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自分の中で、
消えていくもの・・・
村上春樹さんが
好んであつかうテーマかも。

冬のスキー場の話ですが
書いたのは六月。

初めて、ホラーを意識して
書いた小品です。
(N)




 怪談話をありのまま語るのは縁起がよくない気がするので、ここで主人公の名前を仮にTとしておく。それが、話を書いている僕に起こったことだったのか、知人から聞いた話だったのか、そのへんのことは、読み手の想像におまかせする。
 Tは、三十後半で、妻と一人子供がいる。家族を大切していて、浮気はしたことがなかったが、それでもときどき息抜きは必要だった。学生時代からの男仲間だけで旅行に行くことがあった。海に行ってたき火を囲んで宴会したり、スキー&温泉の一泊旅行をしたり。そんなところで「海は紫外線が強い」とか「スキーは足が痛い」とか言われる心配のない男だけの集まりは、なかなかいいものだった。
 その年の二月、Tたちは新潟のスキー場に向かった。越後湯沢あたりにあるスキー場の一つで、その宿には学生時代から寄せてもらっている。本当はたまには違うところに行きたいという気持ちもあったが、だんだん不景気でスキー離れが進む中で、お金を使うのならどうしても以前からお世話になっている宿に、と考えてしまう。
 建物は古くなっていたが、サービスに不満はなかったし、夜の酒やつまみも打ち合わせなしでちゃんと用意してくれる。料金も「男仲間だけの遊び」として罪悪感を感じほど高いということはなかった。

 その日、早朝に車で出発したTたちは、昼にはゲレンデに立っていた。コンディションは悪くなかった。日中は小雪がちらついたりもしたが、夕方頃にはよく晴れて、気持ちよく急斜面を駆け抜けた。
 日暮れまで滑ると、板をかついで50メートルほど歩いて宿に戻り、いったん車で温泉に行ってから、食堂で夕食を食べた。肉やら、イカやら、野菜やら、なんでもありの鉄板焼だった。久々にしっかり運動して、温泉につかってからの、料理とビール。ささやかながらも、本物の開放感を味わえた。
 Tは本当はナイターもやりたいと思った。食堂の窓からはゲレンデが少し見えた。白と黄色の明かりの列が木の枝のように広がり、小さな人影が滑っていく。ずっと昔、恋人とナイターを滑ったことを思い出す。それは今の妻ではなく、もっと気性の激しい美人の恋人だった。ナイターのカクテル光線の中で、彼女が幸せそうに微笑むと、Tはここで時間が止まって人生が終わりになってもいいと感じたものだ。もちろんそれで人生は終わりにならなかったし、Tの人生の連れ合いになったのは別の女性だった。筋道の通った結論で、後悔などは何もしていなかったけれど、この場所に来てナイターの明かりを見ると、どうしても思い出してしまう。

