最近はなんとなく身の回りがバタバタしていて気持ちが落ち着く機会がない。こういうときはクマ男を訪ねるに限る。秋も深まり、訪問するならいい季節だ。久々に列車に乗って出かけることにした。


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 昼過ぎに閑散とした駅に降り立つと、駅の売店でペットボトルのウーロン茶を買い、いつもの貸し自転車屋に行く。「友人のところに泊まってくるので、返すのは明日の午後になると思います」と店番の女性に伝えた。タイヤのせいかギヤのせいかわからないが、妙にふかふかした乗り心地の自転車で、平日の午後の田舎道を走っていく。紅葉の季節なので週末ならば車も多いだろうが、今日は観光客らしき車や人など、ほとんど見かけない。
 天気はとてもいい。坂道を頑張って自転車で登っていくと汗をかいたが、気温は低いし空気も乾いているので、じっとしているとすぐに乾き、再び寒さを感じる。この微妙な気候が、僕は好きだ。汗かをかくのも気持ちいいし、乾いて寒さを覚えるのも気持ちいい。


 人は一人でなにかをするとき、ふと気まずさを覚えることがある。一人でレストランで食事をしていて、視線をどこにやったらいいかわからなくなるような。目の前の皿を科学実験かなにかのようにじっと凝視するのもどうかと思うし、誰もいない前の席を見つめ続けるのもむなしいものだ。店内の壁紙やシャンデリアを観察しているのもヘンだし、なにも見ないと決め込んでボーっと食事を続けるのもムリがある。
 実際にはこういうとき、自分の内側を見つめるのが正しいと僕は思っている。何かを見ようとするから違和感を覚えるが、自分の内側を観察していれば、そういう気づかいは必要ないし発生しない。なによりも自分の内側こそ、謎だらけで未知の領域がたっぷりと広がっているのだ。
 自転車で走っていても同じだ。地元の農家の人や、ゴルフに来た人、恋人と二人で遊びに来た人などは、それぞれ目的があってその瞬間に行動をしている。彼らから見ると、僕は『意味不明の存在』なのだ。僕はただ目的もなく自転車をこいでいる。もちろん夕方までにクマ男の家にたどり着くという目的はあったけれど、それはそんなに急ぐ話でもなかったし、そもそもクマ男訪問が目的と言えるのかどうかもあやしいのだ。道行く人々の視線を意識すると、僕も一瞬とまどい、恥ずかしさと、それをとりつくろうような具体的な行動目的をでっち上げたくなる。この先に友人がいて待ち合わせをしているのだ、とか。でも、それは一瞬のことで、僕はすぐに自分のペースに戻り内面に意識を向ける。
 何があるのかわからない、自分のふんわりした内側に。


 キース・ジャレットは、自身の即興演奏に関して、「私は『芸術』を信奉しない人だという意味でアーティストではない」と語っていた。僕は一人で自転車をこいでいると、よくこの言葉を思い出す。『信奉』とか『顕示』とか、そういうことがこの俗世間では多すぎる。実際のところ、キースのジャズ・プレイはカリスマ的であり、多くの信奉者を生んできた。しかし彼自身が演奏中に見つめていたのは、そういう『現実』ではなく、彼自身の内側なのだ。そこからわき出てくるものが、現実の多くの人々をとらえる。逆なのだ。いっそのこと『キース・ジャレットのパラドックス』と名付けてしまいたい。


 宗教家たちは「信じる者は救われる」と説く。簡単に是非を論じられないのはもちろんだとしても、『信じる』ということに疑問を持つのは、いけないことなのだろうか。僕は何かを信じているのだろうか。子供の頃に感じた母親からの愛、小学校の教室の匂い、秋に色づく葉や、枯葉のつもった道を歩くときのサクサクとした音、秋の澄んだ風の匂い。そういうものなら、確かに疑うことはないかもしれない。そういうこととは別に、例えばエンターテイメントとして何かを応援して盛り上がるのは、それはそれで面白い。或るサッカーチームに心からの信頼を置いているというわけでもないけれど、仮の期待と信頼を込めて大勢でわっと盛り上がる。そういうのなら、べつにいいんだけど。


 街道沿いの蕎麦屋で食事をしてから、いよいよクマ男の暮らす山に向かった。途中までは自転車で行ける。別荘の散在する人気のない道を分け入り、案内板とトイレのある奥まった静かなところまでくると、自転車を降りて隅に置き鍵をかけた。そこからは歩いて落ち葉のつもった山道に入っていく。
 しばらくは川音の響く谷に作られた緩やかな坂道が続いた。道が川に近づく場所にくると、1メートルほどの段差を降りて、川の水に手を浸した。冷たいものを食べると後頭部にしびれが走るように、冷たい川の水にじっと手をつけていると心がぴりぴりする。
 僕は僕の心から、何かをぬぐい去りたいのかもしれない。俗世間の余計な何かを。自分の心が、自分の心のままであることは、決してかっこいいことではないし、素敵なことでもないけれど、そこには説明し難い神聖さがあると思う。

