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 高校三年が始まる前の春休みに、僕は新潟の親戚の家へ一人旅をした。僕の叔母の家族である宮本さんのところだ。その家はのっぺりした山の中腹にあって、山裾のバス停から徒歩で登るとかなり大変なことになる。いつもだいたい電話をして車で迎えに来てもらうが、以前に一度だけ、がんばって登ってみたことがある。ちょうど一時間の山登り、そのときはマジで疲れきった。
 宮本家では、ギター制作家の旦那さん、気さくなおばさん、それに二人の娘が、段々畑や広葉樹林に囲まれた自然の中で暮らしていた。長女の歳は僕と同じだ。こんなところに暮らしてると学校はどうしているのだろう、と心配になって質問したことがある。
「行かないからいいの」
「え?」
「私、病気だから」
 そんなふうに本人から直接聞いたのは、僕が両親と遊びに行った小学四年生の夏のことだった。そのころ彼女は学校を長期休暇していた。色白で控えめな性格の美野里だったが、はっきりと病弱さがわかるほどの見た目ではない。それでも大人はみんな美野里が病気であることを知っていたし、小学生の僕がそのことを質問すると、だれもが露骨に話をはぐらかした。「そのことは質問してはいけないことなのだよ」と、暗黙のうちに悟らせようとしてくる。その通り、僕は僕なりにふれてはいけない話題であることを理解した。だから美野里が本当は何の病気なのかはということは、僕はずっと知らないでいた。高校一年の冬に、スキーのために友人と共に泊まらせてもらい、彼女の病気を自分で直接目撃するまでは。

 僕が連れてきた二人のクラスメートと共に、普通に楽しい夕食のはずだった。スキーの技術や雪のことを話題にして、地元の素材を使った鳥鍋を囲んで。そこで美野里は泣き始めたのだ。いきなり収拾のつかない感情に翻弄され「私はこの家の子じゃない」と真摯につぶやいた。なんでそんな深刻なことを唐突に言い始めたのか、僕にはさっぱり理解できなかった。僕がスキーの後の空腹を満たす食事に夢中になっている間に家族的もめ事が進行していたのか、とも考えたが、少なくとも表面的にはそのようなことは何もなかった。テレビではなにかのドラマをやっていたが、音量は大きくはなく、ただ団らんのBGMとなっていただけだ。とりたてて深刻な内容でもなかった。なのに美野里は急に取り乱し、明代おばさんが困ったように「そんなことないわよ」と諭している。とってつけたように「そんなことないわよ」と言ってみても、奇妙なほどに説得力がない。もちろん「説得力」なんて最初から必要のないことだった。そもそも美野里と明代おばさんの顔は、誰が見たってそっくりだったのだ。色白で、目がくりっとしていて、丸顔で。美野里が明代おばさんの子供でないならいったい誰の子だというのだろう? もちろん、そういうことをすべて美野里はわかっていた。わかっていても、その瞬間、彼女の心の中には「私はこの家の子じゃない」という事実が、ごろんと丸太のように存在した。美野里の中の事実。どけることもできないし、説明することもできない。だから泣くしかない。そういうことが、時々起こる。それが美野里の病気だった。

 宮本さんちのおじさんはベテランのギター職人だ。自分の名前で楽器を作ることはしていないが、工場(工房)の職人としては指導的立場の人だった。僕が宮本さんの家に行きたいのは、僕にとって唯一のいとこたちがいるからだけではなく、ギター職人のおじさんの話を聞いたり、工房での失敗作を譲り受けるという男子っぽい理由があったのだ。塗装で失敗したギターなどを安く譲ってもらい、自分で使ったり、ギター好きの学校の知り合いに分けてやったりする。今まで、すでに五台もひきとった。僕のまわりの友人たちは、贅沢にも宮本さんの関わったハンドメイドギターで練習している。それを理由に、僕は一部の友人からいたく尊敬されていたりする。

