甘味趣味



 夏のファミレスでパフェを食べているワイシャツ姿の二人の男。パフェグラスに盛りつけられたチョコとイチゴの二つのパフェたちも、まさかこんなテーブルに運ばれてくるとは思っていなかっただろう。
 しかし30前後のスマートな男二人が仲良くパフェを食べているからといって、怪しいデートというわけではない。二人が関わった顧客のトラブルが解決したことに対する、出先での『ごほうび』なのだった。甘い物好きの柳川喜楽(落語家みたいだが本名)が、帰社前に午後のファミレスへの入店を希望し、もう一人の江田順一がその『甘味趣味』につきあっているわけだ。
「やっぱり夏はパフェだね、最高だよ」
 柳川喜楽はその名前通り、喜びいっばいの笑みを浮かべてロングスプーンを動かしていく。
「いや、そんな方程式どこにもないし。正直、オレはタイカレーの方がおいしそうに見える」
 いきなり口の中が甘く染まった順一は、二つ離れたテーブルに運ばれてきた夏らしい辛口カレーの皿に、せん望の流し目を送った。テーブルの脇に立てられたメニューには『夏のフェア』の告知シートがはさまれており、そこに大きく鮮やかに印刷されているのが、このフェアの主役、辛さマックスのタイカレーなのだった。
「僕たちだって、昼はちゃんと食べたじゃないか。それに、タイカレーって、普通のカレーにも増してピリピリ来るやつだろ?」
「そうだぜ。緑の唐辛子ペーストはマジすごい。自分で作ったら、翌日、肛門がピリピリした。ココナッツミルクを入れるとだいぶやわらぐけどな」
「いずれにしたって、僕はごめんだよ。ごめん過ぎる。よく『夏はカレー』とかふざけたことを言う人がいるが、本気で信じられない。なんで夏の暑いときに、わざわざ汗をかくようなものを食べなきゃいけないんだ? 勘弁してよ。夏は、スイカとか、かき氷とか、アイスクリームのたっぷりつまったパフェにきまってるだろ」
「いや。あまり、きまってはいないと思う」
「ていうか、順一だって、甘いものが嫌いというわけじゃなかったはずだが?」
「そうだけど、しかし、少しで十分なんだよ。こんなにドーンと『甘いものをいろいろ詰め合わせてみました』みたいなもんじゃなくても」
「僕には理解できないよ、その感覚。好きなものは多い方が嬉しいに決まってるじゃないか。それにしてもさ、恐ろしいことに、世の中には女子でも激辛好きの人がいたりするよね。ほんと、僕には絶対に信じられない。言っとくけど、僕は辛いものが好きな女とは、絶対につきあわないから。どんな縁があったとしても、絶対に」
「それが美人でも?」
「もちろんだよ。美人で、スタイル良くて、僕の名前を知っても『落語の人みたいですね』ってからかわないウルトラ性格美人であっても、僕の前で辛いものを注文する女だけは願い下げ」
 その頑固な態度に順一が苦笑したのは、少し前につきあいかけた女性のことを思い出していたからだった。辛い物好きの美人。ほんのすれちがいで、喜楽には何も知らせていなかったけれど。
「ところで、順一クン、君にひとつ、相談があるんだ」
 普段は品質管理課でパソコンにむかってばかりいる喜楽は、青白い顔の奥の栗色の目を怪しく光らせた。
「相談? 仕事の話か?」
「まさか。仕事は、終わったばかり。せっかくのパフェが不味くなるような話はしないよ」
 パフェはパフェであり、仕事の話でその甘さが変わるわけではない、と順一は内心考えたが、あえて口には出さず友人の次の言葉を待った。
「イヤリングを拾ったんだ。正確には、『イヤリングが落ちていた』ということなんだけど」
「イヤリングが落ちることは、珍しいことではないと思うが?」
「まあ、見てくれよ」
 喜楽はズボンのポケットから使い込んだ黒い財布を取り出し、その小銭入れから紙の小さな包みを取り出した。中には、小ぶりな十字架と緑の石のついたシルバーのイヤリングが入っていた。
「誰のものかわかるかい? 翻訳部の佐々木さんのだよ」
「ホントに?」
「うん、まちがいないんだ」
