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人はいずれにしても帰るところを欲するものなのだ。人の死という現実を目の当たりにして、何かの救いを求めるとしたら、信仰か、庭。タカユキはぼんやりと自分のルーツに関係ありそうな仏教に好意を抱く程度で、はっきりとした信仰を持ってはいなかったから、必然的に自分の心の庭に頼ることになった。
森の中の静かな空き地。泉が湧き、清らかな池となり、そこから森を潤す小川が続いている。白い石のテーブルといすがあり、清楚に女性が腰掛けている。タカユキは女性に語りかける。自分の心の中の庭の、心の中の女性に。そんなことで真の救いが得られるわけがないとはっきり自覚していても、そういう場に居合わせることが心のバランスを回復させる。再び引き金に力をこめる戦士としての自分に戻ることができる。
タカユキが国に戻ることになった。戦況に大きな変化はなく膠着状態が続いていたから、再び戻らされる可能性は高かったが、とりあえず半年から一年の休暇は確実なものとなった。給料を受け取って基地を出ると、しばらくは都会にとどまり、ローランド博士のカウンセリングを受けたり、友人たちと飲み歩いたりした。平和な日常になれてきたところで、都会から遠く離れた実家に帰ることにした。途中までは列車で旅をして、近くの町で四輪駆動の車をリース契約で手に入れ、以前とほとんど何も変わっていない麦畑の中の道を走った。
ウェストボックスは日系人が多い町だった。多いといっても、よく見かけるという程度で、全体からすると一割程度だろうか。タカユキはそんな町に戻り、実家の玄関をくぐると、ブーツを脱ぎ、食べ慣れた食事を取り、両親に「ありがとう」と伝えて、ベッドに横たわった。そのままほぼ一週間眠り続けた。
永い眠りの果てに、クミコの声を聞いた。前回の休暇中に町の奉仕活動で知り合った美しい女性だった。美しいとはいえ、肩までの短い髪をして、てきぱきと動く活動的なタイプで、すでに子供が三人いた。今日はタカユキの噂を聞いてパンプキンパイを持ってきてくれたのだ。クミコの聞き慣れた声が「パンプキンパイ」と言うのを耳にすると、タカユキは不思議と目が覚め、ジャージのまま居間に出て礼を言った。
「どうも」
「あーら、よく眠ったみたいじゃないの、タカユキさん」
「ああ」
「まだねぼけてんでしょ」
「う、うん・・・」
「しょうがないな。うち来てコーヒー飲む?」
「コーヒーならあると思うよ」
そう言うそばから、母親が台所で淹れているコーヒーの匂いがしてきた。
「やーねー、冗談よ。でも、元気そうでよかった。手とか足とかなくなって帰ってきたらどうしようか思った」
「それ、冗談になってない」
「バカね、冗談じゃないもの。心配してるのは本当」
別にあんたが心配したって意味ないんじゃん、とタカユキは皮肉っぽく思ったが、それは口にせずに、古ぼけたソファーに腰を下ろした。
「ふぁー」
「だいぶ難しいみたいじゃない?」
「あっちのことか?」
「そう」
「うん、まあな」
タカユキは頭を後ろにもたれさせて、板張りの天井を見上げた。
「疲れたよ」
「あまり危ないことしないでよね」
「仕事だから」
「そ、そうだけど」
「もし選べるなら、僕は料理でもしていたいけど」
「そうよ。タカユキさんは料理が得意なんだからそうしてもらえばいいじゃない」
「言ったって無駄だよ」
「そうかもしれないけど」
母親がコーヒーを持って居間に戻ってきた。マグをテーブルに並べ、ポットからコーヒーを注ぐ。
「あんた、クミコさんが持ってきてくれたパンプキンパイ、食べるでしょ?」
「ああ」
「美味しそうよ。もっと嬉しそうにしたら?」
「ごめん。まだ寝ぼけてるんだ」
「はい、コーヒー。よく寝たんだから目をさましておくれ。パイも切って皿にのせてくるから、ちょっとまっててね」
「ああ」
「もー」とクミコはわざと深いため息をついた。「私が料理下手なの知ってるからそんな反応」
「いや、そんなことないって」とタカユキは小さく首を振り優しく言った。「ほんと、まだ半分寝てるんだ。ごめんな」
疲れている。激しい消耗。心のダメージ。ごまかす薬の蓄積。神経ブロック。重い疲労。重い荷物。繰り返される衝撃。爆破と悲鳴。埃と血の匂い。
前回の休暇のとき、ボランティア活動のサマーパーティで、クミコははっきり言っていた。
「私と旦那は、まあ、縁だからね。絶対大切にしますよ。ただね、本当に好きな人は別にいるかもしれない。でも、それは誰にも言わないの。絶対に。相手にも言わないし、私の心の中にしまっておくの。死ぬまで言わない。それはそれでいいの。やっぱ家族は一番大切だしね」
