
病院を出たあと、彼女は二人で海が見たいと言った。それは良いアイディアだと思った。僕は彼女の身体が少し心配だったが、本人が言うのならそうした方がいいだろう。ある意味では体よりも心の傷の方が深かったのだ。このまま病院や、交差点や、マンションに囲まれたせまっくるしい日常に、おとなしく居続けるのは耐えられない。リセットして新しい空気を吸おう。
海が見たいなら、海に行った方がいい。
「電車には、普通の人たちが、普通の表情をして乗ってるのね」と彼女は、まるで別の国の電車に乗り合わせているかのようにつぶやいた。
平日の午後の普通の人たち。仕事で疲れていたり、無表情だったり、本を読んでいたり、ヘッドフォンで音楽を聴いていたり。向かいの席に座っている男性は髪が薄く、分厚い黒い鞄を抱えている。その隣の若い女性は冬なのにミニスカートで寒そうだ。その隣には制服を来た男子高校生二人が、ノートを開いて何かを暗記しようとしている。
横長のシートに座っている彼らの上には、中吊り広告がぎっしりと並んでいた。英会話学校、インターネットのプロバイダー、缶コーヒー、週刊誌の広告・・・。「あなたの会社は大丈夫か?」という見出しが目に付く。気になる人には気になる情報かもしれないが、僕はペンキか何かですべて塗りつぶしたい衝動に駆られた。今この瞬間に、くだらないことを勝手に人の前に並べないでほしい。広告など全くなかった田舎のローカル電車が、無性に懐かしい。
「私たちって、どう見えるかな?」と彼女は訊いた。「まさか、流産してきたようには見えないよね?」
事実を自虐的なほど明確に語ってしまう彼女に、僕はなんと応えたらいいかわからなかった。
「なんかみんな、うそみたいね。別におなかが大きくなったわけでもないし、おっぱいが張ったりもしなかったし、なんかわけわかんない薬の反応とか超音波で診断されて、かってにやってればって感じ」
僕は彼女の肩に腕をまわした。彼女は脱力して僕にもたれ掛かり、「なにかお話ししてよ」と言った。「昔デートしたとき、公園でよくお話ししてくれたよね」
「まあね。でも、あれは、そのころ読んでいて面白かった小説のあらすじとか、語ってただけだよ」
「そうだけど、それでもいい。そういうの聞いてると心が落ちつくんだ、私」
「そうだなぁ、まだ海まで、だいぶかかりそうだから・・・」
実は僕にはさっきからひとつ、昔読んだ小説の記憶がよみがえっていた。僕の心の内が、彼女に伝わったのだろうか。
「僕ってさ、本を読むの、あまり好きじゃないから、わざと気が散らない状況に自分をおいて読むことがあった。トイレとか、風呂とか、電車の中とか。電車の中って、他にやることもないし、うまくするとすごく集中して本が読めるんだ。だからわざわざ本を読むためだけに、電車に乗ったこともあった。一番安い切符で、半日くらい関東近辺の電車をぐるりと乗りついで。
ある時ね、それがすごくはまっちゃったことがあった。地味な短編だったんだよ。中年の男が、若い彼氏のいる女の子と、旅行に行く話。旅行には中年の男と少女だけね。二人は、恋愛ってわけではなくて、友達というか、なぐさめあうみたいな。その女の子の彼氏は、画家でさ。結構過激な性格なんだよね。中年の男は『君みたいなやさしい子がどうしてあんないい加減なやつとつきあうのだね』って思っているわけだけど、まあ、そういうことはよくあることだよね。男は、仕事はなんだっただろう・・・たしかジャーナリストだ。社会の矛盾を知って、報告する立場。工業化やら、競争主義やら、専門化やら、なんだか世の中が住みづらくなっていく状況を知っていて、本当はそれを良くするような情報を発信したいんだけど、スポンサーの都合があって、なかなか本音は言えないんだ。
