
カズオは、火のついたロウソクと、温かい夕食がのったトレイを持って、目の見えない男の部屋へ行った。仕事場のあるはなれで目の見えない男は生活していた。男はヴァイオリン作りの職人だった。
カズオは足元に気を付けながら食事を運んだ。いつものことだったが食事のトレイは重くて、運ぶあいだずっと両方の手が離せなかった。男の部屋の入り口まで来ると、足でトントンと戸をけった。
「おじさん、晩ごはんです」
中から「ああ、ありがとう」という声が聞こえた。しかし戸が開くまでは時間がかかった。待っているあいだ、息でトレイの上のロウソクの火がゆらゆらと揺れた。
男は戸を開けてカズオを部屋に入れた。部屋の中は暗かった。天窓から薄青い夕方の空が見えたが、この明るさではボールも見えないよとカズオは思った。日暮れ前のキャッチボールを思い出したのだ。男は目が見えないので暗いままでよかった。カズオはロウソクの明かりをたよりに、食事のトレイをテーブルの上に置いた。そしていつものいすにこしかけた。いすは目の見えない男が作ったものだった。さらっとした手触りのいいニスが塗ってあった。
男は手を洗って席に着いた。「今日の晩ごはんは何かな」と言って、大きく息を吸った。そして食器の角に触れたり、全体を手でかざしたりした。
「シチューだね。おいしそうだ。ごはんも炊きたてだね」
「メロンもあるよ。右上の皿」
「ああ、もちろん分かっているよ」と男はなだめるように言った。「カズオが入って来たときに分かった。いい香りだ。食べるのがもったいないくらいだ」
「そんなこと言ってないで、早く食べなよ。冷めちゃうよ」
「そうだな」
男はスプーンを探し当てると、もう一度指で皿の位置を確認してから食べ始めた。いつもだいたい同じ位置に同じような皿が置いてあるからかもしれないけれど、男は本当は目が見えているのではないかと思えるくらい上手に食事をした。男があまりに上手く食事をするので、カズオも自分の食事の時に真似をして、目をつぶってみることがあった。けれども男のようにはうまくいかなかった。すぐに不安になってきて長く続けることができなかったし、母親に見つかると「そういうことをしているとほんとに目が見えなくなるのよ」と怒られた。それに目をつぶっていると、目をつぶっているときに自分がどういうふうにして食べているのか確かめることもできなかった。
「小島さんの、おばさんがね」とカズオは言った。「お願いしているヴァイオリンはまだかしらね、って言ってたよ」
「小島さん? まだ一回目のニスを塗ったばかりだよ。まだしばらくかかる」
「終わらせちゃえば? てきとうでいいじゃん」
「そうはいかないよ」と言って、男は丁寧にシチューをすくった。「小島さんからの注文はこれで三台目だし、いつもいい値段で買ってくれる」
「だって『お願いしているヴァイオリンはまだかしらね?』なんて言うんだよ。僕に。しらないっつうの。なんか、かっこつけちゃってさ。ゲーだよ」
「そりゃ、ちょっとばかり余計にせっかちでお高くとまっているところはあるけれど、娘さんはいい子たちだし、楽器も大切に使ってくれる。丁寧に使ってくれる人には、丁寧に作ってあげるのが私の仕事なんだよ」
「まあ、そうかもしれないけど」
「小島さんちの下の子、なんて言ったっけ?」
「ユカ?」
「そう、ユカちゃんてカズオと同じ歳だったよね」
「そうだけど」
「クラスは?」
「同じ、あいにく」
「いい子じゃないか。こないだサイズを測りに来たとき、私が目が見えないのに楽器を作ると言ったら感動してくれたよ」
「しらないよ、んなこと」
「声はかわいかったけど」と男は笑って言った。「見かけはそうじゃないのかい?」
「まあ一応かわいいって言えばかわいいけど。でも僕はきらいなの。あんなお嬢様みたいなやつ。あいつ、さそってやってもキャッチボールもやんなんだ」
「女の子って、普通はキャッチボールなんかやらないもんなんじゃないのかい?」
「そんなことないよ。僕のクラスの女子なんかすごいよ。ソフトボール投げで僕よりも遠くに投げられるやつ、最低五人はいるね」
「そんなもんかな」
「そうだよ」
しばらく男は黙って食事を続けた。
「でも、こないだ来たときは『カズオ君て、優しいんです』って言ってたよ。これ、どういう意味かなあ?」
「かってにそう思っているだけじゃないの。ねえやめようよ、この話」
「どうして? お前あの子のこと好きなんだろ?」
