夢の終わり



 
   1

 高三の啓吾(けいご)はすでに数日前から風邪っぽいことを自覚していた。身体がだるくて、鼻水が出る。それでも寝込むほどではなかったから律儀に高校に通っていたが、今日の帰りに電車に乗っていると、いよいよ本格的に具合が悪くなってきた。これはもしかしたら『好きな異性にふられたこと』が影響しているのかもしれない、と啓吾は若者らしいトンチンカンな考えをめぐらせたりしたが、なにより全身に広がる悪寒はどう考えても精神的な出来事ではありえなかった。ふらつく足どりで自宅にたどり着くと、無言のまま自室に戻り、部屋着のスウェットに着替えた。普段は暑がりなのに、今日はそれだけではやたらと寒い。まずい状況だ。高校三年生の啓吾は、明日から大学入試のための東京滞在を予定していた。午前の新幹線で出発し、一泊してから、一日は予備日として大学への道順を把握し、二泊めの朝が本番だった。さらに一週間のホテル暮らしをして、二校の試験を受ける予定だった。ロール・プレイング・ゲーム風に言えば、まさに最終ダンジョンのラスボス攻略時なみの試練が目のまえに待ち構えているわけだ。ところが、このタイミングで発熱とは。ヤバい。ヤバすぎる。啓吾は自分の身体の現実を直視するため、夕食を少しむりして完食したあと、さりげなく台所の引き出しから電子体温計を探し出してはかってみた。ピピッという発信音のあと、そこに表示された数字を見てみると「三九・一」だった。デジタル数字で現実を突きつけられると、あらためてショックをかくせない。これはもう親に秘密にしておけるレベルの話ではない、と覚悟を決めた啓吾は、母に体温計を差し出した。言い訳なんかしたくないし、する気もなかった。ただ、逃げようのない現実が、そこにある……

    2

 母親・陽子は、息子から差し出された体温計の数字を見て「なにこれ、どうしましょ」とあわてた。しかし、そこは生活力と行動力が自慢の陽子のこと、今までなにやっていたのよとか、これからどうするのよ、みたいな不毛な議論を始めるよりもさきに、時間外診療をやっているはずだった市民病院を思いだし、アイウエオ順の番号メモ帳を調べて電話をかけた。
「もしもし、すみません、もう普通の診察は終わっている時間だと思うんですが、今からでも診てもらえないでしょうか?」
「どうされました?」
 電話から聞こえたきたのは律儀(りちぎ)そうな若い女性の声だった。
「学校から帰ってきて熱を測ったら三九度もあって、でも明日から東京に行かなきゃいけないんです、受験生なので」
「ご本人さまですか?」
「いいえ、私じゃなくて、うちの息子です」
「年齢は?」
「高三で、一七歳」
「一七歳でしたら、大丈夫ですよ。当直の内科医が対応しますので」
 陽子はホッとした。
「すみません、よろしくお願いします」
「いらっしゃる前に知っておいてもらいたいのですが、夜間なので応急の対応ということになります。日中の診療と違い、持ち帰りのお薬は多くは出せないと思いますが、よろしいですか?」
「はい、とりあえず」
「以前にこちらにかかられたことはありますか?」
「はい」
「お名前をいただけましたら、カルテを用意しておきますが」
 陽子は息子の名前と生年月日を伝え、さらに診察券に記載されていた患者番号も読み上げた。
「最後はいつ頃かかられました?」
 いつだっけ、と陽子は考える。子供の時に腕の骨折でお世話になったことは憶えているけれど、たいていは近くの個人病院に行くので……。
「ねえ」と陽子は受話器を手で押さえ、啓吾に声をかけた。「ケイちゃん、最後に市民病院に行ったの、いつだったか憶えている?」
「えっと、去年、膝(ひざ)が痛くてレントゲンとってもらったよ」
 思い出した。心当たりなく痛くなって心配したけど、診てもらったらなんでもなかったやつね。
「去年です。ていうか、もう一昨年ですけど、膝の痛みで診てもらったと思います」
「どのくらいでいらっしゃいますか?」
「ちょっと仕度して、車で行くから、二○分ぐらいだと思います」
「お熱のある方は、マスクをしてきてくださいね」
「はい」
「では、どうぞ温かくしておいでください」
「よろしくお願いします」
 陽子は電話を切り、やっぱり相談してよかった、と思った。『胸をなでおろす』とは、まさにこういうときに使う言葉だろうか。電話の対応も親切だったし。「温かくしておいでください」なんて、病院以外ではありえない気配り。さすが、評判のいい市民病院、たよりになる。
 啓吾は居間のソファーに移り、赤い顔でぐったりと座っていた。食事中無口だったのは、てっきり試験の緊張のせいかと察していたが、まさか病気だったなんて。せっかくの夕食もおかわりをしなかったし。今日の夕食は陽子自慢のホワイトシチューだった。新鮮な小麦粉を調達(ちょうたつ)してバターで炒めるところからはじめる本物の手料理だったが、あまり美味しそうには食べてくれなかった。むしろ、残さずに食べきったことを、ほめてあげるべきか。
「ねえねえ、ほら、内科の先生が待っているから、早くおいでって。上着来て用意しなさい」
 しかし息子はぐったりしたまま。しんどいのはわかるけど。
 陽子はほこさきをかえる。熱があるわけでもないのにせっかくのシチューを「美味しい」の一言も言わずに黙々と食べ終えて、ダイニングの椅子に腰掛けたままゆったりとお茶をすすっていた旦那(だんな)に「ねえ、おとうさん、市民病院オッケーだって。車、用意してもらっていい?」と催促するように声をかけた。
「そうか、よかったな、じゃあ、いくか」
「ベツにさあ」と啓吾は不満げに言った。「慌てることないよ。むこうだって、いちいち待ってないと思うよ、ただの風邪ぐらいでさぁ」
「でも、ちゃんとカルテは用意してくれるって言っていたわよ。診察券の番号も伝えたし」
 陽子はてきぱきと廊下のクローゼットから、息子のダッフルコートと、自分のダウンジャケットを取り出した。面倒くさがりの旦那の着るものは、万年(まんねん)出しっぱなしのジャンパーが、ソファーの上かどこかに置いてあるはず。自分で探して着てもらうのがいつものパターン。啓吾にはもうひとつ、重ね着できるようにふわっとしたセーターを差し出した。
「ほら、車の中は寒いから、セーター、もう一枚着ていきなさいよ」
「いらない」と啓吾は首を振った。「二枚も着たら息苦しくて死にそうになる」
「でも、熱があるんでしょ? 寒いんでしょ? 着てった方がいいと母さんは思うけどな」
 啓吾は頭を後ろに倒し、ソファーにもたれて目を閉じた。
 そして無言。
 母親・陽子は、台所の引き出しから買い置きの不織布(ふしょくふ)マスクを取り出しながら、いつもの悲しいムカツキを感じた。気を使うことしか能のない母親としての自分自身への嫌悪感も含めて。もしも息子が昔と同じように普通の態度だったら、きっと自分も普通でいられただろう。しかし息子が離れていこうとするから、ついつい小うるさい母親役を演じてしまう。

