ピュア・ハート


 啓吾は朝からイベントに出かけた。自分がいわゆる『オタク』なのか、と問われると、そこまでのことはないだろうと思っていたが、やはり地方都市で行われる珍しいアニメイベントとあっては、出かけないわけにはいかなかった。高校のクラスメートと共に、朝からそのA店が入っているビルの前で並んだ。
「もっとたくさん並んでいるかと思ったよ」
 と啓吾は両手をダッフルコートのポケットに突っ込んだまま若干の失意をこめて言った。整理券は予め発行されていたが、座席は当日の来場順になることがわかっていたからだ。徹夜組がいてもおかしくないと予想していたが、開店一時間前の段階で並んでいたのは一○人ほどだった。
 啓吾のクラスメートの西田昇は、ピーコートの前で両腕を組み首を振った。
「ま、もう冬だしな、さむー」
「西やん、それ、関係ないし」
「いや、関係あるさ。もう少し温かかったら、もっとたくさん並んでたと思うぜ」
「そうかな?」
「ていうか、あれだよな。この寒い中、こんなとこまで来る声優も大変だよな、営業とはいえ」
「電車で来るのかな?」
「まさか。事務所の車だろ」
「そうか……いろいろ販促グッズとかといっしょに事務所の車に乗せられて来るのかもな」
「いや、啓吾クン、俺たちはもう少し夢を持とうよ。いちおうタレントなんだからさ、スモークガラスの高級車で送り迎え、とかさ」
「わるいけど、そんなことして元が取れるイベントとは思えないんですけど」
「ま、確かにそうだけどさぁ」
 啓吾たちの後ろに並んでいたすっかり大人の二人組が自販機で買ってきた缶コーヒーを開ける音が響いた。冷えた朝の空気にコーヒーの香りが漂う。啓吾も真似をしたくなるが、そこはじっと我慢なのだ。一二○円とはいえ、缶コーヒーの贅沢を甘く見てはいけない。あくまで日々の禁欲的生活こそ、貴重なイベントにおける購入力発動へとつながるのだ。
「西やん」
「なんだ?」
「今日、寒いけど、うちの親、海に釣りに行ったよ。鯛釣りだってさ」
 啓吾は、自分の父親のことながらも他人事のように言った。
「マジか。いや、それ、マゾか」
「ほんと。信じられないよ」
「よく行くのか?」
「たまにね。釣り船に乗るとさすがに何か釣って帰ってくるけど、そうでないとめったに獲物も無し」
「オレ、そういう無駄な努力する人たちの気持ちって、マジで絶対、理解できねえ。このクソ寒いのに」
「じゃあ、僕たちは?」
 啓吾に聞かれ、西村昇は「そうだな、ま、似たようなもんか」と苦笑した。
 
