
大学生の順(ジュン)は、正月を埼玉の実家で過ごした。大学は都内だったので通えないこともなかったが、片道2時間はかかる距離だったので、普段は杉並のアパートで一人暮らしをしている。今年は3日の夜にアパートに戻る予定にしていた。母親は「もっとゆっくりしていけばいいのに」と言うが、彼には4日からバイトが入っていた。親が金持ちでタップリ仕送りしてくれるなら話は別だが、学費・家賃・食費以外の遊ぶ金など、例えばスノボに行く旅費などは、すべて自分で工面しなくてはならない。苦しいながらも、今年はなんとか2回滑りに行く計画を立てていた。
少し早めの夕食を、両親、姉夫婦、姉夫婦の娘の6人で囲み、食べ終わると姉夫婦が車で駅まで送ってくれることになった。田畑に囲まれた自然の豊かな実家は、休日をのんびり過ごすには悪くないところだったが、駅まではバスで20分以上かかる。それに正月休み中はバスの本数も少ない。ジュンとしては姉の世話になることは避けたかったが、ここは大人しく好意に甘えることにした。
「でも、お母さんから焼き鳥いっぱいもらったから、途中で配ってくるね。別にいいでしょ?」
と姉がジュンに言った。
「え、なんで焼き鳥なの?」
ジュンは『そんなことしてないでさっさと駅につれてけよ』と心の中に浮かんだ本音を隠すように、意外そうな表情をして訊いた。
「お父さんの知り合いで会社リストラされて焼鳥屋始めた人がいるのよ。夕方、持ってきたんだって」
「ああ、それでいっぱいあったんだ」
「ていうか、あんた、知らなかったの?」
「だって夕方はセラオさんたちとサッカーしに行ってた」
世良雄さんというのは、姉の旦那のことだ。
「そうかもしれないけど・・・。でね、あれ、美味しかったし、ちょっと持っていってあげたい家が三つほどあるのよ。途中で寄っていいでしょ?」
「べつにいいよ」
「駅まで行く途中なのよ」
「いいって。今日中に着けばモンクないから」
「今日中なんて、そんなに時間かからないわよ」
「だといいけどね」
「ねね、ジュンちゃん」と香織が嬉しそうに訊いた。「ついでに、うち来る?」
香織は小学三年になる姉の娘だ。
「いいけど、もうあまり遊ぶ時間はないと思うぞ」
「ハムちゃん、見せてあげるから、来て来て」
「まあ、少しぐらいならいいけど」
しかし予想通り、なにかと時間はかかるものだ。ジュンは予想していたから特に腹は立たなかったけれど。世良雄さんの運転する古いワーゲンゴルフに乗り込んで実家をあとにすると、まずは姉夫婦が住んでいるマンションに寄ることになった。マンション前に車を停めて三階の部屋に入った。
「ねね、ジュンちゃん、ハムちゃん、こっち」
と香織がさっそく手を引いてジュンを導く。
「香織、あわてるなよ。今、暖房いれるから」
と世良雄さんがエアコンのリモコンを探した。
実家からもらってきた荷物を玄関に置いた姉は「まず平野さんのところに行って来るわね」と、そのまま隣の上の階の住人に焼き鳥を届けに行った。
ハムスターは二匹いたが、どちらも寝ぼけているような表情だった。部屋の中が冷えていて動きが鈍いということもあっただろうが、「ハムちゃん、ハムちゃん」と香織に声をかけられても、小さな目を半開きにしただけで動こうとはしない。
「これ、元気、なくない?」
ジュンは正直に感想を口にした。
「お腹、すいてるのかなー。ねー、おとーさん、ハムちゃんのヒマワリの種は?」
「オレが知るかよ。そのへんにあるんじゃないか?」
「ていうか」とジュンはさらにつぶやいた。「あんまりお腹がすいているようには見えないんですけど」
「どうして?」