 順一は、自分の罪を、運命の神に問いただされているかのような、奇妙な感覚に陥りつつも、表情は変えず、冷静なまま頬杖をついた。翻訳部の佐々木さん……女性としては身長が高い方で、長いストレートの黒髪が印象的な才女。困っている人をすすんで助ける気立ての良さを持ちあわせているが、いい人過ぎて女としての面白みに欠ける、といったことはある。
「それにしても、なんであの人のだってわかるんだ? あの人が最近イヤリングをしていた記憶はないんだが」
「正直、僕がずっと気になっている人だからね。普段は髪にかくれているんだよ。でも、ときどきちらっと見える。それが、なんともセクシーで」
 すでに後半戦に入っていたパフェを、喜楽は名残惜しそうに口に運んでいく。
 いっぽうの順一は、食べやすいチョコアイスの部分を中心的に掘り進んでおり、トップのクリームがまだ縁に残っていた。
「やれやれ、だな。喜楽も佐々木ファンの一人ってわけか?」
「イヤな言い方するなよ。でも、否定はしない。誰が見たって素敵な人だからね。ただ、問題は、僕がこれを拾った場所なんだよ。わかるかい? 総務課の出入り口のところなんだ。中庭に面した通路の方ではなく、直接裏に出る扉があるだろ。自転車置き場の方に出られるやつ。あそこで、なんだ。普通は通らないところだ」
「それがどうかしたか?」
「順一は、こんなうわさを知らないかな。総務課の山下課長が、密かに多数の女性に手を出しているという、うわさ」
「『手を出している』というのは正確じゃないと思うが」
「あそこで、襲われたりしたんじゃないか、と」
「まあ、あの課長らしいうわさ、って気はするよ。それにしても、まさか、あの佐々木さんが、あんな男の手に易々と落ちるとは思えない」
「うん、僕も『彼女が手に落ちた』とは言ってない。佐々木さんは誰もが認める美人だし、良くも悪くも男に言い寄られたことはたくさんあるだろうし、今さら中年課長に言い寄られたくらいで、むざむざ術中にはまる、なんてことは万がひとつにも考えられない。でも、何かのきっかけで、むりやり、手をにぎらされたり、抱きつこうとされたり、そんなことはあったかもしれないじゃないか」
「それで、イヤリングが落ちた、と?」
「いわゆる『もみ合いシーン』だね」
「いちおう何かのシーンとしてなら、あの、むっつりした課長にその役を割り振りたくなるのも理解するよ。想像するのは難しくない。でも、現実として、いくら何でも社内の敷地内でそんなことはないだろ」
「可能性としては低いと僕も思うよ。でも、いずれにしても、あんな中年男の悪しき欲望をのさぱらせていいはずがないんだ。疑いがあるなら、きちんと調査する必要があると思う。それが僕たちの義務だ」
「義務?」
「ああ、そうさ」
 喜楽は底の方まですっかり綺麗に平らげたパフェのグラスを、満足そうに前に押し出して、両肘をテーブルについて、手を組んだ。
「まずは、情報集めだな。場所はわかっている。あとは日時を特定しなくてはならない」
「はあ……」
 順一もなんとか甘いパフェを半分以上食べ終えていたが、これだけで満足する気持ちにはなれず、口直しのコーヒーがほしいな、と内心考えた。しかし今は喜楽の話の続きを優先することにした。
「日時は、きまってるだろ? 喜楽が拾った前日、ってことでいいんじゃないか? 掃除がはいるから、何日も落ちていたりすることはないと思う」
「なるほど。断定はできないが、可能性としては、それが高い。その線で行こう。では、まず事件当日の情報を収集してみるよ。さいわい、僕には口の堅い総務の知り合いもいるからね」
 口の堅い総務の知り合いと言えば、まちがいなく大和田さんのことだろう。黒縁眼鏡が印象的な、いかにも事務系然とした人妻OL。口が堅いのは自明だが、我々が例外というわけでもない。質問しても、素直には何も教えてくれない。まずはこちらの情報提供が必須であり、つまり、自分たちが何を『調査』しようとしているのか、その内容を全て伝えないと、何も教えてくれないはず。それをわかっていて、あえてあの人の頼ろうとするのであれば、喜楽はこの件を彼女に教えることは、アリだと思っていることになる。