 そして六台目をもらいに、高校三年の春休みに僕は宮本さんちにむかった。



 おじさんは会社(工房)の仕事がたまっており、帰りは夜になるとのこと。雪解け後から、梅雨までの数ヶ月、楽器制作家にとっては忙しい季節らしい。
 僕は先に明代おばさんから持って帰る予定のギターを見せてもらい、階段下の廊下で弾かせてもらった。美野里の五つ下の沙也香が聞き役になってくれた。子供と一緒に歌えるような曲も知っていたらよかったのだけど、そういうレパートリーは一つもなかったので、レッド・ツェッペリンの断片みたいなものを細切れに弾いたりしていた。
「どう?」
 と、沙也香はまるでギター制作家の妻のような表情で、僕にギターの出来について質問した。
「よく鳴るよ。これだけ鳴ったら普通は20万はするね」
「そーなのー?」
「ていうか、おじさんが、これは普通に買ったら20万はするものだよ、って言ってた」
「なーんだ」
「わかるわけないだろ、僕だって初心者なんだから」
「でも、わりとよく弾けてるよ」
「ははは・・・」
 僕は「おまえにわかるのか」と内心思って苦笑した。
「シゲちゃん、ギタリストになるの?」
「なれたらいいなとは思うけど、僕にそんなに才能あるかな?」
「才能なくても、努力すればなんとかなるかも」
「あのねえ、小学生にそういうこと言われたくないっす」
「あのねえ、私はもう小学生じゃないっす、中学生っす」
「え、まじ?」
 僕は弾く手を止めて目を丸くした。
「この春から中学生だよ」
「でも、まただ入学はしてないんだろ?」
「そうだけど、でも小学生じゃない」
「へー、そうだったんだ」
「あのねー、こんな重要なこと、今さら知ったみたいな顔しないでくれる」
「事実、今さら知ったことだし」
「そんなわけないでしょ。だってシゲちゃんは私の中学入学を祝うために来てくれたんでしょ?」
「は? そんなこと聞いてないし」と僕は大げさに首を振った。「悪いけどお祝いなんて用意してないから」
「もー、どーいうこと、それって。ふざけすぎー、ぶー」
「どうもこうもないよ。じゃ、とりあえず、おめでとうの曲でも弾かせていただくか。じゃーん」
「そんなん、いやだ。私はもっと美味しいものとかがいい」
「音楽で我慢しとけよ。食べると太る」
「太んないもん。私はこう見えてもクラスで一番細いほうなんだから」
「みえみえの嘘いうな」
「だとしてもー!!」
 沙也香はどちらかというとぽっちゃりした子だった。
「中学生ならもっと大人の音楽を聴かなきゃな」
「あのねー、ぜんぜん話がつながってないんですけど」
「とりあえず、これからはジブリじゃなくてツエッペリンだな」
「自分の趣味を押しつけないで」
「趣味じゃないぞ。宇宙の法則だ」
「宇宙のことなんか言わないで」
「宇宙について語るのは僕の得意技なんだぞ」
「だから」と彼女は急に叫んだ。「宇宙のことなんか、言わないで!!」
 沙也香があまりに真剣に否定するので、僕はとまどって言葉を失った。宇宙のどこが悪いのだろうか? なにも悪くないと思うが。僕には意味がわからず、とりあえず再びギターを弾き始めた。CとかGとか、場を取りつくろうような明るいコードを必然的に選んで。他にやれることもなくて。

 夕飯は山菜の天ぷらだった。あらかじめ知っていたことだけれど、やっぱりここの山菜天ぷらは素晴らしい。
「すっげー、うまいっす。ここにきたのは山菜天ぷらを食べるためと言いたいほど」
「今の季節は農作業が始まってるからね」と明代おばさんは揚げたての天ぷらをテーブルの大皿に移しながら言った。「あまり山奥まで行かなくてもよく採れるのよ。ね、美野里」
「うん」
 と美野里は可愛く目を光らせて頷いた。
「なんなら僕も一緒にいけばよかった?」
 僕が沙也香とギターをいじっている間に、おばさんと美野里の二人は山菜取りに出かけていたのだ。
「そうできたら嬉しいんだけどね」と明代おばさんは苦笑した。「よその土地の人が山菜を採るのは、ほら、あまりいい顔されないから」
「おばさんたちと一緒でも?」
「まあ、だめってことはないと思うけど」と美野里が説明を引き継いだ。「いい顔はされないと思うよ。よその人が勝手にきて丸ごと採っていってしまうのを、みんな、かなり怒ってるの。最近そういうことが続いてるから」
「なるほどね」
「案外・・・」と英俊おじさんがぼそぼそと口を挟んだ。「うちの工房に出入りしているディーラーたちが怪しいかもしれないんだ」
「近くなんですか?」
「工房はここから二キロほど離れているけどね」
「これだけ美味しいと、みんな採りたくなりますよね」
「今はわりといいの」と美野里は言った。「農家の人は田植えの用意とかで忙しくなってるから。だから、あまりちゃんと採る暇ないから」
「ふーん、こんなに自然がたっぷりでも、いろいろややこしいんだね」
「そうだよ」と英俊おじさんがしみじみと頷く。「人がね、多すぎるんだ」
 僕は心の中で少しだけ美野里の病気のことを思った。こんなに美味しい山菜の採れる自然の中で、すくすくと育っているはずなのに、なぜ病気になるのだろう。

