六月の日曜の散歩


 土手の上の小道を、若い女性と少年が、まだよちよち歩きの子猫を連れて散歩していた。土手の両脇の斜面は色濃く雑草が茂り、やや離れたところに見える川面は曇り空を写して鈍色に光っていた。土手の外側には普通の住宅街が見おろせたが、土手の内側は人の姿もなく、外界から切り離され、すっぽりと時間が止まっているかのようだった。
「ねえ、お姉さんの名前、なんていうんだっけ?」
 と少年が歩きながら訊いた。
「キミエ」
「じゃあ、みーちゃんにする」
「なんで私の名前が関係あるの?」
「べつに。なんとなく。だって、お姉さんちからもらう猫じゃん。もともとこの子の母親は、お姉さんの猫だったんでしょ?」
 この子猫の母親とは、君枝が飼っていたメグのことだ。アメリカンショートヘアのメグは、君枝の以前の彼氏が友人のところから連れてきた猫だった。子猫の間はアパートで育てたが、大人になってからは、君枝の実家にひきとってもらった。その後、メグは地元の雄ネコと親しくなって、三匹の子供を作った。今日はその一匹がもらわれていく日だった。
「かしこいね」と少年は言った。「ちゃんとついてくるんだもんね」
「この子のお母さんも子猫のときそうだったのよ。よく公園に行って散歩したな」
「ちゃんとついてきた?」
「まあまあ」と君枝は微笑んだ。「よそ見はするし、なにかあるとひょこひょこどっかに行っちゃいそうになったけど、誰もいないところではだいたいちゃんとついてきた。足にまとわりつくような感じで、踏みつけそうになりながら」
「犬って首輪をつけて散歩するじゃん。ネコもそうした方がいいのかな?」
「あまりそんなことしてる人、見ないわよね」
「うん」
 土手の斜面にコンクリートブロックが敷いてあるところまで来ると、君枝は「ねえ、一樹君、そこで座って少し休んでいこう」と言った。 
 少年はトラ縞の子猫を抱き上げ、大事そうに両腕で抱いて、コンクリートに腰掛けた。喉をなでると子ネコは気持ちよさそうに目を細めた。
「私、好きなんだ。昔から、ここでぼーっとするの」と君枝は遠くに流れる川面に目をやりながら言った。


 子ネコの受け渡しの日に、たまたま君枝が実家に帰ってきたのは偶然だった。土曜日に中学時代の同級生の結婚式があったのだ。君枝は同級生の中でも新婦とは親しい方だった。出席したはいいが、結婚式で結婚する本人とあまり会ってもいられなず、君枝は郷里の仲間の中でなんとなく孤立してしまった。そうなるだろうと予想はしていたけれど、やはりそんなふうになった。
 妙になつかしい孤独感だった。君枝は喧噪のなかで目的もなく移動して時をやり過ごし、一年前に別れた彼氏のことを考え続けた。あるいはこの場で彼と並んで座り料理を食べていたかもしれない。あるいは彼と二人でこのような式をおこない、新郎・新婦という役どころをこなすこともあったかもしれない。そういう空想は、君枝には素敵なことでも悲しいことでもなかった。ただシンプルに「そういうことも現実に起こったかもしれない」というだけだった。そう考えると、ひたすら不思議な気分になった。
 振り出しに戻ってきたような、この孤独感。

 土曜日は久々に実家で一泊した。正月以来だったので、約半年ぶり。もちろん母親はいつものように「君枝も早く結婚しないとね」と、すでにずいぶん前から口癖になっているせりふを口にした。
「結婚には相手が必要なの」
「相手はいたじゃない」
「そんなの昔のこと」
「ヒサシさんから連絡、ある?」
「ない」
「どうしてるだろうね?」
「そんなこと考えてどうなるって言うのよ」
 君枝は自分の言い方に未練が伝わったのでは、と心配になった。本当のところ、未練など全くないのに。
「あんた、他にいい人いないの?」
「お母さん」と君枝は本で読んだことを思い出して言った。「3って数字知ってる?」
「なにそれ」
「東京都に存在しているいい男の数」
 母親は苦笑して「宝くじよりも難しいね」と首を振った。


