と、予想されるから。

 ところで、Aの分離を経験した僕が、今夜感じていることは、あまりにも意外なことだった。
 それは「寂しさ」だ。決してややこしい哲学的な話ではなく、それこそ一人で留守番する子供の感じるような、おどおどとした、いたたまれない気持ち。
 一人で過ごす夜が寂しいと真摯に感じたのは、小学生のころ以来かもしれない。
 僕も小学生の頃は、家族に「おやすみ」と言って、布団に入っていたのだ・・・


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 僕の人生にやって来て、去っていくもの、A。
 あと少しだけ、近くに感じていたいです。
 

(2006 12/10)