停車駅


 かねてから噂は耳にしていた映画『停車駅』が、僕の職場の近くの映画館でリバイバル上映されることになり、さっそくチケットを手に入れた。
 この映画はいろいろ特殊な作品なのだが、なによりも上映に際して特別なルールがある。世界中どこで上映されても同様らしいが、一回チケットを買うと、そのチケットで期間中何回でも観られるのだ。かつては若干の追加料金を払うスタイルも容認されていたらしいが(そうでないと映画館がペイしないと考えたのだろう)今では再入場無料が一般的で、僕が買ったチケットもそのルールに基づくものだった。
 ただし何度も無料で観るのは映画館に申し訳なく、外から飲み物や食べ物は持ち込まずに館内の売店で買う、というのがファンの間で確立されたルールだった。映画館側も、そこには力を入れており、駅弁もどきの弁当までたくさん用意してあった。

 内容に関しては、はっきり言って説明するまでもない。一時間ほどの電車の旅である。ただそれだけだ。ドラマは一切ない。ただ主人公がローカル列車に乗り、車窓からの田舎の風景を眺めつつ、目的地に到着して降りる、それだけの映画。某テレビ番組にも似たような短い番組があったが、あれはBGMがしっかり付いていた。この映画にはオープニング以外、BGMすらもない。ほとんどが列車の走る音と、乗客の声のみだ。
 そんなものが映画作品になるなんて普通は考えられないし『一回しか観る機会のない忙しい人は観ない方がいい』というのが一般的な評論だ。数回観てもまだ足りず、何度も何度も観て、初めて価値がわかる映画、ということだ。
 
 職場の近くの映画館は、一ヶ月の上映期間だ。僕は何回観られるだろうか……

 案の定、初回はしっかり眠ってしまった。だって退屈なのだから。きちんと観ていたのは、始まって10分くらいだったろうか。ヨーロッパの田舎の路線で、駅名もまったく知らないし、ざわざわと聞こえてくる乗客の話し声も外国語で理解できない。眠るしかない、って感じだ。
 しかし最初はそれでいいらしい。1500円のチケットで入場し、半分以上眠って過ごし、それでいい、というところが、まず不思議な映画だ。



 僕は職場でその話をみんなにした。「半分以上眠ったけど、それでオッケーな映画なんですよ」と。たいがいは、あきれて相手にしてくれない。そんな無駄な時間を過ごすヒマはない、金もない、との反応だ。それはもっともでございます、人生には他にも大切なことがたくさんあるだろうし、退屈で眠るために行く映画ではデートにもならない。
 職場では相手にされなかったが、これもまた『停車駅』の不思議なところで、何度か通っているうちに映画館で知り合いができた。職場の入っているビルで見たことがあるな、という感じの人がいて、その人を翌日に見かけ、思わず声をかけた。
「あ、映画館で……?」
「あ……!」
 僕たちはエレベーター前のロビーで「どうもどうも」と頭を下げ、礼儀正しく名刺交換をした。別のフロアに入っているシステムエンジニア部の斉藤さんとのこと。僕よりも少し若めのぽっちゃりした女性だった。
 エレベーターに載って「どうですか、あの映画」と僕が聞くと「退屈です」とすぐに返事が返ってきた。
「もしも場内が少し明るいなら、本でも読みたいところですわ」
「なるほど、いいですね、それ」
「若杉さんは何回くらい御覧になりましたか?」
「僕はまだ三回目かな。でも、これからしばらくは残業が減りそうなので、なるべく通おうと思ってます」
「じゃあ、またお会いしましたら、そのときはよろしく」
 そして斉藤さんは先に別の階で降りていった。

 その後、一回は一人で観たが、その次の回には斉藤さんと会った。彼女は『男友達』といっしょだった。じゃましては悪いか、と僕は考えたが、斉藤さんは迷うことなく近寄ってきて、その男友達を紹介してくれた。
「矢作さんです。今日はやっと口説いて連れてきました」
「どうも、矢作です。『停車駅』って、ずいぶん奥深い映画みたいだけど、オレについていけるかな」
「ムリすることないし、ムリしない方がいいみたいですよ。どうせただの列車の旅の映画だから」
「そうっスね。ま、ポップコーン食べながら映画を観るのは嫌いじゃないんで、ぼちぼち行きます」
「だね。それがいいよ」
 そして我々は1/3くらいしか客のいない館内で、三人並んでシートに座り、ポップコーンとコーラを鑑賞の友にして、列車の旅を始めた。

