白く輝く雪の街で



 新しい土地に住み始めるとき、自分が裸になったような気分になる。実際、多くの意味でその通りなのだ。無防備で、すべての人々の一番下っ端になったような弱々しい心と、不安な立ち位置。
 ステレオイヤホンを耳にさし、ビートのきいた音楽で気持ちを奮い立たせようとしてみるが、しょせん、音楽は、音楽だ。僕の現実は、新参者としての無知と、無知からくるウツな気持ちに、容赦なく直面せざるを得ない。
 ガスやインターネットの手配もまだだし、夜の食事や暖房についても、確たる予定を持っているわけではない。しかしここは北海道であり、まだ3月だ。無計画に夜を迎えたら風邪をひくくらいではすまないだろう。
 僕はこの街の郊外にある大学の新入生として、午前中は一階の広い教室でガイダンスを受けた。専門課程の選択方法や、希望提出の締め切りについてなど。
 それを終えると、多くの学生はぞろぞろと食堂に向かっていったが、僕は一人暮らし用の日用品の買い出しという現実的な目的をクリアするために、市街地まで歩くことにした。カチカチに凍った根雪に、昨夜の新雪がかぶり、白く輝く風景に目が痛くなってくる。
「関川君、ひさしぶり」
 と美紀が声をかけてきた。
「まぶしすぎる。目が痛くなるね」
「こっちはいつもこんなふうよ。目が弱っちゃったんじゃない?」
 僕は大学を卒業してから、しばらく都会で夜勤中心の生活をしていた自分を思い出し、苦笑する。
「かもね。サングラスでも買おうかな」
「紫外線防止の普通のメガネでもいいかも」
「その方が普通だね」
「街まで行くの?」
「たぶん」
「たぶんって?」
「ていうか、何から手をつけたらいいかわからないんだよ」
「どういうこと?」
「まだうちにはガスも来てない」
「おいおい」
「いや、電気と水道はやったんだけど、わすれてて」
「使うんでしょ、風呂とか料理で?」
「一人だし風呂は銭湯でいいと思うんだけど、一番近いところにある銭湯を、まだチェックしてない」
「ちゃんと調べないと」
「そのとおりなんです」
「で、とりあえず、何をしにいくの?」

 僕は、何をしようとしていたのだろう?
 本当の意味では、何かの目的を持つという以前に、僕はまず、この街になれたい、という願望があった。だから、歩きたかったのだ。まだ、昼を過ぎたばかりで、日没までには時間があるはずだったし。

「街を、見ておこうと思って。自分の目で。それをすましてからじゃないと、落ち着かない。落ち着かないと、うまく思考ができない」
「じゃあ、メガネでも買いに行く?」
 僕は苦笑して、首を振った。
「引っ越し後は、いろいろ金がかかりそうだから、出費は慎重に。それより、美紀さんは?」
「似たようなものよ。特に目的はないけど、家でじっとしているより街に出た方がいいかなと思って」
「買い物というわけではなく?」
「本屋に寄ったら、たぶん何か買うと思うけど」
「本か。真面目なんだね」
「真面目じゃないよ、べつに」

 そうだね。真面目なんて言ってしまった自分が、ふと、猛烈に悲しくなる。

 根雪に新雪がかぶり、とてもすべりやすい歩道を、慎重に歩いていく美紀の後ろ姿。
 そのピンク色のジーンズが、やはり男子とちがって、おしりのあたりが丸くふくらんでいる。いまさらながら、不思議なほど可愛らしく思えてしまう。性的な魅力ということは脇に置いておくとしても、そのピンクのジーンズの適度なふくらみは、冬の昼の光の中で活き活きと輝いて見えた。