 夕食の後でおじさんがいろいろなギターを弾いてくれた。居間には10台ほどのケースが並び、それらを一つ一つ取り出して説明しながら弾いていく。美野里と沙也香は基本的にあまり興味なさそうだったが、それでも今日は僕と一緒に父親の趣味につきあっていた。僕はずいぶん前に美野里に「ギターやらないの?」と聞いてみたことがある。しかし「指が痛くてイヤ」と即答していた。確かに針金のような弦の張ってあるギターは指が痛くなる。僕はだいぶ指の腹が堅くなってきたからいいけれど、男の自分でもそれまでは大変だった。きっとこの家にも男の子がいたらよかったのだろう。こういう環境なら父親の趣味を引き継いで立派なギタリストになったりするかもしれない。もちろん僕がいとことしてその役を担ってあげられたらいいのだけど、正直、音楽が飛び抜けて得意な方ではなかったし、可能性は薄いだろうと考えてしまう。いちおう音楽は好きな方だけど。
 僕はふと、美野里の横顔を見た。まあまあ、きれいな女子高校生だ。いとこでなければつきあいたいと思うかもしれない。たしかに女の子・・・もしかしたら、それが美野里のコンプレックスの原因なのかもしれない、と、ふと気がついた。あるいはそのことが心の病気にも関係あるかもしれない。もちろんすべての原因とまでは言い切れないだろうけど。
 こうやって父親の演奏に耳を傾けているとき、美野里の顔は嫌そうではない。言葉は少ないが、ときどき笑みを見せて楽しそうな表情もする。しかし、もしもそれらすべてが彼女の努力による『演技』だとしたら? わかっている。僕はなにかと考えすぎる方だ。特に女子のことになると考えすぎる。わかっていても頭の中に浮かんでしまった考えを否定することはできない。開け放った窓からはレースのカーテンを揺らす心地よい春の夜風が流れ込み、英俊おじさんの弾くカントリー風のギターの響きと溶けあって、客である僕を和やかに迎えてくれている。そんな宮本家の居間に、僕は客として混ぜてもらいながらも、現実の裏に隠された真実を感じないではいられなかった。冷たくぎすぎすしたものが実際にそこにあったわけではない。そういうものが何もなかったから、なぜか強く。



 風呂上がりに、居間の横の和室に敷かれた布団に座って髪を拭いていると、パジャマ姿の沙也香がやってきて「ねー、私の枕、知らない?」と聞いてきた。
「さあ。これがそうなのか?」
 僕は自分の布団の上の枕を差し出した。
「どれどれ」
 後ろには美野里の姿もあった。もうガキじゃないんだから、女子が男子の寝るところに来るってどうなのよ、と僕は妙にまじめっぽく考えたけれど、そんな僕が甘かった。沙也香は僕の枕を受け取ると、すぐに思いっきり僕の顔に投げつけてきた。そして高らかに宣言した。
「やった!! 一勝!!」
「おまえなぁ、いきなりそういうことする?」
 理屈っぽく不満を述べようとした僕はさらに甘かった。横から飛び込んできた美野里が、ころがっている枕を手にしてまた僕に投げつけた。
「ははは、楽勝!!」
 今度は僕も何も言わない。すぐに枕を拾って、近い方の顔に投げる。美野里だった。一瞬、手加減してしまう。すると美野里の手が出てきた。
「キャッチ!!」
「おい、キャッチなんかすんな。・・・うぐっ」
 速攻、投げ返された。
 もう僕も頭にきた。可愛いいとこだからって手加減していたらこっちがやられる。転がった枕に飛びつく。抱き込むようにキープする。すると上から沙也香が乗っかってきた。もちろん美野里も。
「おまえら、重い」
「なに言ってんのよ、失礼なやつ、重くないぞ」と沙也香。
「そーだそーだ」と美野里。
 上の美野里は「そーだそーだ」にあわせてプレスを繰り返す。そのたびに僕は息が詰まりそうになる。
「かか、か弱い男子をいじめるのはやめてください」
「ギブアップって言ったら許してあげる」
「そーだそーだ」
「ああ・・・なんかさっき食べた天ぷら、吐きそうなんですけど・・・」
「う、嘘でしょ」
 沙也香がひるんだ隙に、僕は身体を反転させて抜け出し、逆に二人の上にのしかかろうとした。
「うそだよーん。美味しい天ぷら、吐いてたまるか」
「きゃー、えっちー、やめてー、襲わないでー」
 美野里が今さらながらそんな女の子っぽい声を出すから、僕は怖じけづいてしまった。
「あのなー、どっちが襲ってきたんだっちゅーの」
「襲ってないっちゅーの。これは戦いだっちゅーの」と横に逃げた沙也香が、サッと枕を広い、大きな身振りで僕の顔に打ち付けてきた。
「うぐっ」
 ジャストミート。僕はわざとスローモーションのように後ろに倒れた。負けてやるのも愛だよな、と、世界の平和を祈りながら。