そういう大人の悩みをかかえている男が、ちょっとだけ、若い女の子と二人で旅に出る。女の子にとってもいい息抜きだったんだ。基本的に過激な彼氏には疲れちゃっていたからね。疲れちゃっても、別れられないことは、女の子も、中年の男も知っていて。
二人はどこに行ったかというと、寂れた島なんだ。観光名所という感じもしない小さな島で、古びた宿に泊まって、二人で海の音を聞きながら、かばい合うように眠って。翌朝になって、海に行くんだ。そこに鳥がいっぱいいたわけ。たくさんの鳥たちの鳴き声が響きわたって、なんか、いろんなことがちっぽけに感じられて。その海岸で、女の子が発見する。鳥の巣にね、卵を見つけたんだ。卵を見つめる女の子を、男がやさしく見つめる・・・」
急に、僕は話を続けられなくなった。そこのところで小説は終了していたような気もする。しかし記憶は定かではない。
「ねえ」と彼女はつぶやいた。「海に、鳥はいるかな?」
「少しは、いるかも」
「猫みたいに鳴くのよね。にゃー、にゃーって」
彼女はうつむいたまま、なんどか鼻をすすって眠った。
「やっぱり海に来てよかったね」と彼女ははしゃいだ。「この広い眺めを目の前にすると、細かいことはどうでもいいって思えてくるから不思議」
「でももう夕方だぜ」
「だからいいんじゃない。私は二人で夕方の海が見たかったんです」
「寒くない?」
「寒い寒い。走ろうか?」
「よせよ、むちゃするのは」
「走ると私のあそこから血がだらだらたれてきて、鮫とか寄ってくるかもよ」
「なにか、あててない?」
「あててはあるよ」と彼女は皮肉そうに唇をゆがめた。「でも、いっそドバッとぶちまけたいな、私は」
彼女は「エイ」と砂をけり、はずみでよろけた。僕はあわてて腕を支えようとしたが、彼女は立っている意志をなくして、僕を引っ張ったまま砂に倒れた。僕もよろけてしまった。彼女は砂の上に寝て、両手を広げて僕を見上げた。
「きて、私を抱いて」
僕にはそういうふうにはしゃぐ彼女の気持ちがよく理解できなかった。いっそ彼女を置き去りにして、一人でしみじみと夕日を見ていたい欲求にさえかられた。
「ねーえ、来てってばー」
「砂だらけになる」
「いいの、どうせ洗濯するのはあなたなんだから」
「あのねぇ」
「うそうそ。まあいいから、君、ここにきて横になりなさい」
「しかたないなぁ」
僕は実は周囲の目が気になっていたのだ。あまり意識したくはなかったが、高校生のカップルや、一人で海を見に来ている人の姿も目に入っていた。でも、今日は仕方がないよな、と自分に言い聞かせて、彼女の横に寝て、砂に抱かれるような気持ちのまま、キスをした。僕は彼女の唇に触れながら、二つの感情の狭間を漂っていた。いとおしさと、あきらめ。なぜか悲しみは、そこにはなかった。消えていった生命のリアリティが僕の中に希薄だったからか、それとも彼女と共にいるときに悲しんではいけないと無意識が働いていたからか、理由はよくわからない。
上空は曇っていたが、西の方は雲がなくなり、夕日が見えていた。我々は穏やかな波音の響く砂の上に座って、オレンジ色に染まった西の空を見つめた。
「おじいちゃんの葬式を思い出すな」と彼女はやさしい声で言った。「海の側の街でね、火葬場も海岸のすぐ近くにあったの。火葬場で焼いているあいだ、みんなどこかで飲み食いしたりするでしょ。私とか、いとこたちとか、そういうのになじめなくて、海に行っちゃったんだよ。仕出しのお弁当もらって、戻ってくる時間だけ確認して。そしたらね、いとこのお兄ちゃんがね、焚き火をしようっていうの。子供の頃、みんなで海に来たときは、焚き火して、貝焼いたりしてたの。その日は、やっぱ冬だったけど、流木とか拾ってきて、砂浜で火を燃やして、まわりに座って、お弁当食べた。しめっぽくなくて、でも、すごく神聖な時間。ああ、これが私たちのお葬式なんだなぁ、って思った」
「昔の話?」
「そんなに昔ってわけでもないの。三年ぐらい前かな。夏に海に行くとき、いつもお世話になっていたおじいちゃんでね。浜辺で焚き火するなんて、なかなか気のきいたいとこたちだと思わない?」