「ここ、入ろうと思うんだけど」
 と美紀が指さして提案した。
 かなり大きな建物だった。以前はデパートに併設された飲食コーナーで、ハンバーガーショップやフライドチキンショップなどが周囲に並んでいた。いまはデパートが撤退し、飲食店のテナントもなくなり、かわりに全体が一つのレストランになっていた。
 中に入ると、「いらっしゃいませ、お好きな席におかけください」と声がかかる。
 美紀は迷わずにカウンターに向かい、背の高い椅子に腰掛けた。
 僕が横に座ると、すぐに女性店員がやってきて、二人間前に小皿と箸を置いた。
「私はコーヒー。関川君は?」
「自分もコーヒーで」
 すると、女性店員が「コーヒー、二つ、いただきました」と大きな声で述べ、他の店員たちがガッツポーズをして「ありがとうございます」と応えた。
 これがこのチェーン店の名物だった。ちょっと体育会系だけど、思わず微笑んでしまう演出だった。
「わかる?」
「え?」
「小皿に好きなものとってきて食べていいの。ていうか、とってきたら、店の人に計算してもらって、だけど」
「あ、そういうシステムね」
「じゃあ」
 と,美紀はさっそく小皿を持ち、サラダコーナーに向かった。
 僕は店内を見回してみた。北の街で生野菜が贅沢品なのは理解しているが、やはりサラダコーナーは貧弱な感じ。ポテトや茹でニンジンなど、火が通った野菜の方がメインかもしれない。白いターキーや、脂身のおいしそうな焼きベーコン。パンはロールパンと、スライスしたものとの二通り。
 僕は、一瞬、クラクラとめまいがした。ここはどこなんだろう。美紀なんていう友達が、僕にいたのだろうか? 
 美紀はサラダとパンを盛りつけた小皿をカウンターの中のウェイトレスにわたし、計算してもらってからおもむろに食べ始めた。
 そしてコーヒーもやってきた。
 僕は、まだなにも載っていない小皿を前にして、コーヒーをそのまますすった。
「美紀さんは、元気だった?」
 彼女は笑みを浮かべて「どうしたの、急に改まって」と逆に聞いてきた。
「ヘンな話だけど、僕は正直なところ、君が思い出せないんだ」
「そんなの、よくある話じゃない?」
「そう? 君は、僕のことを憶えてるんだよね?」
「だって、有名よ、関川君と言えば」
 僕は、予想していなかった答えに、とまどう。昔の自分が、なにか有名になるようなことをしたのだろうか。そのような記憶は、僕には何もなかったけれど。
「もしかして、僕がいないあいだに、何かあった?」
 美紀は首を振り、「そういう意味じゃない」とあっさり否定した。
「わからないな」
「それより、何かとっておいでよ。これがお昼でしょ? ちゃんと食べないと、一日が元気にすごせないよ」
「そだね」
 僕は小皿を手にして椅子から降り、窓辺からの光があふれる一角に向かった。その光のシャワーの中にある棚は、すべてが不思議なほど気高いもののように感じてしまう。
 そういえば、これがこの街で最初のきちんとした食事だった。コンビニのおにぎりなどではなく。パンと、サラダと、ベーコンを皿に取る。席に戻ったらサンドイッチにしよう、と思った。取り放題というわけではなく、それぞれに料金がかかるので、多すぎないように配慮して。
 僕が横に腰掛けると、ケイタイを確認した美紀が「ごめん、待ち合わせ、ここじゃなかった」と急に言った。
「え?」
「いい機会だし、友達を紹介できると思ってたんだけど、早とちり。ぜんぜん違う店だった。ごめん。ね、よかったら、これも食べて。私、行くから」
 と、美紀は千円札を一枚置いて、すぐに出て行ってしまった。

 僕は一人で、ベーコンとレタスを挟んだパンを食べる。まずくはない。しかし特においしいわけでもない。こうして食べることで、身体が動く。時間が過ぎる。月日が積みかさなる。
 ……なんのために?
 目的について考えると、急に自分が、アリのようにちっぽけな存在に思えてくる。雑誌編集とか、ネット通販とか、そういう仕事は、手の届かない幻の仕事というわけではない。しかしそれらは、多くの人々に読者になってもらい、お客様になってもらわねばならない。一定数の人々と『関係』を持たなくてはビジネスとして始まらない。そのことが、いまさらながら、とてつもなく高いハードルに思えてしまう。例えこちらから言葉を投げかけても、あちらがわの人々が関心を持ってくれなければ、そのまま闇に消えるのだ。

 僕はコーヒーカップを両手で包むように持ったまま、目を閉じた。
 さっきまでの光の乱舞が網膜に残り、落ち着きのない状態が続いているが、僕自身はそのざわつきを冷めた心で見ている。新入生としての大学生。雑誌編集者としての苦い記憶。美紀の親しげな笑顔。どれも、光の乱舞のようなものだ。収拾がつかない。けれど、それはそういうものなのだ。
 なんにしても、やるべきことは、いろいろあった。ガスの手配もそうだが、今部屋にある暖房は、持って来た電気ストーブのみ。北海道の夜には、気休めにしかならない弱いものだ。石油ストーブを、買うなら買わなければならないが、灯油はどうしたものだろう。ポリタンクを買って、ガソリンスタンドに自分で行くのか? とりあえず今夜は布団にくるまって過ごすにしても、そのへん、ちゃんとしないと、部屋で何もできない。手が冷たくなっては、ギターの練習もできない。

 カウンターに置いてあった白いナプキンに、美紀のメモを発見する。何かを書き残して、折りたたんで去って行ったようだ。
 中を開くと、こんなことが書かれていた。
「君のおそうしきに行けなくてごめんね。でもいつかこんな日がくるだろうと思っていたよ。会えてよかった。さようなら。マイラブ」

 また、わけのわからないことを。僕は、笑ってしまった。ていうか君、「葬式」という漢字、書けなかったんだね。そんなリアリティ、米粒ほども必要ないのに。
 でもまあ、ピンクのジーンズはかわいかったから、よしとします。
 ピンクのジーンズの後ろ姿くらいで満足できるなら、エコだね、自分。エコロジー教育のたまものだね。
 まあ、人間は生まれたときから、いろいろ教育されてしまうものだから。教育というものを押しつけられるし、押しつけてくれる場所にわざわざ通って身につけようとする。
 僕が憶えている限りでは、なんでもたいがい、そんな感じだった。
 
 店の外に出ると、上空には雲ひつとない真っ青な空が広がっていた。
 おもわず空に飛びたつイメージが沸き起こり、心がさらっと軽くなる。
 そして、風の香りを探った。
 僕は、まだ、目的を求めていた。
 いや、正確には、目的を持ち、実現することを求めていた。
 それは希望なのか、囚われなのか、どちらなのかわからない。
 いつからわからなくなってしまったのかすらも、僕にはわからない。
 いずれにしても、わからないことは、わからないと割り切るしかないのだ。
 わからないことを一人でじっと考えていたって、どこにもたどり着けない。
 だから、また歩き始める。
 これからどこに行こうか。










(2013 10/8)