ピュア・ハート




 高校二年の小林啓吾(けいご)は、朝からアニメ声優のイベントに出かけた。少なくとも中学二年まではサッカー少年だった啓吾が、いわゆる『アキバ系オタク』なのかと問われると、そこまでのことはないだろうと自分では思っていたが、大好きな声優の○○が参加する珍しいイベントがこの地方都市で開かれるとあっては、やはり出かけないわけにはいかなかった。高校のクラスメートと共に、早朝からそのA店が入っているビルの前で並んだ。
「もっとたくさん並んでいるかと思ったよ」
 と、啓吾は両手をダッフルコートのポケットに突っ込んだまま若干の失意をこめて言った。徹夜組がいてもおかしくないと予想していたが、開店一時間前の段階で並んでいたのはたった一○人ほどだった。
 啓吾のクラスメートの西田昇(のぼる)は、ピーコートの前で両腕を組み、長く伸びた髪をゆらして首を横に振った。
「ま、もう冬だしな、さむー。こんな日に普通、並ばねえさ」
「西やん、それ、あまり関係ないし」
「いや、関係あるだろ。もう少し温かかったら、もっとたくさん並んでいたさ」
「そうかな?」
「ていうか、あれだよな、この寒い中、こんなとこまで来る声優も大変さね、営業とはいえ」
「電車で来るのかな?」
「まさか。事務所の車に決まっている」
「そうか……いろいろ販促(はんそく)グッズとかといっしょに車に乗せられて来るのかもな」
「いや、啓吾クン、俺たちはもう少し夢を持とう。いちおうタレントなんだから、スモークガラスの高級車で送り迎え、とかさ」
「わるいけど、そんなことして元が取れるイベントとは思えないんですけど」
「ま、そうだけどさ」
 後ろに並んでいた大人の二人組(おそらく三○代)が自販機で買ってきた缶コーヒーを開ける音が響いた。冷えた朝の空気にコーヒーの香りが漂ってくる。啓吾も真似をしたくなる。が、ここはじっと我慢なのだ。缶コーヒーの贅沢(ぜいたく)を甘く見てはいけない。あくまで日々の禁欲的生活こそ、貴重なイベントにおける購入力発動へとつながる。
「西やん」
「なにさ?」
「今日、寒いけど、うちの親、海に釣りに行ったよ。鯛(たい)釣りだって。信じられる?」
 啓吾は、自分の父親のことを遠い親戚の人であるかのように言った。
 西田昇は片手で髪をかき上げ、あきれた顔をした。
「マジか。いや、それ、マゾか」
「ほんと。信じられないよな」
「よく行くのか?」
「たまにね。釣り船に乗るとさすがに何か釣って帰ってくるけど、そうでないとめったに獲物(えもの)も無し」
「オレ、そういう無駄な努力する人の気持ちって、マジで理解できない。このクソ寒いのに」
「じゃあ、僕たちは?」
 啓吾に聞かれた西村昇は「そうさね。ま、似たようなもんかもしれんけど」と苦笑した。
 
 店員が入り口のシャッターを開けに現れた。啓吾は列に並んだ男たちを眺めてみた。いつのまにか五○人ほどに増えていた。
「僕たちってこういうの初めてだけど、サインもらうとき、何か話できると思う?」
 ふと思い浮かんだ疑問だったが、啓吾はその瞬間をイメージしてみると急に緊張が走った。
 西村昇はぞんざいに肩をすくめた。
「ま、そりゃあ、挨拶(あいさつ)ぐらいはするだろうさ」
「いや、挨拶だけじゃなく、一対一の会話みたいな」
「日本経済についてか?」
「そんな時間はないでしょ」
「問題は『短時間でいかにインパクトある会話をするか』だよ、啓吾クン」
「インパクトある会話をしてどうするわけ?」
「オレたちのこと憶えてもらえる」
「そりゃあ、少しはね」
「それをきっかけに友達になれる。そうだろ?」