「好きなわけないじゃん」
「そうかな。じゃあ今度、理由をつけてまたここに来てもらおう。肩当ての形を確認したいので、ってことにしようかな。それとも、仕事場を見に来ませんかって誘おうかな。このあいだ来た時にも、もっと見たそうだったしな」
「おじさんがこれ以上ユカの話なんか続けるなら」とカズオはきっぱりと言った。「もう食事、持ってこない」
「まあそう怒るなよ。ささやかな食事時の楽しみなんだから」
「楽しくないよ。やだよ、もう」
内心では、カズオは、おじさんが本当にユカを家に呼びそうな気がしてどきどきしていた。けれども、なんとなくそういうのは、嫌な気がした。カズオとしては、もっと自然で、お互いを大切にするような近づき方がしたかった。特にユカのような女子とは。できることならおじさんにはそのぐらいのことは分かって欲しい、とカズオは思った。しかし無理みたいだった。そんな期待をしていた自分がばかだった。けっきょく、目が見えなくても、大人はやっぱり大人。小学生の繊細な感情なんか分かりはしないのだ。
カズオはユカのお嬢様ぶったしぐさが好きではない。これは本当だった。しかしユカにはユカなりの魅力があった。たとえば何人かの同級生がいたとする。ユカなしならただの友達どうしなのに、ユカが入ると、なぜかいつもユカが中心になってしまう。ただ話をしているだけでも、たいていユカが一番面白い話をしたし、誰かが冷静にならなければならない時、いつでもユカが一番冷静だった。
なんとなくユカは普通の小学生ではなかった。ピアノではなくて、ヴァイオリンを習っているのもクラスの中でユカだけだった。一度ユカが、どうしてカズオ君はヴァイオリンを習わないの、と聞いてきたことがある。せっかくおじさんがヴァイオリンを作っているのに、と。余計なおせわだ、とカズオは思った。ヴァイオリンなんか、ユカみたいな女子が弾くからかっこいいのだ。僕は野球がうまくなればそれでいいのだ。
カズオは皿のメロンを一切れもらって、足をぶらぶらさせながら男が食べ終わるのを待った。
部屋の中は静かだった。壁や天井につるされているたくさんの作りかけのヴァイオリンを見ていると、音にならない音に包まれているような不思議な気分になった。つるされているヴァイオリンの中には、カズオの作りかけのものもあった。まだ板にやすりをかけている段階で、音が出せるようになるのはまだまだずっと先だった。
カズオのヴァイオリンは角がとんがった、ヘビメタ・バンドのギターのような形だった。本当はカズオだって、ユカにプレゼントできるような普通の形のヴァイオリンを作りたかった。けれどもおじさんが許してくれなかった。最初はなるべく変な形の楽器を作るようにというのだ。いろんな形で作ってみると、本当にいい形がどんな形かよく分かるから。・・・カズオにもおじさんの言うことが少しは分かるような気がした。けれどもけっきょくこれはただ遊びで作らせてもらっているだけなのか、それともちゃんとした修業の一部なのか、そのへんのことはカズオにもよく分からなかった。
食事が終わると、男はポットのお湯でお茶をいれた。カズオもお茶とビスケットをもらった。
「だんだん寒くなってきたなあ」と、男は湯飲みを包むように持って言った。
「十月だからね」
「十月といえば、カズオはもうすぐ運動会だろ?」
「再来週の日曜日。おじさんも来る?」
「ああ、行くよ。天気がいいといいな」
「天気がいい日だけ来たらいいよ。天気が悪い日に来たって、見えなかったら面白くないし」
「見えなくても、運動会の雰囲気は私は好きだよ。まわりの人といっしょに大声も出せるしな。まあしかし運動会って言うより、学校が好きなのかもなあ」
「どうして? 学校が好きなんて、なんだか変なの」
「おかしいかい?」
「そりゃ友達と遊ぶときとかは楽しいけどね。でも、いやなことって、たくさんあるし。勉強とか、掃除とか、あと、おいしくないときの給食とか。とても『好き』とは言えないよ、僕には」
「そうか」と男は苦笑した。「そうだな。そうかもしれない。でもね、ずっと時間がたって思い出してみると、わりといい印象ばかり残るものなんだ。特に大人になってから、子供の頃を思い出したりなんかすると。不思議だけどね」
「おじさんて、僕ぐらいの時にはもう目が見えなかったの?」
「知りたいかい?」
