愛が本当であること


 戦場で死に向き合うとき、人は何を思うのだろう。タカユキはカウンセラーのローランド博士に「庭を思うといい」とアドバイスを受けていた。理想の庭の絵を書いてみたり、実際に箱庭を作ってみたり。ローランド博士は常に庭を勧めることで知られる庭博士……というわけでもなかったが、それがもっとも常道的なアドバイスなのは間違いない、とタカユキは勝手に理解していた。

 人はいずれにしても帰るところを欲するものなのだ。人の死という現実を目の当たりにして、何かの救いを求めるとしたら、信仰か、庭。
 タカユキはぼんやりと自分のルーツに関係ありそうな仏教に興味を抱く程度で、はっきりとした信仰を持ってはいなかったから、必然的に自分の心の庭に頼ることになった。
 丘を登った先にある静かな空き地。泉が湧き、清らかな池となり、そこから森を潤す小川が続いている。白い石のテーブルと椅子があり、清楚な女性が腰掛けている。タカユキは女性に語りかける。自分の心の中の庭の、心の中の女性に向かって、正直に。
 そんなことで真の救いが得られるわけがないとは自覚していても、イメージしてみると、確かに多少は心のバランスが回復する。引き金に力をこめる戦士としての自分に、再び戻ることができる。


 兵員の入れ替えにより、タカユキは国に戻ることになった。戦況に大きな変化はなく膠着状態が続いていたから、再び戻らされる可能性は高かったが、とりあえず半年の休暇は確実なものとなった。航空機を乗り継ぎ、すでに振り込まれた給料の明細を受け取って軍施設から解放されると、しばらくは都会のホテルにとどまり、ローランド博士のカウンセリングを受けたり、友人たちと飲み歩いたりした。緊張のない平和な日常にある程度慣れるまでは、郷里の実家に戻りたくなかったのだ。自分の心の問題もあるが、何より戦場の匂いを「持ち込みたくない」と考えたから。
 帰国して一ヶ月後に、ようやく都会から離れて故郷を目指した。途中までは列車で旅をして、近くの町で四輪駆動の車をリース契約で手に入れ、以前とほとんど何も変わっていない麦畑の中の道を走った。
 ウェストボックスは日系人が多い町だった。多いといっても、よく見かけるという程度で、全体からすると一割程度だろうか。タカユキはそんな町に戻り、実家の玄関をくぐると、ブーツを脱ぎ、食べ慣れた食事を食べて、両親に「ありがとう」と伝え、ベッドに横たわり、そのまま一週間眠り続けた。
 
 長い眠りの果てに、クミコの声を聞いた。前回の休暇中に町の奉仕活動で知り合った美しい女性だった。美しいとはいえ、優雅なお嬢様ではなく、肩までの短い髪をピンで留めて、てきぱきと働く活動的なタイプ。すでに子供も三人いた。今日はタカユキの噂を聞いてパンプキンパイを持ってきてくれたのだ。クミコの聞き慣れた声が「パンプキンパイ」と言うのを耳にすると、タカユキは不思議と目が覚め、ジャージのまま居間に出て礼を言った。
「どうも」
「あーら、よく眠ったみたいじゃないの、タカユキさん」
「ああ」
「まだねぼけてんでしょ」
「う、うん……」
「しょうがないな。うち来てコーヒー飲む?」
「コーヒーなら、あると思うよ」
 そう言うそばから、母親が台所で淹れているコーヒーの匂いがしてきた。
「やーねー、冗談よ。でも、元気そうでよかった。手とか足とかなくなって帰ってきたらどうしようか思った」
「それ、冗談になってないぜ」
「バカね、冗談じゃないもの。心配してるのは本当」
 別にあんたが心配したって意味ないんじゃん、とタカユキは皮肉っぽく思ったが、それは口にせずに、古ぼけたソファーに腰を下ろした。
「ふぁー」
「だいぶ難しいみたいじゃない?」
「あっちのことか?」
「そう」
「うん、まあな」
 タカユキは頭を後ろにもたれさせて、板張りの天井を見上げた。
「疲れたよ」
「あまり危ないことしないでよね」
「危ないこと?」
「そう。危ないこと」
「無理だよ。それが仕事だから」
「そ……そうだけど」
「もしも選んでいいなら、料理でもしていたいけどな」
「そうよ。タカユキさんは料理が得意なんだから、そうしてもらえばいいじゃない」
「言ったって無駄だよ」
「そうかもしれないけど」
 母親がコーヒーを持って居間に戻ってきた。マグをテーブルに並べ、ポットからコーヒーを注ぐ。
「あんた、クミコさんが持ってきてくれたパンプキンパイ、食べるでしょ?」
「ああ」
「美味しそうよ。もっと嬉しそうにしたら?」
「ごめん。まだ、寝ぼけてるんだ、オレ」
「はい、コーヒー。よく寝たんだから目をさましておくれ。パイも切って皿にのせてくるから、ちょっとまっててね」
「ああ」
「もー」とクミコはわざと深いため息をついた。「私が料理下手なの知ってるからそんな反応!」
「いや、そんなことないって」とタカユキは小さく首を振り優しく言った。「ほんと、まだ半分寝てるんだ。ごめんな」