   3 

「今日はやっぱり学校を休めばよかったのよね」
 と、対向車のない閑散とした夜道を走る車の中で、助手席の陽子はふと口にした。
「朝から調子悪かったのか?」
 と平凡な国産小型車のハンドルを握る旦那がおだやかに質問した。
「朝からじゃなくて、昨日からよ。いや、違う、一昨日から。鼻水すすって。受験生なんだから早めに医者に行きなさい、って言っていたのに、大丈夫だ、って強情はって。これで本当に明日から東京に行けるのかしら」
 赤信号にさしかかって車が止まると、ウィンカーのカチカチという音がしっかりと車内に響いた。
「まあ、どうしても明日行く必要はないんだろ? 一日ぐらい遅らせてもいいんじゃないか。試験は明後日(あさって)からだったと思うが」
「でもね、やっぱり初めての東京だし、道ぐらい確認しておかないと当日の朝が不安よ」
「初めてじゃない」とバックシートから啓吾が口を挟(はさ)んだ。「一人で行くのが初めてってだけ」
「同じことよ、ねぇ、お父さん」
「まあなぁ……試験が午後からならいいけど、朝からだもんな。ラッシュで混んでいるときに電車間違えて遅刻したらシャレにならん。実際、あっちの満員電車はすごいからな。降りたくなくても押し出されたりする」
「だからね、今日はやっぱり家で寝ている方がよかったのよ。早くお医者さんに行って」
「わかってるよ」と啓吾がいらついた声で言った。「悪かったと思っているよ」
 陽子はあきらめたような声でつぶやいた。「まあ、あんたも卒業間近で、いろいろやることはあるんでしょうけどね……」
 
 息子がぎりぎりまで登校にこだわるのは、必ずしも勉強のためではないことを、すでに陽子は察していた。啓吾はぼくとつとしたゲームオタク・タイプで、女の子に人気があるなんて話は一度も聞いたことがなかったけれど、ここにきてなんだか行動がおかしい。何かがある。きっとそれは異性の存在が絡んでいるにちがいない……。
 子供の頃からのお友達で、同じ高校に進んだ女の子なら、陽子も何人か知っていた。例えば、長沢さんのところの恵里(えり)ちゃん。足が短くてニキビ跡が目立つ女の子だけど、朗らかで、とっても親切。あんな子が息子のガールフレンドだったらいいのになと、母親なりに思うところはないわけではなかった。もしも長沢恵里ちゃんみたいな明るい子が嫁だったら、決していがみ合いなんて起こらずに、老後まで楽しくつきあっていけるだろう。そもそも自分たち夫婦も完璧さとはほど遠いでこぼこコンビ。特別に美人でもないし頭脳明晰でもないけれど朗らかさが取り柄の妻と、不器用だけど真面目な夫。そこから生まれた啓吾は、性格だけは明らかに父親似だった。職人っぽくて、ゲームにやたらと詳しい。将来はゲームに関わる仕事に就きたいと言う。父親と息子、二人の性格はよく似ているのに、将来のことが話題になるといつも喧嘩(けんか)になってしまう。父親は「ゲームは仮想のものであり、男が一生かけて関わる仕事じゃない」と断言してはばからないし、息子はそういう父親の考えを「古い」と批判する。古いか新しいかということになれば、確かに息子の主張する通りかもしれないが、母親としては「本当にゲーム業界で一生食べていけるの?」と疑問は残る。確かに今はゲームが産業として大きなものになっているかもしれないけれど、何十年か後にもっと新しいものが発明されて廃(すた)れていったらどうするの? そんな将来の不安など持たずに突っ走るのが、若さというものかもしれないけれど。
 いずれにしても、理想を追ってみるということはあるものだ。きっと異性に関しても、そんな感じなのだろう。陽子は情報がとぼしいなかで、密かに想像していた。早い話『片思い』というわけだ。朗らかさが取り柄の陽子としては「つき合う人ができたら遠慮なく家に招待していいからね」と、なんども教え諭してあるつもりだったし、それは息子なりに了解してくれているはずだったが、それなのにあえてなにも語らず、むっつりと沈黙しているということは、ようするに『上手くいっていない』のだ。しかし、そういうときこそ、女性である母親に相談すればいいのに……でも、やっぱりダメかも。相談されたら、あせって、ちゃかしてしまいそう。そういう大人の焦りが、デリケートな少年には一番醜(みにく)く映るだろう。でも、どうだろう。時代が時代だけに、逆に、もうエッチなことまでしてしまって、公明正大に親には紹介できない状況だったりするのだろうか? その可能性は、完全には否定できない。だいたいこの大切な時期に風邪にかかるというのも、尻軽(しりがる)の女の子に移されたってことは大いにあり得る。早い人はすでに受験本番が始まっているので、授業はもうほとんど行われていないはずだ。そんな高校への登校にこだわるのは、やっぱり何かがある。校舎の裏でキスとか? いやいや、啓吾には、もっと自分を大切にしてもらいたい。……しかし、もしも自分が高校生で、親から「もっと自分を大切にしなさい」と言われたら、絶対に反発するだろう。そんなことわかってるよ、大切にするばっかで、イシバシわたってたら、なんにも話が進まないよ、と。……わかるんだけど、わかっていても、母親としては納得できない。
 いつもながら、ため息をつくしかないって感じなのよね、と陽子は車外に続く田舎の夜景を見つめながら思った。