 勝利を手にした沙也香は、ほほえましいほど満足そうに風呂に消えた。適度に運動して風呂へ行く。なんとも健康的なやつだ。
 美野里はそのまま残って、僕と居間で話を続けた。去年の冬にスキーに来て以来だし、そのときは気まずいことが起きたし、今日もすぐに親しくうち解けてあれこれ話し合える状況ではなかったが、枕投げはいいきっかけになった。あらためて思えば、すべて沙也香の計画通り、という可能性もなくはなかった。それを認めるのは少ししゃくだったけど。

「ミノっちの高校、どう?」
「まあまあ」
「僕んとこなんか男子校だからな」
「頭いいの?」
「よくないって。公立落ちたやつら」
「公立落ちても。ちゃんと行くところがあるのって都会よね」
「都会に近いのは本当だけど、都会でもないよ。学校のまわり、田んぼだし」
 美野里はくすくす笑って「うちと同じ」と言った。
「こう言っちゃなんだけど、三方を田んぼに囲まれてるんだ。すごいんだから。残りの一つはなんだと思う? 川だよ。ホント、マジですごいんだから」
「学祭とかある?」
「まあね。そんときはよその女子も来るけど」
「ギター、弾く?」
「部活じゃないからそういうところでは弾いたことない。弾いてみたい気もするけどね。ミノっちのとこは?」
「とりあえず学校にはギターがいっぱいあるんだ。お父さんのメーカーの」
「地場産業だかんね」
「でもあまりうまく弾く人はいないな」
「もったいねー。ミノっち、がんばれば?」
「私は無理」
「じゃ、なにやってるの?」
「部活?」
「ああ」
「なにもやってないけど・・・」
 美野里は言いよどんで唇をとがらした。
「部活以外で何かあるのか?」
「うん・・・最近、ネットで詩とかアップしてる」
「ホームページってやつ?」
「そんな感じ」
「すごいじゃん。家で?」
「学校で。教えてくれる先生がいて、何人かでね」
「なんだかそれってほとんど部活じゃない?」
「うん、まあそんな感じ」
「見たいな、今度」
「恥ずかしいからいいよ」
「なんで?」
「いろいろあり得ないこととか、かってに想像して書いてるから」
「エッチなこと?」
「まさか」
「だよね。ミノっち、まじめなタイプだもんな」
「そんなことないよ」と美野里は顔を伏せた。「普通だよ。普通の方がいいよ」
「そうかな。僕は普通なんて、つまらないって言うか、くだらないって言うか・・・」
「普通じゃない方がいい?」
「僕はね。まあいずれ普通のありがたみをしみじみ感じる歳になるのかもしれないけど、今はまだそういうのはやめたい感じ」
「私も、ときどき自由ってことについては考えるんだ・・・」
「自由?」
「詩のテーマとして」
「なるほど」
「私の知らない、本当の私が、この空のむこうにいるのではないか、とか」
「そしてゲリでトイレに駆け込んでいたりするのではないか」
「ちがうのぉ」
 美野里は僕の肩をたたいて笑った。
「でも、普通ってそういうことだろ?」
「う・・うん、そだね。やっぱりシゲちゃん頭いい。私たちとはちがう」
「おいおい、なんでゲリピーの話したら頭いいって言われるかね」
「発想がユニークだから」
「ほめられている気はしないけどな」
「私なんかがほめたって、意味ないでしょ。それとも少しは嬉しい?」