「んー、知りたいって言うんじゃないけど、僕ぐらいの時にもう目が見えなかったんなら、すごく大変だなと思って。僕、おじさんみたいな人がすぐそばにいるからさ、よく目がみえなくなった時のことを考えるの。でもなかなかうまく想像できないよ。すごく大変なんだろうなとは思うけど」
「そうだなあ、私の場合は早くに失明しているから、生活の中で特に不自由と感じることはもうほとんどないがね。人間ていうのは、けっこうどんなことにも慣れてしまうものなんだよ。時間が解決するって言うのかな。目が見える人にできて目が見えない人にできないことってのも、もちろんあるにはあるんだろうけど、そんなことを悲しんだって仕方がないし。総理大臣になれる人は何人もいないけど、総理大臣になれない人生をみんなが悲しんでいるかって言えば、そんなことはないだろ。そういうもんさ」
「目が見えなくて悲しいって思わないの?」
「思わないわけじゃない。でも見えたって、悲しいことはいくらでもあるさ。まあ人付き合いがうまくいっていれば、悲しいことは少ないよ。カズオのお母さんがおいしい夕食を作ってくれて、それを毎日カズオが持ってきてくれて、こういうのってたぶんお前が思っているよりずっと幸せなことなんだ。たぶん、目が見えなくてカズオぐらいの時にいちばん苦労したのは、やっぱり人付き合いだったろうな」
「いじめられた?」
「そんなはっきりしたものは少なかったけど、たとえば何げない人の親切が、みょうにつらく思えたり」
カズオは想像してみたが、よく分からないので首をかしげたままだった。
「ねえ、何かひとつ悲しい思い出を聞かせてよ」
「悲しい思い出か・・・」
「悪く思わないでね。何て言うか、僕もね、おじさんの苦労を知ってみたいわけ。人に話すとか、そんなことしないから。人の苦労を知ると、自分も大きくなれるって、いつかおじさんも言ってたじゃない」
男はきゅうすにお湯を足して、もう一杯お茶を入れた。カズオの分も足そうとしたが、カズオは「いい」と言って断った。カズオは朝野球の練習があるので、毎日早い時間に寝るのが日課だった。一度おじさんに進められるままにお茶を飲み過ぎて、十二時ぐらいまで眠れず、ひどい目にあったことがあるのだ。
「それじゃあ、雪におおわれた丘の話をしようか」と男は言った。「カズオも雪は知ってるね?」
「もちろん」
「好きかい?」
「好きだよ。一度たくさんふって、長靴がうまりそうなくらいふったとき、学校で午前中の授業がなしになって、そのときがいちばん好きだった。でも、そんなにふんなくても、雪は好きだよ」
「他には? 雪について思っていることを言ってごらん」
「雪がふると景色が変わるよね。おじさんには申し訳ないけど、本当にきれい。真っ白で。でも雪がふった後で、天気がよくなるとすぐとけちゃうのは、なんだかやだな。道がぐしょぐしょでさ」
「いつまでもとけないほうがいいかい?」
「うん、でもそれもなんだか大変そうだけど。学校に行くときとか。野球もできないし。雪で作ったものだけとけないといいな」
「雪だるまかい?」
「もう雪だるまなんか、あんまり作んないよ。城とか、船とか、かまくらとか」
「かまくら?」
「前、たくさんふったときにね」
「冷たくないかい。冷たいだろ?」
「平気。母さんが、風邪ひくからとかうるさいけど、一生懸命作ったりしているとそんなの全然平気。手だけちょっと冷たいけど」
男は笑みを浮かべて一度うなずいてから、「私はね」と回想するように顔を上げた。
「私はね、雪を見た記憶が、あるんだよ」
男の言ったことがすごく特別なことだということは、カズオにもすぐに分かった。たぶん男が「見たこと」について話すのは、これが初めてだった。
今までずっとカズオは、男が全然「見たこと」がないのだと思っていた。二人の間で、それは何となく当然のことだった。たとえば、カズオは何かを男に説明するとき、なるべく色のことは持ち出さないようにしている。ついつい口にしてしまうことはあったが、そういうことは男には最初から分からないことだとあきらめていた。赤という色がどういう色なのか、男には分からない。もちろん男に分からないのは色だけで、さわれば違いが分かる。それがどういうものかも分かる。普通の人よりはるかに細かい違いに気付くことだってある。そうでなければヴァイオリン職人にだってなれやしない。けれども色については全然知らないはずだった。もし雪を見た記憶があるなら、それは雪の色を知っているということだ。