   4

 市民病院に着くと、正面玄関はシャッターが下りて真っ暗だったが、そこから二○メートルほど離れたところに『救急外来』という赤い文字が光り、その周辺だけは明るかった。
「あそこでいいんだろうな?」
 救急外来の前はアスファルトに白線で『救急車専用』と書かれ、駐車禁止の斜線が引いてあった。少し離れて、暗くがらんとした場所に車を止めた父親は、エンジンを切ると「着いたぞ」と言った。
 陽子は『暖かくして行きなさいよ』とおせっかいなことを言いかけたが、すぐに『病院だもの、必要ないか』と考え直し、ただ「行きましょう」とだけ言って車を降りた。
「へえ、夜はこんなふうになっているんだな」
 と、車を降りた父親は建物全体を眺(なが)めながらつぶやいた。
「キュウキュウガイライだって。ケイちゃんもおさわがせよね」
「心臓発作でもおこした人みたいだ」
「風邪で診てもらうなんて申し訳ないけど、私たちにも事情があるんですからね。いいわよね?」
 母親に話を振られた啓吾は、ダッフルコートにくるまり、マスクをしたまま返事はせず、戦場の捕虜のように重い足どりで二人に従った。
「そりゃいいに決まっているよ」と何も応えない息子の代わりに父親が言った。「さっき電話で確認したことだし。『うちの息子が明日から受験で東京に行くので特別に効果のある薬をください』ってお願いすればいいだろ?」
「ねね、それもちょっとわがまますぎないかしら? 特別に効く薬なんてお願いしちゃっていいと思う?」
「ばか、冗談だよ」
 ガラスの自動扉を通り抜けると、窓の開いた小さな受付があった。通路には数個の長椅子が壁ぞいに置いてある。こぢんまりとしたサブの玄関という感じだった。
 受付の奥に座っていたのは、淡いピンクのカーディガンを着た若い女性で、看護婦さんではなかった。長椅子には患者らしき人たちが、すでに三人座って待っていた。
「あの、さきほど電話した小林ですが……」
「ああ、お熱の方ですね。診察券と保険証はお持ちですか?」
 あらかじめ手に持っていたものを「これです」と陽子はすかさず差し出した。
「では、おかけになって、お待ちください。先ほど救急車が入って、少し時間がかかりそうなんです」
 陽子は『救急車』という言葉にドキッとするが、啓吾もだいぶ高い熱を出している受験生なのだ。母親としては救急車に負けずに大切にしてあげたい。
「どのくらい待ちそうですか?」
「まだ診察中なので詳しいことはわからないんです。ちょっと様子を見てきますね」
 女性は病院らしい笑顔を見せ(朗らかな長沢恵里ちゃん風)、席を立ち、受付から廊下に出ると、診察室の扉を軽くノックして中を覗(のぞ)いた。
 そして診察室から戻ってくると、申し訳なさそうに「手術になるとのことなので、少し時間がかかりそう。しばらく待っていただけますか?」と三人に言った。
 小林家の三人は申し合わせたように「大丈夫です」と頷いた。今ここに救急車で運ばれ、すぐに手術に入る患者がいるのだ。いわゆる重症患者ということだろう。そんなところで風邪を診てもらうということに、家族そろって恐縮してしまう。せめて熱が四○度以上あれば精神的いいわけになったろうに。
 急にあわただしくなってきた。受付の女性は電話を立て続けにかけて、手術や検査の手配を始めたようだ。そういうことは本来なら看護師の仕事だろうが、夜間は人が少ないので助け合うものなのだろう。さっと診察室から出てきた看護師は、廊下の椅子に腰掛けていた家族たち(患者ではなかった)に早口で状況を説明した。『クモ膜下出血(まくかしゅっけつ)』という言葉がちらっと聞こえた。頭の手術を始めるらしい。テレビでは見たことのあるシュチエーションだが、実際にその場に居合わせるのは小林家の三人とも初めてだった。身内の死はいろいろあったが、いずれも老衰や慢性病の悪化で、心臓発作や脳溢血(のういっけつ)など、突発的でドラマチックなことは一度もなかった。
 やがて診察室から白衣姿の長身の男性が出てきた。
「えっと、発熱の人は?」
 陽子が「こっちです」と慌てて手を上げた。
 医師は歩み寄り、素早く説明した。
「すみませんけど、今、救急で入った人の緊急手術があるので、少し待っていてください。脳外科に引き継いできますから。そうですね、たぶん二○分ぐらい。なんだったら受付の人に言って、ベッドで休ませてもらっていてください」
「すみません、お忙しいところ」
「いえいえ」
 医師はすぐさまとって返し、ドアが開いたままの診察室から書類やレントゲンを持って移動の仕度を整えた。看護婦は患者の横たわる移動式の簡易ベッド(ストレッチャー)のロックを足ではずし、点滴のチューブが邪魔にならないように患者の腕の位置をずらすと、口元にピンクの汚物入れをあてがって、診察室から外に動かし始めた。廊下に出ると、受付の女性に「今から上がるって連絡して」と言い残し、医師と共にストレッチャーを押して速やかに通路の奥に消えていった。長椅子に座って話し合っていた家族が、あわてて追いかけていく。
 人々が去り、静かになると、受付の女性が出てきて、先ほどまでの緊張した雰囲気とは異なる優しい口調で言った。
「どうぞ、小林さん、ベッドの方に。毛布もありますから」
 小林一家は診察室に案内され、白いシーツの敷かれたベッドを勧められた。レザー張りの冷たい診察台ではなく、入院用のベッドと同じものだった。点滴をするときなどに使うのだろう。
「だいぶ、お熱があるんですよね。暖房、強めにしておきます。毛布を掛けて待っていてください」
 啓吾は「スミマセン」とぼそっと礼を言って、ダッフルコートをぬぎ、ベッドに横になった。
「本当にすみませんね」と母親が愛想のない息子の分もとりつくろうように、たっぷりの感謝を込めて言った。「でも、救急車で来てすぐに手術なんて、さすがに市民病院ですわね」
「めったにないことですけど、たまにはあるんですよ。ちょっとタイミングが悪かったですね。今、具合が悪いようでしたら別の看護師をよびますが、大丈夫ですか?」
「大丈夫よね、ケイちゃん?」
 啓吾はめんどくさそうに「……ん……」と発しただけ。母親は苦笑し、女性に頷いた。
「はい、大丈夫です。ホントにすみません」
「では、少し待っていてください。具合が悪くなったら遠慮なく声をかけてくださいね」
 女性が受付に戻るさいに、父親も「ホント、すみません」と思わず頭を下げた。頭を下げずにいられなかったのだ。風邪なんかで夜の救急外来に来ていることもそうだったが、半分大人のような息子を仰々(ぎょうぎょう)しくも父親・母親そろい踏みで連れてきたという、さらにその母親は啓吾を『子供のように』ベタベタと扱(あつか)ってしまう、そういったことも含めて、なんだか家主として恥ずかしくて。
 しかし恥ずかしがっている父親にかまう間もなく、鳴り始めた電話を取るために、女性は急いで受付に戻っていった。

   5

「ケイちゃん、寒くない?」
 ベッド脇の陽子は、できる限りさりげなく質問した。
「そりゃ、寒いよ。熱があるんだから」
 陽子があたりを探ると、パーテーションで仕切られた奥に、点滴室を発見した。廊下への扉はべつにあったが、中でつながっていたのだ。薄暗い中に四台のベッドが並び、それぞれに二つ折りにされた布団がふわっと置いてある。行って触れてみると清潔そうな羽毛布団だった。毛布などより、こちらの方が絶対に温かい。陽子は迷うことなくモコモコとした布団のひとつを抱え、啓吾のベッドに持ってきてかけた。啓吾は礼を言うどころか、余計なことするなよ、と言いたげなまなざしをむけたが、実際には何も口に出さず、小さくため息をついて目を閉じた。
 陽子はベッド脇の丸椅子に腰掛けて、自分も上着を脱いだ。初めて入った救急外来の診察室だったが、こうやって息子と二人でいると(父親は廊下に戻って長椅子に腰掛けている)、なんだか自分たち専用の空間のような気がしてくる。消毒くさい病院の匂いも、なんとなく懐かしい。

