透明性(transparency)

 六月の植物の活気は、ムッとするような匂いと湿度をともなって、僕たちはそれだけでお腹がいっぱいになりそうだった。ときどき雲間から日は差すけれど、だいたい空は白い雲で覆われ続けていた。その日は平日の午後、借り物のエメラルド色のママチャリで、彼女は僕のあとをついて田舎道を走った。
 そのあたりは僕の実家の近くで、満を持して恋人に紹介したくなるような美しい田舎ではなかったけれど、ここにはここなりの雰囲気があり、それはよく言ってしまえば『ナチュラルでワイルド』な自然なのだった。そのむせかえるような六月の匂いは、僕のひとつのルーツなのは確かだった。
 アンドロイドの試作品が乱立しているかのような植木生産地の小道を抜けて、ポッカリと視界が開ける場所まで来ると、ゆるやかな道を下った。ブレーキの音を響かせて下まで来ると、用水沿いの細い道に出た。
 そこから川沿いに、舗装された道をゆっくりと走った。


「先週、どうだった?」
「なにが?」
「忙しかったんだろ?」
「うん」


 ふと訪れるデジャブ。こんな会話を、君とは以前にもしたことがある気がして。


「僕さ、葬式って、好きじゃないんだ」
「それ、好き嫌いの問題ではないと思いますけど」
「そりゃそうだけど、人の死はそういう問題じゃないよ、わかるだろ?」
「まあ、『私は』わかりますけどね」


 ありがとう、と、僕は心の中でつぶやく。あまり口に出して言わないけれど、君の言葉を聞いたとき、僕の心の中には、しばしば『ありがとう』という言葉がこぼれる。上野公園にある噴水の、いろいろ形を変えたり、しばらく休憩しながらも、豊かに宙を舞う水のように。いつも、たくさん。


「私、自転車は、好きなんだ」
「そう?」
「うん。でも、スポーツは苦手だから」
「ゆっくり自分のペースで走ればいいよ」
「だよね」


 君の笑顔の中に、ありがとう、という言葉があふれる。やっばり同じ。君と僕は。


「その丘を回り込んだところに、お寺があるんだ。そこにあいつの墓があるはず」
「大きいお寺?」
「まあね、そういうビジネスは、しっかりしてらっしゃる感じかな」
「ふふ」


 蛇行する用水に沿って大きく道がカーブしたところで、コンクリート製の小さな橋があった。サイクリングコースとして市の説明が書かれた茶色の立て札があり、朗らかに家族が自転車で走るイラストが描かれていた。二人で立て札を読んでから、橋を渡り、自転車を降りて50メートルほどの斜面を上がり、その自転車を道の脇に置いて、寺への入り口をくぐった。


「静かね」
「うん」
「場所、わかる?」
「いや。でも二人で探せば二倍早い」
「そのための私?」
「違いますか?」
「違いますわ」
「まあまあ、そうおっしゃらずに」


 我々は墓場の両脇から別れて攻めた。どうせさほど広い墓場ではなかったし、いろんな人の墓を眺めて歩くのは、僕は嫌いではない。


「あったわよ」
「え、もう?」
「ちゃんと花が添えてあるからすぐにわかった」
「君が見つけるかなぁ。そういう予感はしていなかったんだけど」
「えっへん」


 ありがとう、と、僕は心の中でつぶやく。ここは、むしろちゃんと口に出しても、よかったね。


「祈るの?」
「ああ、いちおうね」


 僕たちは墓の前にたたずんで、しばらく目を閉じた。現実に見えている緑の風景とは別の、心の世界が時空を超えてひろがっている。カナダの清流のような君の匂いが、横からサラサラと流れ込む。生きている僕たちも、いつか死ぬ僕たちであり、その境界というものは、さほど頑強なものではないと、幾ばくかの悲しみを持って感じる。どちらにいても、僕と君は、僕と君だ。
 ふと、君のサラサラとした流れは『源泉からのもの』と感じる。軽く足下をすくわれたような、え、それはないだろと、バタバタしたくなるような焦燥感。
 僕の源泉は、僕自身から発すると思っていたのに、そんなのってアリかな・・・


「君は祈るって、どういうことか知ってた?」
「え?」
「僕は、実は、ずっとわからなかったんだ。目をつぶって、自分と向き合って、さて、どうしたらいいのか、と考えた。ご冥福をお祈りします、と心の中でつぶやいたり。そんなことしながら、さて、ご冥福とは何だ? って」
「子供の時から?」
「そう、ヘンかもしれないけど」
「悲しくないの?」
「そうだね、あまり身近で親しい人の死を経験してないからかな。顔見知り程度の祖父や祖母が死んでも、悲しくはなかった。ただ、生きることを終えて、死に旅立つことの重さ、みたいなものはいつも感じてたけど」
「心を、無にすればいいのよ。『つながる』から」


 ありがとう、と、僕は心の中でつぶやく。君の言ったことは、その通りで、最高に嬉しかったし、つながったとき『ありがとう』と言いたくなる気持ちも、素晴らしいことだ。


「ねえ?」
「ん?」
「・・・」
「・・・」


 僕たちは、急にお互いのことを求め合いたい気持ちにかられた。死は生の逆であり、死んでいった者に想いをはせると、新しい命を作りたくなる本能が働くのかもしれない。けれども、そういう気持ちはなんとか抑えるべきと思った。それは人としての本来のありようなのかもしれないけれど、僕たちは、できればその先に行きたいから。『ナチュラルでワイルド』なありのままの雑とした自然の、先へ。


 手をつないで、自転車に戻った。竹林や、古い駄菓子屋の横を抜けて、自転車を借りた友人のうちに向かった。返すべき場所に自転車を返し、タクシーで駅に戻ると、彼女はすでに次の仕事の緊張感に包まれ始めていた。人知れず空を飛び、大切なものを届ける仕事。その危うい緊張感。今はまだ閉じたままの、彼女の白い羽に、僕はそっと触れる。そして明日の飛翔の成功と、安全を祈った。


 いつものように僕を見る君の顔に、ありがとう、という言葉があふれる。
 ぐんぐん成長する、六月の草原の草のようだ。
 風を受けてなびく草の、しなやかな動きは美しい。







(2007 6/14)