 日曜日は遅くまで寝ているつもりだったが、午前中に結婚した当人から電話がかかってきた。
「ねえ、小学校のグランドでドッチボールやるの。来ない?」
「ねえ、孝子、結婚したんじゃないの?」
「そうよ」
「旅行とか行くんじゃないの?」
「やだなぁ、だれが行くのよ。あんなの旅行会社を儲けさせるだけ。そのうち夏休みにでも旅行しようとかって話はしてるけど、結婚してすぐにファーストクラスで新婚旅行なんて、そんなの私たちに似合わない」
「ビジネスクラスでも?」
「だめだめ、めっそうもない」
「本当にそう思ってる?」
「ま、思おうと努力してる」と彼女は笑った。「うちの旦那、稼ぎが少ないからさ〜」
 しかし新婚旅行に行かずに小学校でドッチボールというのはどうなんだろう、と君枝は思ってしまった。もっとも、結婚式なしで公然と同棲していた自分も自分だけど。
「でも、小学校入っていいの?」
「いいの。谷のお兄さんにオッケーもらったんだから」
「はぁ?」
「あそこで先生やってるの」
「谷君のお兄さんが?」
「そう。知らないの?」
「谷君が公務員になった、ってのは聞いたことあるけど」
「狭い世界ってわけよ。とにかく、いそいで来てよね」
「わかったわかった」
 君枝としてもこんな歳になって「小学校でドッチボールやるから来て」と誘われるとは思いもしなかったが、とにかく家にあったテニスウェアに着替えて小学校まで歩いていった。

 十人ほど集まっていた。君枝がいた時代に工事があって建物を造り直した小学校は、すっかりそのときのままだった。なつかしいグラウンドで、昔と同じようにドッチボールをして汗だくになる。君枝はボールを投げるのは久しぶりで、すぐに筋肉痛になりそうだった。曇り空で湿度も高い。いったんわき出してきた汗は乾かず、どんどん生地にたまっていった。

 小学校のグランドに谷龍一が来ていた。彼はかつて野球部で、君枝と交換日記をしていたことがある。交換日記なんて、君枝には思い出したくない過去だった。特に愛情をもってつきあっていたということでもなかったし、なんとなく交換日記が自然消滅してからは、ほとんど会話も交わしていなかった。すれちがいのまま卒業して、別れ別れになっていた。
 龍一はもちろん昔の龍一ではなかった。学生時代は運動部の土の匂いが漂っていた。本当にそういう匂いを嗅いだわけではなかったが、君枝の中のイメージとしては。しかし今は龍一も大人になり、市役所に勤務する普通の男性になっていた。

 お昼過ぎにみんなでファミレスに移動してランチを食べた。ドッチボールは遠慮していた孝子の旦那も、ここには合流した。結婚したての孝子の『旦那の話』で盛り上がっている最中に、君枝の横に座っていた龍一がこそっと質問した。
「インターネットしてる?」
「ええ」
 と君枝は頷いた。
「eメールで交換日記しない?」
 君枝はあわてて首を振った。
「私、文章、へただから。っていうか、文章書くの、時間がかかるのよ。最近仕事忙しくて。不精すると悪いし」
「なんの仕事だっけ?」
「SE。新しいコンピューターシステムのたち上げとかに関係すると、何日も泊まりがけってことがよくあるのよ。地方にも行かされるし」
「がんばってるんだね。でも、その気になったらいつでも連絡くれよ」
「ありがとう」
「今度、酒でもいっしょにどう?」
「ごめん、お酒はダメなの」
「なんで?」
「痒くなるから」

 君枝はファミレスの新メニューが印刷された黄色と白のテーブルマットを見つめながら思った。誘いを断るのだけはうまくなったな・・・


 孝子の結婚をスポーツで祝う集まりは、ファミレスで食事をして解散となった。さらに新郎新婦抜きでも飲みに行こうという男子もいたが、さすがに昨日の今日なので、ほとんどの者はおとなしく帰路に就いた。
 午後になってから、子猫を引き取りに、大山さんとその息子の一樹君が来た。大山さんは君枝の年上のいとこだ。君枝が幼いころは少し憧れた人だったが、今では年相応に落ちついて、すっかり父親という感じである。
「夕飯作っておくから、散歩してらっしゃいよ」と母親が君枝に言った。「ネコちゃん連れて土手とか行くと気分いいわよ」
「手伝わなくていい?」
「じゃまになるから結構。ところで、昨日の3って話があったでしょうが。東京のいい男の数。あれ、お父さんに話したら、そういう人といっしょになるには、自分がいい女性でなきゃいけないって言ってたわよ。これ、スジが通ってると思わない?」
「そうかもしれないけど」と君枝はすねた表情で言った。「私が言いたいのはスジが通っているとかいないとかってことじゃないのよね」
「あんたね、女性はいつまでも若いわけじゃないんだから」
「わかってるわよそんなこと」君枝ははっきり不機嫌になった。「別にあえて言いたかないけど、私だっていろいろあるの。そもそも別れるって、大変なことなのよ。迷いだってあるし、あとを引くことだってあるんだから」
「まあね、でも、もう少し我慢すればよかったなってお母さんは思ってるのよ」と母親は諭すように言った。「少し口が軽いけど、悪い人じゃなかったのに」
「あのね、我慢とかそういう問題じゃないの。だいたい私ばっかり我慢したって、向こうが我慢する気がないんだったら、いっしょになったって不幸になるだけじゃない」
「わがままばっかり言ってても、前に進まないわよ」
「わがままばかり言ってないって!」
 君枝の怒鳴り声に、母親は黙ってしまった。
「ま、とにかく」と君枝は疲労の残る足をポンポンと叩いて言った。「私は一樹君と散歩にでも行ってくるわ」