 食堂から部屋に引き上げてからも、しばらく酒を飲んでいたが、やがて眠気が襲ってきて、それぞれが布団にもぐり、Tが最後に部屋の明かりを消した。
 ときどき風の音が聞こえた。地球温暖化のせいで雪の量は昔に比べてめっきり少なくなっていたが、今夜は強い寒波が来ているらしい。
 うとうとしかけたTだったが、飲み過ぎたビールのせいで、トイレに行きたくなった。布団を出てトイレに行ってから、食堂に降りて茶を少し飲もうとした。階段を下りると、いったん玄関のそばを通るのだが、誰かが玄関の戸を叩いている。
 もう時間は午前2時近かった。玄関の柱に時計がかかっていたのでまちがいない。
 とんとん・・・とんとん・・・
 遠慮がちだが、確かに誰かが戸を叩いている。宿泊客の誰かが外出していて閉め出されたのだろうか?
 Tはそこにあったサンダルを履いて、玄関の戸にかかっていたカーテンを開け、磨りガラスの向こうをうかがってみた。人影はないようだが、よくわからない。ねじり式の鍵を開けて、戸を開けてみた。
 さっと冷たい風が吹き込んできた。Tはジャージの衿を寄せて外をうかがったが、誰もいなかった。新雪がうっすらと玄関の辺りをおおい、特に足跡らしきものもなかった。
 気のせいだったようだ。きっと風で戸が鳴っただけなのだろう。戸締まりをして、カーテンを閉めて、お茶を飲もうと食堂に向かおうとする。
 また、音がした。
 とんとん・・・とんとん・・・
 Tは身体が固まった。なんだろう、あの音は。確かに誰かが戸を叩いているように聞こえる。無視して寝てしまおうか。
 じっとその場に硬直したTだったが、さらに何度か叩く音を聞いたあと、「もう一度だけ」とつぶやいて、サンダルを履いて、カーテンを開き、戸の鍵を開けた。
 やはり外には誰もいなかった。人影のない道を、数件の宿の看板の明かりが照らしているだけだ。
 やれやれと戻ろうとしたとき、誰かがTの腰をつかんだ。え、とTが見ると、戸に隠れるように幼い子供がいた。四歳ぐらいだろうか、赤いスキー服は普通のものだったが、その子供には頭がない。
 Tは逃げようと後ずさりしたが、身体が思うように動かなかった。ジャージの腰の所をつかんだ子供の力は弱かったが、その弱い力にあがなうことができない。
 それでも、手に力を込めて、なんとか戸の中に入った。
 子供も入った。じっとTの腰をつかんだままだ。
「ね・・・ねえ、なにか、ようですか?」
 とTは震える声で話しかけた。全身が金縛りにあったようで、それだけ口にするのもやっとだった。
 子供は玄関の中にあったスキー立てを指さした。
「き、きみ、スキー、するのかな?」
 子供はTの腰をつかんだまま、スキー立てに歩み寄り、一つのスキーを指さした。それはTの板だった。
「もももももしかして、この、板に、なにか、恨みでも? なにか、滑っていて、草木を折って、それが化けてきたってわけ?」
 しかし子供はじっと板を指さすだけだった。どうしたらいいのかわからないながらも、Tは板をスキー立てから取り出した。
「これ、僕の板なんだけど、どうするの? これがほしいのか? よければ、プレゼンとしてもいいよ。でも、まだちょっと使えないと思うよ。大人になってから使ってくれるかな。それでよければ・・・」
 しかし子供は、欲しいわけではないようだった。板をTに持たせ、外に出ようと引っ張った。
「外に行くのか? ちょっと、まってよ、寒いぜ。それに、スキーするんなら、スキーブーツ履かないと板に乗れない」
 子供の引っ張る力が止まり、ジャージから手を離した。そしてじっとたたずんだ。
「まじか? おまえ、スキーしたいのか? 僕といっしょに?」
 子供はそのままじっとたたずんでいたが、どうやらそうしたいらしい。
「やれやれ」とTはつぶやいた。「じゃあ、ちょっと上着を着て、ブーツ取ってくるから待ってな。こう言っちゃなんだけど、おまえ、首から上がないし、普通の姿じゃないんだから、誰か来たら、驚かれないように、ちゃんと隠れろよ。ま、すぐ戻ってくるけど・・・」
 Tは、いつのまにか金縛りがとけた気分で、階段を上がって皆が寝静まっている部屋から自分のスキー服を持ち出して、廊下で着てから下に降りた。ブーツは玄関脇の乾燥室にあったが、それを持って出てくると、すでに子供は玄関の戸を開けて、Tを誘うように待っている。
 Tとしては、不安がなかったわけではない。しかしその誘いに抵抗できる気はしなかった。子供が悪意ある存在でないことを祈りつつ、ブーツを履いて、スキー板とストックを持って外に出た。
 子供はTの前を滑るように進んでいった。子供が進んだところに足跡があるかどうか、Tは確認したかったが、恐くて下を見ることができなかった。実際、子供は、歩いているというより、宙に浮いて進んでいるように見えた。Tは、その後を追った。子供がスキー場の明かりの消えたゲレンデに来て、そのまま斜面を登っていくのにもついていった。
