Vol.1
菜々子の飛翔

 僕は高三の秋だというのに、なんとなく『焦り』というものがなくて、まわりのやつらは推薦とか、防衛大の受験とか、いろいろ具体的に動き始めていたりもしたけど、僕はそういうのに接すると、かえって地味に泉鏡花とか読みたくなってしまうのだった。
 文芸部員らしさ、と言えば、まあそうだけど、別に部活と関係なくても、僕はなんとなく『焦る』というのは、違うかな、って思って。

 僕には一年下の菜々子というガールフレンドがいる。菜々子は演劇部で、先の文化祭では濃い化粧に黄色いひらひらのワンピースを着て芸術的な舞台の主役を演じ、その華やかな存在感には圧倒された。もともと彼女は容姿端麗というわけではなく、どちらかというと細くちっちゃな目やぷっくらした頬は地味な印象だし、身長もやや小柄な方なのを、舞台では高いヒールをはいてごまかしたりしていた。本当は、菜々子はバレリーナになることを夢見て真剣に学んでいた子だったのだ。しかし身長が伸びず高校受験でプロになることを断念しており、今は、いわばその代わりとして、演技で舞台に立っていたりするわけ。
 
 土曜の午後に、僕は食堂でおにぎりと紙パックのお茶を買って、まったりした雰囲気で何人かが残ってたむろっている教室に戻り、少し勉強でもしてから帰ろうと食いながら本を広げていると、菜々子が入ってきて「光橋センバイ、ちょっと相談」と言ってきた。
「なに?」
「私、はだかになりたいの」
 それは小声ではあったけど、演劇部員らしい明瞭な発音は残酷なくらい聞き違えようがなかった。
「はあ?」
「はだか。だめ?」
「どこで? 風呂か?」
「ちがう。学校で」
「なんでだよ」
「どうしても。あ、でも、エッチなこと、考えないでくださいよ。これは一種の『表現』なんだから」
「なんだかそういうの、時代錯誤の芸術っぽいんだけど」
「時代なんて関係ないのよ。『気持ち』の問題。ヘンな発想なのはわかってるんだけど、これを乗り越えないと、私はどうしても次に行けない感じなの。自分でも困っちゃって。だからこういうことは、まずセンバイに相談しよう、と」
「いや、まあ、その相談してくれる気持ちは嬉しいんだけど、僕にどうしろと?」
「なにかいいアイディアってないですか?」
 僕はため息をつき、考え込んでしまった。ガールフレンドとは言っても、僕は菜々子とはまだキスもしたことがない。お互いに『好き』な気持ちはなくはないところだと思うけれど、彼女と彼氏という関係はまだ本物ではなく、どちらかというと菜々子の部活の『演技』を、現実でも延長戦的に続けているという感じだった。それなのに、全てをすっ飛ばして、いきなり『はだか』の話かよ。
「じゃあさあ、どこか、誰もいない空き教室を見つけて、僕が外で誰も入らないように見張ってるから、その中で思いっきりやりたいことやる、ってのは?」
「す、すばらしい! さすが、光橋センバイ! よろしくお願いします!」
 いいのかよそれで、と思ったけれど、とりあえずいいらしいので、僕は質素な昼食のゴミを捨てて、土曜の少ないテキストをカバンに詰めて、席を立った。

 とりあえず僕のクラスは、何人か勉強を始めていて長くなりそうだったので、他のクラスを探してみるしかなかった。土曜の午後なんて、ほとんどの生徒は帰るなり部活に出るなりしていなくなっているのに、どこも何人かは教室に残っているやつがいた。気持ちはわかる。家に帰るより、学校の机で勉強をした方が集中できるというタイプの人もいるだろうし、女子と人生について語り合ったりふざけて笑いあったりするのも、制服のまま学校で、というのが、これはこれで悪くないのだ。ほとんどのやつは、さっさと帰って着替えて遊ぼうとするけど、僕はどちらかというと後者のタイプ。今しか着られない制服のまま、ずるずる時間を過ごす方が青春ぽい気がする方に、票を投じたい。
 そういうみんなの気持ちは理解してあげますが、しかし無人の教室が一つも見つからない、というのはこれいかに。
「だめっぽいな。夜にする?」
「えー、夜は寒いよ」
 菜々子のあまりにも現実的なセリフに、僕は素直に笑った。
「でもさ、今日はどこも無理っぽい。演劇部の部室とかだとダメなわけ?」
「あそこじゃ狭すぎて気分が乗らない。それに着替えたり演技したりは、いつもあそこでやってることだから。私が望んでいるのは、そういうことじゃないんです」
「ま、そうだろうけど」
「そうだ! センバイ!」
 菜々子のつぶらな瞳が僕を見上げて危険な輝きを発した。
「屋上っていう手があると思いません?」
「あのさぁ、僕たちがやろうとしてるのは、お日様受けて弁当食おうとか、そういうことじゃないんだぜ。菜々子が屋上ではだかになったら、みんなに丸見えじゃん。僕には防ぎきれない」
「よく考えてみてよ。別に無理に防がなくても、案外よそからは見えない気がしません? それに普段はなーんにもない屋上で、たまたま誰かがヘンなことやってたって、誰も気がつかないでしょう」
「いや、やることによると思うけど。女子がはだかで立ってたら、絶対気がつくって」
「ま、とりあえず現地調査しません? ね、いいでしょ?」
「う、うん……」