「賛成はしかねるが、喜楽がその気なら、オレはそれを止める立場にはない」
「なに言ってるんだよ、順一。このイヤリング事件をきっかけに、我々は佐々木さんとバッチリ親密な関係になるんだから、しっかり自覚してくれよ」
「その自覚は、喜楽だけでやってくれ。自分はつつしんで遠慮する」
「なぜ?」
「喜楽があの人と親しくなることを応援するのはやぶさかではないが、こっちは別に親しくなりたくない」
「だから、なぜ?」
 身を乗り出す喜楽に対し、順一はクールな姿勢を崩さなかった。
「ま、パフェみたいなもんだろ。嫌いじゃないが、特に好きってわけでもないんだ。ホント、悪いな」
「僕には理解できないよ、その感覚。はっきり言って、男としての感受性の欠如だよ」
 順一は窓の外の午後の日差しに充ちた街並みに目をやり「そうかもしれないけどね」と苦笑した。
 

 ドキュメント部門で『取扱説明書』作りに励んでいる江田順一は、今日は暗くなってからも仕事を続けていた。画面キャプチャを大量にプリントアウトして、小会議用のテーブルに並べ、どのように話を展開させようかと首をひねって悩んでいる。
「なあ、順一クン、当日の課長は雨で早く帰っていたんだってさ」
 いきなり話しかけられて、順一は思考が停止してしまう。笑顔で部屋に走り込んできた喜楽は、ネクタイを外し、カバンを手に提げて、すでに帰る仕度が済んでいた。
「もう帰るのか?」
「今日はいいだろ。やっと難しい客を納得させたんだ」
「だな。自分も、引き上げることにしようかな」
 順一はちらかった用紙をぞんざいにまとめ、全ての考察を先送りにして、パーティーション越しに上司に一声かけると、一分で帰り支度を終えた。
「さ、帰るぞ」
「じゃあ、次はなんの甘いものを食べに行こうか?」
「いや、甘いのは、ちょっと」
「わかってるって。でも、少し経過を説明しておきたいな。飲みに行かない?」
「酒が入ると思考が鈍るぞ」
「じゃあ、コーヒーか。しかし、今日はカフェイン摂取過剰気味。かき氷にしない?」
「やっばりそうなるか」
 順一はあきらめ顔で頷いた。

 居酒屋ののれんをくぐり、奥まった席に着くと、まずはイチゴと宇治金時のかき氷を頼んだ。「他にご注文はございませんか?」と、やる気満々の若い男子店員に「酒はあとで頼むので、とりあえず」と苦しすぎる言い訳をして、かき氷作戦を強行した二人だった。 
「順一、調べてみたらあの日は、たいがいの人が早くに帰っていたんだってさ。雨だったから」
「雨と風の日、我が社の社員は全員早退するのか?」
「強い雷雨で電車が止まる可能性があったんだよ。憶えてないか?」
「ああ……」
 言われてみれば、確かにそんな日があった。あの日は仕事が煮つまり、すっかり徹夜覚悟だった順一には、関係のないことだったが。
「大和田さんに頼んで調べてもらったんだが、当日、遅くまで残っていたのは佐々木さんと、あと一人、君だけだったようだ」
「どういうことだ?」
「少し前に似たような雷雨があって、電車がみんな止まってひどい目にあった。だから、あの夜は、会社をあげて社員に帰るようにうながしたんだ。たいがいの社員は19時前に帰っている。どうしても仕事が終わらない人は、翌日、早出するように、って、わざわざ総務から各部に通達が流れた」
「で?」
「言いにくいが、もしも犯人がいるとしたら、数人しか候補はいない。その一人が、君ということになる」
「はあ?」
 テーブルにかき氷が運ばれてきた。甘味処で出てくる山盛のかき氷ではなく、デザート目的で用意された小ぶりなものだった。それでも甘いシロップの香りはちゃんとする。喜楽は銀のスプーンを赤く染まった氷にザックリとさしこみ、目をふせて言った。
「順一が、佐々木さんを襲ったのか?」
「バカバカしい。襲う理由がない。そもそも、イヤリングがもみ合いではずれたとは限らないだろ。たまたま急いで走っていてはずれることだってありうる。もしも『イヤリングを落とした状況に関する調査』というものがあったとしたら、 もみ合いが理由だなんて、ほんの数パーセントだと思うぞ」
