放射能被曝の日に



 原子炉の爆発という、ありえないことが現実となった。
 僕の主な情報源はインターネットの掲示板だった。テレビは「原子炉をおおう建物の水素爆発であり、原子炉本体が壊れたわけではありません」とか「放射能は観測されていますが、ただちに人体に影響が出るレベルではありません」とくり返していた。危険な現実を軽視しようと躍起になっていたが、ネットでは巨大燃料がすっかりメルトダウンしていることも、放射能の健康被害は数年後から深刻になっていくことも、ちゃんと話題になっていた。

 僕はその日、近くの贅沢な家の家族が、引っ越しをしているシーンに出くわした。よほど急いでいるらしく、荷造りなどほとんどせず、台所のカートなど、テープで留めただけで庭や道に出されていた。駐車場にはジャーガーとマセラティが並んで停まっている家だ。もちろん鉄製の門には警備会社のシールが貼られていたが、この家を見捨てて逃亡しようというのだろうか? いったん道に並べられたカート類は、監視人がいるわけでもなく、「よかったらご自由にお持ちになってください」状態だった。実際に僕は、しげしげと中身を確認してみたら、高価そうなオリーブオイルが使いかけで並んでいて、こういうものは新鮮さが重要なんだから一本一本使い切らないと意味ないのに、と苦笑してしまった。

 そして、知人から電話をもらった。原子炉のある県に友人をもつ人からだった。「もうもたない、今度は容器が逝く」と。人々が逃げ始めているらしい。ネットで確認すると、そこまではっきりした最新情報は見つけられなかったが、北から放射線量が異常に上がっていることは書かれていた。計測機器を持っている人はまだ多くないはずなので、どうもリークっぽい。

 僕は独り者なので、子供を持つ知人に、まずは知らせようと思った。昨年に出産したばかりの若槻さん。もう旦那とも離婚し、練馬の実家で親と暮らしている。
 時間は午後遅く。僕は夜勤明けで戻ってきてから睡眠を取り、午後三時ごろに起き出して行動を始めていた。
 電話では、なるべくていねいに説明したつもりだったが、彼女はきちんと聞いてはくれなかった。
「本当にそんなに深刻なら、テレビが黙ってないでしょ。報道ではそんなことは言ってないし、具体的にどうしろって? とりあえず、うちの子の日課は『公園で遊ぶこと』なの」
「それはよくないよ。せめて、外で遊ばせるのはやめた方がいい」
「いつまで?」
「いつまでか、と聞かれても困るけど、ただ、本当にいったん汚染されてしまったら、セシウムの半減期は20年以上だから、もう公園で遊ぶのはあきらめた方がいいはず」
「いやいや、こっちにも日常ってものがあるんだし。そこまで特別な対応を取るなら、ちゃんと裏付けがないとダメよ。噂だけで右往左往する気はないんだわ、私は。せっかく連絡もらって悪いけど」
 僕は、自分が『精神的にザンネンな人』になってしまったような気持ちになり、『通話終了』の表示をタッチした。 

 まあ、彼女は僕の連れ合いというわけでもないし、いいんですけどね。
 身内という意味では、弟の息子、浩二君が小学生だった。甥・姪と呼ばれる関係としては、僕にとっては彼一人だし、とてもよいやつだし、浩二君には助かってもらいたいと思った。
 もちろん、そんなさなかにもパソコンでの情報収集は続いていたから、いよいよ一両日中にヤバイ空気が飛んできそうなことはほぼ察しがついた。明日になったら、たぶん終わりだろう。
 新幹線の切符をとれるかどうか調べてみると、明日の昼になんとか二枚はとれる状況だった。しかし「残りわずか」と表示されている。これがあれば、弟の嫁さんと息子だけでも逃げられるはずだ。タイミングを逃すと売り切れになりそうだったので、先に新大阪行き二枚の予約を入れてから、弟に連絡した。しかし仕事中で長い電話は無理と断られ、嫁さんも仕事、息子は学校で、連絡をとれず。夜まで待つことになってしまった。
 絶望しかかったところで、夕方に弟から電話が来た。
「職場とかではそんなに話題になってないけど、そんなに深刻なの?」
「ああ。自分もネットの情報がメインだから、不正確かもしれないとは思ってるんだけど、でも、なんといってもホンモノの『放射能』だからね。せめて未来ある子供は逃げた方がいいと思ったわけ。それに、いくつか具体的な情報も入ってて、なにより近所の金持ちが急に引っ越ししていった。荷造りもあまりしないで、ドタバタと。何の仕事をしている人かまではしらないけれど、なにか確定的な情報が入ったんだと思う。そうでなければ、わざわざ『引っ越し』はしないはずだし」
「外国人とかじゃないの? 外国の人は帰国するようにうながされているってこともあるみたいだけど」
「いや、そうじゃない。表札は日本の名字。ジャガーとマセラティが並んで止めてある家で、有名人かなと気になって表札は見たことがあるからまちがいない」
「とりあえず今日は、こっちは残業で遅くなるしかない状況なんだけど」
「予約した新幹線は明日の昼なんだ。明日の朝か、午前中に会えないかな」
「会うくらいはいいと思うけど、それを使うには、うちの二人が仕事や学校を休まなきゃいけないんだよな。むこうに行って、滞在できる場所とかあるの?」
「心当たりはあるけど、今はまだ連絡とれてない。当座はビジネスホテルになるかも」
「むりくりだな」
「命に関わることだから、考えといてくれよ」
「まあ、いちおう考えてはおくよ」