 確かに、そこは悪くない感じではあった。屋上への扉は『関係者以外立ち入り禁止』の張り紙がしてあって、ドアに鍵がかかっていたけど、脇の窓を開けると、そこから出られないこともない。生徒が乗り越えた足跡が窓枠近くの壁にけっこうたくさん残っている。僕は菜々子を抱き上げて、一メートルほどの高さの窓から外に出してあげた。僕もすぐに続いて外に出た。
 ポカポカとした秋の陽気がまぶしくて、おもわず目をしかめてしまう。
 菜々子は細い目をますます細めて「ほら、なんだかいい感じじゃないですか!」とはしゃいだ。
 確かにそこには、本当にいい感じの空間が広がっていた。脇の方にはエアコンの屋外機とか、わけのわからない 機械ものがごちゃっと存在していたけど、中央にはでっかくコンクリート床の空き空間があって、正直、こんな空間があるなら、演劇部の練習に普段から利用したらいい、使わないのはもったいない、と思えるほどだった。
 四方は高いファンスに囲まれている。ビニール巻きの針金が格子状に編んであるやつだ。それがなければもっと視界が良かったはずだけど、最近の高校は何が起こるかわからないので、こういう安全対策は欠かせないのだろう。とりあえず近くの住宅や、駅の方のスーパーなど、気持ちよく一望できる。
「ね、私は、ここで、やってみたいと思います。ご許可、おねがいしますっ!」
「き、許可? 僕が?」
「うん。だって、ほら、いちおう、私たちって、私たちの関係だから」
 言葉はむちゃくちゃだが、言いたいことはわかるよ、うん。
「僕は別に、菜々子が『どうしても』というなら、止めないし、むしろ協力するよ。僕なんて、たいしたことできないけど、その協力したい気持ちだけは保障するよ。ただ……」
「何ですか?」
 菜々子が不安そうに僕を見つめた。
 まさにその不安に乗じて、今こそまともな主張をする時だ、と悟った。
「ほら、僕たち、約束したじゃん。こんな時代だからこそ、僕たちだけは高校卒業までエッチなことはしないって。つらいけど、意義深いものだと思うよ。そんな純粋な約束をできる相手がいるってこと。むしろ、べったり付き合ってる相手がいるやつより『勝ってる』と思うくらいさ。でもね、そういう前提がありながら、全部すっ飛ばして、はだかになるって、正直どうよ」
「う、うん……、難しいな……、せ、説明できないっス……」
 僕はなんだか、菜々子のその真剣に困った姿を見ただけで、もう十分満足な気持ちになってしまった。
「いや、菜々子には説明できないことがいっぱいあるのは知ってるから、いいんだけどさ。こっちこそ、ごめん。水をさすようなこと、言っちゃって。そもそもさ、菜々子が望んでいるのは、そういう『水をさすようなこと』を、全部、ふっきりたいんだろ?」
 菜々子は口元をキリリと引き締めて、明確に大きく頷いた。
「だったら、いいよ。もう余計なこと考えるの、一切、やめ。今日という日は、今日しかないんだ。全力でやりたいことやれよ。僕は100パーセント応援してるから」
「ありがとうございます!」
 菜々子の感激が伝わってくるのはいいけれど、さて、次にどうするのか? 僕はここにいていいのか? どこかに隠れて、目をふさいでいるか、あるいは誰も見ないように見張っててあげるか……
 そんな僕の思考をあざ笑うかのように、菜々子は僕の前で制服のボタンを外し始めた。強い決意と、優しい微笑みを顔に浮かべて。
 ヘンな話だけど、そこまで堂々とされてしまうと、僕も焦る気持ちが吹き飛んだ。これはこれで、きちんと受けとめてあげなきゃいけないことなんだ、と決意した。多分、一般的にはそうとうにクレイジーなことだけど、そんな菜々子を受けとめてあげられるのは僕だけだし、そういう『役』をもらったことを、純粋に嬉しく感じた。菜々子の下着やはだかを見られることが嬉しいんじゃなく(むしろこうなっては、それは嬉しさと言うよりプレッシャー)その信頼こそが、限りない喜びだったのだ。

