12月の朝、
病院の中庭で猫と


 Gは病棟からエレベーターで一階に下りると、自動販売機で紙コップのコーヒーを買い、広々とした中庭に出た。二つある病棟の間にポッカリと空いた空から、やわらかな午前の日差しが痩せた芝生に降りそそいでいた。周辺にベンチが並んでいる。足が曲がってこわれかけたものも含めると全部で五つ。まだ時間が早いせいか、あるいは朝の冷え込みが激しかったからか、パジャマに上着を羽織った男性が一人でぼんやり腰掛けているだけだった。Gは一番奥のベンチに歩み寄って腰掛けた。葉の落ちた桜の木が近くにあり、細い枝の影が少し身体に写った。
 結局、年は越せなかったな、と思う。由貴にとっては、もう『新年』というものは存在しない。それが悲しいことか、と問われると、よく分からない。感情を通り越している。いずれにしろ迎えられない新年は、誰にでもあるものだ。貧しいからとか、運がないからとか、そういうことではなく、この世に生を受けた以上は、いつか誰にでも訪れることなのだ。むしろ現実の困難さのことを思うと『解放』と考えたくもなる。実際のところ、人は現実にどれほどの喜びを見いだせるものなのだろう。平凡な日常の喜びは確かにあるけれど、それ以上の特別なものは、彼女に関することをぬかすと、本当はあまりない気がする。苦労だったら、いくらでも思いつくけど。
 できれば世界一周旅行に連れていってやりたかったな、とGは身勝手を承知で、かつて考えたことを再び心の中で繰り返す。実際には経済的にも健康的にも贅沢なことは望めず、もちろんGの仕事の都合もあり、何度も訪れたことのある秋の京都に小旅行しただけだった。「冬になったらオーロラを見に行こう」と、Gは何かのおりに勢いづいて言ったことがある。しかし由貴は疲れたように口元に笑みを浮かべて首を振った。いろんなことを受け入れられるようになってから、彼女は本音を教えてくれた。もう新しい思い出は作りたくないのだと。
「素敵なオーロラを見たとき『また来よう』って言えないのはすごく悲しいから」



 病院から連絡を受けたのは明け方だった。「状況が悪くなっているので、来ていただいた方がいいと思います」と当直の看護師から電話をもらった。予想はしていたので、精神的にはともかく、実際の行動で慌てることはなかった。由貴の両親に連絡をとり、車で二人を迎えに行ってから、夜明け前の道を病院に向かった。救急外来から入り、まだ誰もいないがらんとしたロビーをぬけて病棟に入ると、エレベーターで七階へ上がった。
 個室に移された由貴には、バイタルモニター、点滴、酸素マスクが付けられていた。
「もうマスクでは足りない状態なんです」と当直の若い医師はGと両親に説明した。「先ほど、ちょっと危なかったんですけど、なんとか持ち直しました。まだ呼吸が乱れていますが、薬を使ったので、これはじきに落ち着くと思います」
 医師の表情に疲労は見えるが、説明は思いのほか丁寧だった。まるで新しい便利な機能が付いた電子レンジを説明する家電量販店の店員のように。
「しかし、そろそろ送管して人工呼吸器を付けないと、これから先は厳しくなると思います。そこで、ご確認なのですが、今、由貴さんに人工呼吸器を付けると、もう延命しているだけの状態になろうかと思われます。もちろん回復する見込みがあれば積極的に行いたいところですが、ご病気の方が進んでますから、ここでひとつ、決断すべきときではあるんです。ご家族のみなさまとしては、積極的延命はしない方向で、と主治医からは伺っていますが、それで間違いありませんか?」
「わかっています」と由貴の父親は静かに頷いた。「癌です。ムリな延命はしなくていいと思います。あとは、ご主人の決断です。私たちはいいから、決めてください」
 Gは、何か『思い出』にすがろうとした。こんなとき、由貴だったらどうしただろう。太ることを気にして、アイスクリーム食べたいけどどうしよう、みたいな。たくさん食べようとするからいけないんだよ、それだったら僕と半分こすればいいじゃん。なーんだ。僕たちって、すげー仲いい恋人同士みたいじゃん。『みたい』というところが肝心ね。代わり映えのしない日々で、ささやかな刺激、みたいな。美味なアイスクリーム、みたいな。
「それって・・・由貴にはつらいことなんですか?」
「ノドに管が入りっぱなしになるので、本人としてはつらいかもしれません。ただ、つらいと感じる意識があるかどうかは、別の問題ですが」
「いいです、やめましょう」
 由貴の母親が、ご主人の手をぎゅっと握るのが見えた。
「アイスクリームとかシュークリームとか、美味しいものなら詰め込んであげたいけど、管とかチューブとか、美味しくないものは、きっと彼女も嫌うと思うし、それに・・・」
 Gは急に言葉に詰まり、沸き上がる嗚咽を押さえ込んで立ちつくしていると、医師は確認するように両親に視線を移した。二人が頷くと、静かに「わかりました」とつぶやき、頭を下げて病室から出ていった。
 言葉を失ったGを労るように、二人の両親も部屋を出ていった。去り際に由貴の父親が、そっと肩に手を叩いていった。