 病院と言えば、啓吾が小さい頃は、もっぱら近くの三輪医院(みわいいん)におせわになっていた。老人から赤ちゃんまで、内科も外科もなんでも診てしまうという、古いタイプの町医者だ。
 啓吾が小学一年のころ、陽子がコンビニに買い物に出いてるすきに、帰ってみたら引きつけをおこしていたことがあった。あわてて毛布ごと啓吾を抱(かか)えて、道に走り出た。最初に通りかかった車を無理矢理止めて、三輪医院まで送ってもらった。運転していたのは幸いにも親切なおじさんで、快(こころよ)く運んでくれた。
 三輪医院の大先生は、もう何年か前に引退していた。現在は娘の旦那さんがあとを継いで耳鼻科の専門医院になっている。耳鼻科の専門医院が近くにあることは悪いことではないけれど、内科は離れたところまで行く必要があり、昔より不便になったのは確かだった。ちなみに小児科ならばもっと遠くに行かなくてはならない。子育てするお母さんは大変だなぁ、と陽子は思わずにいられない。
 この近所は、最近一○年でずいぶん変わってしまった。高速道路のインターの近くに郊外型の大きなスーパーマーケットができて、それを中心に家電量販店、レンタルビデオショップ、ホームセンター、スポーツ用品店、ファミリーレストランなど、大きな建物が並んだ。田舎なので駐車場なんて作り放題。サッカー場のようなアスファルト敷きの駐車場を囲んで、巨大看板を掲(かか)げる店がつらなり、やがて近くに真新しい住宅も増えて、バブル崩壊の時代の流れに逆行した大味な繁栄がにわかにやってきていた。駅前の商店街が寂(さび)れ、人の流れは郊外の大型店に集まる、ということは、この町のことだけではないのかもしれないが、なんとなく良いような悪いような、陽子としては複雑な気分だった。
「ねえ、ケイちゃん、ノド渇(かわ)かない?」
 と陽子が啓吾に声をかけた。
「ああ、すこし」
「何か買ってきてあげようか。どうせ待たされるみたいだし」
「うん、ありがとう」
 陽子は苦笑する。『ありがとう』だなんて、本当はものすごくノドが渇いていたのね。そうならそうって、言えばいいのに。だって、そんなこと言えるのも、今のうちだけなんだから。
 診察室を出た陽子は、受付の女性に声をかけた。
「すみません、うちの子、ノドが渇いたみたいなんですけど、何か飲ませてもいいですか?」
「ええ、もちろん」と女性は笑みを浮かべた。「お熱があるときは水分をたくさんとった方がいいんですよ」
「じゃあ、買ってこようと思うんですけど、このへんで自動販売機とか置いていますか?」
「通路の奥のロビーに、カップの販売機はあります。もしペットボトルの方がいいのでしたら、いったん外の道に出て、右に曲がったところにあります」
 陽子は後ろを振り返り、長椅子から立ち上がって話をうかがっていた父親に聞いた。
「どうかしら、やっぱり、ペットボトルの方がいいわよね。横になっていると、カップじゃ飲みにくそうだし」
「すぐ外にあるのかな?」
 受付の女性は「はい、道に出ると、すぐです」と頷いた。
「じゃあ、私、やっぱり外に買いに行ってくるわ。かまいませんよね?」
 父親も「いいですか?」と女性に確認のまなざしを送る。
「どうぞどうぞ」
 女性はやさしく微笑んだ。
「ね、お父さん、私が買いに行っている間に先生が戻ってきたら、ちゃんとお父さんが説明してあげてよね」
「わかってる。ていうか、あいつ、自分で説明するよ。子供じゃないんだから」
『子供じゃない』というストレートな表現が、陽子の心にグサリと突き刺さる。お願いだから今夜ぐらいはそんなことを言わないで、と不満をぶつけたくなる。そもそも今夜にいたってなお『普段と変わらない父親的態度のまま』であることが、まるで靴に入った小石のようにイライラを誘う。今日という日に、なんでそんなに冷静でいられるのだろう? 父親と息子の関係って、そういうものなのだろうか?
 自分の心の中のイライラから逃避するように、上着にそでを通した陽子は、早足で病院の外に出た。ぞくっとするほど冷たい夜気(やき)が一気に身体を包みこむ。
 舗装された駐車場を下り、病院前の道に出ると、五○ルートルほど先に自動販売機の明かりが見えた。受付の女の人は朗らかな笑顔で「すぐ」って言っていたけど、かなりあるじゃん。人気のない夜道を、上着の襟(えり)を両手で合わせて歩いていく。

