水こうもりと男

 月のきれいな秋の夜のことだった。月光を受けて銀色に広がる山肌の、果実畑の豊かな収穫に感謝して、男は軒先で一人笛を吹いていた。彼には親も妻も子供もいなかったが、笛を吹くことにかけては並ぶもののない名手だった。その澄んだ音は、収穫を目前に控えた果実への子守歌のように、山間に広がり染み渡った。

 彼が笛を吹いていると、上品な仕草の一人の女が、そっと滑るようにやってきた。彼が笛に吹き込む息を止めると、女は耳打ちするように『彼の妻の死』を告げた。彼は混乱した。妻の死? それをわざわざ伝えに来た女は、彼以上に悲しみに沈んでいる様子だった。彼は女をなぐさめようと、茶を用意して、話を聞くことにした。

「あなたの奥さんが、あの南の海辺の町で働いていらしたことはご存じですね?」
「いいえ」と男は首を振った。「僕はこの笛を手に入れて以来、妻の消息については何も知りません」
「知りたいと思ったことは、ございますか?」
 男は頭を垂れてしばらく考えた。そして言った。
「自分自身について知ることは、よいことなのでしょうか? それとも悪いことなのでしょうか?」
「もし、悲しみを感じていらっしゃるなら」と女は丁寧に言った。「それはあなたの行為の正しさの証、私はそう思います」
「行為の正しさですか?」
「少なくとも、あなた自身にとっては。お考えになってみて下さい。自分自身にとって正しいということは、そもそもとても稀少なことではございませんでしょうか?」
 男は考え込み、笛を絹の布でみがいた。笛のさらりとした手触りは、目の前の女性に触れて愛しあう行為を連想させた。男は笛を手に入れて以来、女性の肌に触れたことは一度もなかった。
「今夜は私を亡くなられた奥さんだと思って」と女は微かに迷いつつ言った。「抱いていただけませんか?」
 男はますます混乱した。
「僕には妻はいませんし、過去にもいなかった。それに、あなたをいないはずの誰かの代わりと思って抱くことに、いったいどれほどの意味があるのですか?」
「ただの冗談です。わかってくださいな」
 女は湯飲みを両手で持って、のぞきながら位置を探り、月を写して面白がった。


「あなたは『二人に別れてしまった男の話』は、知っていますか?」と彼は女に訊いた。
 彼女は黙って首を振った。
「今となってはずいぶん昔のことなのですが、ある男が街を散歩していたとき、ふとささやかな用を思い出し、家にいる妻に電話をかけたんです。本当に大した用じゃなかったんです。ネコの餌はもうあげておいたよ、とか、クリーニングに出したシャツを取りにいっておいてくれ、とか、そういった何気ない電話のはずだったんですが、その電話で妻が指摘したんです、あなたは四時から仕事だったんじゃないのか、と。
 彼はそのことをすっかり忘れていました。もともとドジなことはよくするタイプでしたが、まさか大切な仕事の時間を忘れるなんて。彼は慌てて仕事用のアパートに向かい、支度を始めました。
 彼は役者でした。そして、この仕事は、ある政治家の代役、つまりその人物に変装し、テレビで選挙前の討論をする仕事だったのです。彼のアパートには、そういった変装のための道具が様々にそろえてありました。役としてすっかり定着したものから、現在研究中のものまで。
 その政治家の代役は、彼の一番の食いぶちでした。それに遅れて信用を損なうということは死活問題です・・・


 男は大慌てで支度を始めた。彼の変装は小道具を使った外見と共に、内的な精神の変化まで行うものだった。スーパーマンのように一瞬というわけにはいかない。完成までに二時間ほどかかるのが普通だった。しかしすでに時計は三時を過ぎていた。そのときにあまりに急ぎすぎ、彼の心だけが別行動をしてしまった。顔を洗って、政治家風のてかった油を顔に塗って、そしてふと鏡の奥に『自分』の姿が映った。「おい、何やってんだよ、早くしろよ」と彼は『自分』に言った。『自分』は、冷蔵庫を開けて食べるものを探しているようだった。「腹が減っているのはわかるけど、時間がないんだぜ。この仕事がなくなったら食べるものだって手に入れられなくなるんだから、我慢してがんばってくれよ」冷蔵庫の前にいる鏡の中の『自分』は、振り返って悲しげな顔をした。彼には『自分』の気持ちがよくわかった。そもそも政治家のものまねなんかやりたくない。
 とっさに二人になってしまった彼は、変装した身体だけが急いで仕事にむかい、変装の完成されなかった心である『自分』は、一人でアパートに残った。アパートに残った『自分』が、テレビで政治家の姿をした『身体』を見ていると、その『身体』は何者かによって暗殺されてしまった。容疑者はすぐに取り押さえられたが、心臓を刃物で貫かれてた『身体』は即死だった。生放送中だったテレビはパニックとなった。どのチャンネルも急きょ予定を変更して「ある放送局」で起きた暗殺事件を伝えた。
 ため息をついてテレビを見ていた彼に、電話がかかってきた。それは政治家本人からのものだった。
「ありがとう。礼は東京駅のコインロッカーに入っている。後日、キーを入れた郵便物が届くはずだ」
 二日後、彼は送られてきたキーを手に東京駅に向かった。探し当てたロッカーには、約束の笛が入っていた。



