
啓吾はすでに数日前から風邪の症状が現れていた。今日も高校から帰ってきたときに元気がなかったし、明日からの東京滞在の用意をしている姿はかなりつらそうだった。夕食のときもぐったりして、食べ終わってからあらためて熱を測ってみると、なんと39度になっていた。
母親・陽子はあわてて市民病院に電話をかけた。
「もしもし、すみません、もう普通の診察は終わってる時間だと思うんですが、今から行って診てもらえますか?」
「どうされました?」
電話に出たのは若い女性の声だった。
「学校から帰ってきて熱を測ったら39度もあって、でも明日から東京にいかなきゃいけないんです、受験生なので」
「ご本人さん?」
「いえ、私じゃなくて、うちの息子です」
「年齢は?」
「17歳」
「17歳だったら、大丈夫ですよ。当直の内科の先生がいるので、来ていただいていいです」
「すみません、よろしくお願いします」
「以前こちらにかかられたことはありますか?」
「はい」
「お名前をいただけましたら、カルテを用意しておきますが」
「お願いします。コバヤシ・ケイゴ。ケイゴのケイは・・・」
「いえ、字はいいですから、生年月日と、もしわかったら診察券の番号もお願いします」
陽子は電話番号を確認するために用意していた診察券を、再び手に取った。
「生まれは昭和62年10月4日で、診察券の番号は3の25948です」
「最後はいつ頃かかられました?」
いつだっけ、と陽子は考える。子供の時に腕の骨折でお世話になったことは憶えているけど、たいていは近くの個人病院に行くので・・・。
「ねえ」と陽子は受話器を手で押さえ、啓吾に声をかけた。「ケイちゃん、最後に市民病院いったの、いつだったか憶えてる?」
「えっと、去年、膝が痛くてレントゲンとってもらったよ」
思い出した。痛いって言うけど、診てもらったらなんでもなかったやつね。
「去年です。ていうか、もう一昨年ですけど、膝の痛みで診てもらったと思います」
「平成14年ですね?」
陽子は混乱したが、今が16年になったところだから、14年で正しいと思った。
「はい、そうです」
「すぐいらっしゃいますか?」
「ちょっと仕度して車で行くから、20分ぐらいだと思います」
「では、どうぞ。お待ちしています」
「よろしくお願いいたします」
陽子は電話を切り、せっかくの夕食もおかわりすることなく終わりにして、赤い顔でソファーにぐったり座っている息子を見た。今日の夕食はホワイトシチューだった。新鮮な小麦粉を調達してバターで炒めるところから手作りという陽子自慢の料理だったが、熱の高い啓吾はあまり美味しそうには食べてくれなかった。
「ねえねえ、ほら、内科の先生が待ってるから、早くおいでって。上着来て用意しなさい」
せっかくの力作を「美味しい」の一言も言わずに黙々と食べ終え、一人ゆったりとお茶をすすってテレビを見ている旦那にも声をかけた。
「ねえ、おとうさん、市民病院オッケーだって。車、用意してもっていい?」
「そうか、よかったな、じゃあいくか」
「ベツにさあ」と啓吾はぶつぶつつぶやくように言った。「慌てることないよ。むこうだって、いちいち待ってないと思うよ、ただの風邪ぐらいでさぁ」
「でもね、ちゃんとカルテは用意しててくれるって言ってたわよ。診察券の番号も伝えたし」
陽子は急いで廊下のクローゼットから、息子のセーターと、自分の上着とマフラーを出した。面倒くさがりの旦那の着るものは、いつもしまわないジャンパーがどこかにあるはず。自分で探して着てもらうのがいつものパターン。啓吾のセーターも、上から着れるようにふわっとしたサイズの大きなものを選んで差し出した。
「ほら、車の中は寒いから、セーター、もう一枚着ていきなさいよ」
「いらないよ」と啓吾は首を振った。「二枚も着たら息苦しくて死にそうになる」
「でも、熱があるんでしょ? 寒いんでしょ? 着てった方がいいと母さんは思うけどな」
啓吾は頭を後ろに倒しソファーにもたれて目を閉じた。
そして無言。
母親・陽子は、いつもの悲しいムカツキを感じる。気を使うことしか能のない自分への嫌悪感も含めて。息子が普通の態度だったなら、きっと自分も普通でいられたろう。しかし息子が離れていこうとするから、ますます小うるさい母親役をついつい演じてしまう。
「今日はやっぱり学校を休めばよかったのよね」
夜道を走る車の中で、助手席の陽子はふと口に出してしまう。
「朝から調子悪かったのか?」
と父親が運転しながら質問した。
「朝からじゃなくて、昨日からよ。違う、一昨日から。受験生なんだから早めに医者に行きなさいって言ってたのに、大丈夫だって強情はって。これで本当に明日から東京に行けるのかしらね?」
「どうしても明日行く必要はないんだろ? 一日ぐらい遅らせてもいいんじゃないか? たしか試験は明後日からだったと思うが」
「でもやっぱり初めての東京だし、道ぐらい確認しておかないと当日の朝が不安よ」
「初めてじゃないよ」とバックシートから啓吾が口を挟んだ。「一人で行くのが初めてってだけ」