「もちろんその可能性は考慮したさ。けれど、違うんだよ」
「なぜ断言できる?」
「佐々木さんは、あそこは通らないからなんだ。ロッカーからバス停にむかうのに、いつも東の軒下を通る。特に雨の日にはね。僕は、じつは彼女に帰りの行動については、ちょっとした権威でね。そっと観察を続けてきている。雨の日も二回あった。ストーカーみたいで恐縮だが、これは歴然たる事実。まちがいないんだ」
「それは『ストーカーみたい』ではなく、そのものだと思えるが」
「否定はしないよ。しかし、事実は事実なんだ」
「まったく、ずいぶんヒマなコトしてるんだな。仕事が少ないんじゃないのか?」
「仕事の量とか、関係ないよ。想いの強さの問題だ。ここまで来たら、はっきり言わせてもらうが、佐々木さんは、僕にとって大切な人なんだ。僕の中の『本当の僕』が、僕に告げるんだ。そんな彼女を、卑劣な男がねらっているとしたら、僕は黙って見過ごすわけにはいかない」
「そして、犯人はこのオレってわけか?」
「本気で疑っているわけじゃない。だから正直に言ってくれると助かる。もし、万が一にも、順一が彼女に手を出そうとして何かがあったということなら、逆に僕は安心できる」
「残念ながら、オレじゃないし、自分が残業していた夜に、何か悲鳴のようなものを聞いた記憶もない。ただ、雨が強いな、とぼんやり思ったくらいだ。たしか、ピークのときは相当なものだった」
「あ、それか!!」
「それか、って、なによ」
 喜楽はバクバクと氷を口に押し込んでから、スプーンを置いて、力強く言った。
「順一、スマホで天気予報のチェックしてくれ」
「オレ、スマホなんか持ってないし」
「僕のを使ってくれよ、遠慮するな」
「自分でやれるだろうに」
「やれたら頼んでいない」 
「やれないのか?」
「僕には、大切なかき氷がある」
 と喜楽は自分のカバンからiPhoneを取り出してテーブルに置くと、再びスプーンを手に取った。順一はしかたなく手をおしぼりで丁寧にふいてからiPhoneを手に取った。
「雨の日って、過去のを調べるのか?」
「いや。僕は今『予報』と言ったよ。こんど強い雨が降りそうな日を知りたいんだ」
 順一は首をかしげた。
「未来か?」
「うん。しかも普通の雨じゃない。『強い雨』の日を知りたい」
「そんな天気予報は、普通、ないぞ」
「雷雨の可能性でいいよ。はやく」
 順一は仕方なさそうにネットをチェックしていった。 
「偶然だが、明日みたいだな。天気が不安定で雷雨の可能性がある、って」
「ラッキー。ちょうどいいじゃないか。そのときこそ真実は明らかになる、だね」
「はあ?」
「そのときこそ真実は明らかになる」
「それ、何かの引用か?」
「いや。ただの勢いさ。勢いって、大切だろ?」
「どうだろう……」

 
 翌日は確かに夕暮れから黒い雲が空を覆い始めた。じっとりとした夏の外気に、遠くから雷鳴が響き、これから始まる夏の儀式の予告となっていた。しかし雨が降り始めるまではしばらく間があった。このあたりは大丈夫なのか、と人々が楽観しかけた19時ころ、いきなり激しい豪雨となった。あっという間に道が川と変わり、話し声も聞こえないほどの激しさだった。
 雨音が響く職場に、順一の机の電話が鳴り響いた。それはこの雨に歓喜している喜楽からのものだった。
「順一、そこから見えるかな。外」
「いちおう窓の下に中庭は見える」
 見覚えのある傘がひとつ。携帯から電話をかけてきている喜楽にちがいなかった。
「僕の予想は正しかった。やっばりそうだよ。普通の雨なら、このトタン屋根の下をたどっていけば、ほぼ門のところまで濡れないでいける。しかし、これほど強い雨の日には、隙間からけっこう水漏れするんだ。おかげでびしょびしょだよ」
「実証実験、おつかれ」
「あの日もこんな感じだったとしたら、あの人はどうしたと思う?」
「強い雨でも濡れないルートを考えるだろうな」