 店員が入り口のシャッターを開けに現れた。啓吾は列に並んだ男たちを眺めてみる。二○人ほどになっていた。中には四○過ぎと思える人も少なくない。さすがに自分の父親以上の人はいなさそうだったが。
「僕たちってこういうの初めてだけど、サインもらうとき、何か話できると思う?」
 ふと思い浮かんだ疑問だったが、啓吾はその瞬間をイメージしてみると急に緊張が走った。
「ま、そりゃあ、挨拶ぐらいはするだろうさ」
「いや、挨拶だけじゃなく、何か、会話とか」
「日本経済についてか?」
「そんな時間はないでしょ」
「問題は『短時間でいかにインパクトある会話をするか』だよ、啓吾クン」
「インパクトある会話をしてどうするわけさ?」
「オレたちのこと憶えてもらえる」
「そりゃあ、少しはね」
「それをきっかけに友達になれるかもしれない。そうだろ?」
「可能性は限りなくゼロに近いと思うけど」
「そこだよ、これこそ男のロマンだよ」
「うちの父親の釣りみたいだな」
「ま、たしかに、これは釣りと似ているかもな。わずかな可能性を求めて努力する。啓吾の父さんは鯛かもしれないが、オレたちは○○さんの心をゲットだ」
「目標が高いのは悪いことじゃないと思いますけど、とりあえず現実を見ない? 自分ら、高校生なんだし」
「じゃあ、ひとつ作戦なんだが、『田舎者』に徹する、ってのはどうだ?」
「はあ?」
「ほら、タレントで働く人は、やっぱ都会でギスギスした人間関係とかありそうだし、ま、そこはオレたち田舎者ですから、誠実さでは負けません、てな」
「いやぁ、わざとらしすぎると思うよ」
「ま、オレのキャラは『田舎者』というのには無理があるか」
 啓吾は笑おうとしたが、すでにあごのあたりがぎくしゃくしてうまく笑えなかった。
「なんだか、こんな話したら、早くもすげー緊張してきちゃったかも」
「オレも。いやー、早く会いてーな」
「う……うん、でも僕は、早く会いたいのか、ちょっと待ってほしいのか、微妙な感じ」
「べつに啓吾がステージに立つんじゃないんだから、ビビルなって」
「でもさぁ、○○さんはステージに立つんだよ。その気持ちを考えたら、僕も緊張しちゃうよ」
「おいおい、なに、勝手に気持ちを共有してんだよ」
「ファンだし」
「いや、そういうことじゃなく。いいかい啓吾クン、重要なのは『魚と気持ちを共有すること』ではなく、『魚を釣り上げること』なんだからな」
「ああ……」と啓吾は急に妙な発見をしたような気がした。「だから、うちの父さん、魚釣れないのかもな」
「え?」
「『気持ちを共有しちゃうタイプ』だから」



「ただいま」
 啓吾が玄関から入ると、いきなりカレーの匂いに気づいた。自分の部屋に戻る前に、台所に顔を出した。
「あれ? 今日、カレー?」
「うん。なんで?」
 母親の陽子は当たり前のように目を丸くした。
「だって、今日って、父さんが魚、釣ってくる日じゃん?」
「さっき電話あった。釣れなかったって。寒いから温かいカレーが食べたい、って」
「勝手だなー」
「いいのよ。私もカレーが食べたいと思っていたところだし」
「それは同意してもいいけどさぁ、それにしても、もうちょっとなにかあってもいいんじゃないっすか」
「もちろん、今からシーフードカレーにしてもいいのよ」
「肉、入ってんでしょ?」
「お肉・アンド・シーフードカレー。だめ?」
「聞いたことない」
 陽子は「ダメかなぁ」とつぶやいてから、ふと話題を変えた。
「それより、あんたの方は収穫あったの?」
「塾で漢詩読んできた。感動した」
「塾の前に、早起きして行ったじゃない。おみやげは?」
「アニメのDVDでよければ」
「それ、もう見たやつでしょ?」
「まあ、いちおう何度か見ましたが、何か?」
「あんた、なんで一度見たアニメをまた高いお金出して買ってくるかしら。文庫本を買うくらいならいいけど、桁が違うんでしょ? 別にお金があまってるってわけでもないのに」
「価値観の相違、ってやつだね。本編以外に特典もついてるし」
「やれやれ。あの父親にして、この息子あり、って感じね」
「母親の影響だって、少しはあると思うんですけどぉ」
「私は自然のままに美味しいカレーを作るの。ほら、私が一番まともでしょ?」
「その自信が恐ろしいっす」
「今日はターメリックきらしてたから、わざわざ自転車で買いに行ったんだから。それより、父さんは一時間くらいで戻ってくるって言ってたわよ。DVD、見るなら早く見ちゃいなさい。『アニメの話』になると、またケンカになるんだから」
「余計なお世話」
 啓吾は首を振って、さっさと自分の部屋に戻った。趣味とか、進路とかは、なによりもまず自分自身の問題なのであって、親にとやかく言われる筋合いのことではない、と、かなり強引とわかっている主張を、メラメラと心の中に渦巻かせながら。