 その夜、はでな爆発ではなかったが、今までで最も深刻な『格納容器破損』という自体が発生した。高圧の容器が大気と同じ圧力に下がったということは、穴が開いて放射能が噴き出した、ということとイコールなのだ。大量の放射性物質が放出された。そのタイミングで、北東の風が吹いていた。

 翌日の空気は、朝からヘンだった。ほとんどの人には、目に見えず、匂いもなく、なにも感じられないままに、最悪の汚染が襲ってきた。
 こんなことを書くと、さらにザンネンな人のようだが、僕自身は放射能を少しは身体で実感した。今までの人生で感じたことのないタイプの妙なイライラや焦燥感。腕や顔など、露出している部分の痒みも感じた。周囲の人々はいつも通りに生活しているから、ただの勘違いかと思いそうになるが、テレビが報じていない事実について、僕はネットでかなり把握している。今が『有事』であることだけは、まちがいない。原子炉の事故は、幻想なんかじゃない。
 
 とても不思議な状況だった。普通は、逆だと思う。ネット情報とか、信仰宗教とか、一般社会と異なる情報を信じて強い行動を取ると、その人は精神の病気のようにあつかわれる。たいがいは、社会一般の方が冷静でまっとうなものだ。
 しかし、逆に、社会一般の方がまちがっているとしたら?
 それはまるで第二次世界大戦時の日本のようではないか。我々の優秀な日本軍はまだまだいけると、国が発表するウソの戦果を信じて、楽観していた国民たち。実際は、空母を失い、航空戦力を失い、石油まで枯渇して、あとは人間が航空機で体当たりして敵を破壊するしかないというような状況に陥っていたにもかかわらず。もちろん、中には現実を察し、戦争をやめるべきだと主張した人たちもいたはずだが、そんな人々は「日本人にあらず」と、頭がおかしいかのようにあつかわれた。
 あの当時は、まだマスコミが発達していなかった。報道といってもラジオ中心で、テレビもない時代だった。テレビや新聞が発達した今になって、同じようなことが起きるとは考えもしなかったが、実際に自分が直面しているのは、かつての日本と同じことだった。
 
 誰だったか忘れたが、戦争で空襲に遭遇した人が、爆撃を『荘厳だ』と表現していた。
 僕は、放射能飛来の朝、『奇妙だ』と感じた。
 日本は良識ある文明国と思っていたが、そんなものはファンタジーだったらしい。

 僕は朝から電車に乗り、弟の元にむかった。駅から早足で歩き、丘を越えたところで、下の交差点に自転車に乗る弟が見えた。いや、正確には自転車を降りている弟だった。ちょうど交通事故に遭ったらしい。それで駅から電話をかけても出られなかったのか。
 僕が丘を駆け下りると、立ち上がった弟は「大丈夫だから」と、少し顔をしかめながら自転車を起こした。とりあえず僕が携帯から警察に連絡しようとすると、加害者であるオープンカーがバックしてきた。緑の外装と、イエローのレザーシート。男と女が二人ずつ。派手な化粧だった。運転手の男が
「これ、やるから」
 と、一万円札を差し出してきた。 
「じゃあな」
 オープンカーは加速し、女たちの笑い声が水星の尾のように耳に残った。
「警察、どうする?」
 と僕が聞くと、弟は首を振った。
「大した怪我じゃないよ。むしろ、一万円、儲けた」
「なら、いいけど」
「新幹線さ、やっば、今は無理だから」
「え?」
 僕は一瞬、目の前が真っ白になったような気がした。
「気を使ってくれてありがとう、とは言っておくよ。うちはいいから、アニキの方で、他に使う人がいたら使ってくれたら助かる」
「どうして?」
「本人たちがそうしたいって言うのに、無理強いはできないし」
「ちゃんと事実を知ってるのかよ」
「それは、お互い様だと思うよ。今はたぶん、客観的で正確な事実なんて、誰も把握していない。だから、いろいろな情報を、自分たちなりに選択して、判断するしかないんだよ」
「で、行かない、と判断したわけだな?」
「そう。わるいね」
 僕は、なんだか、笑いがこみ上げてきた。
「いいんだよ。僕が考えすぎてるだけかもしれないしね。ていうか、本当に、そうであったら幸せだと思うよ。そう願いたいところだよ。でも、今日の空気、何かヘンだろ?」
「なにが?」
「今日の、この、妙にイライラする、ヘンな空気」
「いや。いつもと同じだけど」


