
しんと静かな十月の山道を一人で歩いていたときのことだ。日が陰り、早くも眼下に街
の灯が見おろせた。冷たい澄んだ風が木々の頭をかすめていく。僕は落ち葉を踏みしめな
がら、小川のそばの目的地にむかって急いでいた。その時、急にくっきりと古い記憶を思
い出した。とても古い記憶だ。やわらかい匂いのような、あこがれを伴った記憶。
そこには穂先をたれた稲がどこまでも見渡す限り続いていた。風も、音もない夕暮れの
あぜ道を、僕はがたごとと自転車に乗って、中学校から帰る途中だった。道の先には一人
でてくてくと歩いているNがいた。紺色のスカートと、紺色のベストを着ていたが、それ
らは肩まで伸びた髪とつながって、細長い黒い塊になっていた。両腕の白いシャツが黒い
塊と対照的だった。光が失われつつあるあぜ道で黒と白の関係は、まるで光の残量をはか
るために作られた試験紙かなにかのようだった。
僕は緊張して声もかけずに通り過ぎそうになったが、こちらの緊張が伝わったせいか、
彼女はちらっとふりむいて驚いたような表情をした。その表情をはっきりと目にしたわけ
ではないのだけれど、一瞬の雰囲気のようなものは心に深くくい込んできた。悲しい何か
だった。石を落としても音が返ってこない井戸のように悲しい何かだった。けれどもそれ
は錯覚かと思われるほどの一瞬のことで、後ろから近づいたのが僕だとわかると、彼女は
いつものように微笑んで、あとは二人とも自転車を降りて、中間試験のことや、気に入ら
ない教師のことなどを話題にして、いっしょにあぜ道を歩いた。そのうち上級生の一団が
自転車に乗ってやって来て、彼女と僕は水の乾いたタンボに半ば下りてやり過ごそうとし
た。小柄で色の黒い男がじろじろとNを見るので緊張したが、幸い彼らは軽い冷やかし文
句を残しただけで、のったりとしたスピードで通り過ぎてくれた。
あの夕方の、Nが最初に驚いたようにふり返った一瞬の深くて悲しい何かを、僕は日々
の生活に追いまくられ、ながいあいだ自分の思考から追い出していた。ただの錯覚と考え
気にせずに生きることにわずかな疑問さえ感じていなかった。なぜなら僕は中学生だった
あの頃から、ずっと遠くを見ていたし、遠くを見ることこそが必要なことだと考えていた
からだ。
Nの死に気づいたとき、自分でもなにを失ったのかよくわからなかった。失ったのでは
なく、取り残されたような気がした。僕は彼女の気持ちが理解できた。なぜならある意味
では、二人の違いというものは、そんなに大きなものではなかったから。しかし視点を変
えれば彼女ははるかに先を突き進んでいた。追いつくにはたくさんの時間が必要だった。
僕はガサガサと鳴る落ち葉を踏みしめながら、誰もいない山道を急ぐ。やがて風が斜面
を走り、モノクロームのコントラストに変わろうとしている木立のざわめきに目を向ける
と、意外なほど確かなNの息づかいが伝わってきて、おもわず僕は・・・わかっているから
・・・と伝えたくなる。振り返ることがどんなに無意味であっても、もう大丈夫だからと。
Nは無表情のまま、さらさらと流れるようなざわめきだけを残して消えていく。何かを
理解したわけでもなく、何かを受け取ったわけでもない。一瞬の表情の記憶だけを、僕の
心に刻み込んで。決して抱きしめられない風という存在に気づいて僕が強く唇をかみしめ
たとき、ただそれを感じることの大切さだけが心の内に光り、ふるえていた。