「そのとおり。回り道にはなるが、裏口から出て、自転車置き場をつたっていく、というルートがある。日中は職員たちの自転車が多いし、その先には重役たちの車も停まっているから、通り道にするのは適さないが、夜になれば、だいぶ閑散としているはずだ。しかも、早く帰宅するよう通達があった日だからね。ただ、一カ所、そこでも濡れそうなところがある。総務への入り口があるあたりだ。ひさしが小さい」
「じゃあ、そこでダッシュして突っ切ろうとすれば……」
「イヤリングが落ちても不思議ではない」
「やれやれ。犯人は天気か。もうよけいな邪推してないで、素直に返してこいよ、拾ったものは持ち主に」
「でも、どうなんだろう。こんなに日数がたってから、僕がこのイヤリングをあの人に返すって、不思議がられないかな? 普通、わかっていたらすぐに返すものだろ?」
「忙しかったとか、てきとうに理由をつければいいだけだ。べつにそれで不思議がられることは何もないと思うぜ」
「勝算は、あると思うかい?」
「はあ? なんの勝算だよ」
「男と女の関係、という意味で」
 豪雨の中、大声でこんなことを言ってくる喜楽の大胆さに、順一は赤面してしまう。しかしむこうは声を小さくしては伝わらない。近くに人がいないことを確認しつつ、受話器の口元を手でおおって続けた。
「オレも詳しくは知らないが、彼女は左手の薬指にずっと指輪をしている。彼氏がいるとは聞いたことがないから、彼女なりの『虫除け』なのかもしれない。本当に恋人がいる可能性は否定できないけど、そういう人がいたら、イヤリングもそんな人からのプレゼントかもしれない」
「自爆行為、だと思うかい?」
「わからない。まあ、事実の扉を開きたいなら、アタックしてみるしかないな」
「だよね。順一も、そう思うよね」
「ただ、喜楽は辛いものが苦手だからな……」
「辛さ? 辛さは関係ないだろ?」
「そうだけど」

 雨が小降りになり、事務系の女子職員がカラフルな傘を差して一斉に帰路につき始めた頃、喜楽は流れに逆らうように奥の別棟へと足を向けた。昔は社長室も入っていた石造りの古い建物だ。今は半分が書庫、残りの半分を社内報制作室と翻訳課が使っている。
 重い木製の扉をノックをして、そっと中を覗いた喜楽は、近くにいた白人男性に「佐々木さん、ちょっといいですか」と声をかけた。
  白人男性はシャープペンで頭をかきながら無言で立ち上がり、奥のデスクの女性の肩をたたき、入り口にむかってあごをしゃくった。仕事に没入しているのかもしれないが、ずいぶん愛想のない態度だ。しかし佐々木さんは、そんなことにも慣れているらしく、嫌がるそぶりもなく、すぐに扉のところにやってきた。
「どうされました?」
 あくまで仕事、という態度の才女に、喜楽は親しげに手招きをして、いったん外に出た。そして普段は打ち合わせに使われている窓辺のテーブルに導き、二人でスチール製の椅子に座った。
「突然すみません、今、大丈夫でしたか?」
「はい。少しでしたら」
 喜楽は財布を取り出し、中の紙包みを広げ、イヤリングをテーブルに置いた。
「これ、ひろったんたです。佐々木さんのではないですか?」
「はい。ですが、どこで、これを?」
 彼女は急に仕事を離れた女性らしい表情を浮かべた。
「自転車置き場の方の通路で」
「そうですか」
「総務の扉があるところでした。返しますよ。大切なものかもしれないし」
「いいえ。せっかくで、もうしわけないのですが、捨ててください」
「どうして?」
「ちょっと、個人的な事情があって」
「わざと捨てたの?」
「そういうわけではないのですが」
 煮え切らない彼女の態度に接し、喜楽は自分の実証実験のことを思い出した。せっかく『強い雨のせい』という結論を出したのに、それだけではすまないのだろうか。
「やはり『嫌な想い出』みたいなものがからんでいますか?」
「いいえ。むしろ、期待してしまった、というだけのことです」
「何に対して?」
「その問いに、的確な答えができるかどうかは自信ありませんが、たぶん『男の人の誠実さ』でしょうか」
 仕事で文章を専門にしている人だけあって、言葉のニアンスには慎重だった。しかし、いずれにしてもそこに『男』というものが関与しているのはまちがいないらしい。