 神聖さ、それは『信奉』とは違うものだろうか?
 言葉は似ているが、おそらく全く別のものだ。


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「まったく別たよ」
 とクマ男も僕の意見に同意してくれた。
 思いのほか早く日が傾き、横からの日光が黄色に染まった山道を劇場のように照らしていた山道をたどり、クマ男の家に着くと、彼は僕を楽器製作のアトリエに招いて、いつもの茶をふるまってくれた。
「君は、こんな山奥に暮らしていて、信じるということについてはどうなの? 何もないと不安だろ?」
「不安にはならない」とクマ男は不器用そうに大きな手で顔を掻いた。「不安と言うより、退屈た。退屈というのは、これはこれで、なかなかたいへんなんた」


 僕は最近経験した出会いについて語った。
「中古だけど、素晴らしい楽器に出会ったよ。イギリスの制作家なんだ」
「持ってこなかったの?」
「ああ」
 僕は頷いた。
「見たかったな」
 クマ男が思いのほか寂しそうにするので、僕は後悔してしまった。
「まだ手に入れたばかりで馴染んでないし、君に見せるのはもう少し先でいいと思ってたんだ。今度、機会があったら必ず持ってくるよ」
「あんたは演奏する人だから、こういうことは軽く考えるかもしれないけど、けっこう重要なんた、オイラにとっては」
「ああ、そうだね。悪かったよ」
「どういいのか、説明してくれる?」
「もちろん」
 僕は身を乗り出してクマ男の目を見た。
「弱いんだ。ものすごく弱くて、しなやかで、従順。ときどき意に添わないときもあるけど、それは一種のデリカシーというもの。今にもこわれそうなほどなんだけど、なんとか持ちこたえている。なんとか持ちこたえ続けて、いつまでもその状態が続く」
「タビンチの最後の晩餐みたいたね」
「え?」
「最後といいながら、絵たから、いつまでも晩餐なんた」
「でも、それは、最後の晩餐だよね?」
「うむ、最後なんた」
「そうだね」


 その夜は、量がたっぷりのクマ料理をごちそうになり、僕が持ってきたウイスキーを飲みつつ、ぼんやりと点るランタンの下で、厚い毛布にくるまり、二人で深夜まで語り合った。
「ねえ、信じられることと信じられないことの違いってなんだろう?」
 と僕は根本的な質問をした。 
 クマ男はしばらく、冷たい音のない空気を吸っていた。
「それ、具体的に言ってみれば?」
「例えば、僕は・・・秋の夕日は信じられる」
「うむ」
「落ち葉もね、落ち葉の美しさ。でも、国の年金制作は信じられない」
「国は神さまじゃないよ、信じようとすることの方がムリた」
「じゃあ、神さまは信じられる?」
 クマ男は首を傾げ、暖炉に薪を投げ入れた。灰が崩れるときにさらっと小さな音がした。
「神さまには、信じられる神さまと信じられない神さまがいるわけじゃないよ。神さまを信じますかって、それは愚問たよ。信じるもの、それを神さまと呼ぶんた」
「新説だね」
 僕は微笑んでウイスキーを口に含んだ。ぴりぴりとした刺激が心地よい。
「もしもあんたが、秋の夕日や、落ち葉が信じられるなら、それはあんたの神さまた。そこにあんたの神さまがあるんた。違うかな?」
 僕は少し考えてから「違わないかもしれないね」と頷いた。


 夜もふけてから、クマ男がつぶやくように言った。
「本当はさ、あんたは『人』を信じたいんたろ?」
 僕はすぐには応えられなかった。喉の奥にひっかかるものを感じた。ずっと昔からある純粋な悲しみのようなもの。そうかもしれない。信じられる友人、信じられる聴衆、信じられるマネージャー、信じられる女性。
 僕が黙っていると、彼がぼそぼそと続けた。
「クマ男は、何も信じないよ。クマ男は、何も信じないし、何も疑わない」
 彼の言葉は、やがて眠りに入った僕の心の奥にまで響いてきた。一番奥まで届いたのかどうかは定かではない。けれどもかなり深くまで響いてきたことは確かだ。

 何も信じないし、何も疑わない。

 クマ男はよい楽器を作り続ける。
 だからクマ男はいいやつだ。
 もしもクマ男がダメな楽器を作り続けていたら、クマ男はダメなやつだ。
 ダメなクマ男。ダメな僕。

 あの山道にはたくさんの落ち葉がつもっていた。
 落ち葉は、落ちたからダメな葉というわけではない。

 そこには、神さまがあった。





(2004年秋/2007 6月改)