書類


 僕はどこにいるんだろう。僕は自分がなにをする人なのか思い出せない。死んでいるわけではないのだ。生きているのだから、なにかしらの生活があるはずだ、ということはわかるのだが、そこから先の具体的なことが、まるでただよう煙を手でつかもうとするかのように、全くわからない。

 目をしっかりと開き、周囲を観察してみる。確かに自分の部屋らしい。憶えがないわけではないのだが、ずいぶん古い記憶とつながっているような感じがする。本当に自分はここで暮らしているのか? わからない。仕事に通わなくてはいけないのか? あるいは高校? どちらも同じくらい可能性がありそうでいて、どちらも同じように明確にならない。
 あるいは、全く別の生き方をしていた自分がいて、今はたまたま思い出せないだけなのではないだろうか。

 ベッド脇のすぐ下に死んだ猫がいた。そのことに僕は驚かない。それはそういうものだ、と思う。このことが自分の記憶を遮断したと考えると、筋が通っているような気がするからだ。たぶん僕はその猫をとても愛していたのだろう。その死はとても悲しいことだったのだろう。あまりに悲しすぎて、僕は自分を守るために、記憶を切断したのだ。
 
 僕はあらためてベッドに横になり、天井を見上げた。話の筋は通っているけれど、さて、これからどうしたものか。何もせず、外とのかかわりのないまま、ここに横になっていていい、ということにはならないだろう。そんなことをしていれば、空腹が襲ってくるし、いずれしかるべき時間になったら誰かが電話をかけてくるだろう。「どうしたんですか、仕事の時間過ぎていますよ」などと。そんなときに、何もわからず惚けた対応をするのは恥ずかしい。できることなら、そういうトラブルになる前に、必要なことは思い出して、生活を再開しなくては。

 まずは、猫だろう。

 死んだ猫の処理をどうすればいいか、という問題だが、生ゴミとして捨てるのはマナー違反だと思うので、役所に連絡して引き取ってもらうことにする。面倒なので有料の番号案内で市役所の代表電話を教えてもらい、代表にかけて必要な部署に転送してもらう。そういうことは、ちゃんとできる。別に、自分は社会生活に支障の起きる精神疾患というわけではない。役所の人も、ちゃんとリアリティある対応をしてくれた。なにも問題はない。

 引き取りの手続きを終えて、とりあえずコーヒーでも、と思い、台所で湯を沸かして、ペーパーフィルターにコーヒー粉を入れ、湯を注ぐ。確かなコーヒーの香りが漂い、カップがいっばいになると、椅子に座って、ゆっくりと口にする。特別美味しいわけでもないが、いつも飲んでいるコーヒーの味だ。

 そしてあらためてベットの脇に目をやると、そこには女性が横たわっていた。僕が愛した女性だった。猫ではない。そのことにも、僕は驚かない。それはそういうものだ、と思う。たぶん僕はその女性をとても愛していたのだろう。その死はとても悲しいことだったので、僕は自分自身の精神を守るために、猫の死と思いこんだのだ。

 とりあえず、連絡するべき役所が違う、と思った。人間の死ならば、市役所ではなく、まずは警察か救急車だろう。ずいぶん話が大きなことになってしまうが、ここにあるものが事実ならば、それはそれとして受け入れなくてはならない。そういう思考はちゃんとできる。社会生活に支障の起きる精神疾患というわけではない。

 どこに連絡するにしても、こういうことになってしまったからには、もう腹をくくらなくてはならないだろう。僕には記憶がないけれど、この部屋の状況から考えて、僕が『犯人』であることは疑いようがない。死んでいるのは30歳くらいの、まだ若い女性で、理由もなく自然に息を引き取ることなんてあり得ない。僕は他者に暴行を受けた記憶もなく、そのような怪我もなく、いつものようにコーヒーを飲んでいる。この場の状況から察するに、僕が彼女を殺した、としか考えようがない。

 憂鬱な事実。

 いっそ、僕もこのまま死んでしまいたい。むしろ、本当はそういう目的を持っていたのかもしれない。今の僕は外との関わりの記憶がなにもないが、いくらなんでも凶悪な犯罪者というわけではないはず。そういう人間ならば、もっと決定的な心の闇を抱えているだろう。僕にはそのような強烈なものはなく、平凡な日常生活によってつくられた、ふわふわとした心の質感があるだけだ。それがいいことなのか、情けないことなのかは、別の問題として、少なくとも冷酷な殺人を犯すような心の闇は自分にはない。

 やがて彼女は目を覚まし、Tシャツとパンツの姿のまま、悩んでいる僕のところに来て「どうしたの?」と優しく言った。
 
 その声の、いつもの優しさが、僕には逆に怖かった。
 愛に、恐怖を感じることもあるのだ、と気がついた。

 猫が死んだと思ったんだ、と僕は言った。ていうか、さっき目覚めたら、自分が誰なのかもわからなくて。仕事とか、ちゃんと行った方がいいのだろうけど、なんの仕事をしているのかも思い出せなくて。

「あなたの仕事は、私と愛しあうことよ。ちがう?」

 彼女のユーモアに、僕は苦笑した。いつも以上の優しさに、僕は驚かない。それはそういうものだ、と思う。同時に、その優しさが、怖いのだ、とも。

 愛と恐怖。
 あるいは、信頼と不安。

 僕は腕を伸ばし、彼女の手に触れ、そのやわらかな感触を確かめながら、大切な宝石のようにそっと握りしめた。
「やっばり、君は、君だね」
「私は、私よ」
「よかった」
 そして僕は彼女を抱き寄せ、いつもどおりに唇を重ねた。すこしだけ舌も絡ませて。エッチな気持ちはセーブして、朝の親しい挨拶として・・・


 今朝の自分は、おおよそ、そんな感じでありました。

 僕の話を聞き終えた『神』は、無表情のまま一回静かに頷き、書類にサインをしてくれた。
 
 僕は、書類を、見つめた。





(2009年8月6日)
写真素材 足成