「私がまだ、ずっと小さい時だ」
男はゆっくりと悲しい思い出を話し始めた。
「小学生? もっともっとさ。たぶんまだ母親のおっぱいを飲んでいたか、そのぐらい小さい時のことだ。その日がどんな日で、何をしていたのかは思い出せない。とにかく私は何かの理由で母親に抱っこさせられて、どこかに行く途中だったんだ。あまり急いではいなかったような気がする。買い物だったのかな。散歩だったのかもしれない。でも雪の日に子供を抱いて散歩というのも、ちょっと変だね。
とにかくものすごく小さい時の記憶だから、その記憶の前後は、ただ想像するしかないというわけなんだ。たとえば、時間についてもね。けっこう明るかったような気がするから、たぶん午後の早い時間だったと思うんだが、まあそれもはっきりしないのさ。三月になって日が長くなってきたころの、明るい夕方だったのかもしれない。夜のうちに雪がふった日の、晴れた朝のことだったのかもしれない。
私の母親は、私を抱いたまま、道を外れて小さな丘を登り始めたんだ。その丘はわざわざ登ると言わなきゃならないほど高いものじゃなくて、すごく横に広かった。丸くて、木も生えていなかった。今思うと不思議な気がする。あんな絵に描いたような丸い丘がどこにあったんだろうってね。もしかしたら本当はそんなきれいな丸い丘なんかではなかったのかもしれない。そのへんの地面の盛り上がりみたいなものだったのかもしれない。まあ、そんなものだったんだろう。でもそれが、いつの間にか私の記憶の中で、きれいな丸い丘に変わってしまったんだ。
そこで私は雪を見たんだよ。足あともなかった。丸い丘に足あともない白い雪が積もっていたら、美しいと思うだろ? 想像してごらん。町外れの、丸いなだらかな丘に、ただ白いだけの雪が、すっかりきれいにおおっているんだ。
丘の上で、母は、私に雪の世界を見せてくれた。それは本当に美しかった。美しかったと言うしかないんだ。もうその時に見た遠くの景色なんか、ちっとも覚えていない。どういう家が見えて、電信柱や自動車がどこにあって、なんてことは、覚えていない。ただ雪の世界のばくぜんとした記憶が残っているだけだ。私の記憶にあるいくつかの景色を、そこに当てはめてみる。そこに雪を積もらせて想像してみる。それであっているような気もする。正しいようなね。その時に見たのはこんな景色だったのかもしれないと思う。でもどういうわけか、私にはどの景色を当てはめてみても、同じように正しいような気がするんだ。間違っているというはっきりした気分にならないんだ。つまり、これって、全部正しくないってことだ。そうだろ? 悲しいけど、仕方がない。私は視力も、母親も失ってしまった。もう今となっては、確かめることはできないんだよ。
でも私が本当に悲しいのはそのことじゃない。足あとのことなんだ。私の記憶にある正しい丸い丘には、一面に雪が積もっていた。白い雪がね。あまりに白くて、まるで見ているのに見ていないような気がしてしまうくらい、そのぐらい白い雪だ。目から入り込んで、心の中まで白くしてしまいそうな雪景色。そこで私は母親に抱かれて、肩越しにのぞいたり、振り返ったりしながら、一生懸命まわりじゅうを見ようとした。
でも、そこには足あとがなかった。なだらかな丸い丘に、足あともない白い雪が積もっていた。それは本当に印象的な光景だった。でもね、足あとがないわけはないんだよ。
考えられることは二つだ。足あとの記憶だけがどこかに消えてなくなってしまったのか。それとも、雪を見たというこの記憶そのものが、ただの空想によるものなのか。
私の記憶の、ほんの少ししかない一つの美しい雪の丘に、本当は足あとがあったと考えるのはすごく悲しい。私は雪についた足あとがどんなふうに見えるものか、思い浮かべることができないんだよ。だから想像してみる。思い出の中の雪の丘に、母親がふんだ雪のくぼみを。どんなふうに色が変わるのかも分からない。はっきりしているのは、とても美しくないってことだ。絵をナイフで切り裂くような気がしてならないんだ。悲しいことだ。雪を見た記憶があるのに、足あとの記憶がないなんて。
でももっと悲しいのは、こういうことだ。雪を見た記憶があって、そこに足あとがなんてことはありえない。つまり、母親に抱かれて登った雪の丘の記憶は、すべて私の空想かもしれない。本当は雪も、丘も、実際には何も見ていないのかもしれない。