「お腹がすいているというより、いきなり電気がついて、寝ぼけてて、電気消して寝かせてくれ、っていうふうに見えるんですけど」
「そお?」
「ちがうかな・・・」
「でも、いいの」と香織は強引な笑顔で頷いた。「ハムちゃんは、食べると元気!!」
強引な結論を下し、正月らしく整頓された部屋の一角からヒマワリの種の袋を発見した香織は、カゴの上から二匹のハムスターめがけてヒマワリの種をバラバラと落下させた。
「食え、食えー」
ハムスターたちは迷惑そうに目をぎゅっと閉じた。『これって虐めじゃん』とジュンは内心思いつつ、いちおう微笑んだ。
「ジュン君、酒でも飲んでいくか?」と世良雄さんが言った。「お父さんのところじゃあまり飲む雰囲気じゃなかったし、よかったらなんでもあるよ」
飲む雰囲気じゃなかったのは世良雄さんの運転があるからで、その状況はまだ変わってないと思うんですけど、とジュンは心の中で思った。飲まない親子を前にして、一人で酒を飲んでも美味しいとは思えない。
「いや、いいっす」
ジュンは『迷惑顔で目を閉じたハムスター』を思い出し苦笑した。
「そうか・・・、もしよかったらまだ開いてないのもあるから、持っていきなよ」
「いいですよ、悪いですから」
「気にしなくていいさ。どうせオレも家ではあまり飲まないからね」
部屋の明かりとアエコンのスイッチを入れてしまうと、もう何もやるることがなく手持ちぶさただった世良雄さんは、さっそくキッチンに入っていった。
「えっと、ビールと、ウイスキーね。ワインも飲む? ま、これはうちで飲むとするか・・・」
基本的に貧乏しているジュンとしては、アルコールの差し入れはありがたいところだった。ここは素直にいただいて帰ることにしよう。
「ねえ、おとうさん」
「なんだ、香織」
「ハムちゃん食べないよ。病気かな?」
「大丈夫だよ」と世良雄さんは、あまり似合わない父親的な声で諭す。「もう眠いんだよ。みんな、ねんねする時間だからな」
「あのねー、まだ8時だよぉ」
「香織もちょっと前までは8時で眠いーって言ってたのにな」
「言ってないー」
「子供っていうのは速いね、成長が。ははは」
酒類を手提げ袋に詰めた世良雄さんが苦笑しながら、酒の入った手提げ袋をジュンに差しだした。
「僕もいつか『子供っていうのは速いね、成長が』なんてつぶやくときがくるのかな」
とジュンは一人で縁石に座って考えこんでいた。世良雄さんとの会話はいつも微妙な感じだった。姉の性のパートナーだということもついつい心に浮かぶし、雑な性格の姉とデコボココンビといえる几帳面な世良雄さんは、ジュンとかなり性格が重なる。悪い人ではないといつも思うのだが、一緒にいてうち解けた雰囲気にはなれたためしがない。
姉の『焼き鳥デリバリー』で、車で行くところがあるという。ジュンも誘われたが、どうしてもいっしょに行く気がしなくて、マンションの近くのコンビニで待つことにした。もし世良雄さんが運転するのでなく姉が運転して、その間に車で香織と二人で待っているなら苦にはならなかったと思うが、世良雄さんがいっしょだとどうも間が持たない。それに姉の『焼き鳥デリバリー』は『立ち話付き』で長くなることが予想される・・・
コンビニで雑誌を立ち読みしていると、上着のポケットのケイタイが鳴った。アネキからだった。
「あのさ、ジュン、わるいんだけど、大友さんちに寄ったら上がっていきなって誘われて、三人でお茶をいただくことになったの」
「いいよ、べつに」
「わるいわね。あんたも来ればよかったのに」
「気にすんなよ。大友さんなんか知らないし」
「それもそうね」
「言っただろ。今日中に着けばモンク言わないから」
「それって、あてつけ?」