「何人で?」
「えーと、六人かな。おばさんの小さい子たちは来てなかったから」
「いいね、なんか、そういうの」
「ねね、私たちも焚き火しようか?」
僕は周りを見回した。あいにくこの小さな浜辺には流木らしきものは多くなさそうだったし、住宅も近く、おそらく焚き火は禁じられているだろう。
「無理だと思うけど・・・」
「やっぱね。いいの。へんなトラブル起こしたくないし。あの赤い夕日だけで十分」
「夕日か」と僕は、ふと思い出したことを口にした。「日本の仏教には、西方浄土という考え方があって、亡くなった人の魂は西の海のはてに消えて行くらしい」
「そうか。ちゃんと仲間に入れてもらっているかな。名前もないのに、大丈夫かな。ねえ、名前、つけておくべきだったと思わない? 今から決める?」
「やめようよ。本当に死んだってのとはちょっと違うと思うし。産まれてないものは、死んだって言わない方がいい気がするよ」
彼女はため息をついて「そういう理屈っぽいの、嫌い」と言った。
「理屈って言えば、そうかもしれないけど。でも、理屈ついでに言ってしまえば、人の生ってさ、無駄死にのようでいて、実はひとつも無駄なことなんてないと思うんだ。今度のことだって、これがあったから、僕は君のこと、今まで以上に好きだし、きっと将来産まれてくる子のことも、よけいに好きになれると思う」
「そうなるといいね」
「ああ」
「本当にね」
「不安?」
彼女は僕の目を見て、小さく頷いた。
「大丈夫だよ。一人じゃないんだし。僕がいるし」
しかし言葉では補いきれない何かが、急に激しく彼女の中からこみ上げてくるのがわかった。目には見えないものだったけれど、みるみる大きくなっていく。
「ねえ、私、もう子供産めなかったらどうしよう? ていうか、なんで流産なんかしちゃったんだろう。それをきちんと考えておかないと、次も同じことになると思わない? なんでだと思う? コンピューターかしら? コンピューターの電磁波とかでおかしくなっちゃったりして。モニターとか仕事で見てると、本当は頭が痛くなってたのよ、私。でも仕事だし、みんななんとも言わないし、黙って我慢してたけど。それとも、ほら、テレビで見たんだけど、シックハウスってあるじゃない。二人で越してきた今のマンションのせいって考えられない? 見えない化学物質とか、子宮や母乳に蓄積するってどこかで読んだ気がする。化学物質だったら、食べ物かも。コンビニ弁当とか平気で食べてたし、レンジでチンして便利だけど、あれって食べててもプラスチック臭いし。そういうのって環境ホルモンの仲間だったりするんでしょ? 科学で証明されてないほんの少しの量でも、小指の頭ぐらいの小さな赤ちゃんには猛毒かもしれないよね?」
彼女は猫背になって拳を握りしめた。
「偶然じゃないと思う。どうしよう。私、殺しちゃったのかもしれない。ごめんね、私が変な生活してたから」
「考えすぎだよ」
「違う、きっと考えすぎじゃない。私の親戚で流産した人なんてあとにも先にも私以外に一人しかいないけど、彼女も私みたいな生活してた」
僕はもう、どう応えたらいいかわからなかった。あるいは彼女の言うことが正しいのかもしれない。しかしここで神経質になりすぎるのも、逆に恐い。科学で証明できない未知の恐怖感に駆られて、ヒステリーっぽい行動に走るのはやめてもらいたい。
「自分に自分で嘘はつけないって、誰かが言っていたけど本当ね。私は殺しました。自分で」
「やめろよ」
「現実から逃げるの?」
「逃げるつもりはないけど、考えすぎて正確さを失うのはどうかと思うぜ」
「じゃあ訊くけど、あなたはどう思うわけ? 本当は、どうして流産したんだと思う?」