 疲れている。激しい消耗。心のダメージ。睡眠薬。神経ブロック。重い疲労。重い荷物。繰り返される衝撃。爆破と悲鳴。埃と血の匂い。ウソと不信。

 前回の休暇のとき(それは三年前になるのだが)ボランティア活動のサマーパーティで、クミコは悟ったように彼に言った。
「私と旦那は、まあ、縁だからね。絶対大切にしますよ。ただね、本当に好きな人は別にいるかもしれない。でも、それは誰にも言わないの。絶対に。相手にも言わないし、私の心の中にしまっておくの。死ぬまで言わない。それはそれでいいの。やっぱ家族は一番大切だしね」
 親しくなった仲間との酒の席だから、そういうことも言えたのだろう。タカユキは逆にうち明けた。「まだ本当に好きになった人は、いないかもしれない」と。好きになることはたくさんあるし、付き合ったこともあるけれど、本当の愛とは違うのかもしれない。だから、結婚もしていないのかも。
 二人はずいぶん違うな、と思ったものだ。クミコはすでに結婚して、子供も三人いて、その上、本当に好きな人まで別にいると言う。タカユキは結婚もしていないし、本当に好きな相手もいない。戦場で、命ばかりは、多く奪って。

 クミコはパンプキンパイを食べてしまうと、立ち上がって「さ、帰ろうかな」と長いプリーツスカートをぱたぱたさせた。
「オレもだいぶ休んだし、今度集まりがあったら声かけてよ。きっと行くから」
「そうさせてもらうわ。ちゃんと来なさいよ。おかあさん、美味しいコーヒー、ありがとうございましたー」
「あらあら、こちらこそごちそうさま。またいつでもよってね」
「ねえ、ところでタカユキさん」とクミコはソファーで脱力しているタカユキに向かって言った。「ヒマなら、少しドライブでもする?」
「え?」
「町の変化を解説してあげるから」
「そんなに変わってるとは思えないけど」
「やれやれ、おもむきのない。せっかく私がさそってんだから、髭剃って着替えして付いてくるのが礼儀なんじゃないの?」
「は、はあ……まあ、いいけど……」
「まあいいけど……じゃない! ありがとう、でしょうが! そういう礼儀、軍では教えてないの? もー、車でまってますから、急いでよ」
 クミコが出ていくと、タカユキは「あいつ、何か見せたいものでもあるのかな」とつぶやいて立ち上がった。
 母親はテーブルをぬれふきんで拭きながら言った。「あんたがいない間もがんばってるみたいだったから、何か見せたい成果があるのかもしれないね」 
「母さんは、知らない?」
「ボランティアのことはね。クミコさんとこの一番下の子、小学校に入ったのは知ってるけど、その程度」
 タカユキはシェーバーでササッと髭を剃り、ジーンズとボタンダウンシャツに着替えて外に出た。もう夕方に近い時刻だったが、六月の太陽は真昼のようにクミコの白い小型車を照らしていた。
 タカユキは助手席に乗り込むと、「みんな、どう?」と質問した。
 クミコは車をスタートさせ「あまり変わってないと思う」と言った。
 やっぱりそうじゃん、変わってないんじゃん、とタカユキは思ったけれど、口には出さない。
「で、これから、どこ行く?」
「そうねー、どこ行こうか?」
「おいおい、決めてないのかよ」
「うそ。ちゃんと決めてあるわよ。とびっきりのいいとこ、つれてってあげる」
 クミコは子供たちの学校のことなどを饒舌に語りながら、田舎道を二○分ほどぶっ飛ばした。だんだん丘陵地帯に近づいていった。やがてハドソン・フィールドと呼ばれる私有地の入り口にさしかかった。
「ここここ。前は立ち入り禁止だったでしょ。でもオーナーが死んで、今は市の所有になってるの。私、監視員の資格があるから、勝手に入ってもいいわけ」
「本当に?」
「そう。まあ、こういうのは勝手に入るとは言わなくて、パトロールの一種よね。悪人が潜んでいても、今日は兵隊さんがいっしょだから怖いこともないし」
「よせよ。武器なんて何も持ってない」
「冗談よ。こんな何にもないところに賊が押し入る道理もないし。それより、とてもきれいなところがあるの。きっとビックリするよ」