「可能性は限りなくゼロに近いと思うけど」
「そこだよ、これぞ男のロマン」
「それじゃあ、まるでうちの父親の釣りみたいだな」
「ま、たしかにね。釣りと似ているかも。わずかな可能性を求めて努力するわけさ。啓吾の父さんは鯛かもしれないが、オレたちは○○さんの心をゲットだぜ、ファイト!」
「目標が高いのは悪いことじゃないと思いますけど、とりあえず現実を見ない? 自分ら、高校生なんだし」
「じゃあ、ひとつ作戦なんだが、いっそ『田舎者』に徹する、ってのはどうだろう?」
「はあ?」
「ほら、タレントで働く人たちは、都会でギスギスした人間関係とかありそうだしさ、ま、そこはオレたち田舎者ですからね、誠実さでは負けません、みたいな?」
「いやぁ、わざとらしすぎると思うよ、さすがに」
「ま、オレのキャラは『田舎者』というのには無理があるさね」
 啓吾は笑おうとしたが、すでにあごのあたりがぎくしゃくしてうまく笑えなかった。
「なんだか、こんな話したら、緊張してきちゃったかも」
「オレも。いやー、早く会いたいさ」
「う……うん、でも僕は、早く会いたいのか、ちょっと待ってほしいのか、微妙な感じ」
「べつに啓吾がステージに立つんじゃないさ、ビビルなって」
「でも、○○さんはステージに立つんだよ。その気持ちを考えたら、僕も緊張しちゃうよ」
「おいおい、なに勝手に気持ちを共有しているんだ」
「ファンだし」
「いや、そういうことじゃなく。いいか、啓吾クン、重要なのは『魚と気持ちを共有すること』ではなく、『魚を釣り上げること』だからな。頼むさ、そこんところ」
「ああ……」と啓吾は急に妙な発見をしたような気がした。「だから、うちの父さん、魚釣れないのかもな」
「え?」
「『気持ちを共有しちゃうタイプ』だから」

「ただいま」
 啓吾が玄関から入ると、いきなりカレーの匂いに気づいた。自分の部屋に戻る前に、台所に顔を出した。
「あれ? 今日、カレーなの?」
「うん。なんで?」
 母親・陽子は当然のことのように目を丸くした。
「だって、今日って、父さんが魚、釣ってくる日じゃん?」
「さっき電話あった。釣れなかったって。寒いから、温かいカレーが食べたい、って」
「勝手だなー」
「いいのよ。私もカレーが食べたいと思っていたところだし」
「それは同意してもいいけどさぁ、それにしても、もうちょっとなにかあってもいいんじゃないっすか」
「もちろん、今からシーフードカレーにしてもいいのよ」
「肉、入ってんでしょ?」
「お肉・アンド・シーフードカレー。だめ?」
「そんなん、聞いたことないさ」
 と、啓吾は友だちのクールな口調をまねて首を横に振った。
 陽子は「ダメかなぁ」とつぶやいてから、急に話題を変えた。
「それより、あんたの方は収穫あったの?」
「塾で高村光太郎読んできた。感動した」
「塾の前に、早起きして行ったじゃない。おみやげは?」
「アニメのDVDでよければ」
「それ、もう見たやつでしょ?」
「まあ、いちおう何度か見ましたが、何か?」
 陽子はあきれて苦笑した。
「あんた、なんで一度見たアニメをまた高いお金出して買ってくるかしら。文庫本を買うくらいならいいけど、桁(けた)が違うんでしょ? お金があまっているわけでもないのに」
「価値観の相違、ってやつですね。本編以外に特典も入っているし。オーディオコメンタリーって言って、製作者や声優が本編見ながらコメントしているトラックがあるわけ。こういうのは買わないと絶対に聞けない」
「聞いて、どうするの?」
「何人かで手分けして買うから、聞いたら交換する」
「交換して聞いて、で、何かいいことあるの?」