「あなたの問題点については」と女は首を傾げてつぶやくように言った。「やはりあなた自身が、一番ご存じなはずですね?」
「さあ、どうでしょうか。正直なところ、私には笛の吹き方以上に知っていることは、何もないように思えてしょうがないのです」
「では例えば、その笛を、この湯のみの中に映った月に入れてくださる?」
「湯飲みの中の月?」
 彼女は「ほら」と言って、男に湯飲みの中に映った月を見せた。
「別にかまいませんけど、どうせ、さきっぽだけしか入りませんよ?」
「いいから、やってみて」
 男は女に顔を寄せ、二人で茶に映った月を見る姿勢になり、そこに笛を差し込んだ。笛はそのまま、なんの抵抗もなく、根本まで入ってしまった。
「どうしてこんなに小さな湯飲みに笛がまるごと入ってしまうんだろう?」
「なぜだか知りたい?」
 彼は女の息づかいを耳元に感じた。
「そうですね。とても知りたい」
「それはね、あなたの奥さんが亡くなられたからよ」



「私の名前は、水こうもりというのです」と女はうち明けた。「初めて聞く名前ですか?」
 男は頷いた。「全く初めてですね。聞いたこともない」
「いい名前でしょ?」と女は微笑んだ。
「いいというか、むしろあやしげで、いやらしくて、好き嫌いは別れるような気がしますね」
「あなたのその笛、今日は私が吹いてさしあげましょうか?」
「そういうことが、あなたの仕事なんですか、水こうもりさん?」
「仕事ではありません。ただ、たまにはそういうこともあっていいか、と思いましたの。大切な方の、大切なものを、大切にしたいから」
 男はイライラして言った。「あなたはずいぶん親切な人なんですね」
「どうして?」
「理由なんて、ないよ」と男は肩をすくめた。「そう感じているから、そう言っただけ」
「きっと、私では不満なんでしょうね。大した男でもないくせに」
「ルーマニアのコウモリは人の血を吸うと言うが、あんたも今夜は僕の血を吸うか?」
「最初にも申しましたが、今夜の私は、あなたに奥さんの死をお知らせにまいっただけでございます」
「僕に妻はいないし、いたこともないという話は、今したばかりじゃないですか」
「お疑いでしたら、もう一度、澄んだ心で笛を吹いてみてくださいな」



 女は現れたときと同様、音もなく立ち去った。
 男は心を静めて笛を吹いた。確かにすべての答えは、笛の響きの中にあるように思われた。彼はずっと疑ってきたのだ。笛の音に踊らされてきたのは、本当は笛を吹く自分自身ではなかったろうか、と。しかし結局のところ、笛によって踊らされてきたのは、時間そのものだったと、気がついた。
 踊っていたのは、時間。
 だとしたら、自分はどうしたらよいのだろう?
 
 いろいろ考えた末に、彼は、悲しむことにした。
 笛の音の響きが、山間に広がって消えていくように、全ての時間が、降りつもっては消えていく。彼にとっての時間とは、そういうものだから。けれども決して、むなしいとは思わなかった。ただ、空気の摩擦で生じる口蓋の振動と、古風な笛から発する響きの空間への広がりが、その消えていく悲しさゆえに、心に痛みを刻んだ。

 その痛みが、再生への営みであるという一面を、今宵の彼は自ら気づいていた。

 彼の吹く澄んだ笛の音は、過ぎ去った存在の違和感に通じる半透明のヴェールをまとい、月明かりの元で遅くまで響き続けた。微かにそよぐ秋の夜風に、そっと流されるままに。


(作2001夏・改2007/10月)