 父親は予定の時間を大きく過ぎてから戻ってきた。いちおうおみやげのアジの干物は多く買ってきていて、さっそく三枚焼いて、それぞれのカレーライスの横に並んだ。ファンヒーターの効いた畳の部屋の食卓に並んだ三人分の夕食。奇妙な取り合わせだったが、カレーも、アジの干物も、それぞれに美味しいことは確かだった。
「釣れなかったけど、今回はかなりおしかったんだぞ。竿がグイグイしなって、あれは間違いなく本物の黒鯛だったな」
 母親は苦笑した。
「ま、お父さんが楽しんでるんならべつにいいんですけどね」
 啓吾は、楽しんでても楽しんでなくても別にどちらでもいいんですけどね、と心の中で思ったが、口にはせず、黙ってカレーを食べ続けた。
「どちらかなんだよな。釣れないかもしれないけど大物狙いで行くか、確実に釣れることをねらって小物で我慢するか。迷うところだけど、今日は風が弱かったからな。思い切ってチャレンジしたわけ」
「『思い切って』はいいけど、事故だけは気をつけてくださいよ」
「そうだな。もうこの季節の海は冷たいから、落ちたら助からないだろうし」
「あらあら、怖いこと言わないで」
「ごめんごめん。ヘンにおまえを心配させて『もう行かないでください』なんて言われては困る」
「また行くの?」
 啓吾がポツリと聞いた。
「そりゃあ、行くだろ。また、ああいうの、釣りたいし」
 父親が見上げる視線の先には、古い鯛の魚拓が飾ってあった。啓吾が幼いときからずっと飾ってあるものだ。
「オレだって、そんなにいつもいつも釣れないのはわかってる。けどな、あえて、釣れないものを頑張って釣りに行く、そこが挑戦なんだ」
 啓吾はため息をつき、黙ってアジを骨ごとかじった。 
「ま、啓吾そのうちわかるさ。ところで、母さん、今日な、店をサボっていっしょに釣りに行った鮨屋の源さんだけど、久しぶりに休みなんで、あとで碁を打ちにくるってさ」
「えー、だったら鮨持ってきてもらえばよかったじゃん、カレーでなく」
 と啓吾は口を尖らせてブーイングした。
「いやいや、だからカレーなんだ。わかるか? 鮨屋の親父でも美味しいカレーは食べたい。しかし鮨屋でカレーの匂いはさせられない。だから、よそのうちに行ってご馳走になる。なあ、母さん、そうだよな」
「まあ、たくさんあるからいいけど、そんなに自慢するほど美味しいかっていうと、それはちょっとどうなのよ、って思いますけど」
「ま、いいよ。好きにやって」と啓吾は皿を差しだした。「僕はカレーおかわりしていい?」
「はいはい。量は多めに作ってあるから大丈夫なんだけど」
 皿を受け渡しする二人をながめながら、父親は話を続けた。
「それでな、源さんがな、ちょうど姪っ子が来てるって言うんだよ。今日、仕事で来たらしい。今夜はこっちで泊まっていくってさ。その子も囲碁が好きらしいから、いっしょに来るって」
 母親・陽子は電子ジャーを見ながら「あらあら、カレーはいいけど、ご飯足りるかしら」と首を傾げた。啓吾は「どうぞ、ご自由に」とつぶやいた。
「でな、その姪っ子って言うのがな、なんでも、アニメの声優らしいんだよ」
 啓吾は受け取ったカレーの皿をあやうく落としそうになった。
「おい、バカ、こぼすなよ」
「う、うん」
「啓吾がアニメ好きだって話をしたら、源さんが『連れて行く』って言ってくれて。いい話だろ?」
「うん……」
 啓吾が、母親をのぞき見ると、ニヤニヤと苦笑されてしまった。啓吾が日中にどこに行っていたかを、釣りに行っていた父親は全く知らなかったから。

