
「いつ来たの?」と彼女は訊ねた。
僕はすぐには答えられなかった。別に無視するつもりはなかったのだが、ちょうどチェロでクープランを弾いている最中で、うまく返事を口にすることができなかったのだ。曲はちょっとしたヤマにさしかかっていた。
「今、何時?」と、僕はなんとかそれだけ言った。
「九時になるところ」
「じゃあ」と、手を動かしながら、フレーズの切れ目で言った。「一時間ぐらい」
楽器を弾きながら話すのは容易なことではない。考えることはできる。しかし声にすることは難しい。まして質問に答えながら、音楽の持つ緊張を自分の中で維持し続けるのは、ほとんど不可能に近い。僕は「ちょっと待ってて」という感じで彼女に目配せをし、切りのいいところまで弾いてしまうことにした。
このチェロはもともとは自分の楽器だが、およそ三年の間、ほとんど使われていなかった。音を出してみるとよくわかる。しばらく音を出すことなく硬直した板やニスが、弾くことによって、今この瞬間にも、腕の中で少しずつほぐれていくのがわかる。微妙に板がきしみ、ニスが振動を吸収する。まだまだ高音は詰まり気味だったし、低音は響かなかった。しかし以前の自分の楽器が腕の中で生き返っていく感じは、悪くなかった。三年ぶりに郷里の交差点に帰ってきたような気分だ。
もちろん以前の機敏で密度の濃い音が出るようになるには、毎日鳴らしても数週間はかかるだろう。けれども、それはそれ。とりあえず今夜の春の夜の気温や湿度は、楽器の眠りをさますにはうってつけだった。
「電話はしたんだけど・・・ずっと通じなくて・・・いないみたいだから、入ってしまったんだ」と、なんとか弾きながら説明を続けた。
「構わないけど、驚かさないでよ」
「すまない」
クープランの舞曲がきちんと舞曲風に弾かれるには、まだまだ手もチェロもこなれ方が足りなかった。本来のテンポよりもずっとゆっくり、大げさなくらい抑揚を付けて、たっぷりと楽器を歌わせた。弓を強く擦りつける時や、すっと抜く時、以前の懐かしい手応えが右手の指先に伝わってきたが、まだ弓が十分に引っ掛かりきれずに抜けてしまうことがしばしばだった。時々出てくるトリルのところなどは、楽器の響きが足りなくて、腐ったイチゴのような情けない音しか出せなかった。
「私の駐車場に先に車が停ってるんだもの、なんだろうと思ったわ。誰の車か思い出すのにも時間がかかった」と彼女は言った。なかば迷惑そうな呆れ顔をして、ドアの近くから動こうともしなかった。
「チェロだけ持って帰るつもりだったんだよ」
「チェロ?」
「そう。書き置きでもしてさ」
「それにしてもよく鍵の置き場所がわかったわね。普通はちょっと探したぐらいじゃ見つからないと思うんだけど。合鍵を持っていたわけでもないんでしょ?」
僕はシシリエンヌのリピートのところまで来て、弾くのをやめた。布にくるまれた松脂を取り出して弓に擦りつけた。
「ほら、いつか夏に僕が原稿を取りに来させられたの覚えてない?」
「ここに?」
「そう。あのとき電話でスペア・キーのありかを教えてくれた」
「ああ、そうね。そういうこともあったわね」
彼女はティッシュペーパーのように軽そうな白いコートを脱いで廊下に作り付けの衣装戸棚にしまった。
「でも置き場所を変えていたかもしれないわよ?」
「まあ、その時はその時。時間はあるんだ、今日は」
時間はあった。仕事は一段落ついていたし、特に疲労で休養が必要というほどでもなかった。
「じゃあ、お酒でも?」と彼女は言った。親切心と義務感の狭間を漂うような、ぼんやりとした言い方だった。
「頂き物だけど、シャブリのいいのが一本がとっといてあるの」
「せっかくだけど、今日はいい。それより、もしよければコーヒーが飲みたいな」
「車だから?」
「まあそれもあるけど」
「そうね。あなたチェロを弾くときはアルコールは飲まないんだったわね」
「悪いね」
「気にしないで、全然。コーヒーなら沢山あるから」
やや疲れた顔をして彼女は微笑んだ。
「コーヒーなんか沢山あったってしょうがないんじゃないか?」
「ただの言葉のあやよ。気にしないでって言ったでしょ」
彼女は椅子に架けてあったカーディガンをはおり、キッチンに入ってポットをレンジの火にかけた。スリッパのぱたぱたという音が響いた。特に広い空間ではなかったが、床に何も敷いていないので音だけはとてもよく響いた。
「食事は?」と彼女が訊ねた。
「もう食べたよ」と僕は嘘をついた。本当は午後の二時ごろ国道沿いのレストランで遅い昼食をとったきりだった。
「私も済ませてきちゃった。どうせ時間があるのだったら、どこかで落ち合って一緒に食べればよかったわね」
「連絡がつかなくてね」
「事務所に電話してくれた?」
「いや。直接ここに何度か」
「事務所にかけてくれればよかったのに」
「その方がよかった?」
「そう、どうせならね」
僕は楽譜のコピーをぱらぱらとめくった。コピーは以前と同じように楽器ケースの中にほおり込んであった。クープラン、バッハ、ベートーヴェン、それにブラームスもあった。わりと長いソナタも、チェロパートだけのコピーならば数枚ですんだ。中には自分の手書きの楽譜で、バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタから移調したものもあった。一番のアダージョや三番のラルゴは、もともとチェロ曲であるかのように気分よく弾くことが出来た。