「かっこいいって言ってくれたら嬉しいかもしれないけど、ま、それも非現実的だし」
「そうね」
「おい、そこ、頷くとこじゃないから。笑うとこだから」
「わかってるって。シゲちゃんがかっこよくなくても、私にとっては大切ないとこだから」
「ふざけてるのかマジなのかわかんないっす」
 と僕は首を振った。
「半分半分なのよ。本当の詩みたいでしょ?」
「なにが?」
「意味が交錯しているの」
「紛らわしくて、バツ」
 と僕は腕を×にした。
「ひとつだけの意味なんて、面白くないし、実際にそういうことはあり得ないと思う」
「信号が青と赤、同時に点ったら大変だし」
「でも人生って、そういうことがあるものなんじゃないかな」
「え?」
「多面性」
「すげー難しいこと言うね」
 美野里はうつむいて「私だけかな・・・」とつぶやいた。
「え?」
「私だけ・・・」と美野里はある地味っぽい女性お笑いタレントを真似て言った。「シゲちゃんはさっき、枕投げでわざと負けたかのような顔をしていたけど、本当はそれが実力なんだと感じたのは、私だけ・・・」
「違う!!」と僕は速攻、否定した。「あれは本当に本気じゃなかったの。だって女の子の顔に本気で枕なんか投げつけられないだろ」
「わかってるけど、でも、言ってみただけ」
「あのさー、僕もよくお笑いの真似するけど、ミノっちがするとは思わなかった」
「思い浮かんじゃったの。確かにこんなの珍しいかも。シゲちゃんと一緒にいるせいかな」
「まるで一緒にいることが悪いことみたいな言い方、やめてくれます?」
 僕がわざと勢い込んで言うと、美野里は「悪いことって言えば、悪いことかもな、って思うの」とさらにボケた。
「そういうふうに『悪いこと』のところを自然に肯定しないでくれます?」
「シゲちゃんて面白いね」
「そういうふうに悟ったようにまとめないでくれます?」
「もう私、これ以上どうボケたらいいかわかんないよ」
「そういうふうに僕だけボケの世界に取り残すのやめてくれます?」
「別に取り残してなんかいないよ」
「取り残してないと言いながら、思いっきり取り残されている気分なんですけど?」
「もういいよ、わかったから、そのぐらいで」
「せっかく調子に乗ってきたのに、水をさすような・・・」
 そのとき、美野里の表情が曇った。なにかを感じたか、なにかを受け取ったような、意外な表情で。
「ねえ、シゲちゃんは、どうして私たちと暮らさないの?」
「は?」
「どうして?」
「なんだよ、いきなり」
「あっちの方がいい学校があるから?」
「い、いや・・・」
「お兄ちゃんがいないと、本当は、寂しいんだよ、私」
「え?」
 僕はまだボケの続きだと思いたかった。本当はわかっていたのだけれど。これがボケではないことは、はっきりと雰囲気で伝わってきた。
「ごめんね。でも、私、弱いから」
「わ、わかってるけど」
「強くなろうってがんばってるけど、でも、本当は・・・」
「美野里は弱いんだろ」
「そう」
「まあ、それは、僕もわかってるよ」
「わかってるなら、なんとかしてよ。お兄ちゃんの、バカ」
「・・・」