 車は道の突き当たりの納屋のわきに停めた。そこから低木の生い茂る中に、砂利を敷いて造られた小道が、秘密基地の迷路のようにつづいていた。やがて道が登りになり、かなりきつい傾斜を上がりきったところで、パッと視界が開けた。そしてタカユキは、クミコが言ったとおり、本当にビックリした。そこにあったのは泉だった。カウンセリングでイメージしていた、心の帰る場所。白い石のテーブルと椅子までもが、そこにそのままあった。
「なぜ、これがここに……」
「やっぱり、驚いたでしょ?」
「ああ」
「私も驚いた」
「ていうか、なんでクミコが驚くんだ?」
「だって、初めてのはずなのに初めてじゃないと感じたから」
「同じだ」
「でしょ?」
「そ、それはそうと、なんで君がそういう予想をしてるわけ?」
「理由なんてない。ただ、そうだろうなぁと思って」
「それじゃあ説明になってないんだが」
「ていうか、私は漠然とそうなるかなぁって思ってただけなのに、あなたの反応がダイレクトすぎ。そんなに驚かれたら、こっちが驚くじゃない。もっと素直に『きれいなとこだぁ』って、叙情的関心をしてもらいたいものだわ」
「ま、まあ、そうだけど……」
「あなたこそ、どうしたのよ。ヘンよ。説明して」
 タカユキは少し躊躇したが、クミコ相手に語るのはかまわないと考えた。
「カンウセラーに指導されたんだよ。戦場で心が壊れそうになったら、心の安らぐ庭をイメージしなって。でもうちのカボチャ畑とかイメージしてもしっくりこなくて、何となく思い出したのがまさにこんな風景だったんだ。こんな、というか、これ、そのものだけど。なぜだろう。小さいときに見たことがあったのかな?」
「そうだと思う。私も理由はわからないけど、見覚えがあったから」
「不思議だ」
「昔はここで、結婚を誓うとか、そんなことをする習慣があったらしいわ。もしかしたら、私たちが見たことなくても、親とか、その親とか、ここでそういうことをした記憶が受け継がれているのかも,」
「まあ、そういうことがあったとしても、ずいぶん微妙だ」
「だって、私たちは、とりあえず、かなり敏感な方だから。でしょ?」
 タカユキはそれには素直に頷いた。
「まあ、それはそうだけど」
 クミコとは、性格も、生き様も、全く異なっている。しかし何かを感じる深さや、敏感さにおいては、なぜか共通するものがあった。ボランティアの仲間の一人が事故で死んだときも、クミコとタカユキだけは、知らせを受ける前に病院に駆けつけていた。二人には、自分でもよくわからないが、そういうことが現実に何度かあった。
「あ、でも、勘違いしないでよ。私は別にあなたとどうこうってことは全く考えてませんから」
「どうこうって、なにが、どうこうよ?」
「そのぐらい自分で考えなさいよ。いちいち質問しないで」
「う、うん……」
「ほんと、あなたはときどき自信なさげで、本当に戦場で戦っている兵士なのかわかんなくなるわね」
「それはしょうがない。見ろよ、つらいときに頼りにしてきたものか、ここに本当にあったんだから。ビックリだぜ。でも、心配なのは、こういうものを実際に見たあとでも、まだ心のよりどころになりうるのか」
「前よりもはっきりとよりどころになるんじゃない?」
「だといいけど」
 クミコは急に心配そうな表情をした。
「もしかして、来ない方がよかった? 私、よけいなことしちゃったかな」
 タカユキが返事に困っていると、クミコは先に結論づけて「ごめんね、ゆるして」と謝った。
「いや、ダメってことはないと思う……」
 タカユキは屈んで、手を泉の水につけた。
「冷たいな。きれいな水だ」
「湧き水よ」
「ああ、知ってる」
「タカユキさん」
「ん?」
「あの……私……」
「なんだ?」
「そろそろ帰ろうか、と。晩ご飯の支度とか、あるし」
「主婦だな」
「悪い?」
「悪くはないよ。むしろ、尊敬する。今度、子供たちもここにつれてきたらいい」
「冗談じゃない。あいつら、うるさいだけなんだから」
「じゃあ、旦那さんと二人で」
「あいにく、そういう人じゃないの、うちの旦那は」
 そのストレートな答えに、タカユキは苦笑した。
「オレでどうなるという問題でもない気がするけど」
「わかってるわよ、んなこと。ただ、あなたとは、来ておかないと、来れなくなっちゃうと困るじゃない」
「え?」
「いつ死ぬかわかんない人なんだから」
「予感か?」
「バカ。縁起でもないこと言わないで。予感じゃないわ。ただ、純粋に心配してだけ。ちゃんと帰ってきてよ。みんな、待ってるんだから」
「待ってる?」
「当たり前じゃない」
「そうだよな。わかってる。ありがとう」
 泉から離れて小道に戻ると、砂利に足をとられてクミコは転びそうになり、タカユキは彼女を支えた。そのまま二人は手をつないで車に戻った。