「あてつけはそっちだろ。コンビニで待つって言ったら、ホントに遅れるし」
「悪いとは思ってるのよ」
「いいよ。べつに悪いと思わなくても。送ってくれるだけでも感謝してるから。ゆっくりしてきて」
「べつにゆっくりはしないけど」
「自分はここで待つのは全然苦じゃないから」
「うん、じゃ、悪いけど、そういうことで」
「はいはい」
しかしコンビニにあるのは年末特別号の古い漫画雑誌ばかりだったし、夜になってからあまり長い時間立ち読みするのは気がひけた。そもそも実家でのほほんとした雰囲気に包まれ、ぼやけきった気持ちでいるところに、さらにドロドロの漫画など読んだら、ますます自分がダメになりそうな気がして、ジュンは缶コーヒーを一つだけ買って、外で星を眺めることにした。コンビニの照明は強力だったので星はたいして見えなかったけれど、オリオンの三つ星はすぐにわかった。駐車場の隅のコンクリートブロックに腰掛けて、ホッと一息。
すると猫がやってきた。痩せた白黒の猫で、いきなり「にや〜」と媚びたような鳴き方をする。ジュンは「おいでおいで」と手を差しだした。素直に手を差しだされると、さすがに少しは警戒したようだが、そんな躊躇もつかの間、すぐにジュンの手にすり寄ってきた。
「にや〜」
「寒いよな。コーヒー飲むか?」
猫が笑ってくれるわけではなかったが、実家の真面目な人たちに冗談言うよりマシ、とジュンは思った。猫の頭をなでたり、ノドをさすったりすると、猫はそれを求めていたかのようにグイグイと手にすり寄ってくる。
最初は薄暗くて気がつかなかったが、その猫は目がおかしかった。目やにがたっぶりついていた。小柄で痩せているのも、たんに若いだけではなく病気なのかもしれない。
やがてもう二匹、似たようなやせた猫がやってきた。片方は最初と同じ白黒で、次は茶トラだった。あとから来た猫たちも警戒心はなく、いきなり「にや〜」とジュンにすり寄ってきた。
一匹目で気がついていたから、他の猫のこともすぐにわかった。目の病気は共通していて、茶トラは皮膚病もあるようだった。身体のあちこちの毛が薄くなって地肌が覗いていた。
ジュンは猫の病気が人に移るとは考えなかったし、それを除けば人なつっこい可愛い猫たちだったので、コンクリートブロックから降りてしゃがみ、両手で三匹を交互になでてやった。
この猫たちは、きっと恵まれた生き方をしているわけではないだろう。しかし一緒にいると不思議とあたたかい。優しい気持ちの猫たちなのが伝わってくる。全ての猫が優しい気持ちの持ち主ではないことをジュンは知っていた。それは人と同じだ。強気な猫もいれば、嘘つきでずるがしこい猫もいる。しかしここにいる三匹は善良な猫たちだった。自分たちがつらい思いをしているからこそ、よけいに愛の大切さを知っているかのような。
「なにか食べるか?」
もちろん猫たちは日本語を理解しなかったけれど、それでも交互に「にや〜」と切なげにねだった。
「わかった。じゃ、ちょっとここで待ってろよ」
ジュンが手振りで『待て』と示しても、猫たちはひょこひょこあとをついてくる。しかしコンビニの自動ドアのところまで来て、見知らぬ人が中から出てくると、サッと身を引いて闇にかくれた。
ジュンは売り場の前で、財布を取りだして考えた。そこには千円札が一枚と、小銭たち。上着のポケットには親からの『お年玉』が入っていたが、今はまだ使いたくはない。というか、その使い道はすでに決まっている。だから帰りの電車賃を考えると贅沢はできない。できれば三匹それぞれに猫缶を買ってやりたかったが、それは経済的に苦しすぎた。迷いながらも一つだけ手にとってレジに行く。さっきは缶コーヒー一つ、今度は猫缶一つ。それでもレジを打つ中年男性は朗らかに「ありがとうございました」と笑顔で見送ってくれて、やっぱ、コンビニって、いい、と思ってしまう。
