「本当は、『根室の海』と『花壇』がキーワードだった。自分の中では」
「どういう関係があるの?」
 由美は高校時代と同じように表情をセーブし、何かのいたずらを隠しているかのような小悪魔的な笑みを浮かべた。
「わからないから調べたよ」
「どうやって?」
「図書館とか、インターネットで」
「沢野さんらしい」
「そうかな」
 僕は頭をうしろのガラス窓にもたれて、中吊り広告のたくさんある車内をぼんやりと見上げた。高校時代に片思いした由美と20年ぶりにばったりと電車の中で会ったという、この劇的な状況にもかかわらず、目の前に並んでいる広告はいつもと変わりがない。特に目立つ週刊誌の広告は、太い活字で政治や芸能人のスキャンダルを主張している。そういう現実の中にいることが、僕はよく理解できなかった。水と油の中間点にいるような。ワープの途中の宇宙戦艦ヤマトの中にいるような。そして彼女は、昔と同じ声で、同じように「沢野さんらしい」と言う。調べものや難しい議論が似合いそうな沢野康平クン。実際の僕は、そんなに頭がいいわけでも、テストの点がいいわけでもないのに。勉強よりも、むしろ音楽が好きなのに。
「子供、大きいんだったよね。男の子だっけ?」
 と僕は由美に質問をした。
「高校生。すでに子供って感じじゃない。二人とも」
「そうか。やっぱ高校生なら僕みたいなこと考えてるのかな」
「どんなこと?」
 僕は苦笑して「べつにエッチなこととは限らないけど」と言った。
「でも、そういうこと、考えるよね。ホント、そうだと思うわ」
「ずいぶんしみじみ言うね」
「だって、そういうもんでしょ?」
 由美は清楚な顔立ちに、服の上からでもはっきりわかる豊かな胸と、スラリとした足が素敵な、誰もが性的魅力を感じないではいられない美少女だった。皆がうらやむことだったが、本人としては苦労も多かったろう。テストの100点満点みたいなかもしれない。べつに努力したから100点が取れたわけではなく、たまたまテストが簡単で、ミスがなかっただけで、それ以上でもそれ以下でもないのに、周囲の目はそのようにクールには受け取ってくれず、「すごい」とか「さすが」とか、こちらが望んでもいないのに神のように尊敬されたり。
「由美さんは、どこまで帰るの?」
「大宮」
「僕は川口までだけど、せっかくだから大宮までいっしょに行こうかな」
「悪いんだけど、家には連絡しちゃったから、まっすぐ帰らなきゃならないの。子供が熱出してて」
「いいよ」と僕は少しあせって首を振る。「そんなに多くを期待するわけじゃないけど、でも、なんて言うか、話したいことはあるんだ」
 短いような、長いような、不思議な時間。電車がなめらかに減速し、停車して開いたドアの外には、日曜の夜の閑散とした西日暮里のホームがあった。