「そりゃあ、世の中には酷い男もたくさんいるし、自分も男だから、そういう話はよく耳にするけど、でも、みんながみんな、悪い男ってわけじゃないですよ、当たり前だけど」
 あせりの気持ちから、わざと話を一般化しようとした喜楽だったが、その想いとはうらはらに、彼女はいったん背筋を伸ばしてから、次の言葉を一気に語った。
「そのイヤリングをくださったのは総務の山下課長です」
「え? あいつが?」
 喜楽の顔から血の気が引いた。
「誤解しないでほしいのですが、もともと下心があったわけではないはずです。ホームページ作りでお手伝いしたときに、お礼として頂いたものですし、『もう少し女らしくしていい彼氏できるといいな』って、親戚のおじさんのようなアドバイスまで添えていただいて。でも、ある雨の日の残業で、二人で帰ろうとしたときに、キスされそうになって、私は、そういう意味ではなく、信頼できる上司として、親しくさせていただいただけですのに、ちょっと、困ってしまいました」
「じゃあ、やっぱり、そんなことがあったの? あいつ、絶対に許せない」
「ちがいます。ていうか、いきなりこんな話、親しくもない方にしてしまって、私、何やってるんだろう」
「心配いりません。これを機会に、今日から親しくなればいいだけのことです。それよりも、既婚者でありながらあなたにちょっかいだそうとした課長が許せないし、そんな嫌な想い出の品を、わざわざ届けようとした自分もバカだ。ホント、無神経でもうしわけない」
「いえ、私が悪いんです。確かに、あのとき、ピカッと空が光って、怖くなったので、むしろ正確には、私から抱きついた、のかもしれません。でも、結果的に、きっばりとお断りさせていただいて、結果として、片方のイヤリングがなくなっていた、ということです。ついでに、もう一つも、その夜のうちに、帰りの駅で捨てました」
 黒髪の才女は言葉につまりながらも一気にまくし立て、そして固く口を結んだ。
「えっと……、自分は品質管理課の柳川喜楽。自己紹介が遅れてごめんね。僕たち、話すのは、初めてではないはずだけど」
「インターネットむけの商品開発の際に少しお会いしました」
「そう。憶えててくれてありがとう。僕なんかたいした発言もできなかったけど、佐々木さんの冷静な受け答えははっきり憶えてる。こんなに素敵な女の人がいるんだ、って、正直、ガツンと殴られたような気がしたよ」
「ずいぶん、大げさなことをおっしゃるのですね」
「そんなことないです。男なんて、そんなものじゃないかな。それにしても、男にもいろいろいる。さっきみたいな話を聞くと、同じ男として腹立たしいし、もうしわけない気持ちになってしまうよ」
「いいんです。私はもちろん、全ての男の人を憎んでいるわけではありませんし、人並みに恋愛したいとは考えています。ただ、こういった事情が、私にはときどきあることを理解してくださる方はあまりいないと思いますし、理解してほしいとも頼むことはできません。ですから、もし何かの偶然で、理解してくださる人がいたとしたら、それは望外の幸運というわけです」
「僕は、理解したといっていいのかな?」
「はい、おそらく。感謝しています。じつは、このこと、誰にも話せなくて、ずっといやな気持ちが続いていたんです。どうしても誰にも話せないこと、ってありますよね。下手にうちあけて自慢しているようにうけ取られてはいけませんし、万が一にも上司の耳に入っても困ります。私は山下課長を憎んではいませんし、悪い人だとも思っていません。ただ、その行為にとまどったり、困ったりしただけです。その微妙なニアンスを、どう説明したらいいのか。でも、こうしてすっかり打ち明けてしまったら、ビックリするほど、すっきりです。楽になりました。ありがとうございます」
 彼女の澄んだ瞳の輝きは、言葉に嘘がないことを証明していた。
「いや、こちらこそ。そんなに喜んでもらって、嬉しいです。僕でよかったら、またいろいろ話を聞かせてください。あと、これは『ついでに付け足すようなこと』ではないかもしれないけど、僕は佐々木さんのこと、ずっと大切に考えてきました。正直に言うと、初めてお見かけしたときから、ずっとです」