「あまり使ってなかったみたいだけど」と僕はキッチンの彼女に声をかけた。
「チェロ?」
「そう」
「わかる?」
「わかるよ。前にも言ったと思うけど、楽器は使ってないと眠っちゃうんだ」
「時間がないし、それにやっと音階が弾ける程度じゃね。私のところにあっても、ケースの中で眠り続けるドラキュラ伯爵って感じよ」
「起こすのが大変なんだ、これが」
「え、私のこと?」
彼女は笑いながらコーヒーの粉に湯を注いだ。
「仕事はどう?」と僕は訊ねてみた。「頑張ってるようだけど」
「まあまあね。忙しい時は忙しすぎるし、暇な時は暇すぎるし、そういうところはなかなかうまくいかないけど。まあ、全く仕事がなくなっちゃうよりはね。あなたは?」
「マイペースだよ。もう忙しいのには懲りたから。何て言うか、忙しすぎるよりは、むしろ仕事がない方がいい。倹約すれば生きられる。怒られるかな?」
「世間をなめてるって言われるわよ」
世間に振り回されるよりはましだと思ったが、それは言わないことにした。
「チェロを置いていってから三年近くたつけど、こいつを弾かずに仕事を続けるのって寂しいね。わかっているつもりだったけど、いざ三年も手放してしまうとね」
「私なんか初めっから何もわかってないから、人生の苦労が一つ少ないみたいなもんよね。ねえ、あなたはどこに行っていたんだったかしら?」
「言わなかった?」
「さあ。よく覚えてない」
「なら、知らなくていいよ」と僕は断定的に言った。「どうせ大したところじゃない。ひたすら寒いだけ」
彼女がコーヒーをカップに注ぐ音が聞こえた。
「コーヒーはそっちで飲む?」
「いいかな」
「もちろん」
僕は椅子とサイドテーブルを、テラスの傍の電気スタンドのところまで持って来ていた。外から流れ込んで来る夜風が気持ちよかったのだ。
こんな時間にチェロを弾いても、音で近所に気兼ねする必要はなかった。この家は郊外の丘の上の一軒家で、隣合わせに家はなかったからだ。テラスの先の庭には、白い木製のベンチが置いてあり、その奥は黒い闇の雑木林になって下っていた。
「静かだね」と僕はコーヒーカップを受け取った。「寂しくなったりしないか?」
彼女は右手にカップを持ったまま脇に立ち、左手でチェロの糸巻きのところをなぞっていた。
「もう慣れちゃった」他人事のような言い方だった。「こういう静かな所で眠ることで、バランスがとれてきたと思う。仕事は神経を擦り減らすし。忙しいと帰ってこれないこともあるけど」
「仕事か。恋人は?」
「いないみたいなものよ。私、男の人の所に泊まると、翌日仕事をする気がなくなっちゃうの。困ったものよね」
「来客は多い?」
「多くないわよ。遠いもの、都心から」
「東京の狭っくるしいワンルーム・マンションなんかで暮らしている男が、たまにこんなところで外泊したら、翌日仕事がはかどりそうな気がするよ」
「よく言われるわ」
「僕は帰るよ」
生暖かい四月の夜風が、ゆっくりとレースのカーテンを揺らしていた。緑色の匂いがした。こんなに濃厚な草木の匂いに包まれたのは久しぶりという気がした。自分の身体の中の仕組みが、上下や、前後や、左右に、ある種の必然性を持って強引に入れ替えられていく。
「でも、べつに急がないんでしょ?」
「ああ」
どのくらい彼女の声は変わったのだろうと思った。ずいぶん変わったような気もしたし、全く変わっていないような気もした。僕にも、彼女にも、誰にも、わかることではなかった。僕はこの部屋に入った時から、ずっと二つの関係の間で揺れていた。時間に隔てられた距離。変化を感じることは苦しい。けれども今、彼女が自分の目の前にいることは、ある意味で唯一の確かな救いだった。
「ねえ、何か弾いてみれば」
彼女は探るように言った。
「チェロ?」
「そう。何か聴かせてよ」
「そう言ってくれると、すごく嬉しいね」
最後に女性からこんなことを言われたのはいつだったろうと僕は考えた。よく学生の頃付き合っていた女の子から、冗談交じりに言われたことがあった。そのくせ彼女は僕の演奏が真面目すぎると言って嫌っていた。なんだかそれ以外、あまりよく憶えていない。
音叉を使って調弦をしなおした。下がっていたD弦をわずかに上げて。そして楽譜のコピーの中からバッハの無伴奏チェロ組曲を探した。
「部屋の明り、消しましょうか?」
彼女の提案に、僕は微笑んで頷いた。
彼女は入ってきた時に点けた壁のスイッチを切って、コーヒーカップを持ったまま、桜の生けてある壷の横のソファーに腰掛けた。照明がもとどおり横のスタンドだけになると、部屋の奥の鈍い明るさが、雑木林に続く庭の月明りとなめらかにつながった。この家の玄関に入った時に気がついた甘い匂いは、本当は彼女の匂いではなく、あの大きな壷に生けてある桜の花の匂いだったのかもしれない。
最初の二つのCを力を込めて押し鳴らし、その余韻に似せて高い方のCの音を延ばす。音がはじけたように雑木林の奥まで広がっていった。続いてGの音からの短調のスケールを、指先の感触を探りながら拾っていく。懐かしいチェロの音色が、桜の白い匂いに混ざり、時間の中に消えていく。
ぼんやりと視野に入っている脚を組んだ女性は、遠い昔に見た夢の中の人に似ていた。しかしそれが本当に『昔の夢』だったのか、今となってはわからない。ゆったりした姿勢で脚を組む彼女を前にしてチェロを弾く僕には、この静かな夜の時間さえ、すでに去ってしまった夢と区別がつかなくて。