僕たちは深い森の中にいた。ずっと以前から知っていたことではあるが、彼らは僕たちの問いに対して何一つまともなことは答えてくれない。森は静かに恐怖と孤独をもたらす。だから僕たちは移動をし続ける。行き先を明示せずに走り続ける貨物列車のように。あるいは夜を待ち続けるユリのつぼみのように。
 攻めているのか、逃げているのか、そんなことはずいぶん前からわからなくなっているが、別にそのことが強い不安をもたらすわけではない。むしろ、生きるという原点に立ち返っているだけ、と考えれば納得がいくし、それは受け取りようによっては『面白さ』でもある。
 ただ、自分が自分であるということを、この森にいるとどうしても疑いたくなってくるし、しばしば『自分が思っている自分』が間違っている、と示唆してくる何かがある。それはアブの羽ばたきのようでもあり、山を越えて響く地鳴りのようでもある。僕たちは自らの存在の小ささを感じ、認識をあらためようとしてみるけれど、そういう試みは、いつも必ず失敗する。なぜならば僕たちは、森と同一ではないからだ。
 僕たちは立ち止まって考えてみる。ここで涙を流すべきなのか、あるいは自決でもするべきなのか。それも悪くないと思えるが、ふと気づくと、僕たちはまた知らず知らずのうちに、移動を始めている。

 風を読めばいいのだろうか。
 そういえばずいぶん昔に手にしたノートには、誰かが記した風の読み方が書いてあった。それは特に目新しいものではなく、すでにある方法を組み合わせたにすぎなかったが、独特の丸っこい字には、不思議な可能性を感じたものだ。文字を読むということと、風を読むということの間に、共通点があるのはまちがいなかった。そこから何かを探ろうとしてみたが、すぐに思考の袋小路に行き着いてしまう。行き場をなくし、孤独と、眠気に襲われる。
 ノートの持ち主のことを、僕たちは少しだけ知っている。彼は人形を愛していた。人形のシンプルさは、それに気がついてみれば、実際の人間より、はるかに愛を込めやすい。極端な話、黒いボタンが二つあるだけでもいい。


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 シンプルであることのよさを、彼はよくわかっていたから、いつまでも人形を愛してやまず、その一方で、複雑すぎる自らの存在や、人々の営む社会を憎んでいた。そんな彼が、気まぐれな自然の風に注目したのは不可解な話だが、実際には、おそらく風の方が、彼をとらえたのだろう。
 そして風は、言葉に含まれるもう一つの意味を彼に教えようとした。彼がはたして風の伝えようとしたことを理解したかどうかは定かではないが、彼が受け取った内容は、僕たちが知る『風の読み方』として、あのノートに記され、残ることとなった。

 未来に関して、僕たちはあまり多くを求めない。これは過去と未来を天秤にかけた結果なのではなく、そもそも未来とは草原のようにとらえどころがないものだからだ。30センチほどに伸びた草が太陽の光を受けて風になびく。無防備な僕たちは、大地にふせて未来をやり過ごそうとするが、風はすべてを平等にゆらすから、僕たちは、また、孤独を感じてしまう。
 僕たちに何ができるのだろうか。自問のために穏やかな水面に身体をさらす。しかしそれが答えにならないことは、本当はもう知っている。美しいときもあれば、醜いときもある。そして僕たちは、また移動を始める。

 どこかに門があるはずだ。そこではロッキングチェアに老婆が座って編み物をしているのだ。老婆は「ずいぶん遠くから来たね」と僕たちに声をかけてくれる。「でも、あなたは?」と僕たちが問うと、その声は、耳の悪くなった老婆には、永久に聞こえることがない。
 僕たちは門をながめて立ち止まるだろう。ただながめるだけだ。この門の向こうに何があるのかを、考えることはしない。なぜなら『考えること』は、何一つ門の向こうに持ち込めないと知っているからだ。

 僕はふりかえって「少しだけ森をずらそう」と言った。
 君は柑橘系の香のような笑みを浮かべて晴れた空を見た。




 
(2008 12/1)