「同じことよ、ねぇ、お父さん」
「まあなぁ・・・試験が午後いちとかならいいけど、朝からだもんな。ラッシュで混んでるときに電車間違えて遅刻したらしゃれにならん」
「だからね、今日はやっぱり家で寝ている方がよかったのよね。早くお医者さんに行って」
「わかってるよ」と啓吾がいらついた声で言った。「悪かったと思ってるよ」
陽子はあきらめたような声で「まあね、いろいろやることもあるんでしょうけどね」とつぶやいた。
息子がぎりぎりまで高校登校にこだわるのは、必ずしも勉強のためではないことを、すでに母親・陽子は察していた。啓吾はぼくとつとしたゲームオタク・タイプで、女の子に人気のあるなんて話は一度も聞いたことがなかったけれど、ここにきてなんだか行動がおかしい。何かがある。きっとそれは異性の存在が絡んでいる。
子供の頃からのお友達で、同じ高校に進んだ女の子なら、陽子も何人か知っている。長沢さんのところの恵里ちゃんとか、かわいくて朗らかで、あんな子が息子のガールフレンドだったらいいのになと、母親なりに思うところはないわけではない。ああいう明るい子だったら、決して嫁と舅のいがみ合いなんて起こらず、楽しく親しくつき合っていけるだろう。そもそも自分たち夫婦がそうだった。でこぼこコンビ。特別に美人でもないし頭脳明晰でもないけれど朗らかさが取り柄の妻と、不器用だけど真面目な性格の夫。啓吾は性格は父親似だった。職人っぽくて、ゲームにやたら詳しい。将来はゲームに関わる仕事に就きたいと言う。父親と息子、性格は似てるのに、将来のことになるといつも親子喧嘩になってしまう。父親は「ゲームは仮想のものであり、男が一生かけて関わる仕事じゃない」と断言してはばからないし、息子はそういう父親の考えを「古い」と批判する。古いか新しいかと言われれば、確かに息子の言うとおりかもしれないけれど、将来のことを考えてしまう母親としては「本当にゲーム業界で一生食べていけるの?」という疑問はやはり残る。確かに今はゲームが産業として大きなものになっているかもしれないけれど、20年後にもっと新しい面白いものが発明されて全体が廃れていったらどうするの? そんな将来の不安など持たないのが、若さゆえの勢いというものかもしれないが・・・。
いずれにしても理想を追ってみるということはあるものだ。きっと女性に関しても、そんなことなのだろう。早い話「片思い」というわけだ。朗らかな母親・陽子としては「つき合う人ができたら遠慮なく家に招待していいからね」と子供の時からしっかり教え諭してあるつもり。それは息子なりに了解しているはずだ。それなのに黙っているということは、きっとあまり上手くいってないのだ。本当はそういうときこそ母親に相談すればいいのに。・・・でも、やっぱりダメかも。相談されたらあせって、ちゃかしてしまいそう。そういうのが、デリケートな年頃の少年には、一番醜く映るだろう。でも逆に、時代が時代だけに、もうエッチなこととかしてしまって、公明正大に親には紹介できない状況だったりするのかもしれない。その可能性は否定はできない。だいたいこの大切な時期に風邪なんかにかかるのも、尻軽の女の子に移されたってことは大いにあり得ることだ。早い生徒はすでに受験が始まっているから、学校では授業はもうほとんど行われていないだろう。もっぱら自習と、先生への質問程度で一日が終わっているはず。そんな学校にこだわるのは、やっぱり何かがある、と思ってしまう。啓吾には、もっと自分を大切にしてもらいたい。しかし、もしも自分が息子の立場で、母親から「もっと自分を大切にしなさい」と言われたら、絶対に反発する。そんなのわかってるよ、大切にするばっかで、イシバシわたってたら、なんにも話が進まないよ、と。わかるんだけど、わかっていても、母親として納得はできない。
いつものことだけど、ため息をつくしかないって感じなのよね、と陽子は車の外の夜景をぼんやり見つめながら思う。
市民病院に着くと、日中の正面玄関はシャッターが下り真っ暗だ。「救急外来」という赤い文字が大きく光っていて、脇の入り口だけが明るい。
「あそこでいいんだろうな?」
車から降りて鍵を確認した父親が妻に訊いた。
「そうね。キュウキュウガイライだって。ケイちゃんもおさわがせよね」
父親は苦笑して「心臓発作でもおこした人みたいだよな」と頷いた。
「でもまあ、風邪で診てもらうなんて申し訳ないけど、私たちにも事情があるんですからね、いいわよね?」
啓吾はまだ一人で車のバックシートにいるかのように、ダッフルコートにくるまって黙ったまま二人のあとに従った。
「そりゃいいに決まってるよ」と何も応えない息子の代わりに父親が言った。「さっき電話で確認したことだし、うちの息子が明日から受験で東京なんで特別に効果のある薬をくださいってお願いすればいいだろ」
「ねね、それもちょっとわがまますぎないかしら? 特別に効く薬なんてお願いしちゃっていいと思う?」
「ばか、冗談だよ。さ、その受け付けに人がいるよ、きいてみよう」