 高校時代に由美とは二回だけデートしたことがある。とはいえ、一回は偶然のことだった。土曜の午後に街の本屋で会って、緊張した僕は会釈するのが精一杯だったが、ユミは「弟がギターやりたいらしいんだけど、沢野さん、詳しくない?」と話しかけてきたのだ。願ってもない展開で、我々は学生服のまま楽器店に行って、ギターを試奏しながらあれこれ説明した。彼女は目を輝かせて話を聞いてくれたけれど、基本的に「弟のため」というスタンスは変わらなかった。彼女自身がギターを始めようと思ってくれたら最高だったけれど、全くそうはならなかった。彼女には陸上部という、すでに打ち込んでいるものがあったからだ。
 そのあと僕は彼女に手紙を書いた。今となっては思い出したくもない恥ずかしい自己中心的な内容だったと思うけれど、由美はそんな僕のわがままをなだめるかのように、丁寧な「ことわり」の返事を書いてくれた。薄い黄色のレターセットで、いつも魅力的な彼女が見かけだけでなく内面も素晴らしいことを伝えてくれた手紙だった。本当に恥ずかしい話だけれど、そのころの僕は女の人を好きになって「好きです」と手紙に書くことや、その手紙に「あなたは私を誤解していると思います」と定番のことわり返事が来ることが、実際にどういうことなのか、よく理解していなかった。生理的に『好き』という現実は確かにあった。由美のことを思うと胸が苦しくなり、食欲がなくなる。肯定的でない返事が来たりすると、本当に食べ物を見ただけで気分が悪くなる。食べるという行為の日常っぽさに、激しい嫌悪感を感じて。『好き』という現実も、僕が思う由美も、そういうくだらない日常をはるかに超えている、と、そう感じていた。
 何度か手紙のやり取りをしたあとで、一回だけ二人でコンサートに行った。クラシックのコンサートだ。高校時代の僕は一人でクラシック音楽にはまっていたから、由美を巻き込みたいという強い願望があった。彼女がそれを望んでいるかどうかはほとんど視野になかったし、スポーツにうちこむ彼女としてはクラシックなんて眠くなるだけだったかもしれない。11月の日曜日に、駅の近くの広場で待ち合わせて、コンサートホールに入り、帰りの電車に乗って、彼女の降りる駅で別れて。その間、あまり楽しく会話が弾んだわけではない。楽しむよりも、僕は終始緊張して、音楽のことばかり話していた気がする。僕はチャイコフスキーやベートーベンのことをどう説明するかで頭がいっぱいだった。美しい由美と二人でいると、そういうオタク的な話題に逃げ込むしかなかった。
 ただ、あのとき、彼女も自分自身のことを少し話したのだ。家電メーカーに勤めている親のことや、いつも喧嘩になる弟のことなど。どんな話だったのかはもう憶えていない・・・
 ところがずっと後になって、それは大学を卒業し、就職後につきあった恋人と別れて、なんとなく自分の人生を振り返って考えているときに、急に思い出したことがあった。由美はあのデートで、父親の実家の根室の海のことや、家庭菜園が好きな母親のことを語っていたのだ。そして僕の心の中に、由美の月光のように澄んだ声がリアルに響き、『根室の海』『花壇』という二つの言葉が残った。すでに高校を卒業して10年近く経っていたけれど、急にそんなことを思い出して、いてもたってもいられなくなった。実は友達から『美少女・由美』が、早々に結婚して子供までできてしまったという噂は聞いていた。だから今さらつきあいたいという邪心が浮かんだわけではない。ただ、あの日に聞き逃したことを、もう一度きちんと確認しておきたいという強い衝動にかられた。

 10年のタイムラグを背負ったストーカー。憶測も含んでいるが、僕が調べた由美の背景は、およそこういうものだった・・・
 彼女の父親は北海道の出身。あちこち移動したかもしれないが、根室が長かったらしい。僕は北海道に行く用があったとき、根室まで足を運んでみた。地形の関係で釧路からの列車が回り込んで到着するので、駅に着くと方向感覚がおかしくなった。にぎやかな街ではなかったが、なんとなく小ぎれいで、北の町のわりにはソフトな印象が伝わってきた。僕はもちろん彼女の名字の家があるかどうか、駅の電話帳で探してみた。20軒ほどあった。多くもなく、少なくもない。中には本当の親戚もあったかもしれないが、そこまで訪ねて行くことはしなかった。
 由美の父親は1960年頃に東京に出て来ている。64年の東京オリンピックを前に、急速に交通網が整備されていった時代だ。東海道新幹線や首都高速もこのころ造られた。地方から都心へ集団就職が行われ、企業の人材不足をまかなった。人々は郊外に『マイホーム』を持つのが夢だった。それは改めて考えてみると、終戦から20年しか経っていない時代の話なのだ。20年という時間をどうとらえるかはいろいろだと思うが、現在の僕にとっての20年前は、つい昨日のことのように思える。由美のことを思い、クラシック音楽で涙していた日々。物価だってさほど変わってはいない。そのころ100円だった缶ジュースが120円になっている程度だ。根室から東京にやって来た由美の父親にとって、戦後20年という時間はどう感じられただろう。今の僕のようにうだうだと過去を振り返ったりせず、新しい時代を求めて邁進することしか考えていなかったかもしれない。物を豊かにして、幸せになること。家庭を持って、子供を産み育てること。
 僕は3月の根室の海岸に一人でたたずみ、はぐれ者のように流れついた氷のかたまりを眺めていると、なんだか強烈に悲しくなった。人のいない根室の海も悲しいし、美しい娘を育てても去られてしまう父親も悲しいし、好きだった人とろくに話もできなかった自分も悲しい。けれども、泣きはしなかった。僕は海風の寒さに耐えられなくなると、誰もいない緩やかな坂道を上がって、駅に近い喫茶店に入った。持っていた村上春樹を読んで、タバコを吸った。すると悲しい現実が『おしゃれな悲しさ』に変容し、それはそれで良いこと、あるいは美しいことのように感じられた。むしろ心の中は充実していたと言えるかもしれない。由美は確かに僕の中で特別な存在だった。しかしその背景である『高度成長の落とし子』的な現実を知ってしまうと、人生の全てをかけずに距離を持って想いだけを大切にしてきた自分の恋の経過は間違ってはいないし、『幸運だった』とさえ思われた。悲しいけど、幸せだったのだ。自分なりに。
 もちろんそういう自己満足を得るためだけに、由美の背景を探り続けたわけではない。それは動機ではなく、むしろ結果だ。それも中間報告的な結果だ。本当のところは、僕はむしろ僕自身のルーツを知りたかったのかもしれない。ただ、それが自分の親の経緯では、家庭的な感情や記憶が入りすぎて、距離を保って時代をとらえられないから、あえて好きな人を代わりにして。
 
