初メール (^ ^)


 純は中学の制服のまま、2キロもある長く巨大な橋の真ん中で、欄干にもたれてたたずんでいた。最近はよく来るのだ。家の中にいたくなくて。面倒なことや、くだらないことから距離を置いて、大きな気分で考えごとをしたいときのベストスポット。
 川を越える環状線と一般道が併走していて、車はひっきりなしに駆け抜けていく。うるさいし、揺れる。しかしそんなものは無視して、遠くの富士山の近くに沈む夕日や、雲一つない秋空を映した眼下の水面が、濃いグリーンから乳白色に移ってゆくグラデーションなどを見ていると、心が現実を越えた大きなものにつながっているような気がしてくる。その大きなものが、なんなのか、純にはわからなかった。地球とか宇宙と比べられるほどには大きなものではない気がした。大きいけれど、夢物語ではなくて、リアルななにか。
 たとえばオレンジ色に染まった西の空に、遠く一筋の飛行機雲が現れると、それはずいぶん遠くでの出来事には違いなかったが、そこまでは「アリだ」と感じた。手が届くところではなくても、そこまでは心が届いている気がして。

『距離』は、不思議だ。昨日の純の出来事も、一種の『距離』が問題だった。
 中学からの帰り道、そのさきにクラスメートの詩織が歩いていた。彼女は道を緩やかにくだった先のマンションに住んでいて、純はさらにくだったさきの畑が見える一歩手前のところに家があった。
 方向が同じなのはよく知っていたが、日暮れが早い11月の夕方の、光や色が失われつつある静かな道で、親しく友達のように声をかけるのは抵抗があった。純としてはさっさと通り過ぎて先に行ってしまおうかとも考えたが、それはあまりに不自然だった。とりあえずスピードをゆっくりめにして、距離を保って後ろを歩いていった。アスファルトに響く靴音は、もう充分詩織に聞こえるくらい近くなっていたし、もっと速く歩いて欲しいな、と純は思ったけれど、詩織としても、後ろの足音を意識して逃げるようにスピードを速めるのは、自分が女子であることを意識しすぎかしらと思い、そのままのペースで歩き続けたので、奇妙な距離関係がしばらく続いた。詩織は振り向かなかったが、少し投げやりで引きずるような足音といい、意識して声をかけてこないことといい、クラスメートの純かな、とは察していた。
 この二人の状況を、遠くで見ていたクラスメートがいた。翌日(つまり今日)、昼休みに給食の列に並んでいるときに、大木タケシが純に言ったのだ。
「昨日さぁ、そういえば純って、詩織のあと、つけてなかった?」
「ち、ちがうよ」と純はあわてて首を振った。「帰る方向が一緒なんだよ」
「知ってるけどさ、でも、なんか、怪しかったぞ」
「そっちこそ、なに見てんだよ、まったく」
「いや、べつに見る気はなかったんだけど、すぐに声かけるかと思ったら、そのままだし。なんだかオレも声かけそびれて」
「そっちこそ怪しいじゃん」
 そこに詩織と、友人の薫、そしてクラス担任の遠藤先生が、列に並ぶためにやってきた。
「なになに? 何が怪しいの?」
 薫はくりくりとした目で二人の男子を見た。
「純がさ、昨日・・・」
「ばか、やめろよ」
「いいじゃん」
「絶対ダメ」
「なら、ダメな理由があるのか? はっきりとした理由が?」
「理由なんて、な、ないけど・・・」
「だろ?」
「なによう」と薫がすねた。「面白い話なら私たちも混ぜてよ、かくさないでさー」
「それがさぁ、昨日の帰り、純がさ、詩織のあとつけてたんだよ」
「ばか」と純はタケシの後頭部をはたいた。「そんなことしてないっちゅうの。帰りの方向が同じだけ」
「だったら『やあ』とかって声かければいいじゃん」
「そんなこと言ったってさぁ、詩織だったら、難しいこととか考えている最中で、声なんかかけたら、大切な思考をじゃましちゃうかもしれないだろ」
 薫は詩織を見て「ねえ、難しいこと考えてる?」と聞いた。
「べつに・・・ただ、ビアノのおさらいみたいなことはよく頭の中で・・・」
「そう! そうなんです!」と純は大きく頷いた。「そうだと思ったから、じゃましないように、って。べつにさ、悪気があるわけじゃないんだよ。タケシがさ、いちいち余計なこと言うからいけないわけ。いや、しかし、なんか、この部屋、暑くない?」
「べつに普通だよ」と薫が速攻で応えた。
「そ、そうかなぁ。ち、ちょっと、トイレ、行こうかな」
「まあ、まて、純」
 話を聞いていた遠藤先生が純に声をかけた。
「おまえたちも、もう三年だ。試験のこととかいろいろあるけど、思い出は大切にした方がいいぞ」
「は・・・はい?」
「卒業したらバラバラなんだから、今のうちに時間を大切にした方がいい。帰り道が同じなら、仲良く帰った方がいいに決まってる。詩織もそう思うだろ?」
「えー、そうですかー」
「詩織はイヤなのか?」
「イヤっていうか、なんか、私、三年だからって無理に仲良くするのもちがうかな、って」
 詩織の返事に意識が100パーセントとられていた純だったが、タケシが後ろから「ほら、トレー、とれよ」と突っついたので、あわてて振り返ってトレーをとり、樹脂製の食器を乗せ、当番の生徒にクリームシチューやサラダを乗せてもらった。