私の信じている雪の白は、本当の雪の白と、同じではないかもしれない」
カズオは足をぶらぶらさせて、黙ってうつむいていた。何か言いたかったが、何を言ったらいいのか分からなかった。おじさんの話は、カズオが予想していたものとは全然ちがった。誰かにいじめられたとか、不自由をしたといった話ではなかった。空想の中の話のようだった。普通だったら、こんなことどうでもいいことだった。雪の記憶がたとえ本当のものでなかったとしても、普段の生活で苦労するわけではない。
しかしカズオも悲しかった。なんとかおじさんをなぐさめてあげたいと思った。すぐうかんだのは、おじさんが見たことがないのは雪についた足あとだけじゃないんだから、気にしていたらきりがないから、気にしないほうがいいということだった。けれどもそんなこと言ったら、もっとおじさんを悲しくさせてしまいそうだったのでやめた。
「雪の丘って」と、しばらくたってカズオは言った。「どこだか分からないけど、きれいそうだよね」
「カズオもそう思うだろ?」
「うん」
おじさんは冷めたお茶をすすった。
「スキー場にも、丘があったよ」とカズオは、ふと思い出して言った。「父さんにスキー場に連れてってもらったことがあるの。二年ぐらい前だけど。父さんの会社の人たちと。父さんは僕に大人と同じスキーをさせようとしたけど、僕はすぐ足をくじいちゃってさ、だから下のほうで遊んでたの。ソリとかで。プラスチックのやつね。けっこう子供がたくさん遊んでいたから、そこはおじさんの覚えているようなきれいな丘じゃなくて、雪はぐちゃぐちゃだったけどね。
でも、次の朝、びっくりしたよ。ホテルに泊まって、朝になったら、丘にはきれいに雪が積もっていたの。丘だけじゃないけど。山ぜんぶね。夜に雪がふったの。10センチぐらい。たくさんじゃなかったけど、足あととか、滑ったあととかは、きれいに消えちゃって。まわりじゅう、生まれたてみたいな感じでさ、ほんとにびっくり。で、まだリフトが一つしか動いていないときから、父さんと外に出たのね。その日、お昼で帰る予定だったから、早くしようって。前の日に遊んでいた丘には、まだ誰もいなかったよ。だから、僕専用の雪の丘だったわけ。もちろん大人のスキー場にくらべたら小さかったけど、それでもけっこう大きかったし、10センチぐらいの雪で、ふむと気持ちよかったし。
でも、よく見たら、その朝、雪に足あとをつけたのは、僕が最初じゃなかったんだよね。先に動物の足あとがあったわけ。三本の細い足の鳥の足あととか、猫の足あとみたいなのとか。猫みたいな方は、とびとびで、ちょっと猫とは違うけど、でも、僕にはすぐに分かった。うさぎだよね。こんな寒いところに、ほんとにうさぎがいるなんて、信じられなかったけど、冬の山のうさぎは、テレビで見たことがあるし。それがどんなふうだったかは、おじさんにはうまく説明できないけどね、ただ、なんだかいいなって思っちゃった。雪の丘に、鳥とうさぎの足あとがあってさ。こんなに寒いのに、みんなどうやって生きているんだろうなって思ったけど、凍り付いたりしないで、ちゃんと生きてるんだよね。こんな雪だらけのところで、何食べてるのかわかんないけど、でもさ、とにかく生き物もいるって、うまく言えないけど、なんだか本当にいいなと思っちゃった。生きてるんだから、すごいよ。でね、だから、何が言いたいのかっていうと、つまりね、足あとも意外にいいもんだよ、ってこと。分かる?」
「分かるよ」と男は言った。「意外にいいもの、か。足あともな。うん・・・そうかもしれないな」
本当にわかったのかなと、カズオは半信半疑で足をぶらぶらさせていたけれど、気がつくと男は泣いていた。普通の人とちがう目から、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
カズオは落ちつかなかったが、悪い気はしなかった。
「ありがとう」
と男は小声で言った。
カズオは軽くなったトレイをもって、中庭の敷石をわたって、自分の家に引き返した。
後ろをふり返ると、ロウソクがない男の部屋は真っ暗だった。カズオは早く雪がふればいいなと思った。雪がふったら、またおじさんと雪の話をしよう。
「そこで、雪を見たんだよ」と言ったときの男の声が、永くカズオの心に残った。
それはまるで、大人の世界を知る以前の少年のような声だった。
(2005 Jan. 改)
|