 もう一つのワードである『花壇』については、いろいろ考えたけれど、どうしてもそれらしい答えがみつからなかった。由美の家のことに関係しているのは確かだったが、どうしてそれが10年も過ぎてから思い出されたのか、どんな意味があったのか、やはり僕にはわからなかった。何もしなかったわけではない。高校時代の由美が住んでいた家にも、長距離サイクリングがてら行ってみた。一階建てのプレハブ住宅には小さな庭があり、花壇も作ろうと思えば作れたかもしれない。しかし新しい住人はそんなことには興味がないらしく、無造作に雑草が茂っているだけだった。あるいは、こういう小さな家ではなく、ちゃんと『花壇』のある家に住みたい、という願望を語ったのかもしれない。何かの形容詞とセットで思い出せればよかった。『新しい花壇』とか『理想の花壇』とか。しかし僕の中の由美の声は、そういうふうにはなっていなかった。まるで食堂のテーブルに置かれた毛糸の帽子のように、ただ『花壇』という言葉がぽつんとあるだけだった。そこには成就されなかった不完全な未来が、音もなくひっそりと漂っている。高校生だった由美が、はたしてどんな悲しみを抱えていたのかは、僕にはわからない。彼女の手紙はいつも丁寧で、全体的に前向きな内容だった。「幸せって、なんだろう。よくわからない。簡単なこととは思えないけど、でも、幸せになりたいって、私も思います」 人と接するときの由美はシニカルで小悪魔的だったけれど、その心の内は、平凡なくらいピュアだったのかもしれない。それこそが技術系の専門学校を出てすぐに結婚してしまった彼女の、スピーディな生き方の背景と考えると、なるほどスジが通っているような気もしないではない。すぐに枯れてしまう花束ではなく、きちんと土に植えられている花。遊びの恋愛ではなく、結婚をすること。もちろんあの魅力的な由美が花束を求めれば、競って届けようとする男はたくさんいただろう。しかしそういうものを彼女は求めなかった。それが由美のこだわりであり、頑固さだったのかもしれない。



 キーワード、なんて大げさに言ってしまったけれど、僕が調べて知ったことを由美に全て語るのは、あまりに変なことだと思われた。しかし僕としては20年来の疑問を解決しておきたい。どうしたらいいか悩んだけれど、とりあえず根室のことから口にしてみた。
「あのさ、根室の海って、行ったことある?」
「ないけど」
「あっちに親戚とかいるって言ってなかった?」
「言ってないと思う。だって、いないもの」
「え?」
 と僕は思わす由美を見て目をしょぼしょぼさせた。
「旅行で道東は行ったことがあるけど、根室まで行ったことないし、親戚なんか全然いないわよ。どうして?」
 どうして? とはこっちが聞きたい。何かを勘違いしていたらしい。額から汗がにじんでしまう。
「じゃあさ、花壇って、好き?」
「嫌いじゃないけど、どうして?」
「前、コンサート行ったとき、花壇のこと、話してなかったっけ」
「コンサート? わからないけど、そんな昔のことまでおぼえてない、ごめんなさい」
「いや、べつに由美さんに謝ってもらうことじゃないけど、なんか、ちょっと、どうしたんだろうね」
「ん?」
「ここはどこ?」
「京浜東北線の中ですけど」
「そ、そうだよね」
「大丈夫?」
「うん・・・なんか、不思議な感じ」
「沢野さんはどうしてるの?」
「僕?」
「仕事とか。結婚は、した?」
「一人だけど。でも、本は出したよ」
「本?」
「売れてないけど」
「小説?」
「いちおう」
「そうか、・・・私、作家の妻になってたかもしれないのね」
「作家の妻なんて、大していいことないと思う」
「そうかな」
「本とか、読む?」
 僕の原点的問いに、由美は正直に首を振る。
「読んでない。そうね、ホント、本なんて全然読まない」
「だろ。そんなもんだよ」
「でも、沢野さんの本だったら読みたいな。探してみる。本屋さんで注文とかできるの?」
「ああ、できる」
「すごいね。頑張って売れる本も書いてよね」
 すごくないよ、と僕は言いたかった。そもそも初恋の相手だった由美と別々の人生を送っている自分が、どうして売れる本なんか書く必要があるのだろう。そんなの虚しくなるだけではないか。・・・こんな考え方をするのは、シニカルな由美の反応が移っただけ、と言えなくもなかったけど。
「ひとつ、まじめに聞いていい?」
 と、僕は由美を見つめた。
「もう若くないし、なんでもどうぞ」
「ユミさんの親って、根室の出身だって聞いたことがあるんだけど、違う?」
「違うよ。父は千葉だし、母は埼玉。地元人間なんです。ごめんなさい」
 僕の中で何かが音を立てて崩れた。それはもちろん由美のせいではなかったけれど、いっそのこと由美に八つ当たりしたくなるほど、あっけなくすべてが崩れてしまった。