猫缶を開けると、猫たちはまちきれなさそうに鳴き競った。小さな缶のままで食べさせると喧嘩になりそうだったので、コンクリートに三つに分けて置いてやる。三匹は親しい兄弟のように、仲良く自分の分に夢中になる。 「美味しいか? 美味しいよな。知ってるんだぞ。これより安い方もあったけど、そっちはパサパサで美味そうじゃない。こっちはゼラチンみたいなのがプリプリで、ホント美味しそうなんだ」
ジュンはキャットフードで飢えをしのいだことがあるというわけではなかったが、猫を飼っている友人の家でいろいろ猫缶の種類については勉強させてもらったのだ。
一缶を三匹では足りないかと思ったが、食べ終わると三匹とも意外に満足そうな表情をした。口をなめ、首を回して脇や腰をなめ、ジュンの指しだした手もなめた。
「おまえたち、家はあるのか? たぶん、ないからこんな時間に、こんなとこにいるんだろうな。コンビニの人があまった弁当とか分けてくれればいいのにな。そうしたらこんなに痩せいないだろうに。僕は遠くだし、アパート暮らしだから、連れて帰るわけにはいかないけど、早く親切な人に拾われるといいな。目とかも治って、幸せになるといいな」
やがて聞き慣れた自動車の音が近づいてきて、コンビニの駐車場に入ってきた。助手席と後部座席のドアが同時に開いて、姉と香織が出てきた。香織は「おまたせー」と言って走ってきた。しかし近くまで来ると、足を止めて、目を大きく開いた。
「あー、猫さん!?」
「そう。猫だよ」
「わー、猫さんだー、三匹もいるー」
「待ってる間に友達になったんだ。ほら、香織とも友達なれると思うぞ」
「にや〜」
しかし「待って」と鋭く姉が声をはさんだ。「その猫たち、病気でしょ? 知ってるのよ。しばらく前から、このへんにいるの。かわいそうなんだけど、病気じゃ仕方ないわよ。ダメよ。香織、触らないの」
「え〜、だってぇ、猫さん〜」
「いい猫さんなら触ってもいいけど、それはダメ。さ、いいから車に戻りなさい」
香織は「ぐすん」と泣きべそのふりをして、しぶしぶ車に戻っていく。
「ジュン、待たせてごめん。行くわよ」
「ああ・・・」
ジュンが立ち上がると、猫たちも慌てて姿勢を正す。ジュンが歩き始めると、去っていく彼を邪魔するかのように三匹が足にまとわりつく。
「あのな、おまえたち、悪いんだけど、僕はこれから電車でアパートに戻らなくちゃならないわけ。ほんと、すまないけど、猫缶一つが精一杯なんだ。わかってくれよ・・・」
しかしもちろん猫たちにそんな事情は理解できるわけがない。なぜ去っていくの? 友達じゃないの? これからも美味しいもの食べさせてくれたり、優しくなでたりしてくれるんじゃないの?
ジュンがかがんで猫たちを諭そうとしていると、姉がやってきて「しっ。あっちいきなさい」と威嚇した。
「アネキは強引なんだよ」
「こういうのは優しくしたら尾を引くの。中途半端な優しさほど残酷なモノはないって言うでしょ。ダメなモノはダメ。はっきりさせるしかないじゃない。しっ、行きな。行け!!」
姉がスニーカーでコンクリートを打ち付けると、猫たちは身構えて、気持ちをふさぐ。それでも最後の望みを託して、悲鳴のように「にや〜」と鳴く。
ジュンはもちろん姉の行為に腹が立った。いい猫さんなら触ってもいいけど、その猫はダメって? そういうもんかい世の中ってのは? それって最低じゃん。そんなこと言う人間の方こそ、クソだ。ダメなやつだ。リッパに病気だ!!