 紺色のベストを脱いだ菜々子は、丁寧にたたんで、僕に差し出した。僕は両手を前に出して、賞状のように受け取った。そして、とりあえず、丁寧に頭を下げた。菜々子も僕のノリをまねして、丁寧に頭を下げた。そして首のリボンを外し、白いブラウスのボタンを外しにかかった。僕はまわりが気にかかったけど、とりあえずこの位置にいる限り、校庭や道から見られることはなかった。もしも僕たちが乗り越えてきた窓に、誰か人が来たらアウトだけど、そこは『賭け』だ。とはいえ、確率が悪い賭けではないはず。
 ブラウスを脱いだ菜々子は、純白のブラをまる見せのまま、しなやかなそれを丁寧にたたんで、僕の手のベストの上に置いた。菜々子の胸の谷間は小さいけれど、それでもしっかり確認できる形で存在していて、もう子供じゃないし、むしろ『女』なんだね、と痛感させられてしまう。
「ね、やっぱ、少し寒いね」
「そりゃそうだ」
「でも、これだけじゃ『はだか』とは言えないよね」
「いや、言ってもいいと思うけど。まだ高校生だし」
 菜々子は少し考えてから、首を振った。
「ダメ。これだけでは、やっばりなにかが違う気がする。でもこの先は、光橋センパイ相手でも恥ずかしいです。申し訳ないんですが、それ、ここにおいて、隠れてくれません? いや、隠れなくて、見ててもいいけど、ちょっと遠くからお願いします」
 遠くからならいいの? とバカな男子っぽい発言が思わず口から出そうになって、あわてて呑み込んだ。
「じゃあ、ここに置くから。風もないし、飛ばされないよね。遠くって、どのくらい? あの、入り口のところでいい?」
「十分です。すみません。わがままばかり言って」
「おいおい、そういう気づかい、なしにするんだろ? 今は、そのために来たんだろ?」
「はい!」
 そのあまりにも純粋な返事に、僕は苦笑して、きびすを返し、開かずの扉のところに引き返した。扉に寄りかかって、腕を組んで、少し戸惑ったけど、振り返って、菜々子に目で「いいよ」と伝えた。
 菜々子は頷いて、姿勢を正し、深呼吸してから、紺のスカートを脱ぎ始めた。丸みのある腰を日の光にさらしたまま、スカートも丁寧にたたんで、ベストやブラウスにかさねた。その屈んだ姿勢のまま、ブラを外して、そこに置き、パンツと靴下も脱いで、そこに置き、大きく深呼吸して、立ち上がり、まっすぐな姿勢になった。
 何も身につけていない無防備な身体で両手を広げると、菜々子の身体がゆっくりと宙に浮き始めた。それはとても自然なことだった。屋外でブラやパンツを脱ぐことの特殊さに比べたら、菜々子にとって空を飛ぶことは、ずっと本来の自然な有り様なのだ。
 僕は、そんな菜々子を、美しいと感じ、祝福したい気持ちでいっぱいになった。祝福だったら、拍手かなと思って、両手をあわせかけたけど、それもなんだかふさわしくない気がして、だったら「いいぞー」とか「がんばれー」とか声援を送ろうかとも思ったけど、そんな発想も平凡すぎて、この場合には全く違う気がした。
 では、どうしたのかというと、僕は、自分の心が、菜々子と一緒でありたかった。僕は、彼女のようにはだかにはならないし(とりあえず今日のところは監視役だし)、はだかになったとて、彼女のように身体が宙に浮くこともないだろう。しかし気持ちだけは、菜々子に寄り添うことができるかもしれない。菜々子の羽ばたく身体と共に、僕の心は、一緒に空に浮かんでいけるかもしれない。
 やがて、菜々子はぐんぐんと高度を上げた。事実を知らなければ、それがはだかの女子高生であると気づく人もいないくらいに。
 菜々子は、その高さの開放感と、激しい恐怖を、僕に送り続けてくれた。それは、あまりにすごすぎて、僕には上手く受けとめきれなかったかもしれないけど、菜々子の真摯な気づかいは最高に嬉しかったし、精一杯の『ありがとう』の気持ちを込めて菜々子に返した。


 ちなみに、そのあと、菜々子は風邪をひいた。空を飛べる女子高生が、はだかで飛んだら風邪をひいた、って笑えるけど、これはこれで立派な事実なのだ。けっこう熱が続いて、そのあいだに秋のポカポカな日も過ぎ、季節は冬に突入してしまった。
 病床の菜々子からメールが届いた。
「寒くなってきたね。次にはだかになるのは、きっと春だね」
 僕は、まだこりないのかよ、と苦笑しつつ、返事を返した。
「春になったら、僕は卒業だよ、悪いけど」
 ごめん、ちょっと意地悪な書き方だったかな、と送ってから反省した。
 そして菜々子からの逆襲的シンプルメール。
「勉強、がんばってね」
 おいおい、ここで『勉強』っていうのは、大きく違うだろと思った。卒業で問題になるのは『勉強』かよ。もっと大切なことがあるだろ。僕がそう感じていることは、菜々子も理解しているはずだったし、どうせこのタイミングなら、むしろズバリ『好き』と言い切ってくれると、メールでも激しく心揺さぶられて、人生最高の瞬間になると思ったけど、ま、現実はそういうふうにはできてないから、
「ありがとう。風邪よくなったら、お茶でもしよう。暖かい店で、菜々子の好きな甘いもの頼んで」
 と、そうとうに平凡ぽい文面に、僕なりに胸が締め付けられるような想いを込めて送ってみたけれど、さて、僕の気持ちは、菜々子にちゃんと伝わっているのかどうか。さてさて。





(2007 12/7)