「ねえ」と、少し心配そうな声で由美が言った。「根室のこと、何か関係あるの?」
「いや、べつになんでもないから」
 僕は走り続ける電車の中で、正面の窓の奥に広がる夜景を見ていた。そこには雄大な原野も、流氷の海もない。あまりにもありふれた東京都北区の風景だった。やがて列車は荒川を渡る長い橋にさしかり、目の前にぽっかりと黒い空間が広がった。華麗なイルミネーションなど一つもない荒川の夜の風景を、由美と二人で眺めるなんて、こんなことをイメージしたことは過去に一度もなかった。
「沢野さんって、考えすぎる人よね」
「そうかもしれない。わかってるんだけど、仕方ないよ」
「だから、本とか書いちゃうんだろうね」
「ビョウキみたいなもんだ」
 由美は「ふふふ」と笑って、手を、僕の手に重ねた。僕はビクッとして視線を落とし、脚の上で、僕の手に重ねられた、彼女の手を見た。若々しく張りがあるというわけではない。歳相応の手だった。冷たくもないし、熱くもない。女性的なソフトな感じもあまりしないし、かといってぎすぎすした手というわけでもない。あまりにも普通の手だった。それは『僕にとって』普通の手だった。初めての由美とのふれあいは、まるで実家の晩御飯を食べているようなありきたりなもの。その意外さに、戸惑いすらおぼえた。もっとずっと遠くの存在と思っていたのだ。本当はこんなに近かったのに。違和感のない由美の手から、由美の自然な優しさが伝わってきた。すると発作的に、かつての僕が由美といるときの緊張をどうしようもできなかったように、急に押さえがたい涙が目に満ちてきた。気づかれないようにまばたきしたけれど、由美は気がついたようだった。そして言った。
「あまり考えすぎない方が、いいよ」
 由美は反対の手も伸ばし、両手で僕の手を包んだ。
「うちあけるとね、私、ちょうどあのとき、交換日記してたんだよ。恥ずかしい話だけど。高一のときに告白されて。嫌いじゃなかったから、とりあえず。高三になって、受験とかで忙しくて、それも途絶えて、それからは一度も会ってない。まわりには『つきあってる』って言ってたけど、べつに手もつないだことなかった。ヘンな話よ、今から思えば。むこうも、私のこと、ややこしいやつとわかったら、ひいてたのかも。でも、そんなことがあったからね。ざ・ん・ね・ん・で・し・た」
「え?」
 気がつくと列車は僕が利用している川口駅を発車していた。想定の範囲内のことで、まあいいや、と思った。
「でも、きっと、つきあってもうまくいかなかったよね。私、本、読むの、苦手だし」
 由美は早口でサラッと言ったけれど、僕はなんと応えたらいいかわからなくて、駅ひとつぶん黙ってしまった。そしてやっと口を開いた。
「僕も本を読むのはあまり好きじゃないけどな」
「じゃあ、なんで小説を書くの?」
「書くのは、好きなんだ」
「書くのだけ?」
「わりと、そう」
「ま、好きなことがあるって、いいことなんだろうね」
「由美さんは?」
「家族・・・と、はっきり言いたいとこだけど」
「幸せ?」
「さあね、わからない」
「不幸せ?」
「そんなんじゃないけど」
 僕は再びなんと言ったらいいかわからなくなってしまった。
「私の手、もう、おばさんみたいだと思わない?」
「そんなことない」
「でも、それなりでしょ? そんなもんよ」
 南浦和まで来ると、電車の乗り換えと重なったからか、ずいぶん多くの客が乗ってきた。由美は「ほら、もうちょっと、そっち行って」と僕を横から押した。由美の横にはすでに一人分のスペースがあったけれど、いたずらっぽい笑みを見せてグイグイと僕を押してくる。「もっともっと」と尻や肩を寄せて。僕は混乱したけれど、由美はそんな僕の混乱を楽しんでいるようだった。小悪魔的な笑みは昔のまま。由美の横にグレーのスーツを着た大柄の女性が腰掛けると、やっと由美は姿勢を正した。そして僕から手を離した。