しかしジュンにも事情はあった。どう考えてもこれ以上の関わりは持てない。猫たちに説明はしたけれど、もちろん理解はしてくれていないだろう。どうしたらいいのだろうか? ジュンには、わからなかった。『中途半端な優しさは残酷』という姉の言葉も一理はある。ときには心を鬼にしてキッパリと別れなければならないときもある。それが人生というものかもしれない・・・
車に乗ると、世良雄さんが「駅まででいいのかい? 待たせちゃったし、なんならもうちょっと東京の方まで送っていくよ?」と言ってくれた。
「いいっす。このままドライブになっちゃったら、香織もいることだし、大変でしょ?」
「じゃ、駅までね」
「はい、すんません」
バックして駐車場から車が出るとき、三匹の猫の姿がちらっと見えた。それが最後だった。
「あれさぁ、いい猫さんたちだったんだよ」
とジュンはいっしょにバックシートに座っていた香織に言った。
「え?」
「病気かもしれないけど、ひとなっつこくて優しい猫さんたちだったんだ」
「かわいそうね」
「ほんと、そうだよ。連れて帰ってあげたいけど、僕は電車だしアパートだし、無理だから・・・」
香織は『アパート』の部分がうまく理解できないようで、黙ってしまった。
「う〜ん、こういうとき、どうするのがいいんだろうね・・・」
「ジュンちゃん」と香織は気をとりなおして言った。「猫さんたち、おともだちになったの?」
「うん。おなかすいてるみたいだったんで、コンビニで猫缶買ってやったら美味しそうに食べたよ」
「香織はダメよ」と助手席の姉がくぎを差す。「自分で責任持てないで優しくするのはよくないの。お互い、悲しくなるだけだから」
「じゃあさぁ、アネキは見て見ないふりしていた方がいいって思うわけ?」
「いや、そうじゃないけど・・・」
「難しいのはわかるよ。でもさぁ、ほっといていいっていう問題でもないと思うんだよね」
「ジュンはまだ学生だから理想主義でいられるかもしれないけど、子供の親となればね、現実の方がデカイわけ」
「そういうこと言ってると、どんどんオバサンになってくよ」
「ひどいー!! アンタね、野良猫にやさしくする気持ちがあるなら、お姉さんに優しくしてくれればいいってもんじゃないの、もー」
「そういうのは、僕の役割ではありませんから」
「役割なんて問題じゃないわよ。役割が問題なら、どうしてあんたは猫に優しくすんのよ」
ジュンはふと姉との言い合いに嫌気がさし、冷たいガラスに顔を寄せてため息をついた。
「ホント、いい猫さんたちだったんだけどな・・・こういうとき、どうすればいいんだろう・・・」
「悩んだって仕方ないの。無視するしかない、それだけ。以上!!」
「アネキはいいよ、それで。でも、正直、後味悪すぎ」
「猫かい?」
と世良雄さんが兄弟喧嘩を見かねたのか、運転しながら口をはさんだ。
「はい」
「ジュン君は『さよなら』って言ってきたかい?」
「いいえ・・・いや、言ったかな・・・わかりません」
「『さよなら』って、はっきり言うのが大切なんだよ。オレもね、なかなかそういうことは、はっきり言えなかった。意味ないとまで思ったもんだ。でもね、言ってみると、わりと納得できるんだ」
「納得・・・ですか?」
「そう。ま、相手の問題でなく、むしろ自分の心の問題なんだけどね。ちゃんとはっきりと『さよなら』って言ってみると、わかるよ。仕方ないんだ、それでいいんだ、ってさ」
ジュンは考えてみた。猫たちに、例え伝わらなくても、はっきりと『さよなら』って言うこと。
「世良雄さん・・・うん、なんとなくわかる気がします。そうですね」
「ていうか」とまだいらつきが続いている姉が、横から意地悪そうに口をはさんだ。「それってとても素晴らしいお話ですけど、もしかして猫というより、人間の女性のことを意味していたりしません? そういう経験、おあり?」
「いや・・・まあ・・・ない、とは言えないかもしれないけど・・・」
「たくさん、おあり? 現在も、おあり?」
「いやいや、そ、そんなことはないよ。うん、そんなことない」
「あなた、なにあせってんの?」
「いや、オレ、全然あせってないし。あせってないのに、どうしてそんなこと訊くかなあ」
「10段階で言えば、レベル9ぐらいのあせりように見えますけど」
「そんなことないって、全然。にはは」
世良雄さんがバッチリとあせっていたのは事実としても、教えてくれたことは間違っていないとジュンはあとからしみじみ思った。駅のロータリーで礼を言って車を降りてから、電車の中でも考え続けたのだ。猫たちとの別れと、『さよなら』を言うことの大切さについて。それはあるいは、一つの死なのかもしれない。別れは、一つ一つが小さな死。そういうことは考えてみればささやかな学生の日常の中でもよくある。通りすがりに親しくなった猫や、バイトで知り合った人たち。・・・違う、きっとそれだけではない。毎日会う人だって、あるいは目の前の一つの風景だって、今日の別れは、それぞれが一つの死。つらい現実。別れと死ばかり。悲しみに埋まっている。だからこそ、せめてきちんと『さよなら』を言うことにしよう。誰のためでもなく、なにより自分自身のために。
そして、次に会ったときには・・・
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