 そして啓吾は、また緊張。イベントに出かけていって緊張することはあったとしても、まさかこの家で緊張するなんて思いもしなかった。しかしウソではないらしい。
 鮨屋の源さんのことは、啓吾もわりとよく知っていた。職人風の真面目な人。啓吾が幼かった頃から、たまに囲碁をうちにやってくる。
 海から離れた場所で鮨屋をやる理由について、「水がいい場所が好きなのだ」と語っていたのが印象的だった。魚はトラックで運べるが、いい水は自分から行かなくてはならない、と。
 ああいう職人風の人の親戚なら、声優になるのもわからなくはない。常人とは違うこだわり、というか、人々の尊敬を集める何か、というか。
 もう部屋を掃除するなどという時間の余裕はなく、そのことに関して母親はいつも通りに「もっと早く言ってよ」とグチをこぼしたが、今度ばかりは啓吾も同じことを言いたかった。部屋の掃除も、心の整理もできていないまま、早くも玄関のチャイムが鳴ってしまった。
「こんにちは」
 玄関の扉が開くと、職人風の渋い声が響いた。
 父親が立ち上がって玄関に向かうと、啓吾もさりげなく少し離れてついていった。
「どうぞ、上がってください。母さん、来たよ」
「わかってまーす」
 と奥からのどかな声が響いた。
「もう、また余計な用意してるらしいな。鮨屋さんに茶ではりあおうったって無理なのに」
「ははは、おかまいなく。で、こっちが姪の○○ちゃん。初めてだったな?」
「こんにちは、○○です」
「ああ、ようこそ。やっぱ、かわいいねー。なあ、啓吾」
「そういう問題じゃないんですけど」
「こっちが息子の啓吾。アニメ好きでね、困ってるんですよ」
 啓吾は、ついに彼女と視線が合ってしまった。今朝は早くから「会ったらなにを言おうか」と考えて緊張していたが、いざサイン会で自分の番になると、どうしたらいいかわからず、「お名前は?」と聞かれて「啓吾です」「どういう字?」「いや、ひらがなか、カタガナでいいです」「じゃあ……はい」「ありがとうございます。がんばってください」「ありがとう」という、ただそれだけのやりとりで終わってしまい、激しい後悔と自己嫌悪を抱えて帰ってきた今日のイベントの、その相手と、まさか、我が家のこの玄関で。
 あちらも、アニメ好きの人がいるとは聞かされていたようだが、自分のイベントのサイン会に来ていた少年とここでバッタリと会うとまでは考えていなかったらしい。戸惑ったように口元に笑みを浮かべて、小さく頭を下げた。
「さあさあ、むさくるしいところだけど、上がってください、寒かったでしょ。上着、預かります」
 そして二人はジャンパーとコートを脱いで、小林家の父親に渡した。そして屈んで靴を脱いだ。黒い革靴と、ベージュのパンプス。どちらもピカピカの靴だ。
「やっぱ『芸能人』って感じだね、会ってみると」
「いえ、私は声優。裏方ですから」 
 その遠慮がちなサラサラとした声は、間違いなく○○さん本人のものだった。
「でも、競争とか激しいんだろ。やっばり可愛くないと難しいんだろうね。それにしても、本当にかわいいねー」
「バーカ、そういう問題じゃないんだよ!」
 と、啓吾は、いきなり怒鳴っていた。
 怒鳴りたくて怒鳴ったわけではない。どうしてそんなことをしたのか、よくわからなかった。ただ、気がついたら、大声を出して、振るえていた。
 確かなのは「かわいいねー」なんて、それは絶対違うということ。かわいくないわけではない。しかし、もっとはるかに素晴らしいことは別にあるのだ。その聖なる良さが、父親に安ペンキでベタベタと塗りたくられたような気がして、どうしても耐えられなくて。
 安っぽい父親の態度にも、自分の見境のない衝動にも、死ぬほど嫌になり、啓吾は二階の自分の部屋にかけ上がり、バタンと戸を閉めた。