「裏話が聞けると、いろいろ勉強になる」
 陽子は微笑んで肩をすくめた。
「まあ、あの父親にして、この息子あり、って感じよね」
「母親の影響だって、多少はあると思うんですけどぉ」
「私は自然のままに美味しいカレーを作るの。ほら、私が一番まともでしょ?」
「その自信が恐ろしいっす」
「今日はターメリックをきらしていたから、わざわざ自転車で買いに行ったのよ。それより、父さんは一時間くらいで戻るって言ってたいから、DVD、見るなら早く見ちゃいなさい。『アニメの話』になると、またケンカになるんだから」
「余計なお世話っす」
 啓吾は首を振って、さっさと自分の部屋に戻った。趣味とか進路とかは、なによりもまず自分自身の問題なのであって、親にとやかく言われる筋合いのことではない、と、強引(ごういん)とわかっている主張をメラメラと心の中に渦巻(うずま)かせて。

 父親は予定の時間を大きく過ぎてから戻ってきた。いちおうおみやげのアジの干物は多く買ってきていたので、さっそく三枚焼き、サラダの代用品のように食卓に並んだ。ファンヒーターの効いた畳の部屋の食卓に、並んだ三人分の夕食。奇妙な取り合わせだったが、カレーも、アジの干物も、それぞれに美味しいことは確かだった。
「釣れなかったけど、今回はかなりおしかったんだぞ。竿がグイグイしなって、あれは間違いなく特大の黒鯛だった。てっきり根がかりかと思ったくらいだ」
 妄想(もうそう)で恍惚(こうこつ)となれる旦那を前にして、陽子は苦笑した。
「ま、お父さんが楽しんでいるんなら、べつにいいんですけどね」
 啓吾は、楽しんでいても楽しんでいなくても、べつにどちらでもいいんですけどね、と心の中で思ったが、口には出さず、黙ってカレーを食べ続けた。
「どちらかなんだよな。釣れないかもしれないけど大物狙(ねら)いで行くか、確実に釣れることをねらって小物で我慢するか。迷うところだけど、今日は風が弱かったからな。思い切って極太の仕掛でチャレンジしたわけ」
「『思い切って』はいいけど、事故だけは気をつけてくださいよ」
「そうだな。もうこの季節の海は冷たいだろうから、ライフジャケットつけていても危ないだろう」
「あらあら、怖いこと言わないで」
「ごめんごめん。ヘンに心配させて『もう行かないでください』なんて言われても困るからな」
「また行くの?」
 と、啓吾がポツリと聞いた。
「そりゃあ、行くだろ。また、ああいうの、釣りたいし」
 父親が見上げた視線の先には、古い鯛の魚拓(ぎょたく)が飾ってあった。啓吾が幼いときからずっと飾ってあるものだ。
「もちろん、大物狙いじゃあ、なかなか釣れないことはわかっている。けどな、あえて、釣れないものを釣りに行く、そこが挑戦なんだ」
 啓吾はため息をつき、黙ってアジを骨ごとかじった。 
「ま、啓吾もそのうちわかるさ。ところで、母さん、今日な、店をサボっていっしょに釣りに行った鮨屋(すしや)の源さんだけど、久しぶりに休みなんで、あとで碁(ご)を打ちにくるってさ」
「えー、だったら鮨持ってきてもらえばよかったじゃん、カレーでなく」
 と啓吾は口を尖らせてブーイングした。
「いやいや、だからカレーなんだ。わかるか? 鮨屋の親父でもたまにはカレーを食べたい。それも、レストランのではなく、ジャガイモとかニンジンがごろごろした家庭的カレーだ。しかし鮨屋でカレーを作って匂いを漂わせるわけにはいかない。だから、そういうものが食べたくなったら、よそのうちに行ってご馳走(ちそう)になるしかない。なあ、母さん、そうだよな?」
「まあ、たくさんあるからいいけど、そんなに自慢するほど美味しいかっていうと、それはちょっとどうなのよ、って思いますけど」