 何軒かの宿の看板の明かりも遠くなり、暗い雪の斜面をTは息を弾ませて登っていった。
「どこまでいくんだよ?」
 と声をかけても、頭のない子供は、何も応えなかった。無言のまま、Tよりも少し先の斜面を音もなくゆっくりと進んでいく。
 こんなことしていていいんだろうか、とTは考えた。こんなふうに「ばけもの」に誘われて、雪山で命を落としたりしないだろうか。雪山で凍死するというのは美しい死のような気もするが、ここはスキー場のゲレンデだ。数時間前には明かりがつき、人々が滑っていたところだ。我々だって、男ばかりだけど、豪快に滑りまくっていたのだ。昔は彼女と来たことだってある。・・・まさか、水子の霊じゃないだろうな? しかしTが知る限り、彼女が子供をおろしたとは聞いていない。知らされないまま、彼女の側でそのようなことがなかったとは断言できないが、やはりそういうことがあったならば相談はあったろう。だから「たぶん」水子の霊ではない。他に心当たりがあるというわけでもなかったが・・・。
 けれども、こうやっていっしょにだれもいない深夜のゲレンデを登っていると、なんとなく不思議な親しみを感じる。最初は驚かされたが、子供にだって、特に悪気があるようには感じられない。頭がなく、しゃべれないので、不気味ではあったが、なんだか不思議と気持ちが通じあうような気はする。
 おまえ、ちゃんと友達いるのか? とTは心の中で思った。口に出しても、耳のない子供に聞こえることはないだろう。しかし心の中で語りかけたことは、きっと通じる。そんな気がした。
 スキーって、リフトで上がってすべりおりるのが楽しいんだぜ。こんなふうに足で登る乗って、大変だよ。ていうか、おまえは登って疲れるって感じじゃないみたいだからいいな。気持ちの固まり、みたいな感じかな。でも身体がある人間は、そうはいかなくてしんどいとこだよ。
 雲間から、星が見えていた。
 星が見えているって、いいね。現実があるって感じがするよ。「明かり」だからかな。それにしても、かなり暗くなった。ま、目も慣れてきたし、雪ってなんとなく明るいし、なんにも見えないってことではないけど。心配しなくても、おまえの姿もちゃんと見えている。ちゃんと追いかけてるから心配すんなよ。
 ときどき休みながら、いつかTはゲレンデの最上部まで来ていた。歩いて登ってしまうなんて考えもしなかったけれど、子供と一緒だと意外に苦にならなかった。
 子供は山頂で、Tに抱きついた。
 Tも、子供を抱きしめた。
 おまえ、友達いるのか?
 スキー、したかったんだな?
 つかまれよ、いっしょに降りよう。
 左の急斜面に行くから、ちゃんとつかまっとけよ。
 僕は、転ぶからな。
 転ばないスキーなんて面白くないんだ。
 雪にまみれて、笑うんだ。
 いくぞ。
 言葉通り、 Tは急斜面で数回ターンをしたあと、コブに乗り上げて激しく転んだ。
 雪まみれになりながらも、Tは頭のない子供をしっかりと抱いていた。
 ほら、やっぱり転んじゃった。
 わるいな。
 僕はこういうスタイルなんだ。
 ハデに転んで、雪まみれになるのが気持ちよくて。
 さて、またいくぞ。
 Tは今度は少し慎重に、コブの間をウェーデルンで決めていく。
 子供を抱えて、ストックは使わない。
 ストックなしでも、体重移動だけで、板を左右に振っていく。

 おまえ、あったかいな。
 どこから来たのか知らないけど、前から知ってた気がする。

 さんざん苦労して時間をかけて登った斜面も、滑ってくるとアッというまだ。
 滑り終えて、Tがいつもそうするように、自分の滑ってきた斜面を振り返っていると、子供はむずがり、Tから離れようとした。
 Tがおろすと、子供はそのままゲレンデの闇に向かって、ゆっくりと移動していった。
 おいおい、また登るのか?
 しかし子供は、上に向かうのではなかった。
 ゲレンデの隅の、暗い森の方に向かって移動していく。
 そして、小さく、手を振った。
 Tは、急に、切なくなった。
 おまえ、いなくなる気か?
 どこにいっちゃうんだ?
 
 子供はもう一度、小さく手を振った。
 何を考えているのかわかららなかったけれど、とにかく手だけは小さく振った。
 Tも手を振った。
 闇の中に子供が消えてしまうまで、Tはじっとその場にたたずんでいた。
 そうやって子供を見送っていると、自分の中の大切ななにかが消えていくような、もう永久に戻ってこないものになっていくような、経験のない奇妙な気分に襲われた。

 その幼い子供には、たしかに、頭がなかった。
 首から上は、何もなかった。



(2003.6)