「え? どういう意味ですか?」
「考えすぎるんですよ、男って。バカですよね。でも、ホント、話せてよかった。君さえよければ、これからも、ぜひ、よろしく」


「まあ、そんなこんなで、勝算はあった、というわけだ、ひっひっひ」
 と、わき上がる喜びを抑えつつ語る喜楽の声がケイタイから響いた。
 順一は一人で風呂上がりのビールを飲みながら、ネットのポータルサイトを閲覧していたところだった。
「おめでとう。ラッキーじゃないか」
「おいおい、他人事みたいな感想だね」
「他人事ですが、何か?」
「まあ、そう言うなって。じつは、この話にはオチがあるってね、そのあと、さっそく二人で食事に行ったんだけど、彼女は辛いものが大好きな人だったんだ」
「それはそれは」
「『喜楽さんは辛いものはお好きですか』って心配そうにおどおどと質問してくるから、おもわず『好きにきまってます』って答えてしまったじゃないか」
「喜楽って、辛いものが好きだっけ?」
「あのさぁ、今さらそんなこと質問しないでくれるかな。超苦手だよ。大嫌い」
「まあ、頑張れ。それしか、オレには言えないよ。あとは喜楽クンの努力次第」
「軽く言ってくれるよね。しかし、よりによって、辛い物好きとは、まいった。僕も頑張らないとね。あのさぁ、こんど、辛いもの修行につきあってくれないか?」
「そういう無理は身体によくないと思う。正直にうちあけるんだな。互いに心を開くことから愛は始まっていくものだよ」
「でも、あれだよ。僕が言うのもなんだけど、好きな人が辛い物好きだと、この僕でさえ、辛いものが神秘的魅力をたたえたものに思えてくるから不思議だね」
「死ぬなよ」
「いや、毒ではないし」
「ひとつ、正直に言わせてもらってもいいか?」
「もちろん、どうぞ」
「辛いもの修行をしたかったら、彼女としろ。そうやって二人で苦労を乗り越え、時間を積み重ねていくことによって、かけがえのない人生になっていくんだ」
「いいことを言うじゃないか。なにかの引用?」
「引用じゃない。オレなりの皮肉だよ」
「皮肉って、なに? うらやんでるの?」
「そんなつもりは一切ないから安心してくれ。影ながら、二人の幸せを祈っているよ。これは、本当だから」
「ありがとう。ま、僕は、がんばるから。順一も早く素敵な恋をして、こくっちゃえよ」
「はいはい……」


 喜楽との通話を切ったあと、順一は携帯に残った佐々木からの古いメールを一つ一つ削除していった。100通くらいあった。まとめて削除する方法は、ないわけではないのかもしれないけれど、これもひとつの儀式と考えて、ちまちまと指先を動かし続けた。
 二人には、互いに『ときめき』を感じていたころもあったのだ。もともとドキュメント作成と翻訳部門は関わりが深い。仕事の合間に素直に語り合い、男女としても情が移る。それは一年ほど前の事実。しかし互いに別の仕事が忙しくなり、メールのやりとりをしなくなった。数ヶ月間隔が空くと、もうそれっきり。中学生の交換日記のようなものだ。「しょせんその程度の関係だった」と順一は素直に反省する。ただ、彼女が「辛いものが大好き」ということは、順一はよく知っていた。佐々木という才女は、真っ赤なチゲ鍋を額に汗すら浮かべず、ニコニコと食す女であることを。もっとも、順一が彼女と疎遠になった理由は、辛いものとは何も関係がなかった。辛いものも、甘いものも、順一にとっては、どちらも『食品の味』にすぎない。こだわりはもてなかった。だから逆に、そこにこだわりをもてるということは、 共通した人間的資質があるということなのかもしれない。
 最後のメールを消し終えると、順一は肩をすくめて「喜楽が知らない過去はいろいろあるにしても、未来を創っていくのはおまえらだからな。うまくいくよう祈らせてもらうよ」と、心の中でエールを送った。





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