 いちおう主人公らしき人物はいるのだ。バスを降りるシーンから始まり、大きなカバンを肩から提げて、よく晴れた田舎道を歩いて行く。そこにある田舎風の駅舎に入り、窓口でチケットを買う。駅員から何事かささやかれると、彼は急いでホームに向かい、そこに停まっていた四両編成の列車に乗り込む。二人ずつ向かい合わせのボックス型のシートには、それぞれ乗客が陣取っており、孤独な彼は戸惑いつつ中を歩いていき、ようやく無人のボックスを見つけると、荷物を下ろして窓辺に座る。
 すると列車は汽笛を鳴らし、ディーゼルエンジンの音を響かせて加速を始める。

 最初の数駅は、雑木林が目につく風景だった。ときどき視界が開けて、民家や、数頭の牛が見えたりする。
 やがて葡萄畑が目立つようになる。美しい風景の山やら谷やらがあるわけでもない。退屈なのっぺりとした大地の上を、列車はときおりカーブしながらマイペースで進んでいく。マイペースといっても、決して遅いわけではない。きちんと加速して、きちんと全力で走り、きちんと減速して停車する。それをくり返す。
 最初の『発見』は、ある駅に停車し、出発しようと加速を始めたところで目に入った。少し離れた引き込み線の上に停まっている作業列車だった。季節はずれの除雪車のようだが、草がからまりついた回転アームのようなものが何本も前や横に付いていて、今は除草車として使われているらしかった。そのアームに、よく見ると青いシャツが絡んでいた。絡まる草に隠れて発見しづらいが、たしかに機械が人を巻き込んだ形跡のようだ。死体はないが、切られたシャツと、少しだけ血が飛び散ったあとが残っている。状況から察すると、昨日あたりに事故があり、シャツを切って被害者を救出し、作業車は状況を確認するためにそのまま放置してある、という感じだ。
 出発する列車から見えるのはほんの数秒だし、画面は特にそこにクローズアップすることもなく、たんたんと移し続けるのだが、いったん気が付くと、その事故の悲惨さが心に食い込み、もっと見たくなる。次に通過するときにはきちんと観察しよう、と心に誓うのだった。

 実はもう一カ所、後半にも悲惨なシーンがあった。こちらは本当に死体が見える。なかなか気が付かないし、特徴の薄い駅が続くだけでは見落としがちになるが、たしかに血を流した女性の死体だった。草むらの隅に無造作にころがしてある。
 駅名は何語かわからず読めないし、予習しようにもヨーロッバのどの路線かは明らかにされていないので(実は巧妙に複数の路線をミックスした映像だとの噂もある)あくまで自分で風景を観察し、一時間あまりの路線を把握した上で、風景の中の『出来事』をタイミングよく観察できるようになってから、ようやく明確に観察できるのだ。

 それでも上映期間が半ばを過ぎると、何度も観た観客が「わー」とか「いや」とか、反応を示すようになった。だから期間の途中からチケットを買って参加し始めた初心者も、何度も観ている人と同様に『出来事』に気づくことができた。

 何か伏線があるのだろうか、と考えてしまう。目の前の風景に示唆される事故や死体は、その向こう側に存在する別のストーリーの示唆となっているのではないか?
 そのことについては、斉藤さんたちとも、映画のあとで議論した。
 ミステリーファンの斉藤さんは示唆論に積極的だった。
「きっとそこには共通する因子が隠されているはずよ。それを発見して読み解くことが、私たちに科せられた課題なの」
 僕はその思いこみには賛成しかねた。
「いや、やっばりこの映画は、そういう人為的なストーリーが全く無いことこそが価値だと思うけどな。いろいろ見所はちりばめてあるけど、それは一つ一つが独立した『風景』であり、いわば現代を象徴する暗喩になっているんだ」
 斉藤さんの男友達の矢作さんは、そういうことはどうでもよく、むしろ素直に列車の旅を楽しみ始めていた。
「オレにはよくわかんないな。でも、いいんじゃないっスか。オレはこの列車の音とか、揺れが、楽しいし、だんだん本当に列車の旅をしている気分になってきてクセになりそうですよ」
 ある意味、矢作さんが、一番正しかったのかもしれない。