「みーちゃん」と、君枝は少年の腕の中の子ネコの頭をなでた。「元気でね。母親のブランドと、父親の野生味。美しく、健康になるのよ」
「この子の父親?」と少年が質問した。「普通の猫なんでしょ?」
「たぶんあれだろうってのは何匹かいるらしいの。でもわかんないんだって」
「ふーん。でもメグって、かっこいいよね。この子もあんにふうになるかな?」
「メグはね、ブランドネコで、ちょっとぬけたところがあるのよね。それよりタフな雑種が混じった方が健康的でいいわよ。もちろん雑種が混じると高い値段で引き取ってもらうとか、そんなことはできなくなるけど、私はそんなこと問題じゃないと思うな」
「でもメグって、もともとお姉さんが買ったんでしょ?」
「うんん、飼っていたけど、買ったわけじゃないのよ。前につきあっていた彼氏がもらってきたの。今になって振り返れば、すごく幸せなひとときだったな。メグもちっちゃくてかわいかったし。彼といっしょに、少し大きなアパートに引っ越して、そこならネコも飼えるってことで。一階だったから窓の外にひまわりとかも植えたりして。でも、幸せってさ、難しい。いろいろあって、私は小さなアパートに移って、ネコは実家に持ってきて」
 眼下に広がる草原を眺めながら、君枝はタバコが吸いたいなと思った。彼氏と暮らしていたころは、毎日たくさん吸っていた。二人でタバコばかり吸っていた。
「ねえ、一樹君、お父さんが知ってるかもしれないけど、ネコちゃんはちゃんと定期的に予防注射とかしてもらってね。病気にならなければ長生きするから」
「何年ぐらい?」
「さあ、どうだろう。十年はオーケー。二十年近く生きることもあるらしいわね」
「ねえ」と少年が言った。「また下におろしていい?」
「もちろん」
 少年は抱いていたネコをおろして、早足で前に出て「みーちゃん、こっちこっち」と言った。
 子ネコはよくわからないようで、きょとんとしたままだった。みーちゃんという名前も、ここで決定されたばかりなのだ。それでも少年に続いて君枝が早足で前に進むと、目を丸く開いたまま二人を追ってきた。まだ速くは走れなかったけれど、人間の早歩きぐらいのスピードはあった。
 君枝はみーちゃんの関心が少年に向かっているのを確認してから、脇の草むらに入って立ち止まった。しばらく少年と子ネコが先に進んでいくにまかせた。
 
 もうじき夕暮れだった。
 日曜の土手の広い空間に「みーちゃん、みーちゃん」と呼ぶ少年の声が神秘的に霞んで響いた。
 初対面の少年の屈託のない声が、なぜか君枝にはいろんな記憶とつながっているように感じられた。そして理由もわからないまま、過ぎ去ったはずの時間が突然、洪水のように襲ってきた。
 学校に通っていたころの同級生たちの声。授業の開始を知らせるチャイムの音。大人になって出会った恋人。メグをかわいがる彼の優しい声。彼の匂い。体温。過去のこととは思えないくらいにはっきりと。
 過去のことでしょ? 君枝の心の問いに、背後で彼が苦笑するのが感じられる。違うの? 過去じゃないの? 
 君枝は肩越しに懐かしいぬくもりを感じた。よく後ろから君枝に抱きつき耳にキスしてきた彼。くすぐったくて、いつも首をすくめてしまう。目を閉じると、タバコ臭い息も。そして確信した。これは幻ではない。やっぱり本当の彼だ。戻ってきてくれたのだ。もう振り返るのは怖くない。彼は私の後ろにいるのだから。

 目を開けて背後を見た君枝が、やはり自分一人で立ちつくしていることを知ってからも、すぐには現実が信じられなかった。蘇った記憶は残酷なくらいリアルに彼女の中にあった。
 すべて過去のことなのに。
 もう二度と戻ってはこないのに。
 君枝は一人じっと立ちつくし、大きな何かと闘い続けた。小ささな自分に比べるとあまりにも大きすぎる何かと。せめてもの救い糸をたどるかのように、心の中で願った。少年に向かって「みーちゃんのこと、大切にしてね、いつまでも、いつまでも」と祈りを込めて。


(2001年6月/2006年6月改)