 僕には「お兄ちゃんじゃないんですけど」と、当たり前の突っ込みが、このときはどうしてもできなかった。こういうことはきちんとした方がいいだろうと思ったけれど、なにせ病気に関係することと察せられたので、どう応えたらよいのか自信がもてない。厳しく言った方がいいのか、ずるずると甘やかせた方がいいのか。ずるずると甘やかせても、またきちんと意識が戻れば、普通に戻って、お兄ちゃんと言ったことなど忘れてしまうのだろうか。
「あのさぁ、たぶん、僕は、美野里のお兄ちゃんじゃないと思うんだけど・・・」
「わかってる」
「え? わかってるの?」
「みんな、そういうことにしたいと思ってることは。たぶん、シゲちゃんにとっても、その方が都合がいいんでしょうね。だから、ごめんね」
「え?」
「わがまま言って」
「いや、そういう問題では・・・」
「自分のわがままはよくわかってるから、でも、私、本当のことが知りたいよ。シゲちゃんは、お兄ちゃんでしょ?」
「違うんだ。わるいけど。だって学年もいっしょじゃん」
「どうして・・・」
 美野里の目から涙があふれて頬を伝った。
「どうして、そんな嘘つくの?」
「僕は別に嘘はついてないし」
「お兄ちゃんはわかってないのよ、私のこと。私が、どんなに辛くて、寂しいか」
「だから、それはそれで僕もきちんとまじめに考えるし。ホントに。だって僕たち、他に親戚ないし、唯一の同年代の身内だもん。こんなこと改めて言うのは抵抗あるけど、僕はミノっちのこと、真面目に大切にしたいし」
「だったらどうして・・・」
 美野里はテーブルに突っ伏して本気で泣きはじめた。僕は、バカみたいだ、と思った。こんなの、下手な芝居を見ているみたいじゃないか。僕が美野里に嘘をついて、兄弟ではなくいとこだと言い聞かせて。べつに僕はどちらでもいいのだ。いとこも兄弟も身内には変わりない。いとこなら恋人として付き合っても社会的に許されているらしいけど、自分としてはそういうつもりはない。やはり恋人ではなく身内として親しくしたい。それは悪くないことのはず。美野里が病気なら、それも含めて逃げずに受けとめてあげたい。僕にできることは大きなことではないかもしれないけれど、子供の頃から知っている美野里のためなら、かなりのことをやってあげる決意はある。それが僕にとって負担になることでも、お世話になっているおじさんやおばさんのためなら、恩返ししたいのは山々だ。
 問題は、僕に何がしてあげられるか、だ。泣き伏す美野里をしっかり抱きしめてやりたいとは思う。泣かなくていいよ、と。あせらずに、ゆっくりしてれば、きっといろいろ解決するから、と慰めて。しかしそういう優しさも、実は彼女にとって毒であるような気がしてしまう。美野里の病気を助長させてしまうような。
 優しい言葉もかけられず、きっぱりと否定することもできない。どちらも答えにならない。要するに、僕がここにいること自体が悪いのかもしれない。この場は美野里を『介抱』して、部屋に引き上げてもらい・・・
「なあ、今日はもう寝ないか?」
 美野里は顔を伏せたままだが、もう泣きやんでいた。
「あのさあ、明日また考えようよ。今日はもう遅いし」
 美野里は顔を上げた。
「バカ」
「え?」
「嘘つき」
「ち、ちがうって・・・」
「もういい。勝手にして」
 美野里は立ち上がり、早足で去ってしまう。ぐずられたらどうしようと考えていたから、ありがたい展開ではあったけれど、なんとも後味は悪い。