「ま、いいよ。好きにやって」と啓吾は空になった皿を差しだした。「僕はカレーおかわりしていい?」
「はいはい。多めに作ってあるから大丈夫」
 皿を受け渡しする二人をながめながら、父親は話を続けた。
「それでな、源さんがな、ちょうど姪(めい)っ子が来てるって言うんだよ。今日、仕事で来たらしい。今夜はこっちに泊まっていくから、連れてくるって。その子も囲碁が好きらしいし」
 陽子は電子ジャーを見ながら「あらあら、カレーはいいけど、ご飯のほうは足りるかしら」と首を傾げた。
「でな、その姪っ子って言うのがな、なんでも、アニメの声優らしいんだよ」
 啓吾は母親から受け取ったカレーの皿をあやうく落としそうになった。
「おい、バカ、こぼすなよ」
「う、うん」
「うちの息子もアニメが好きで、って話をしたら、『名前くらい知っているかもしれないから連れていってやるよ』ってことになって。名前、聞いたんだけど、忘れちゃったな。でも、いい話だろ?」
「うん……」
 啓吾が、母親をのぞき見ると、ニヤニヤと苦笑されてしまった。啓吾が日中にどこに行っていたかを、釣りに行っていた父親は全く知らなかったから。

 そして啓吾は、また緊張。本日二回目の緊張。イベントに出かけていって緊張することはあったとしても、まさかこの家で緊張するなんて思いもしなかった。しかしウソではないらしい。
 鮨屋の源さんのことは、啓吾もわりとよく知っていた。職人風の真面目な人。啓吾が幼かった頃から、たまに囲碁を打ちにやってくる。
 海から離れた場所で鮨屋をやる理由について、あの人は職人らしく「水がいい場所が好きなのだ」と語っていたのが印象的だった。魚は運べるが、いい水は自分から行かなくてはならない、と。
 ああいう職人風の人の親戚(しんせき)なら、声優になるのもわからなくはない。常人(じょうじん)とは違うこだわり、というか、人々の尊敬を集める何か、というか。
 もうすでに部屋を掃除する時間の余裕などなく、そのことに関して母親はいつも通りに「もっと早く言ってよ」とグチをこぼしたが、今度ばかりは啓吾も同じことを言いたかった。部屋の掃除も、心の整理もできないままに、早くも玄関のチャイムが鳴ってしまった。
「こんにちは」
 玄関の扉が開くと源さんの渋い声が響いた。
 父親が立ち上がって玄関に向かう。啓吾もさりげなく少し離れてついていった。
「どうぞ、上がってください。母さん、来たよ」
「わかってまーす」
 と奥からのどかな声が響いた。
「もう、また余計な用意しているらしいな。鮨屋さんに茶ではりあおうったって無理なのに」
「ははは、おかまいなく。で、こっちが姪の○○ちゃん。初めてだったな?」
「こんにちは、○○です」
 頭を下げた女性は、昼とは服装が替わっていた。清楚なブラウス姿から、今はTシャツにスラックス。普段着なのだろうが、色やデザインはやはり凡人のものとはちがっていた。あきらかに、量販店で売っているようなものではない。
「ああ、ようこそ。やっぱ、かわいいねー。なあ、啓吾」
「そういう問題じゃないんですけど」
「こっちが息子の啓吾。アニメ好きでね、困っているんですよ」