 自動販売機に関しては、実は小林家にはちょっとした縁(えん)があった。家の前に新しくバス停ができたとき(高校が新設されてバス路線が変更されたのだ)、業者が来て「自動販売機を設置させてください」と頼んできた。特に投資も必要ないし、管理は半キロほど離れたコンビニの横山さんがやってくれるとのこと。土地だけ貸せば、売り上げのなにがしかが入ってくる、という美味しい話……のはずだった。「そういうサイドビジネスがあれば、車も少しいいのが買えるな」とお父さんもにこにこしていた。
 しかし実際は、いいことばかりではなかった。一番閉口(へいこう)したのが、空き缶やペットボトルを庭に投げ込まれることだった。その量がハンパではないのだ。一般的に自動販売機を設置した家は、そういうことになるものなのだろうか? どうも違うようだ。うちの場合、特に『投げ込みたくなる庭』だったらしい。確かに普通は自動販売機を設置した家なら、そちら側に背の高い木を植えたり、何らかの遮へいを工夫したりするものだろう。しかし小林家としては、家の南側に背の高い木を植えるのは絶対にいやだった。せっかく広々した田舎にマイホームを持ったのに、そんな不健康でけちくさいことはしたくない。そこのところは夫婦で完全に意見が一致した。むしろオープンでありたかった。昼に家にいる陽子など、いっそバスを待っているおばあちゃんにお茶でもふるまいたい気分だった。まあお茶は行き過ぎでも、そこに集う人たちがよい気分でバスを待てるように、バラや沈丁花(じんちょうげ)などを植えて、スタンド式の灰皿を用意して、ささやかながらも憩いの場になるよう工夫した。そういう憩いので場あれば、ついつい飲み物も買いたくなる、という下心もないわけではなかったけれど。たしかにバスを利用する人数に比べたら、飲み物の売り上げはいい方だったようだ。しかし一方で、心ない人たちからの投棄は続いた。
 一度、事件もあった。いくら別に管理者がいるからといって、おつりが出なかった人などはうちにやってくる。
 体格のいいやくざ風の男に因縁(いんねん)を付けられたことがあった。
「千円札を入れたんだが、何も出てこない、取り消そうとしても金も返ってこない」
 陽子は困った。そんなこと言われても、そういうことは管理している横山さんに何とかしてもらうしかないわけだが、電話で連絡しようとすると、男は「時間がないんだ、すぐに金を返せ」と強い姿勢で陽子に迫った。
 その日の午後、陽子は一人で家にいた。そういう時間をねらって、因縁をつけてきたのだろう。もちろん、こんなことでいちいち返金していたらたまらない。中を開けて確認すれば本当に入れたかどうかわかるはずだが、横山さんが鍵を持って来てくれるまではとても待っていてくれそうにない。男は大声で不満を述べて、電話すらさせてくれない。要するに他の人たちが集まってしまっては『いんねん』にならないからだろう。とりあえず陽子は外に出て、自動販売機のところに行った。自分で確認して、今の状態では購入のランプもついていないし、返金レバーを押してもなにも出てこないことを確認した。
「ほらみろ、千円札入れたら、そのままのみこまれちまった。何も出てこないだろ?」
 あなた、入れてないでしょ? と陽子は言い返したかったが、恐くてそこまでは言えない。どうしたらいいのかな、千円渡して引き取ってもらうしかないのかな、と悩んでいると、自転車で啓吾が現れた。中学からの帰りで、黒い詰め襟(えり)の制服姿だった。
「どうしたの?」
「この人が千円のみこまちゃった、っていうの」
「開けてみればいいじゃん」
「でも、横山さん、すぐ来てくれるかなぁ……」
「自分で開けられるよ。鍵、預かっているんだから」
「え?」
「知らないの、母さん? こないだお父さんがスペアキーを業者の人から預かっていたよ。取ってくるから、待っていて」
 そうだったかしら……と陽子は考えてしまう。日中に家にいることが多いのは私なのだから、鍵を預かったのなら言っておいてくれなくては。
 啓吾は走って家に入っていったきり、なかなか帰ってこない。陽子はおしゃべりでごまかそうと必死になった。
「場所がわからないのかも。うちって、ほら、いい加減だから、そういうことってよくあるの。特に、お父さん! 車のキーとか、いつもどっか置いちゃって、いざってときに探し回るの。メガネとか、車のキーとか、さいふとか。おたくも、そんな感じじゃありません? 申し訳ありませんわね。開ければちゃんとお金は出てくると思いますので、少しお待ちくださいね。機械って、やっぱり信用おけないところもありますからね。カンペキってことはないですよね。中に入って、どこかに詰まるってこと、この機械も一度もなかったってことはなくて、今までも二回ぐらいだったかしら、ほら、この道の角を曲がったところにあるコンビニのご主人が管理してくれているんでけど、あちらにお願いして開けてもらったら、やっぱりお札がねじれて詰まっていたって、そんなことも実際にありましたから、本当に入れたなら、今度もきっと開けてみれば、おたくのお金が見つかるって思いますの。お急ぎなのはよくわかりますけど、やはりこういうことは、きちんと確認することも大事なことですからね、ご迷惑おかけして本当に申し訳ないと思いますが、うちの息子が鍵を見つけて戻ってくるまで、ちょっとお待ちくださいね」
 啓吾の姿を見てから勇気がわき、しゃべりが調子に乗ってきた陽子だった。
 やがて、玄関とは違い、家の裏側から出てきた啓吾は、思いっきり息を切らしていた。「はい」と鍵はちゃんと持ってきてくれた。陽子は気がついた。家にあるなんて、最初から嘘だったのだ。裏から回って、走ってコンビニまで鍵を取ってきてくれた。さすがサッカー部!
 機械の扉を開けると、案の定、札は詰まっていなかった。
「すみませんけど、ありませんね」
「おいおい、ありませんね、じゃねーよ。オレは本当に入れたんだから。詰まったんじゃなくて、もう奥に入っちゃったんじゃないの? 電気かなんかの故障じゃないの? 修理屋を呼ばないと正しいことはわからないんじゃないの? とにかく、オレはね、そこまで待てないわけ。とりあえず金は返してもらうよ。オーナーだろ、それが筋ってもんだ」
 陽子は「ふー」と大きなため息をついて啓吾を見た。
「おじさん」と啓吾は毅然(きぜん)とした態度で言った。走ってきたせいか、目がはつらつと輝いている。「ほんとうは、金、入れてねんじゃねーの? そういうの、困るんだけど。はっきり言っとくけどさ、うちの父さん、県警だよ。県のケイサツショ。もしもこれ以上なにか言うなら、とりあえず警察の人に来てもらうしかないと思うんだけど、それでもいいのかなぁ?」
「嘘つくな」
「ほんとほんと。警察の人って、まあ、いつもせっせと働くとは限らないけど、うちの父さんの声がかかったら、かなり話がデカくなっちゃうよ。だって、ほら、刑事課の部長だって、よく遊びに来るし。これ、マジだから、悪いけど」
 男は「ちぇ」と悪態(あくたい)をついた。「金を入れたのは本当だけどよ、こっちだってヒマじゃねえんだ。千円ぐらいでいつまでも時間を無駄にしているわけにはいかねんだよ、バーカ」
 男は虚勢(きょせい)を張り、いかにもちんぴら風のガニマタ姿で去っていった。
 陽子は安心感から力が抜け、膝(ひざ)ががくがくと震えてきた。
「大丈夫だよ、母さん」と啓吾は言った。「ああいうやつ、態度でかいけど、権力には弱いんだ。県警って言っとけば、もう二度と来ないよ」
「そうかなぁ……」
「大丈夫、大丈夫。ま、ジミに信号整備していたって、県警は県警だから」