 家中が寝静まってから、僕は眠れずに部屋の窓を開けて夜の風景を眺めていた。ひんやりとした四月の空気が草木の匂いと共に流れ込んでくる。人の営みから取り残されたような静かな夜だった。僕は月のない星空を眺めて、どうしたらいいんだろうと考え続けた。以前のことといい、今夜のことといい、僕の存在は美野里に悪い影響を与えるのかもしれない。お互いに嫌いというわけではないのだ。むしろ異性のいとことして心がときめくほどだったけど、彼女の病気にとってはそれが悪い刺激なのかもしれない。
 僕はもうここに来てはいけない・・・ここにいてもいけない・・・どこかにいかなくては・・・。そして、今、この家を出るのは不可能だろうか、と考えてしまう。書き置きして、あとからきちんと電話で説明すれば、たぶん明代おばさんならわかってくれるはず。
 僕は自分の鞄から手帳を出して一枚ちぎり、メモを残した。


   すみませんが、とりあえず、帰ります。 
   いろいろありがとうございました!!
   また連絡しますのでヘンに思わないでください。
   夜の道、大好きなんで、歩いて帰りたいだけっす。
   じゃ、また。
   PS ギター、大切にさせてもらいます。


 こんなの十分ヘンだよなとは思ったけれど、書いてしまうと、思い切って行動することが何よりもいいことのように思えてしかたなかった。布団のまわりに散らかしていたものを鞄に詰め、玄関に行って靴をとってくる。玄関の開き戸はガラガラと音がするので、台所の勝手口から出た方がいいと考えたのだ。書き置きもしたし、ここに来た目的のギターはちゃんと持っていくことにする。
 外に出ると、不思議な開放感に包まれた。もともとが旅の途中なのだ。そして親戚の宮本さんの家からも出てきてしまった。自由とは、まさにこのこと。周囲はかなり暗かったが、道や田んぼが見分けがつかないほどではない。星明かりのおかげか、あるいは数キロ離れたところにある高速道路からの灯りが空を明るくしているのかもしれない。山を下って街に近づけばコンビニなどもけっこうあるはず。
 僕は鞄を肩にかけ、ギターケースをぶら下げて、感謝の気持ちで宮本家に軽く頭を下げてから、のんびりと歩き始めた。何も急ぐ必要はなかった。朝の列車が動き始めるまで時間はたっぷりある。むしろ時間をつぶすことの方が問題だった。夜更かしの癖がついていたから眠くはない。道は快適な下りで、自然と足取りが軽くなる。
 オッケー。悪くない。全てがいい感じ。

 しかし夜が明けてきて、街の手前の空き地で木にもたれて休んでいると、例えようもなく悲しい気持ちが土砂降りの雨のように襲ってきた。それは美野里をめぐる全てのことが、憎しみではなく愛情から発していることに気がついたからだ。確かに悪意はどこにもない。悪意ではないのに、そういうことに背を向ける自分が激しく情けなかった。それしか他に方法がないと自分に言い聞かせても、なにかできるはずだという内なる衝動を静めることはできなかった。それはくすぶりから全開の炎に変わっていった。変わんなくていいのに、と思う。変わったところで、何もできないのに。
 ひとつはっきりしているのは、何もできない、ということだ。高校生の僕には、やれることも、理解できることも限られている。人生経験を積み、あるいは医学の勉強などもきちんとすれば、もっと具体的なことを思いついたかもしれない。しかしそういうことは、何年も、あるいは十年以上もすぎてからの話だろう。うかつなことをして悪化させないように距離を持つ、そんなことしかできない自分だった。要は、逃げているだけ。確かに逃げてしまえば、僕はそれでいい。罪悪感は続くかもしれないが、そんなに濃いものではない。たとえば恋人として付き合うとか、もっと長い時間を共有するとか、そういう経過の後の逃避なら、これはかなりの罪悪感だろうけれど、僕の場合は正直、みんなで夕飯を食べて、その後いっしょに時間を過ごしただけ。丸一日にも満たないのだ。これで一生気に病むほど罪が大きいのなら、恋人とどろどろになったりしたらどう受けとめればいいのだろう。こんなの、大したことじゃない。大人にまかせよう。僕はまだ高校生だし。美野里もまだ高校生だし・・・
 気がつくと、僕は膝を抱えて、美野里のように突っ伏して涙を流していた。一瞬、眠って、夢を見たのだ。僕は美野里の兄、どうしてそんなことに気がつかなかったんだろう、と。違うかもしれない。でも本当かもしれない。大切なのは、美野里は僕の身内で、美野里が身内であることを僕は心から嬉しく思っていること。「バカ」と言われたら「おまえこそバカだ」と言い返してやればよかった。ヘンに気を遣うなんて一番よくない。どうしたらいいのかなんてさっぱりわからないけど、このまま去ったら、僕が美野里のことを嫌いだと誤解されそう。それは違う。そういう誤解だけは絶対にして欲しくない。嫌いなんじゃなくて、わからないだけなんだ。それだけは理解しておいて欲しかった。
 僕は朝一番の新幹線の走り去る緻密な振動音をやり過ごし、自動販売機で冷たいスポーツドリンクを買ってから、また歩き始めた。楽に降りてきた道を、再び自分の足で登っていく。鞄もギターも重い。もう夜が明けているのに、今から登り初めて、宮本家に着いたら、そっと気づかれずに勝手口から戻ることができるだろうか? あるいはもう起きていて、僕のことを捜しているだろうか? 微妙な時間だった。急いで戻った方がいいとは思ったけれど、やはり身体は疲れている。どうなるにしても、今から僕の力でなにかを大きく変えることはできない。運命を肯定する気持ちで、一歩一歩、足を進めていく。