親しくなった仲間との酒の席だから、そういうことも言えたのだろう。タカユキは逆にうち明けた。まだ本当に好きになった人は、いないかもしれない、と。好きになることはたくさんあるし、付き合ったこともあるけれど、本当の愛とは違うのかもしれない。だから結婚もしていないのかもしれない。
ずいぶん違う、と思ったものだ。クミコはすでに結婚して、子供も三人いて、その上、本当に好きな人まで別にいると言う。タカユキは結婚もしていないし、本当に好きな相手もいない。戦場で、命ばかりは、多く奪って。
クミコはパンプキンパイを食べてしまうと、立ち上がって「さ、帰ろうかな」と長いプリーツスカートをぱたぱたさせた。
「僕もだいぶ休んだし、今度集まりがあったら声かけてよ。きっと行くから」
「そうさせてもらうわ。ちゃんと来なさいよ。おかあさん、美味しいコーヒー、ありがとうございましたー」
「あらあら、こちらこそごちそうさま。またいつでもよってね」
「ねえ、ところでタカユキさん」とクミコはソファーで脱力しているタカユキに向かって言った。「ヒマなら、少しドライブでもする?」
「え?」
「町の変化を解説してあげるから」
「えー、そんなに変わってるとは思えないけど」
「やれやれ、おもむきのない。せっかく私がさそってんだから、髭剃って着替えして付いてくるのが礼儀なんじゃない?」
「は、はあ・・・まあ、いいけど・・・」
「まあいいけど・・・じゃなく、ありがとう、でしょうが! そういう礼儀は軍では教えてないのかしら。もー、車でまってますから急いでよ」
クミコが出ていくと、タカユキは「あいつ、何か見せたいものでもあるのかな」とつぶやいて立ち上がった。
母親はテーブルをぬれふきんで拭きながら言った。「あんたがいない間もがんばってるみたいだから、何か見せたい成果があるのかもしれないね」
「母さんは、知らない?」
「クミコさんとこの一番下の子、小学校に入ったのは知ってるけど、その程度かね」
タカユキはシェーバーでササッと髭を剃り、ジーンズとボタンダウンシャツに着替えて外に出た。もう夕方に近い時刻だったが、六月の太陽は真昼のようにクミコの白い車を照らしていた。
タカユキは助手席に乗り込むと、「みんな、どう?」と質問した。
クミコは車をスタートさせ「あまり変わってないと思う」と言った。
やっぱりそうじゃん、変わってないんじゃん、とタカユキは思ったけれど、口には出さない。
「で、これから、どこ行く?」
「そうねー、どこ行こうか?」
「おいおい、決めてないのかよ」
「うそ。ちゃんと決めてあるわよ。とびっきりのいいとこ、つれてってあげる」
クミコは子供たちの学校のことなどを饒舌に語りながら、田舎道を20分ほどぶっ飛ばした。だんだん丘陵地帯に近づいていった。やがてハドソン・フィールドと呼ばれる私有地の入り口にさしかかった。
「ここここ。前は立ち入り禁止だったでしょ。でもオーナーが死んで、今は市の所有になってるの。私、監視員の資格があるから、勝手に入っても問題ないわけ」
「本当に?」
「そう。まあ、こういうのは勝手に入るとは言わなくて、パトロールの一種よね。悪人が潜んでいても、今日は兵隊さんといっしょだから怖いこともないし」
「よせよ。武器なんて何も持ってないんだから」
「冗談。こんな何にもないところに賊が押し入る道理もないし。それより、とてもきれいなところがあるの。きっとビックリするよ」
車は道の突き当たりの納屋のわきに停めた。そこから小道を歩いていった。低木の生い茂る中に、砂利を敷いて造られた小道が、秘密基地の迷路のようにつづいていた。やがて道が登りになり、かなりきつい傾斜を上がりきったところで、バッと視界が開けた。そしてタカユキは、クミコが言ったとおり、本当にビックリした。そこにあったのは泉だった。ずっと夢に見ていた、心の帰る場所。それがそのままそこにあった。
「なぜ、これがここに・・・」
「やっぱり、驚いたでしょ?」
「ああ」
「私も驚いた」
「ていうか、なんでクミコが驚くんだ?」
「だって、初めてのはずなのに初めてじゃないと感じたから」
「え・・・同じだ」
「でしょ?」
「そ、それはそうと、なんで君がそういう予想をしてるわけ?」
「理由なんてない。ただ、そうだろうなぁと思って」
「それじゃあ説明になってないんですけど」
「ていうか、私は漠然とそうなるかなぁって思ってただけなのに、あなたの反応がダイレクトすぎ。そんなに驚かれたら、こっちが驚くじゃない。もっと素直に『きれいなとこだ』って、そういうふうに関心してもらいたいものだわ」