 由貴と二人だけになると、Gは急に緊張が緩んだ。靴下とか脱いでしまいたい気分で、とりあえずベッドの横の丸椅子に腰掛けて、由貴の腰に手をまわした。手術跡や、身体に広がった新生物によるダメージが痛まないよう、羽毛のように優しく、そっと。
「みんないなくなったから、死んだふりしなくていいよ」
「・・・」
 彼女が無言のままでも、ユーモアが伝わったのは気配で分かる。すると何度も経験してきたように、もっと分かりあいたいという、コントロール不能の強烈な思いがこみ上げてくる。
「呼吸機付けても助かりませんから、ザンネン、って言うじゃない・・・、ていうか、寝てばっかりじゃ退屈だろ? テレビあるけど、つける? とはいえ、こんな時間じゃ天気予報やニュースしかやってないか。ゲームは? ここにはないけど、いまだったらウィニングイレブンで特別に作った最強ブラジルチームが君で、弱小アジア選抜が自分でもいいよ。そのぐらいハンデ付けないと由貴はヘタだし。ほんと、由貴はサッカーゲーム、ヘタなんだよな。でも、反論できない人にヘタだって言うのもむごいかな。・・・ていうか、こんなくだらないことじゃなくてさ、もっと言いたいことはいっぱいあるんだよ。わかってるだろ。わかってるなら、わかってるって、言えよ」
 しかし、本当に言いたいことは、Gは口にしなかった。かわりに心の中で叫んだ。由貴を慕う心の叫び比べたら、実際に出せる声なんて、あまりに小さすぎる。
 血の気の失せた由貴の顔に表情はなかったが、呼吸は普段より激しくなっていた。細い息だが、回数は多い。慢性的な窒息状態なのだろう。透明なプラスチックのマスクの横から白い頬に触れてみる。頬の肌触りは確かにGのよく知っているものだった。
 Gはもっと彼女に触れたくて、布団に手を入れて、彼女の手のひらを探った。

「わかる?」

 ・・・

「死んだふりやめろよ」

 反応あり。

「でさ、人工呼吸器つけるの、やめてもらったから。ま、聞いてたと思うけど」

 ・・・

「あんなの苦しいだけだから。それに、よく頑張ったよ。疲れたろ?」

 反応あり。

「だよな。・・・ゆっくり休んだらいいよ。もう目が覚めなくても、誰も責めたりしないから。安心しろよな」

 かつての由貴は「安心しろよな」と言われると、逆にソワソワしたりイライラすることが多かった。そんな、あまのじゃくな性格を思い出し、少し可笑しくなる。しかし今は違う。病気はいろんなものを確実に奪っていった。もちろん大切なものをたくさん奪っていく一方で、くだらない雑雑とした現実も掃除機のように吸い取ってくれた。二人の心のズレは、もうなにもない。現実を超えてしまえば、当然のことながら、二人の心は一つだった。
 