 食事が始まると、そういうややこしい話題は忘れて、普通に最近のクラスのことや勉強のことが話題になった。

 その同じ日の放課後に、たまたま純は教室で詩織と二人になった。意味不明の緊張に襲われた純は、自分なりの切実な考えを思い切って伝えた。
「あのさぁ、メルアドとか聞いていい? もし何か緊急事態があったときとか、連絡できた方がいいと思うし。親が交通事故で死にそうなときとか」
「そんなこと、おこらないと思うけど」
「いや、もちろん、おきて欲しいってわけじゃないよ。でも、ほら、万が一ってことがあるかもしれないじゃん」
「そうかな・・・」
「ダメ?」
「べつにダメってわけじゃないけど、私、あまり教えないようにしてるの。返事書くの時間とられるから。ついつい余計なこととかいろいろ考えちゃって」
「わかってる。あくまで緊急時の連絡用だからさ」
「だったらいいけど」
 詩織は鞄から手帳をとり出して、一枚破いてアドレスを書き、純に渡した。
「あまり他の人に教えないでね」
「わかってるって。ありがとう」

 それはあくまで緊急用のアドレスのはずだったが、純は舞い上がってしまい、ダッシュで家に帰った。どうせ帰る方向は同じなのだから詩織と一緒に帰ってきてもよかったはずだが、純としては精神的にダッシュする必要があり、詩織がそれに付き合うとは思えなかったので、これはこれで必然的な成り行きだったのだ。
 純は家で軽く食事をしてから塾に行くのが普通だったが、この日はまったりとした家の食事を口に入れる気がせず、「早めに行って予習する」と言い残し、着替えもせずにすぐに家を飛び出した。
 そして自転車で橋に向かった。この近所で最も他人に干渉されず、見晴らしがいい場所。そこならタケシみたいな友達に観察される心配もない。
 真ん中あたりまで来ると、自転車を降りて、携帯をポケットから取り出し、メールを打った。


 確認のために送ってみます。純


 携帯は「送信中」の画面に変わり、ぷるぷると震えてから、いつもの待ち受け画面に戻った。 

 純には、自分の中で何が起こっているのか、よくわからなかった。自分のまわりで、何が起こっているのかも、よくわからなかった。「詩織が好き」という気持ちに気づいてから一年近く経っていたが、好きという気持ちを意識すればするほど、詩織は遠くの存在になっていく気がした。
 詩織が越してきたのは小学校の終わり頃なので、幼いときからのつきあいというわけではなかったが、それでも小学校から知っている仲だ。そんなに距離を意識するほど遠くに家があるわけでもない。実際のところ、200メートルぐらいしか離れていない。
 車の通行で揺れる巨大な橋の下には、川が存在していた。流れているのかわからない、静止したような大きな川。風もほとんどなく、水面は真っ平らで、上からのぞき込むように見ていると、吸い込まれそうになる。
 空中に浮かんでいるような気分になり、恐ろしくて欄干から離れる。高いところが怖いのは、落ちそうなのが怖いのではなく、落ちること、つまり死が魅力的に感じられるのが怖いのだ、と気づく。
 ここで死んだら、詩織はどう思うだろう。純は胸が痛くなる。死が悲しいからではない。緊急連絡用のアドレスが、本当に緊急事項で使われるからでもない。
 一番つらいのは、詩織がどう思うか、それがわからないことだった。詩織の気持ちがわかれば、きっとそんなにはつらくない。
 すると携帯が振るえて、メールが来たことを伝えた。
 心臓が痛いほど収縮してしまう。
 携帯を開き、ボタンを押して、メールを読む。


 アド登録しました(^ ^) 今、家?


 家じゃないよ、と純はつぶやいた。けれども自分がどこにいるかを、メールで打って伝えることは難しすぎると思った。なぜなら、この瞬間が、あまりにも大きすぎたからだ。自分がつぶされそうなほどに、すべてが素敵すぎた。
 詩織には緊急連絡用と説明したが、これは一種の緊急事態かもしれない。
 そして返信を打った。


 今、橋の上。富士山の横に夕日が沈むとこ。うまく説明できないけど、とてもきれいです。純


 こんなメール、嫌われるかもな、と純は思った。全然、緊急事態じゃないし。嘘をついたような後味の悪さも少し心に残った。しかし今はまだ、幸せな気持ちの方が圧倒的に強かった。
 このままここにいたかったが、塾の時間が迫っていたから、次の返事まで橋の上でまつわけにはいかない。何かを振り切るように、自転車に乗って、ダッシュでまっすぐな広い歩道を走り始めた。
 もちろん純には、詩織なりの事情など、全く想像できなかった。昼間に担任が口にした「卒業したらバラバラ」の一言が心につき刺さり、異性との関係がないまま中学時代が終わるのが少し寂しくなり、身近で善良な男子にメアドを教えてみた、という程度の事情だったとしても。
 一つ確かなことがあった。沸き立つような気分で富士山のシルエットの美しいオレンジ色の空に向かって力をこめてペダルを踏み込んだ瞬間と、詩織から届いた最初のメールに「 (^ ^) 」があったことを、純は一生忘れない。