 僕は弟と別れると、しばらく歩いてから、道に横になった。もう全てがどうでもいいという気持ちになってしまって。道のまん中で、大の字に空を仰いで、目をつぶった。
 クラクションが聞こえたけれど、そんなことは関係ない。
 車から人が降りてきて、声をかけてきたけれど、応えるつもりはない。
 すると、携帯でどこかに連絡を始めたらしい。
 まもなく、救急車がやってきた。
 救急隊員たちは三人。ベテランっぽいおじさんと、背の高い若者と、見習い風の女の子。
 僕は、ぼーっとした風を装い、目と口を半開きにして、全ての質問を無言のまま受け流した。
 体温や血圧が測られて、病院への搬送連絡が始まり、10分ほど時間が経ってから「病院が決まりました、行きましょう」と真面目な若い男性隊員が優しく僕に声をかけてくれた。
 救急車の中は意外と狭い。女の子の隊員がすぐそばに座っているのが、なんだか気恥ずかしい。救急搬送されているのに、恥ずかしがっている場合じゃないけど。道のまん中で寝ておいて、今さら恥ずかしがるもないもんだけど。
 病院に着くと、ストレッチャーにのせられたまま、救急診察室に運ばれ、すぐに看護師が再度血圧を測りに来た。看護師と救急隊員が情報を受け渡しているあいだに、若い医師がやってきて「どうされました?」と僕に問う。
 放射能が来てるんですよ、と僕は言いたくなった。それは、想像してみると、まるでホンモノの頭のおかしな人の発言のようで、笑いが発作的にこみ上げてきた。
 僕が質問に答えず、笑いをかみ殺していると、医師が「まずCTで頭の検査をしましょう」と言ったから、僕は「金は払いませんよ」と言った。
「はあ?」
「別にこちらが希望した検査ではないので」
「しゃべれるの?」
 僕は肩をすくめた。
「記憶を失ったとかはある?」
「べつに」
「じゃあなんで救急車で来たの?」
「通行人の人が呼んだんじゃないでしょうか。自分じゃない」
「なんだ、君、全然普通なのか?」
「普通じゃないのは、僕ではなく、日本の社会の方だと思いますけど」
「ああ、そう。じゃあ、このまま帰ろうか」
「ですね」
 医師が考えていることがわかる。こんなバカには、腹を立てるだけムダだ、と。エネルギーの浪費はしないで、さっさと金だけ置いて帰ってもらおう、と。
 看護師の表情は、あきらかに天使から悪魔に変わり、「窓口で精算して帰ってください」と冷たく言い放った。
 僕は立ち上がり、礼も言わずに、玄関にむかうと、残っていた救急隊の人たちが僕の腕をとってひきとめに来た。
「看護師さんが、会計があるから、って言ってるじゃないですか」
「いや、なにもしてもらってないんで。それに、お金ないし。新幹線の予約チケットならもっていますが、いります?」
「そんなことはいいから、頼みますよ、世の中のルールにちゃんとしたがってください」
 ああ、そうか。世の中のルールに従うことを求められていたのか。うん、それは、大発見かもしれない。僕はてっきり、ルールを守っていないのは、世の中の方だと思っていたよ。いや、世の中の方がルールを守っていないのはたしかなのだけれど、世の中と、僕とでは、世の中の方がはるかにえらいのだから、僕なんかは、たとえわかっていても、それに従わなくちゃいけないんだ。身のほどを知る、ってことかな。
「僕は、いろいろ悩んでますけど、身体はまだ平気なので。頼んでもいないのに、勝手に連れてこられてしまって、金まで要求されても困るんですよね」
 すると、受付の方から、事務の課長っぽい人がロビーに出てきて「大丈夫ですから」と場を取りもった。
「とくにCTなども撮っていないし、お薬も出さずに、診察だけということでしたら、救急には行政から補助が入るので、さほど病院の持ち出しにはならないはずなんです。ですから、もし、いろいろなことを拒否なさるなら、それはそれで御意志を尊重しますので、どうぞ、今日はこのままお帰り下さい」
 僕は、はじめて、彼に頭を下げた。
 税金というのは、こういうくだらないことに使われているらしい、と知ったら、頭を下げるしかないと感じたのだ。
 玄関を出る前に、トイレに寄った。特にしたいわけではなかったが、これからどうなるかわからないので、しておいた方がいいと考えたのだ。
 トイレから出て、ロビーを通ると、テレビではまた「放射能はただちには影響ありませんので、冷静に行動してください」と和やかに説明していた。そして何度もくり返される朗らかな人権擁護の政府CM。
 先ほどの事務の人が「お帰りは大丈夫ですか? 駅までの案内をお渡ししましょうか?」と聞いてきたので、僕は「ありがとうございます、でも、いらないです」と断った。
 そして代わりに、玄関の横にあったマスクの自動販売機に百円を投じて買った。ポトンと出てきた紙箱にマスクが二つ。その場で開け、箱はゴミ箱に捨てて、一つはズボンのポケットに入れて、一つを顔につけた。
 マスクから感じる消毒薬の匂いと、春の昼の危うげな光線。
 外に出て見上げると、曇った空には、灰色の部分と、白い部分と、青い部分があった。
 オーケー。
 みんな被曝しちゃえ。




(C)NaokiHayashi2012