 白いはずの車は、夕日を受けてオレンジ色に染まっていた。二人はつないだ手を離しかねて、まぶしそうに相手を見つめた。タカユキとしては、何を言ったらいいのかわからなかったけれど、夕飯の買い出しのことや、子供たちの迎えのことを話題にしようかと考える一方で、実は彼女の示唆していたことの『すべて』が理解できたような気もして、嬉しいような、悲しいような、複雑な気持ちになった。一つ確実だったのは、二人がもっと早くに出会えていたら、全く別の人生になっていただろう、ということ。もしそうであったならば、タカユキは異国の戦場に赴いて、手を血で染めることもなかったはずだ。

 血で染まった手。はっと気がつき、タカユキはクミコから手を離す。
 クミコは場を取りつくろうように「ははは」と笑った。
「私、なんか、ヘンな緊張しちゃったな」

 タカユキが次に戦地に戻り、銀杏の木の陰でマシンガンの銃弾を避けたり、崩れかけたビルの階段から手榴弾のピンを抜くて投げるとき、いつも無意識のうちに小声で「ははは、なんか、ヘンな緊張しちゃったな」とつぶやいていた。火薬が爆発するオレンジの瞬間に、転ばないように手をつなぐ女性。目の前で遊軍兵士の胸に穴があいたり、狂ったように泣き叫ぶ敵市民を問答無用で押さえつけるときなどに、人知れず逃げ込む心の中の風景にいる女性。タカユキは生まれて初めて、本当に異性を愛することの意味を理解できた気がした。

 しかし本当の愛を知っても、彼は遠くで戦い続けるしかなかった。




(2006年6月/2010 10月改)