「ま、まあ、そうだけど・・・」
「あなたこそ、どうしたのよ。ヘンよ。説明して」
タカユキは少し躊躇したが、クミコに語るのはかまわないと考えた。
「カンウセラーに指導されたんだよ。戦場で心が壊れそうになったら、心の安らぐ庭をイメージしなって。でもうちのカボチャ畑とかイメージしてもしっくりこなくて、何となく思い出したのがまさにこんな風景だったんだ。こんな、というか、まさにこれだけど。なぜだろう。小さいときに見たことがあったのかな」
「そうだと思う。私も理由はわからないけど、見覚えがあったから」
「不思議だね」
「昔はここで、結婚を誓うとか、そんなことをする習慣があったらしいわ。もしかしたら、私たちが見たことなくても、親とか、その親とか、ここでそういうことをした記憶が受け継がれているのかも」
「まあ、そういうことがあったとしても、ずいぶん微妙だね」
「だって、私たちは、とりあえず、かなり敏感な方だから」
僕はそれには素直に頷いた。
「まあ、それはそうだけど」
クミコとは、性格も、生き様も、全く異なっている。しかし何かを感じる深さや、敏感さにおいては、なぜか共通するものがあった。ボランティアの仲間の一人が事故で死んだときも、クミコと僕だけは知らせを受ける前に病院に駆けつけていた。自分でもよくわからない。ただ、そういうことが現実に何度かあった。
「あ、でも、勘違いしないでよ。私は別にあなたとどうこうってことは全く考えてませんから」
「どうこうって、なにが、どうこうよ?」
「そのぐらい自分で考えなさいよ。いちいち質問しないで」
「う、うん・・・」
「ほんと、あなたはときどき自信なさげで、本当に戦場で戦っている兵士なのかわかんなくなるわね」
「だって、それはしょうがないよ。つらいときに頼りにしてきたものか、ここにあったんだから。ピックリだよ。でも心配なのは、こういうものを実際に見たあとでも、まだ心のよりどころになるのかな」
「前よりもはっきりとよりどころになるんじゃない?」
「だといいけど」
クミコは急に心配そうな表情をした。
「もしかして、来ない方がよかった? 私、よけいなことしちゃったかな」
タカユキが返事に困っていると、クミコは先に結論づけて「ごめんね、ゆるして」と謝った。
「いや、ダメってことはないと思う・・・」
タカユキは屈んで、手を泉の水につけた。
「冷たい。きれいな水だ」
「湧き水よ」
「ああ、知ってる」
「タカユキさん」
「ん?」
「あの・・・そろそろ帰ろうか。晩ご飯の支度とか、あるし」
「主婦だよな」
「悪い?」
「悪くはないよ。今度、子供たちもここにつれてきなよ」
「冗談じゃない。あいつら、うるさいだけなんだから」
「じゃあ、旦那さんと二人で」
「あいにく、そういう人じゃないの」
タカユキは苦笑した。
「僕でどうなるという問題でもない気がするけど」
「わかってるわよ、んなこと。ただ、あなたとは、来ておかないと、来れなくなっちゃうと困りますからっ」
「え?」
「いつ死ぬかわかんない人なんだから」
「予感?」
「バカ。縁起でもないこと言わないで。予感じゃないわよ。ただ、純粋に心配なだけ。ちゃんと帰ってきてよ。みんな、まってるんだから」
「ありがとう」
泉から離れて小道に入ると、砂利の下り道でクミコは転びそうになり、タカユキは彼女を支えた。そのまま二人は手をつないで車に戻った。
車は夕日でオレンジ色に染まっていた。二人は手をつないだまま、日を横に受けて、まぶしそうに相手を見つめた。タカユキとしては、何を言ったらいいのかわからなかったけれど、夕飯の買い出しのことや、子供たちの迎えのことを話題にしようかと考える一方で、実は彼女の示唆していたことのすべてが理解できたような気もして、嬉しいような、悲しいような、複雑な気持ちになった。一つ確実だったのは、二人がもっと早くに出会っていたら、きっと全く別の人生になっていただろう、ということ。もしそうであったならば、タカユキは異国の戦場に赴いて手を血で染めることもなかったかもしれない。
血で染まった手。
はっと気が付いて、タカユキはクミコから手を離す。
クミコは場を取りつくろうように「ははは」と笑った。「私、なんか、ヘンな緊張しちゃったな」
タカユキが次に戦地に戻り、銀杏の木の陰でマシンガンの銃弾を避けたり、崩れかけたビルの階段に隠れて手榴弾のピンを抜くようなとき、いつも無意識のうちに小声で「ははは、なんか、ヘンな緊張しちゃったな」とつぶやいていた。そしてタカユキは生まれて初めて、本当に異性を愛するということの意味がわかったような気がした。しかし本当の愛を知っても、彼は遠くで戦い続けるしかなかった。