 陽子は思わぬ回想に一人でにやけて、夜道にぽつんと立っている自動販売機のところまで来た。そこにアクエリアスのペットボトルがあるのを知ってホッとした。風邪で熱があるときには、やっぱりスポーツドリンクでしょう。
 でも、と、また余計なことを考えてしまう。啓吾はペプシコーラが好きだった。小さいときからサッカーのあとはコーラを飲みたがり、母親としては歯が弱くなる気がしてあまり歓迎はしなかったのだが、試合のあとだけは「おつかれ」と言ってよく買ってあげた。小学生のころはコーラでもペプシでも気にしなかったが、中学に入ってからはペプシ派になった。うちの自動販売機に入っていたのがペプシだったから、ということもあるけれど、基本的に強者より弱者を応援するタイプなのだ。それは父親ゆずりの性格だった。父親も「金で選手をかき集めるジャイアンツが大嫌いだ」と広言し、プロ野球は昔から日本ハムを応援していた。陽子は自分の知り合いには日ハムファンを一人も知らなかったが、旦那には日ハムつながりの友人たちがわりといて、しかもその集まりには意外に若い女の子もいるらしく、日ハムが勝った日に日ハム応援飲み会から帰ってくると、きまって尋常(じんじょう)でなく幸せそうに顔がほころんでいた。本人は「テレビを見ながら飲んできただけ」とは言うけれど、まるで日ハムの勝利を祝し、日ハムファンの若い女の子のオッパイをモミモミさせてもらい、そのフレッシュな手触りの余韻に帰宅してからもひたりきっている、みたいな顔。(そういう説明を具体的に聞かされたわけではないが、それくらい幸せそうな顔)妻としては、嫉妬を通り越し、あきれて苦笑するしかない。
 息子のサッカーに関しては「鹿島アントラーズの本山(もとやま)選手みたいだ」と母親としては思っていた。口数は少ないけど、リフティングやドリブルは上手い。まわりとコミュニケーションとるよりも、個人プレイで状況を打開するタイプ。それでいてリーダーっぽく出しゃばることはない。『ルパン三世』の石川五右衛門(いしかわごえもん)のようなクールな格好良さ。なんで自分の息子が、朗らかな母親と正反対なのか、陽子にはさっぱり理解できなかったが、試合で相手ディフェンダーを巧妙(こうみょう)に抜いたりすると、思わず興奮して悲鳴のような声援を送ってしまう。啓吾はやせ形で、あまり筋力がある方ではないが、あれだけボール扱いが上手かったらプロにだってなれるんじゃないか、と陽子は密かに期待していた。マスコミに追いかけられるJリーガーの母親! しかし高校に進んでからはサッカーを止め、それまでとは正反対の不健康な生活になってしまった。ゲームばかりして、いつも顔色が悪い。中学時代のような健康的な輝きはない。とくに新しいノート型パソコンを息子専用に買って以来、デザインしたり、音楽を作ったり、小説みたいなものを書いたり、とにかく一人で熱中している。親が黙っていると風呂に入ることも忘れて、明け方まで部屋でなにかしている。さすがにこれには父親もキレて、以来、ゲームを巡る家庭内戦争が続いているわけだ。中学時代の啓吾は、確かに輝いていた。あのまま大人になっていってくれれば言うことないのに、なかなか思い通りにはいかないものだ。とりあえず薬物とか窃盗とか、犯罪まがいのトラブルとは縁がないようなので、まだましとは思うけれど……。
 スポーツドリンクを一本買った陽子は、お父さんも何か飲むかしら、と考えた。しかし家を出る直前までのんびりお茶を啜(すす)っていたことを思い出し、必要ないわね、あの人は、と結論した。自分も冷たいものはあまり飲みたくない。かといってこんな時間に缶コーヒーを飲む気にもなれなかった。
 やはり心残りなのはペプシコーラだ。啓吾は明日から受験で東京に行ってしまう。こういうときこそ一番好きだったものを買ってあげたいと考えるのは親バカというものだろうか。自動販売機には啓吾がひいきにしているペプシはなかった。見回してもこの辺りに自動販売機はこれ一台だけだった。しかしコカコーラとペプシの違いなんて、熱があるときに大きな問題ではない気がして、陽子はお金を追加し、五○○ミリのペットボトルのコーラも一本買ってしまった。だいたい一五○円の飲み物に、いちいち迷っていてもしょうがない。今夜はその一○○倍の値段のものだって、ダメもとでポンと買ってあげたい気分なのだ。役に立てばラッキーだし、そうでなくてもべつにかまわない。可能性があることには、躊躇(ちゅうちょ)なくチャレンジする。そういうポジティブさは素晴らしいし、その精神の源泉(げんせん)になってくれている啓吾は、やはり陽子にとって大切な存在なのだ。
 冷たい二本のペットボトル。三人家族で二本のペットボトルというのは中途半端な気分だったが、こういうときに自分がすっきりしたくて人数分買ったりすると、あとでまたいろいろ文句を言われるのが常だった。「なんで欲しいっていってないものまで買ってくるんだよ」「そういうのは気が利くって言うんじゃなくて、おせっかいって言うんだ、欲しかったら自分で買うよ」そういうことはさんざん経験してきた。思い出すと腹が立つ。三人だから三つというような考えはもうしない。いいのだ、それで。もちろん陽子としては決して納得はできなかったし、今だって割り切れない罪悪感のようなものを心の底では抱えていたけれど、旦那や息子に自分の考えを押しつけても上手くいかないという、これは経験から学んだ現実だった。
 救急外来の自動ドアをくぐると、再び病院の匂いと温かさに包まれた。まだ旦那は一人で通路の長椅子に腰掛けている。陽子が「先生来た?」と聞くと、「まだにきまってるよ」とぞんざいに首を振った。
「ケイちゃん」と陽子は上着を脱いで診察室に入った。「飲み物買ってきた。スポーツドリンクがいいと思うんだけど、コーラも、一応ね。熱がある時って、こういうのも美味しいかもしれないと思って。あなた、コーラ好きでしょ。好きな方、飲んでいいわよ」
「そっちでいい」
 啓吾は布団から手を出して、スポーツドリンクを指さした。
「じゃあ、ちょっと起き上がりなさいよ。お母さんが開けてあげるから」
「いいよ、別に開けなくて」
 啓吾は起き上がると、いらついた仕草でペットボトルを陽子の手から奪った。陽子自身も、余計なこと言っちゃったな、と気づいたけれど、仕方がない。
 啓吾は粗野(そや)な手つきでキャップをねじり、マスクをあごまで下ろしてからから、ボトルを口に当てて一気に半分ほど飲んだ。
「先生、おそいわね」
 母親のつぶやきに、啓吾は何も応えずため息をつく。当たり前のことしか口にできない無能な母親。先生が遅くなるのはわかっていること。そう言い残して去っていき、ベッドで横になっていていいと言ったのだから。それはまあ、そうだ。啓吾のイライラは、陽子にも理解できた。今夜は特別な夜だし、できればもっと気の利いたことを言ってあげたい。ロール・プレイング・ゲームの主人公の母親なら、きっと神聖で意味深な台詞(せりふ)を語っただろう。

〔あなたは私たちの愛の結晶なの。風邪などにまけず大きく羽ばたくのです〕

 うん〜なんだか考えれば考えるほどヘンな感じよね、今日の私って、と陽子は一人で苦笑し、座っていた丸椅子から立ち上がった。
「お父さんがコーラ飲むかもしれないから、渡してくるわね」
「……ああ……」