「ま、今さら愛してるとか言われてもうざったいだけかもしれないけど、でも僕は由貴と会えてよかったと思ってるから。ありがとうな。ほんと」

 反応あり。
 強く。
 だからGには、最期だと分かる。
 ありがとう。
 いろんなことが分かりすぎるよ、と、心の中のもう一人のGがつぶやく。

 病棟は朝食の配膳の時間となり、スタッフが忙しそう働いていた。パジャマ姿のおじいちゃんが、病室を去ろうとしてエレベーターに乗ったGのところにふらふらとやってきて、あわてて看護婦が「小川さん、よそ行っちゃダメでしょ」と引き留めにやってきた。Gがドアの『開』ボタンを押したままにしていると、看護婦は「すみません、おじいちゃん、ぼけてて徘徊するんです。閉めてください」と言った。Gは自分が『開』ボタンを押したままにしていることも、いつのまにか忘れていた。あわてて現実に戻り、指をボタンから離した。ドアが閉まりきる最後の瞬間に、別の看護婦が通路の奥にむかって走っていく姿が目に入った。由貴の病室の方だった。
 Gは壁にもたれて、痛みを超えるために、固く目を閉じた。
 そのまま一階に下りていった。



 朝の中庭のベンチでぼんやりしていると、茶虎模様の猫がやってきた。病院で猫は飼えないはずだから、近所の飼い猫が散歩に来たのかもしれない。Gは紙コップのコーヒーしか持っておらず、食べ物をわけてあげることはできなかったが、猫は特に何かをねだる様子はなく、ただ静かにGの足に身体をこすりつけてきた。
 Gはコーヒーを飲み干すと、コップを脇に置いて、猫の両前足の根元をつかんで抱き上げた。猫の身体の柔らかさは、病室の由貴の頬のさわり心地とも似ていた。胸でも尻でもなく、頬のさわり心地を思い出す自分であることが、妙に可笑しかった。猫は嫌がることはなく、ただ不思議と寂しげな表情をしており、人間の悲しみが理解できるのかな、とGは思った。「動物って、人の気持ちを理解するのよ」と由貴は言っていた。「生まれ変わるとしたら、猫になりたい」とも言っていた。
 Gは、まさか、と思って、猫の目をのぞき込んでみた。しかし間近に見ると、冬の日差しで瞳が細くなった目は、やはり普通の猫の目だった。由貴には似ていなかった。

 やがて病棟から由貴の母親がふらつくように出てきた。娘の由貴よりも少し身長が低くて、ゆっくりとしゃべる優しい性格の人。泣きはらした赤い目をしていた。何か言葉を発したいけれど、どう言ったらいいのかわからない、そんな面持ちでGの座るベンチやって来て、黙って横に腰掛けた。
 Gは
「猫が来たんです」
 と母親に言った。由貴の母親も猫好きなことをGはよく知っていた。
「まあまあ『部屋にいなくなった』と思ったら、ここにいたのね・・・」
 違いますよ、とGは言いたかった。今、自分もそうかなと思いましたけど、目を見ると全然違います。人に慣れた猫が、たまたま退屈して近寄ってきただけです。
 しかし母親は、猫を生まれたての赤子のように抱き抱えて、超えたくても超えられない壁を前にした受刑者のように涙を流した。猫はその腕の中でおとなしくしていた。
 Gは母親の肩に触れ、言葉をかけようと口を動かしかけた。なぐさめではなく、事実として、「大丈夫ですよ」と。本当はそれが言いたかった。それだけが本質であり、むしろバカバカしくなるほど単純なのだ。しかしそれを、親としての嫉妬なしにうまく伝えられるとはGには思えなかった。だから、何も言わなかった。その勝手な推察が、本当に正しいものだったかどうかはともかく、「嫉妬なんて生きてる証だよなぁ」と思った。

 Gはベンチに腰掛けた尻を前にずらし、のけぞるような姿勢で12月の澄んだ空を見上げた。由貴はこの大きな空に消えていったのか、それとも猫になったのか、それは分からない。しかし終わった。
 突然始まった戦いに、勝ったとは言えなかったけれど、もう全く後悔はない。いざとなると、叫びたくはなかった。そういうことは、特にしたくなかった。泣きわめきたくもなかった。今となっては、ただ、この清く爽やかな冬の朝の世界に還ってただよう由貴の魂に「ありがとう」と、それだけだった。





(2005 Apr/2009 Jan改)