僕には、わからなかった。本当の意味では、妊娠したという実感さえ十分にはわいていなかった。彼女への愛情は苦しいほどあるのだが、それが流産という生体の現実としっかり結びついているかというと、そこまでの実感は自分にはなかった。
「あるいは・・・君が正しいのかもね」とつぶやいてから、あわててつけ加えた。「でもね、もしそうだったとしても、君のせいじゃない。いいかい、これだけははっきり言っとくけど、君のせいじゃないんだ。誰のせいでもない。人はさ、本当はたいして賢くなんかない。失敗からしか学べないんだよ。環境ホルモンだって、人体実験してから世に出るわけじゃない。世に出てきて、具合が悪くなる人がいたら、あとから修正していくんだ。それはさ、しょうがないことなんだよ。全部が全部、100パーセントの安全性を確認してからなんて言ってたら、何も新しいものなんて世に出てこないし。便利なものを考え出して、不具合があったら修正していく。そういうものだよ。だからさ、次にちゃんとすればいいことなんだ。それしかないんだって。そうだろ?」
「そんなの、何もできないのといっしょじゃない!!」
僕を見つめた彼女の目から、ほとばしるように涙があふれて頬を伝った。
彼女の顔が、にじんでいく。
僕も、泣いていた。
「夕飯、どうしようか?」と、海辺から道に戻り、駅までの道すがら、彼女が僕に訊いた。
「疲れたし、何か食べて帰ってもいいよ。でも、こういう日に味気ない外食ってのもなんかな。どうしたい?」
「あなたが決めてよ」
「じゃあ、帰ろう。今日は僕がなにか温かいもの作ってあげるよ」
「ありがとう、それが一番幸せかも」
「どういたしまして」
海を離れると、そこには普通の生活が広がっていた。塾へ行くふうの子供たちの姿、ピアノを練習する音、すき焼きの匂い・・・。
「思うんだけどさ」と僕は言った。「こういうことになると、女性って大変だよね。本当は半分痛みを代わってあげたいけど、そういうわけにもいかないし」
「おなか空いてるときに、じゃあ代わりに食べてあげよう、みたいな話かな」
「やれることはやってあげるから、気にしなさんな」
「いつまでもいつまでも、そんなふうがいいな、私といたしましては」
「その意見、いちおう承っておきます」
「あ」と、彼女は急に足を止めた。「お願いがあるんだけど」
「なに?」
「カレンダー、替えたいんだ。新しいの、どこかに売ってないかな」
「なんで?」
僕は質問したけれど、すぐに察しがついた。
「私、書き込みしちっゃてるのよね。将来のこととか・・・」
「そうか。わかったよ。いいとこ知ってる。独身時代にいつもカレンダーを買っていたところ。僕は広告入りのが好きじゃなくて、よく買いにいってたんだ」
「それ、遠い?」
「うん・・・、正確に言うと、いつも買っていた方はちょっと遠いね。でも、もうひとつ、たまに買っていた方がある。たぶんまあまあの品揃え。二月にしてはある方だと思うよ。電車を途中下車するけど、大丈夫?」
「まだ六時前だし。それに、私は平気だから」
「じゃあ、そこによって、新しいカレンダーを買って、ついでにデパ地下で身体に良さそうな食料とかも買って、それで帰ることにしよう」
「ありがとう。でも、ねえ、なんかあなた、所帯じみてない?」
僕はふざけて「ワタシが悪いんじゃないわよ、やーね、奥さん、もう、うちの旦那ったらね、最低なの」と言った。 微笑んだ彼女は、僕の腰に回した腕に力を入れた。我々は身体をくっつけて駅まで歩いた。二人でいることの意味を、永遠のものにしようと祈り、願いなから。
その夜、彼女が早めに床についてから、僕は燃えるゴミを外に出した。翌朝が燃えるゴミの回収日だったからだ。その半透明のゴミ袋には、若草色のカレンダーと空色のカレンダーが、おそろいのまま、きちんと真ん中で折って入れられていた。
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