妥協しないこと
 〜仕事のクマ男篇〜


 久しぶりにクマ男から便りが届いた。本当に久しぶりだった。彼は楽器作りの評判があがって多忙になっていたし、僕は自分の演奏表現に悩み他のことを考えられる余裕がなかった。
 彼からの手紙は、昔ながらの便せんに、神経質っぽい字で丁寧に書かれていた。


 元気かい? こんど、オーストラリアに行くよ。良い木がまとまって入ったと連絡があってね。ずっと会いたかった製作家が招待してくれたんた。あっちには別の作り方の流儀があるんたけど、それは木材の特質からきているらしい。
 せっかくたから東京にもよろうと思う。世話になっている販売店に顔をたすのが目的たけど、時間の都合がつくようなら、あんたとも少し会いたい。連絡まってます。


 へえ、クマ男も都会に顔を出すことがあるんだ、と僕は手紙を読んで苦笑した。都会にはいろんな人がいるから、彼みたいな男がのそのそと歩いていたり、電車に乗って吊革につかまっていても、決して悪いわけではないけれど、やはり少し心配になってしまう。僕も気分転換が必要な頃かもしれないし、ここはひとつへばりつきで彼を案内してやろう。
 僕は夜になってから、電話をかけてみた。
 彼は感謝の気持ちを隠さず、二日間の東京での予定を僕に語った。
「ところで、ディズニーランドに行くってヘンかな?」
「ディズニーランド?」
「そう」
「クマ男だからって、行っちゃいけないわけじゃないが」
「ヘンなのはわかっているけど、一度行ってみたいんた」
「なるほど。大丈夫、ちゃんと僕が案内するよ」
「あんたは、行ったのかい?」
「昔付き合っていた彼女が好きでね、何度か行ったよ。ものすごく感動する何かがあるというわけではないけど、全体的によくできていて、大人でもいい気持ちにさせられるところだと思う」
「それは、悪くないね」
「ああ、悪くないよ」


 しかし、当日の待ち合わせ場所に、クマ男は現れなかった。時間と場所を間違えた可能性もないわけではないけれど、そういうことがないようにと、手紙と電話で何度も念入りに確認したのだ。彼はケイタイを持たないので、はぐれてしまうと連絡のとりようがない。
 約束していたはずの駅前のベンチで二時間ほど待ち、さらに近くのコーヒーショップでコーヒーを飲みながらその場所を視野に入れて一時間ほど待った。
 しかし結局、クマ男は現れなかった。
 しかたなく帰路につくことにした。最後にもう一度、その青いベンチに戻ると、微かにクマ男の匂いがした。ベンチには、彼の毛が落ちていた。


 宇宙の星の間を、意志として漂っていたときの記憶。
 実体がなく、時間にも空間にも影響を受けない自由なひととき。
 そこで僕はクマ男と会っていた。

 ・・・そんなことを、急に思い出したりした。


 クマ男が本当に向かったのは、オーストラリアでもディズニーランドでもなかった。かつて好きだった一人の女性のもとに向かったのだ。そのことをあとで知らされたときは、さすがの僕も裏切られたような気分になり、悲しさと腹立たしさを感じた。
 しかし冷静に考えてみれば、すべてはメタファーだったのだ。彼が本当にオーストラリアやディズニーランドに行くことはあり得なかったし、彼が何か特別な行動をするとしたら、それは愛する異性のためであることもはっきりしていた。

「とてもよかった。あんたには、たくさんしゃべりたいけど、今はまだ、ね」
 とクマ男は電話の向こうで、内なる喜びを隠しきれない弾んだ声で言った。
「もったいぶらなくてもいいと思うけど」
「そういうことじゃないんた。これは、プライベートたからね」
「楽しかった?」
「そりゃ、もう、たっぷりと」
 僕は純粋におかしくて、裏切られた気持ちも忘れて笑ってしまった。
「よかったじゃないか。少し心配したけど、楽しかったのなら、なにより」
「でも、あんたにはしっといてもらいたいんたけど、彼女はもう結婚しているから」
「結婚?」
「そう、そこは、はっきりしているんた」
「おや、不倫かい?」
「違う。友情た」
 クマ男は断言して、急に黙ってしまった。


 いつか、クマ男の好きだった人に、僕も会うことがあるかもしれない。彼女も演奏家なのだ。偶然仕事で知り合い、同じ楽器を使っていることに気づく。
「その楽器は・・・もしかしたら?」
「え? あなたも?」
 彼女は、きっとその楽器を大切に使っているはずだ。なぜならクマ男は、不器用でがさつな男だけど、彼の作る楽器に関しては繊細なクマ男的愛情が類がないほどたっぷり詰まっている。


「甘い幻想はやめてくれ」
 と、クマ男はきっぱりと僕に言った。
「彼女はいい人た。しかしあんたが彼女に会うときは、二人は競い合うよ。おいらの楽器をどうならすかで、衝突するんた。そのとき、お互い、譲れないはずさ。演奏家として、生きるか、死ぬかた。彼女は思いやりのあるよき人たけど、演奏に関しては、決してたきょうしない」
「つまり、だからこそ、クマ男は彼女に会ってきたんだね?」
「それが目的じゃない。でも、まあ、間違ってはいない」
「どんな人だい、彼女は?」
「言ったたろ、『思いやりのあるよき人たけど、演奏に関しては決してたきょうしない』って」


 たきょう、か。

 
 確かにクマ男は細部まで妥協しない製作家だ。
 ヤスリの一回一回にまでに音の変化を感じる真のプロだ。
 僕も妥協しちゃいけないんだな。


 妥協しない・・・そんなこと、生まれて初めて真剣に考えた。
 今こそ考えるべきとき、と、それを伝えたかったんだね。
 不器用なあいつなりに。
 

 サンキュー、クマ男。






(2007 6/13)