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昨日の夕方、古い蕎麦屋さんの前に女の人が立っていた。冷たい雨が、みぞれにかわりそうな寒さのなか、彼女は蕎麦屋さんの軒下で、コートのエリを合わせ、カラフルな色の傘を手に下げて、遠くを見ていた。
時間について、僕か何度か、彼女に質問してみたことがあるのを思い出す。彼女の返答はいつも、黄金色に広がる稲穂の絨毯の上を、さらっと秋の風が吹き抜けるかのような、心地よい余韻を残した。その答えの内容がどうだったか、僕は全く憶えていない。憶えてないくても、かまわないのだと思う。しょせん内容というものは、たいがいその場限りの『対応』にすぎないのだから。
あえて間違っているかもしれないことを覚悟の上で、さらに話を広げてしまえば、たくさんのドラマがあったことも、全てその場限りの『対応』ということだったのかもしれない。
生きることそのものが、そういうことにすぎないのだとしたら……
僕はそっと腕を伸ばし、彼女の胸に触れてみる。衣類にくるまれた肌の温かさと、心臓の弾むような鼓動。そこに温もりと鼓動があることが、いいことなのか悪いことなのか、僕は自問してみるけれど、もちろん、その場限りの『対応』以外の新しい答えがあるわけではなく、人知れずため息をつく。
雨は、美しいですか?
意味は、考えてほしくありません。
今は、今であって、今ではないのです。
彼女の『声』は、僕の中で泉のようにあふれ、澄んだ青い光を広げる。一瞬の輝きの後、ゆるやかな余韻が、花びらのように舞い落ちる。
僕に理解できるのは、結局のところ、ささやかなことに過ぎない。彼女が多くの人々を信頼し、裏切られ、孤独の中で涙し、人を蹴落とすことで成果を手に入れ、楽しい時を過ごす。おそらくそれは、誰にでもあることなのだ。ただ、他の人たちよりも、彼女の場合は少しばかりさざ波が、強く立ったかもしれないけれど。
僕は、なぜ、彼女にひかれるのだろう。
軒下で安らぐ彼女の気持ちが、少しでも長くここに留まることができようにと、僕は冷たい雨が継続することを願う。僕は幸いなことに、雨に関してはまだ、多少の影響力を保持している。
そして、ふと、思う。この雨を降り続けさせることだけのために、僕の存在の全てをついやしたらどうなるのだろう。おそらく十分か二十分、雨が上がるのを遅らせるために……
急に、彼女は微笑む。何かを思いだしたらしい。幸せそうだ。僕は嫉妬し、彼女の心を刺激した『何か』に、なりかわりたいと渇望する。彼女の心の中にあるもの、せめて、それがなんなのかを知りたい。せめて、ヒントをつぶやいてほしい。あるいは手帳を開いたり、ケイタイを取り出してメールを打つということでもいい。何かの行動をとるべきなのだ。何もしないで、一人で微笑むなんて、ずるい。
しかし彼女は、曇り空を見上げて、微笑むだけ。
僕は絶望し、雨を継続することのむなしさを知る。
彼女は腕時計を確認し、深呼吸をしてから、傘の留め具を外し、ミントブルーの布をバタバタと振った。前に差し出すように傘を広げると、静かな軒下から、喧噪の中へと歩み出た。
「昨日の夕方、君を見かけたよ」
「え?」
「蕎麦屋の前で雨宿りしていたろ?」
「見てたの?」
「ああ」
「なんで声かけてくれなかたったの?」
「君があまりに幸せそうだったから」
「バカ!」
彼女の幸せを、祝福し、嫉妬すること。
そんなことしかできないとしても、明日を信じる気持ちは同じだから。
(2009 3/4)