 啓吾は、ついに彼女と視線が合ってしまった。今朝は早くから「会ったらなにを言おうか」と考えて緊張していたが、いざサイン会で自分の番になると、どうしたらいいかわからず、「お名前は?」と聞かれて「啓吾です」「どういう字?」「いや、ひらがなか、カタガナでいいです」「じゃあ……はい」「ありがとうございます」と受け取ると、つい勢いで作品の話をしてしまったのだ。「最近って、刺激的な作品が多いじゃないですか。美しい作品ってすごく貴重だと思うんです。特にこないだの一○話のラストとか、自然なのに、じーんときて、最高だなと思いました」「ありがとう。あそこは私も演じながら泣いちゃって。なにげない日常のなかの『さよなら』だけど、今日一日の大切さがぎっしりつまっている感じ」「ですよね。大切なものって、やっぱ、泣けますよ。やっぱ、それが一番っす」「そうね、ありがとう」「ほんと、がんばってください。これからも応援していますので」と、そんな真面目な話をしてしまったら、握手をすることをすっかり忘れてしまい、激しい後悔と自己嫌悪を抱(かか)えて帰ってきた今日のイベントの、その相手と、まさか、我が家のこの玄関で会ってしまうとは。
 あちらも、アニメ好きの家族がいるとは聞かされていたようだが、自分のイベントのサイン会に来ていた少年とここで会うは考えていなかったらしい。「え?」と一瞬目を開いて啓吾を見た。啓吾がその眼差しに浮かんだ疑問に対して「その自分です」と肯定するようにうなずくと、彼女は口元に笑みを浮かべて、あらためて深く頭を下げた。
「さあさあ、むさくるしいところだけど、上がってください、寒かったでしょ。上着、預かります」
 二人はジャンパーとコートを脱いで、小林家の父親に渡した。そして屈んで靴を脱いだ。黒い革靴と、ベージュのパンプス。どちらもピカピカの靴だった。
「やっぱ『芸能人』って感じがしますね、会ってみると」
「いえ、私は声優。裏方(うらかた)ですから」 
 そのサラサラとして透明な、しかも独特の甘さを含んだ声は、間違いなく○○さん本人のものだった。
「でも、競争とか激しいんでしょうね。やっぱり、かわくないと難しいのだろうし。いや、それにしても、会ってみると、本当にかわいいね」
「バカ! そういう問題じゃないんだよ!」
 と、啓吾は、怒鳴っていた。
 いきなり怒鳴りたくて怒鳴ったわけではない。どうしてそんなことをしたのか、よくわからなかった。ただ、気がついたら、大声を出して、手を握りしめて、振るえていた。
 確かなのは「かわいいねー」なんて、それは絶対違うということだった。かわいくないわけではない。しかし、もっとはるかに素晴らしいことは、別にあるのだ。その聖なる良さが、安ペンキでベタベタと塗りたくられたような気がして、どうしても黙っていられなかった。
 バカっぽい父親のがさつな態度も、自分の見境のない衝動も、どちらも死ぬほど嫌になり、啓吾は二階の自分の部屋にかけ上がり、バタンと戸を閉めた。そして学習机の回転椅子にどっかりと腰掛けると、足で下を蹴って身体を回した。何回も、いつまでも、無意味に回った。

 源さんの渋い声がときどき遠くから響いてきた。三時間ほど囲碁を楽しみ、二人は帰っていった。その会話に、啓吾も入っていこうと思えばいけたはずだ。二人の客人(きゃくじん)は、今はこの家にいるのだし、自分はこの家の息子で、その会話の輪(わ)に入る権利は当然ある。ただ、自分の、あの軽率で、身勝手(みがって)で、突発的な行動が、すべてを台無(だいな)しにした。もしあの輪に入り、お茶を飲みながら普通に会話をすれば、いろんな話が聞けたろう。アフレコ現場の話も、声優仲間の話も。もしかしたら姪っ子の将来を気にした源さんが異性関係なども問いただしたかもしれない。もちろんここですべて正直に語ることではないだろうが、本人を交えて私的な恋愛についての会話をできるとしたら、しかも「ほかの人には絶対に言わないで下さいね」などと念を押されたりしたら、これ以上の幸福があり得るだろうか? 