   6

 しかし、これも予想された反応ではあったのだが、陽子の旦那だってロール・プレイング・ゲームの登場人物ではない。素敵な台詞など望むべくもない。
「おまえ、なんでこんな寒い日にコーラなんか買ってくるんだ?」
 陽子にむかってつぶやいた口調は、特に激しくなじるものではなかったけれど、当たり前のことを当たり前のように口にする、その言葉がどれほど陽子を傷つけるか、気が付きもしないで。
「いいじゃない、熱がある時はこういうのも美味しいかなと思っただけ」
「普通はスポーツドリンクだろ」
「わかってるわよ、そんなこと!」
 突然の妻のヒステリーに、旦那は「なに怒っていんだ、ばか」と言いかえした。
「いいでしょ、べつに。たかが一五○円のジュースぐらいで、いちいち文句なんか言わないでよ」
「おいおい、オレは、ただ、自分の正直な感想を言っただけで、文句を言ったおぼえはないけど?」
「い・い・ま・し・た」
「……」
 またこのパターンだ、と陽子は思い、悲しくなる。きっと一生私たちはこういうすれ違いを続けるのだ。全然理解し合えない。女性の感情や、去っていく息子への愛情のことなど、この人は完全に無視。せめて理解しようと、努力の姿勢ぐらい見せてくれたら感謝する気にもなるのに。実際は、むしろ逆。わざとそういうことから話をそらそうとする。それは男の人なりのテレなのかもしれないし、あるいは個人的な性格の現れであって、悪意があるわけではないのかもしれない。しかし陽子の立場から言ってしまえば、そういう態度は、まさに『悪意』そのものだった。そして、また余計なことを思い出してしまう。あの秋の休日……結婚二○年の記念日にディズニーランドに行って、なんとそこで嬉しそうに携帯テレビを取り出し、プロ野球観戦を始めた大バカ。「地方放送がよく入る」って、にやけて。頭をかち割って脳みそ洗濯してやろうか、と怒鳴りたかった。どうしてこの人は、これほどまでに『人の期待』をぶちこわすことを平気でするのだろうか。思い出すと、ますます腹が立つ!
「べつに、あなたに飲んでもらわなくていいから。私、飲みます」
 陽子はキャップをねじって、コーラを口にする。甘すぎるし、冷たすぎるし、炭酸の刺激も強すぎる。こんなものを真冬の夜の自動販売機で売っていること自体が法律違反じゃないの、と思ってしまう。実際に、冬はコーラの販売量が減ることを陽子も知っていたが、いちおう入れておかなければならない事情があることも知っていた。世の中というものは、どうしてこうねじ曲がったことばかりなのだろう? もっと、好きなら好き、嫌いなら嫌い、とはっきり言えるような、さっぱりとわかりやすい社会がいいのに。息子を愛しているなら、愛していると言わせてもらったっていいはず。かまってあげたい気持ちがあふれているなら、かまわせてもらったっていいじゃない。一五○円のジュースを一本余計に買ったくらいで、いちいち無神経な文句なんか聞かされたくない。
 一口飲んでもてあましている陽子の手から、旦那がボトルを受け取って少し飲んだ。
「やっぱ、冷たいな。なにか温かいものでも買ってくればよかったのに」
「缶コーヒーしかなかったのよ。こんな時間に缶コーヒーとか飲みたくないでしょ?」
「うちの自動販売機に、ホット・はつみつレモンってあるだろ。あれ、なかなか好きなんだよ」
「あなたって、ときどき子供みたいに甘いものが好きよね」
「仕事で疲れて帰ってきてさ、家の前で一人、ホット・はつみつレモンを買って飲む。あれがホッとするんだよね」
「そんなこと言って、仕事で残業して遅く帰ってくることなんて年に何度もないじゃない。昔のあなたは、もう少し緊張感のある人だと思っていましたけど」
「まあ、公務員だからな。無意味に緊張してもはじまらないよ。むしろ別の精神的苦労があってね。外注の業者選びだって、公募と言いながら大人のしがらみがいろいろあるし。義が義で通らない疲れた心を、ホット・はつみつレモン様が癒してくれるわけだ」
「ふーん……」
 なんだか私たちの夫婦の間には一○○万光年ほどの距離があるな、と陽子が悲しい気持ちで思いをめぐらしたところで、通路の奥から白衣の医師と、白いワンピース姿の看護師がスタスタと早足でやってきた。
「すみません、お待たせしちゃって。中ですか?」
「そこのベッドに……」
 医師と看護婦は診察室に入った。陽子はすかさず立ち上がり、無関心な上にぶっきらぼうな旦那を置き去りにして、診察室に続いて入った。椅子に腰掛けた医師は、看護師から受け取ったマスクをしながら、カルテを見て名前を確認した。
「えっと、小林クン、だね。どうかな?」
 自分でベッドから下りて丸椅子に移った啓吾に、看護婦が電子体温計を渡した。啓吾はえり元から体温計を入れて脇にはさむ。医師はさっそく啓吾のマスクを外し、ライトペンをかざして、へらで啓吾の喉(のど)をのぞき込んだ。
「いつ頃から悪くなりましたか?」
 横にひかえた陽子が、すかさず説明した。
「二、三日前から調子は悪そうにしていたんですけど、熱が出たのは今日からみたいです。本当は学校をお休みするべきだったんですけど、この子、明日から東京に受験に行くので、今日は無理に学校に行って、帰ってきて夕食を食べたら、ぐたっとしていて、熱を測ったら三九度もあったんです」
 医師はボールペンでカルテに記載しながら「明日から受験なの?」と質問した。
「正確には、試験は明後日からです」と啓吾がぼそっと答えた。「いちおう、明日のうちに行っとかないと」
「何校ぐらい受けるのかな?」
「三校」
「じゃあ、しばらくむこうにいることになるね」
「そうっす」
「そうかぁ、それはちょっと困ったね」
 電子体温計がピピッと音を発した。啓吾が脇から取り出して差し出すと、受け取った看護師が「三九度二分です」と医師に伝えた。
「じゃあ、胸(むね)を診させてくれるかな」
 啓吾がセーターを脱ごうとすると、医者は「大丈夫」と手で制し、お腹の方から服をまくり上げて聴診器を差し入れた。数カ所の音を数秒ずつ、丁寧に確認してから、笑顔でセーターを下げた。
「肺は特に異常ありません。咽が赤いし、普通の風邪ですね」
「あの……無理かとは思うんですけど」と陽子が申し訳なさそうに言った。「すぐに治るお薬があったら、少し高くてもそれをお願いしたいところなんですが」
 医師は苦笑し、テキパキと早口で説明した。
「そういうものはないですよ、お母さん。風邪はね、昔も今も自分の身体が戦って治していくしかありません。薬はそれをサポートするだけ。小林クン、咳(せき)は?」
「少し」
「吐き気や、下痢は?」
「大丈夫です。だいたいノドが痛いのと、熱だけ」
「アレルギーとか持病(じびょう)は何かある?」
「いいえ」
 詳しく説明しない息子に代わって、陽子が「小学校を卒業するくらいまでアトピーでした。今はだいたいよくなって薬はもう飲んでないです」と早口でつけくわえた。
「よし。じゃあね、とりあえず今日は総合感冒薬、うがい薬、熱冷ましを出しておきます。でも、我慢できるようだったら、なるべく熱冷ましには頼らないで、温かくしてぐっすり休んだ方がいいでしょう。安易に熱冷ましに頼ると逆に治りにくくなることもありますからね。汗をかいたら下着とかを取り替えて。で、明日出発だそうだけど、午前中に来れるかな?」
「午前中なら、大丈夫です。明日中に着けばいいので」
「というのはね、今は時間外なので、薬が一日分しかお出しできないんですよ。旅行中は足りなくなるでしょう。むこうで改めてお医者さんにかかってもいいけど、それも大変なので、時間が許すなら、また明日の午前にいらしてください」
「はい」
「先生」と陽子が口を挟んだ。「点滴とかはいいのですか?」
「小林クン、水は飲める?」
 医師の問いに、啓吾は黙って頷いた。
「吐き気があって水分とれないようなら点滴をしますが、スポーツドリンクなど飲めるようなら必要ないです。だから今日は、お薬をお飲みになって、水分をたっぷり取って、早めに休んでください。勉強も大切だけど、睡眠も重要だからね。こじらせないように、今夜はよく眠ること。いいね?」
 医師はしゃべりながら、すらすらとカルテを記載し、最後にサインのようなものを殴り書きすると、さっと横の看護師に差し出した。
「では、看護師からお薬が出ますので、私はこれで。おだいじに。試験、頑張ろうね」
 医師は人生の先輩としての応援メッセージまで付けくわえて立ち上がると、受付にむかって「3A病棟に行ってくる」と声をかけて、すぐさま大股(おおまた)歩きで廊下の奥に消えていった。
「こんな時間なのに、忙しそうだなぁ」
 医師の後ろ姿を見送った父親は、まったりとした表情でつぶやいた。