 昔を確認するような会話がぼそぼそと続いた。本当は高校生の二人の息子のことを話題にすれば、由美も話は尽きなかったかもしれない。けれど僕はそういう話題にすることをこの場にふさわしいとは思わなかったし、由美も自分から家庭生活のことを積極的に口にすることはなかった。学生時代の共通する友人のことや、あまり上手くはならなかった弟のギターのことを話してしまうと、もうあまり話題はなかった。『話すこと』を考えながらぎこちなく会話することが、二人の間に昔と同じような心の距離を作っていた。僕も小説を書く経験から、男女の関係の仕組みについては頭では理解できたけれど、実際にはどうしようもなかった。電車が停車と発車を繰り返し、終点の大宮に近づいていくと、自分たちが徐々に高校生に戻っていくかのような錯覚に襲われた。
 電車が大宮駅に近づき減速を始めた。そこは高校時代に僕も由美も利用していた駅だった。僕は気持ちを込めて言った。
「会えてよかったよ」
 由美は意外そうに目を丸くした。会えたことがよかったか悪かったかということについては、思いが至っていなかったようだった。
「また川口まで戻るんでしょ?」
「そうだけど」
「頑張ってください」
「べつに頑張らないけど」
「ていうか、いろいろ考えるんでしょ?」
「そりゃあ、まあ、ね」
「私は考えすぎない方がいいと思うけど。でも、沢野さんは沢野さんだから、仕方ないね」
「うん・・・」
「頑張っていい本書いて」
「ああ・・・」
 そこにあったのは、短いような、長いような、不思議な時間。電車が最後の減速を終え、停車して、ドアが開く。
「じゃ、私はこれで」
 由美と目が合っても、僕には何もできない。せめて『語る』ことはできると予想していたが、終わってみると、それすら何もできなかった。最後にもう一度だけ、あのキーワードについて訊ねてみたかった。なぜ嘘をついてまで否定するのか・・・しかしそこまでしつこいと、いくら由美でも腹を立てるだろう。僕の思い違いということに、しておくべきなのだ。自分の中のなつかしい『絶望』と『距離』を、彼女には隠し、笑みを浮かべて頷く。
「さようなら」
 由美は20年という時間をささっと包みこむように立ち上がり、ここではない何かを見ているような眼差しのまま、澄んだ笑みを浮かべて、元陸上選手らしいきびきびとした動作で電車を降りていった。



 電車は大宮駅を折り返して再び都内に向かう。加速していくモーター音の響く人のまばらな電車の中で、僕は一人でシートに腰掛けて由美の手の感触を思い出していると、だんだん「本当にわかってないのは、僕の方なのかもしれない」と思えてきた。考えすぎないことの大切さについて。どんなに考えてみても、やはり現実の手の温もりは超えられない。
 考えるよりも、手を重ねること。
 ざ・ん・ね・ん・で・し・た。
 全てが少しずつ悲しい。
 あの瞬間、僕の目に涙があふれてきたのは、悲しいからではなかった。『平凡』だったからだ。手から伝わってくる由美の存在は、自然で、活き活きした人のまま。だから、すごくよかった。由美でよかった、と思った。

 30分ほど、電車の中で昔の片思いの相手といっしょになって、別れるときに無理して「さようなら」とクールに言ってしまったけれど、もしも再び由美と出会うことがあったら、今度は僕が君の手を包んで「ありがとう」と言ってあげる。





(2005 12月/2008 4月改)