 源さんの渋い声がときどき遠くから響いてきた。二時間ほど囲碁を楽しみ、二人は帰っていった。その会話に、啓吾も入っていこうと思えばいけたはずだ。二人の客人は、今はこの家にいるのだし、自分はこの家の息子で、その会話の輪に入る権利は当然あるはず。不自然なことは何もない。ただ、自分の、あの軽率で、身勝手で、突発的な行動が、すべてを台無しにしたのだ。もしあの輪に入り、お茶を飲みながら普通に会話をすれば、いろんな話が聞けたろう。音声収録の現場の話も、声優仲間の話も。もしかしたら、姪っ子の将来を気にした源さんが、異性関係なども問いただしたかもしれない。もちろんここですべて正直に語ることではないだろうが、本人を交えて恋愛についての生の会話をできるとしたら、これ以上の幸福があり得るだろうか? 
 啓吾は明かりをつけた学習机に頬杖をついて、じっと一人で考え続けた。遠くから「さようなら」という、澄んだ声の挨拶が聞こえ、玄関の扉が閉まるまで。



 啓吾は最後に風呂に入った。朝が早かった父親は一番に寝ていて『今日のこと』について語り合うことはなかった。
 風呂から上がり、パジャマを着た啓吾が、今の畳の上で大の字になって天井を見つめていると、母親が来て優しく言った。
「ありがとう、って言ってたわよ」
「なんのこと」
 と、啓吾は不機嫌さを隠さず、目を閉じた。
「わからないけど、あの人、『ありがとう、って伝えてください』って」
 啓吾は「ふう」とため息をついた。
「いい人だったわね」
「うん」
「賢くて、楽しくて。人気があるのもよくわかった」
 おいおい、賢くて、楽しくて? そんなの全然ちがうよ、わかってないくせに、と啓吾は思ったが、口には出さなかった。
「ねえ、啓ちゃん、ひとつ、我が家の秘密を教えちゃおうかな。でも、これ、絶対にないしょよ、お父さんには」
 啓吾は「ん」と唸った。
「あの魚拓、本当は、父さんが釣ったんじゃないの。もらい物よ。縁起がいいから、って、私たちの結婚祝い。でも、父さんは、あれを超えるのを釣るって頑張ってるの。わかる?」
「『夢』ってことだろ」
「まあ、そういってしまえば、そうなんだけど……」
 なぜ母親がこのタイミングで、そんなことを伝えたのか、その意図は嫌らしいくらい明確だった。息子の啓吾も、大きな魚を釣りなさい、それはお父さんと同じように『頑張る』ということだから。はたして、釣れるのか、釣れないのか、わからないけど、頑張って、母さんは応援してるわよ、という意図。
「あのさあ」
「なに?」
「僕は『釣る』っていう言葉、嫌いなんだ」
「どうして?」
「だって、いやらしいじゃん。だまして手に入れる、みたいで。魚だったらいいけど、僕が目指したいのは、そういうことじゃないわけ」
「それは理想だけど、でも、大人の世界にはいろいろあるものよ」
「だとしても、あえて」
「そうね」
 母親は部屋を出ていこうとして、ふと振り返った。
「そうか。そういうのがあの人には伝わったから、啓ちゃんに『ありがとう』って言ったんだね?」
「バカ。そんなこと、わかりきってるっちゅうの」と啓吾は不愉快そうに言った。「あの人の本当の仕事を知っていれば、んなこと、当然だって。下らない現実にとらわれずに、いいものを目指す……そういう『仕事』が実際にあるんだよ」
 母親はくすっと笑って「そういうの、悪くないね。じゃ、おやすみ」と言った。

 啓吾は、自分が感じ、信じる理想と、世俗的な現実とのギャップの、あまりの大きさに、激しい痛みを感じ続けた。いつやわらぐかわからない持続する苦しみ。しかしきっと、これを乗り越えた先には、何かがあるはず。その新しい何かを渇望しながら、今は目をつぶり、カレーの匂いの奥に微かに感じられる○○さんの清らかな残り香に浸った。






 
(2008 12/8/ 2010 10月改)