 勝手口の鍵は開いていたが、開けると明代おばさんが台所で働いていた。
「おはようございます」
「あら、おはよう」
 おばさんには笑顔はなかった。激しく疲れているようだった。
「すみません、やっぱ、戻ってきました」
「昨日、美野里と何かあったのね?」
「はい・・・」
「迷惑かけちゃって、ごめんなさいね」
「そんなことないです」
 眠らずに歩き続けてきたからか、僕はハイになって、むしろ急に腹が立ってきた。
「明代おばさん、絶対そんなことないです。そんなふうに思うのだけはやめてください。僕、迷惑だなんて、全く思ってないですから」
「でも、いなくなろうとしたのでしょ?」
「戻ってきました。それに、僕は美野里さんと他人じゃないんです」
 おばさんは大きくため息をつき、やっといつもの笑顔を少し見せた。
「じゃ、おはよう、って言ってきてあげてくれる? もうじき朝ご飯、できるから」
「朝ご飯にしては早すぎませんか?」
「おなか空いてない?」
 ヘンな話だけど、僕はものすごく空腹だった。
「そうっすね。腹減ってます、すごく」
「食べて、寝ましょう。寝てないんでしょ、ね?」
「でも、美野里の部屋、行ってもいいと思いますか?」
「行ってあげて。あの子も泣いてた。寝てないかもしれない」
「どうしてだよ」と僕は自分に悪態をついた。「言われるまでもなくバカすぎる」
「そんなに考えすぎないで。私もね、正直、あまり考えすぎないようにしているの。それが唯一の秘訣。経験から学んだことよ」
 経験・・・そんな言葉を、僕もいつかは口にできるときが来るのだろうか。



 鞄とギターケースを居間に置いて、階段を上がり、美野里の部屋を小さくノックして、扉を開けた。
「ミノっち、おはよー」
 彼女は学習机に伏せたまま眠っていた。横のベッドの布団は乱れていたから眠ろうとはしたのかもしれない。しかしベッドでは眠れなかったのだろう。深い眠りを恐れたのかもしれない。それもまた僕のせいなのだろうか。
「ほら、風邪ひくからさ、ベッドに移ろうよ」
「あ・・・」
 美野里は驚いたように顔を上げた。
「腕のあと、顔にばっちりついてるぞ」
「へ?」
「そんなとこにいないで、ベッドか、それとも朝ご飯か」
「朝ご飯・・・?」
「明代さん、早起きして美味しいもの作ってるみたいだったよ」
 美野里は大きなあくびをひとつして、鼻をすすった。
「シゲちゃん」
「ん?」
「どうしてここにいるの?」
 僕は苦笑して「いろいろ悩んだ結果だよ」と言った。
「悩んだの?」
「ああ。むちゃくちゃ悩んだ。でも、わからなかった。なーんにも。だいたい、わかるわけないんだよ、大人じゃないんだし」
「私、もう、シゲちゃんとは会えないと思った」
「どうしてさ」
「なんとなく」
「そんなこと、思う方がヘンだよ。そりゃ、ときどきどこかいっちやうし、ていうか、どこかいってばかりかもしれないけど、僕たち、いちおう他人じゃないし」
「お兄ちゃん?」
「いや、それは違う」
「・・・言ってみただけ」
「は?」
 美野里は顔を伏せ、崩れるようにベッドに移動して、身体を布団に潜り込ませた。そして僕の視線を避けるように、窓の外を見た。レースのカーテンの閉まった大きな窓からは、朝の光が白く部屋にあふれていた。全てを白っぽく変えてしまうような不思議な光が美野里の部屋に降りそそいで。
 美野里の白い部屋と、白い心。全てが真っ白で、こんなに真っ白な部屋って、他にないよな、と僕は強く思った。なんで白いのかって、そんなこと、考えるだけ無駄なのだ。本当はただ、僕がその白さにすがりたかっただけだとしても、何の罪があるだろう。全てが白くあって欲しいと願ったし、それは本当に白くて、僕は言葉を失うしかなかった。彼女のベッドの脇にしゃがみ込み、彼女の匂いのするシーツにほおづえをついて、外の光に目をやる美野里の白い顔を、僕はいつまでも見続けて。

 僕たちはそのまま白い夢の中にいた。美野里の声が聞こえなくなるほど、あふれかえる光の粒子につつまれて。それはもう、ただただ真っ白で、どこまでも永遠に白いばかりだった。

 
 

(2006 5月)