 啓吾は明かりを点けた学習机に頬杖(ほおづえ)をついて、じっと一人で考え続けた。遠くから「さようなら」という○○さん挨拶の声が聞こえ、玄関の扉が閉まるまで。

 啓吾は最後に風呂に入った。朝が早かった父親は一番に寝ていて『今日のこと』について語り合うことはなかった。
 風呂から上がり、パジャマを着た啓吾が、居間の畳(たたみ)の上で大の字になって天井(てんじょう)を見つめていると、母親が来て優しく言った。
「ありがとう、って言っていたわよ」
「なんのこと」
 と、啓吾は不機嫌を隠さず、目を閉じた。
「わからないけど、あの人、『ありがとう、って伝えてください』って」
 啓吾は「ふう」とため息をついた。
「いい人だったわね」
「……」
「賢(かしこ)くて、楽しくて、優しくて。人気があるのもよくわかった」
 おいおい、賢くて、楽しくて、優しい? そんなの全然ちがうよ、わかってないくせに、と啓吾は思ったが、口には出さなかった。
「ねえ、啓ちゃん、ひとつ、我が家の秘密を教えちゃおうかな。でも、これ、絶対にないしょよ。お父さんには」
 啓吾は「ん」と唸った。
「あの魚拓(ぎょたく)、本当は、父さんが釣ったんじゃないの。もらい物よ。縁起(えんぎ)がいいから、って、私たちの結婚祝い。でも、父さんは、あれを超えるのを釣るって頑張っているの。わかる?」
「『夢』ってことだろ」
「まあ、そういってしまえば、そうなんだけど……」
 なぜ母親がこのタイミングで、そんなみえみえのことを伝えたのか、その意図(いと)は嫌らしいくらい明確だった。息子の啓吾も、大きな魚を釣りなさい、それはお父さんと同じように『頑張る』ということだから。釣れるのか、釣れないのか、わからないけど、母さんは応援しているわよ、という意図。単純すぎるっつーの。
「あのさあ」
「なに?」
「僕は『釣る』っていう言葉そのものが、本当は大嫌いなんだ」
「どうして?」
「だって、いやらしいじゃん。だまして手に入れる、みたいで」
「でも、そうやって釣ったお魚を、みんな、食べているのよ」
「魚だったらいいけど、それだけの問題じゃないから」
「どういう問題?」
「すくなくとも、僕が目指したいのは、そういうことじゃないつもりだし」
「釣らないのなら、網で捕る?」
「そういうことじゃなくてさぁ。捕るとか、捕られるとか。もっと、それ以外のことが、ちゃんとあるはずじゃん」
「でもまあ、理想をもつのはいいけど、大人の世界はいろいろ世知辛いものよ」
「だとしても、そればっかりじゃない」
「うん……そうね。世知辛いことばかりじゃないって信じることは、母さんも賛成よ」
「賛成とか反対とか、そういう問題じゃないんだよ。『創る』ってことは」
 理想を信じてゆずらない息子の心に触れて、母親は内心うれしくなって苦笑した。部屋を出ていく前に、ふと振り返った。
「あなたのそういう想いがあったから、あの人は啓ちゃんに『ありがとう』って言ったのかな?」
「あのさぁ、そんなこと、いちいち確認しなくても、わかりきってるっちゅうの」と啓吾は最高に不愉快そうに言い放った。「あの人の本当の仕事を知っていれば、んなこと、当然だって。下らない現実にとらわれずに、いいものを目指すんだよ。そういう『仕事』が、実際にあるんだ。もう、なんにもわかってないんだから」
 母親は小さくうなずき「おやすみ」と言って、ふすまを閉じた。

 天井を見上げたままの啓吾は、自分が信じる理想と、世俗的な現実との、大きすぎるギャップに、出口のない痛みを感じた。いつやわらぐかわからない、じんじんと持続する苦しみ。しかしこれを乗り越えた先には、きっと何かがある。何かがあるということを疑う気持ちは、みじんもなかった。
 未知の何かを渇望(かつぼう)しながらも、今はただ、啓吾は大の字になって目を閉じる。そして微かに感じられる○○さんの清らかな残り香りにひたった。





(改・2014/10/23)(C)Naoki Hayashi