   7

 陽子は看護師から薬を受け取り、受付の女性に『預り金』を渡した。夜間は計算が出来ないので五千円預けて、あらためて日中に精算するとのこと。
「ありがとうございました」
 と小林一家の三人はそろって頭を下げた。
 陽子は「あー、よかった。あとは試験ね」と息子に言った。
 旦那は「新幹線の予約はムダになったけど、午後だってチケットとはされるさ」と、まるで上司のわがままで仕事の予定が変更されたときのように、すっかり受け身の態度で言った。
 上着にそでを通し、あとは帰るだけというときになって、陽子は手に持っていたコーラのペットボトルが急に気になった。スポーツドリンクの方はすでに飲み干して診察室のゴミ箱に入れてきてしまったが、こちらはまだ数センチしか減っていない。その黒い液体が、陽子にはまるで冷たい悪魔のように感じられた。『家に持って帰ればいいじゃないか。あんたの配慮のたりなさの象徴として。いや、家族の不和の象徴か?』と、悪魔はささやいている。ばかじゃないの。そうはいきません。
「ねえ、しょうがないから、これ、捨ててくるわ。通路の奥にトイレがあったわよね?」
 旦那は首を横に振って指さした。
「遠くじゃないよ。トイレならすぐそこ。左側」
 陽子はささっと通路を進み、トイレをみつけると『女性用』と表示された扉を押して入った。
 誰もいない寒いトイレ。陽子はペットボトルのキャップを開けて、洗面所にコーラを流しはじめた。白い清楚な洗面台に、茶色の液体が泡と共に流れていく。その液体を見ていると、陽子の中から急になにかがこみ上げてきた。吐くのかと思って洗面台にかがみこんだが、喉(のど)からはなにも出てこなかった。出てきたのは、涙だった。両目から洪水(こうずい)のようにほとばしってくる。
 もったいないのは確かだけど、一五○円のコーラなんかべつに捨てたっていいのに、と思う。こんなの、またいくらでも買えるんだから。トラック一台分のコーラを捨てたって、いい大人が泣いたりはしないわよ、普通。
 陽子は腕を横に伸ばし、入り口の扉を引いて隙間(すきま)をつくると、振るえがちな声を押さえ込んで言った。
「私、トイレに入ったら、したくなっちゃったかも。先に車に戻ってもらっていい?」
 旦那から「うん、いいよ、ごゆっくり」と気のない返事が返ってくる。
 ぶらぶらと二人が去っていく足音が響く。
 陽子は再び洗面台にかがみ込んだ。激情を身体の中にため込みすぎていた。そのはけ口もない。一人になり、緊張がとぎれると、空になってしまったペットボトルを洗面台にころがし、冷たい床にへたり込んだ。
 ねえ、なんでよ?
 なんで、こういうことになっちゃうのよ?
 なんで東京に行っちゃう前に、いろいろ悩んで買ったコーラを「あー、うめー」って飲んでくれないのよ?
 私の期待がつまった飲みものが、トイレの洗面台に流れちゃったのよ!
 ぜんぶ、捨てちゃったのよ!
 それでいいわけ?
 そんなのって、ひどすぎない?
 いくらなんでも、あんまりだと思わない? 
 ねえったら!
 ねえ……

   8

 陽子はずいぶんトイレに時間がかかっているようだったが、それはそれで別にいいのだった。車に戻った父親と息子は、それぞれ運転席とバックシートに座り、アイドリングによって少しずつ暖まっていく暗い車内で、ぼそぼそと会話を続けた。

「熱が下がればいいけどな」

「平気。本命(ほんめい)は、まだ先だし」

「母さんについてってもらうか?」

「冗談じゃないよ」

「そうだな。ちゃんと栄養とれよ」

「わかってるって」

「ま、すきにしろ」

「ところでさ」

「ん?」

「母さん、大丈夫かな」

「なんで?」

「なんか、ヘンじゃん」

「まあな」

「困るんだよね、ああいうの」

「女なんて、そういうもんさ」

「そうかもしれないけど」

「ま、心配すんな」

「うん……」

「オレがついているし」

「ははは……」

「それより、おまえ、せっかく行くんだから、一つぐらい受かってこいよ」

「うん、そだね」

   9

 会話がとぎれると、啓吾は身体を横に倒し、後部座席のドアにもたれて、冷えた窓ガラスに額(ひたい)を当てた。心に疼(うず)く想い……今日、高校で美人のMの割りきったような態度に接したことが、今では不思議なほど遠い過去の出来事のように感じられた。
 目を凝らすと、ガラス越しにいくつか星が見えた。啓吾は小学生のとき、両親と見た星のことをふと思い出した。あれはたしか夏休みで、温泉にむかう家族ドライブの途中だった。山の上の見晴台で、真っ暗なのに、わざわざ車を停めて眺めたのだ。遠くに街の明かりが少し見える以外は、ほとんど真っ暗だったし、他に停まっている車もなかった。しかしそこは両親二人にとって想い出の場所だったらしい。ステンレスの手すりにもたれた母親が、満天の星空を見上げて「星って、いつ見ても変わらないのよね」としみじみとつぶやいた。それを聞いて、小学生だった啓吾は、恥ずかしさに背筋が震え、なに当たり前のこと言ってんだろ、バカみてー、と思ったものだ。
 しかし、そのときの星も、今夜の星も、なにも変わっていない。
 変化しないこと……そういうことが実際にあるんだな、と、啓吾は自分でも不思議なほどしみじみ実感した。すると急に、悲しみと痛みの混ざりあったような、いいようのない感情のうねりに襲われた。動いてもいないのに、身体がほてってきた。
 でもまあ、風邪をひいているからな、と、彼は思った。寒かったり、ほてったり、いろいろある。しかし問題はそんなことよりも、目の前の大学入試の方だ。
 啓吾は小さくため息をついてから、頭の中の思考を日本史に切り替えた。





(改・2014/10/23)(C)Naoki Hayashi