 第三の死体を発見したとき、僕は砂をかんだようなザラリとした感触を口の中に感じた。それは正確には『死体』ではなく、ただ人の手の平が落ちているだけだった。白い手の平は、線路にばらまかれた石灰石と区別がつきにくく、なかなか気が付かないようになっていた。そこにも特にドラマがあるわけではなく、風景のひとつとして流れていくだけなのだ。
 その手の平は、広い葡萄畑の先の『R』で始まる名の駅から、しばらく走って、丘を回るカーブで減速し、低速走行の出口付近にあった。
 僕はこの悲しい発見をみんなに伝えたものかどうか迷いはしたが、しかしこれがこの映画の価値となれば、やはり伝えないわけにはいかない。
 そういうシーンがあったことを斉藤さんたち教えて、次に観たときには、そのシーンが近づいてきたとき、うとうとしている斉藤さんを揺り起こし、トイレに立とうとした矢作さんを押しとどめて、一瞬のシーンに集中した。
 そして、いざ、そのシーンになると、僕は「あー」と悲しい声を少し大きめに発した。映画館に来ているみんなにも気が付いてもらいたかったからである。

 それから僕以外の多くの観客も、死体探しがテーマとなっていた。もっと何かが隠されているのではないか、と、まるで雑誌の『間違い探し』のように、スクリーンの細部まで観察し続けた。
 よく見ると、ときどき光線の関係で、窓ガラスに列車の車内が映る瞬間がある。そこに何かのヒントが隠されているのではないか、と詮索してみるが、どうもそこには何もないらしい。
 タイトルの『停車駅』というところからして、駅のホームにいる人にヒントが隠されているのではないか、と考えてみるが・・・以下同文。

 何度も観ているうちに、やがて映画のつなぎ目や、天候など、制作・撮影に関する裏事情が透けてみえてくるようになった。最初に主人公が駅に着くシーンではよく晴れていたのに、旅の半ばでは雲が多くなってくる。急に晴れたりもするが、それは自然の雲のイタズラなのか、それとも別の撮影フィルムをつなぎ合わせたから変わったものなのか、どうもはっきりしない。
 駅舎の窓ガラスに映った我々の乗る列車が、違うものであることがわかるシーンもいくつかある。最初に主人公が乗り込んだ四両編成の列車は紺色だったが、ガラスに赤い列車が映っているときがある。グレーのときもある。
 なぜ?
 その色に込められた監督の意図は?
 
 様々な憶測をしたくなる。それがこの映画の魔力だった。ほんのわずかなことだが、観るたびに期待に応えてくれる細部の発見がある。そして何を発見しても、その関係性が明確にならない。明確にならないから、考えてしまう。斉藤さんたちと議論し、仮説を立てて再挑戦するが、やはり確証には至らない。



 上映終了が近づいてくると、我々はもうすっかりの路線に精通していた。まるで学生の頃に通学で利用していた列車のように。
 ストーリーの答えは見つからなかった。たぶんそれは、見つからないように造ってあるのだ、という結論にようやく達する。他の観客たちも、だいたいそんな雰囲気だった。

 最終日に向けて、だんだんと観客が増えていった。もちろん無料で入った客たちだが、ほとんどの人が売店で飲み物とポップコーンを買うので、映画館としては立派に儲かるはずだ。
 謎を解くことをあきらめた観客たちは、このスクリーンの中の列車に『同乗』することを楽しみ、残り数回で終わってしまうことを惜しみ始めていた。

 そして、ついに最終日となった。
 我々はいつも通り、ポップコーンとコーラを並んで買い、客席に中に入ると、すでにシートは埋まっていた。通路にも人があふれており、仕方なく右の壁際で観ることにした。
 
 照明が暗くなり、すっかりお馴染みのオープニングがスタートする。主人公がバスを降り、駅に着き、早足で列車に乗り込み、ようやく空いたボックスシートを見つけて落ち着く……
 
 雑木林や、牛たち、葡萄畑などが過ぎていき、青いシャツのからまった作業列車はいつも通りそこに放置され、見つけにくい死体や、石にまぎれた手が通り過ぎていく。

 終了が近づくにつれ、なぜか僕は胸がいっぱいになってきた。流れ去っていく風景を、これが最後と食い入るように眺めていると、泣きそうにすらなった。

 そして、ラストシーン。
 そこまでは全て同じだったのに、この最終回の最後のシーンだけ、主人公は降りるべき駅で下りなかった。カメラスタッフが席を立ち、ホームに降りると、主人公を乗せたまま発車していく列車を見送った。
 最後はスタッフのテロップが流れることもなかった。風景のはてに走り去っていく列車の余韻がゆっくりと消えていくと、微かな風音が残った。マイクと擦れて吹きすさぶガサガサとした風音ではなく、若葉をゆらす柔らかい初夏の風音だ。

 我々は、思いを共有し、喜びと悲しみをあふれさせ、泣いていた。
 
 




(2008年11月15日)