救急入り口の受け付けに座っていたのはセーターを着た若い女性で、看護婦さんではないようだった。通路の椅子には、数人の患者さんらしき人がすでに座っている。
「あの、さきほど電話した小林ですが・・・」
「ああ、お熱の方ですね。今、救急車が入ったばかりで、少しお待ちいただきます。おかけになって待っててください」
陽子は救急車という言葉にドキッとするが、啓吾もだいぶ高い熱を出している受験生、母親としては救急車にまけずに大切にしてあげたい。
「どのくらい待ちそうですか?」
「たぶん長くはかからないと思います。でもまだ診察中なので詳しいことはわからないんです。ちょっと様子を見てきますね」
女性は病院らしい親切な笑顔を見せ(長沢恵里ちゃん風)、席を立って、受け付けから廊下に出て、向かいの診察室に入っていった。小林一家は市民病院には何度か来たことがあるが、夜間にこういうところがあるとは三人とも知らなかった。
受け付けの女性は診察室から出てくると、ちょっと申し訳なさそうに「手術になるとのことなので、少し時間がかかりそう。しばらく待っていただけますか?」と小林家の三人に訊いた。
三人は申し合わせたように「大丈夫です」と頷いた。今ここに救急車で運ばれ、すぐに手術にはいる患者さんがいるのだ。そんなところで風邪を診てもらうということに、家族そろって恐縮してしまう。せめて熱が40度でもあれば精神的いいわけになったろうに。
にわかにあわただしくなった。受け付けの女性は電話を立て続けにかけて、輸血や検査の手配をしているようだ。診察室から出てきた看護婦さんは、廊下の椅子に腰掛けていた家族(患者ではなかった)に早口で状況を説明する。「クモ膜下出血」という言葉がちらっと聞こえた。脳の手術するらしい。テレビドラマでは見たことのあるシュチエーションだが、実際にその場に居合わせるのは小林家三人とも初めての経験だった。身内の死はいろいろあったが、基本的に老衰や慢性病の悪化で、心臓発作とか脳血管出血とか、そんなドラマチックなことは一度もなかった。
診察室から白衣とマスクを身につけた長身の男性が出てきた。
「えっと、風邪の人は?」
陽子が「こっちです」と慌てて手を上げる。
医師は歩み寄り、素早く説明した。
「すみませんけど、今、救急ではいった人の緊急手術があるので、少し待っててください。これから脳外の先生に引き継いできます。オペまではタッチしないので戻ってきますが、そうですね、20分ぐらいはかかると思います。なんだったら受け付けの人に言って、ベットで休ませてもらっててください」
「すみません、お忙しいところ」
「いえいえ」
医師はすぐさまとって返し、ドアの開いたままの診察室から書類やレントゲンを持って移動の仕度を整える。看護婦は患者の横たわる移動式の簡易ベッド(ストレッチャー)のロックを足ではずし、点滴のチューブが邪魔にならないように腕の位置をずらし、患者さんの口元にピンクのプラスチック汚物入れを添えて、ベッドを動かし始めた。廊下に出ると、受け付けの女性に「今から上がるって連絡して」と言い残し、医師と共に速やかに通路の奥に消えていった。連絡先のことなど話し合っていた家族たちが、あわててそれを追いかける。
人々が去り静かになると、受け付けの女性が出てきて言った。
「どうぞ、小林さん、ベットの方に。毛布もありますから」
小林一家は診察室に案内され、白いシーツのひかれたベットを教えてもらった。レザー張りの診察台ではなく、入院用のベッドと同じもの。点滴をするときに使うのだろう。
「だいぶお熱があるんですよね。暖房、強めにしておきます。毛布を掛けて待っていてください」
啓吾は「スミマセン」とぼそっと礼を言って横になった。
「本当にすみませんね」と母親が愛想のない息子の分もとりつくろうように感謝を込めて女性に言った。「でも、救急車できてすぐに手術だなんて、さすがに市民病院ですわね」
「めったにないことですけど、たまにはあるんです。タイミングが悪かったですね。今、特に具合が悪いようでしたら看護婦さんを呼びますが、大丈夫ですか?」
「大丈夫よね、ケイちゃん?」
啓吾はめんどくさそうに「・・・ん・・・」と言うだけ。母親は笑顔を見せて女性に頷いた。
「はい、大丈夫ですよ、ホントにすみません」
「では、少し待っててください。急に具合悪くなったら遠慮なく声をかけてくださいね」
女性が受け付けに戻るさいに、父親も「ホント、すみません」と思わず頭を下げた。頭を下げずにいられなかったのだ。風邪なんかで夜の救急外来に来ていることもそうだったが、半分大人のような息子を仰々しくも父親母親そろい踏みで連れてきたという、さらにその母親は啓吾を「子供のように」ベタベタと扱ってしまう、そういったことも含めて、なんだか親として恥ずかしくて。
しかし恥ずかしがっている父親にかまう間もなく、鳴り始めた電話を取るために、女性は急いで受け付けの部屋に戻っていった。
「ケイちゃん、寒くない?」
ベッド脇の陽子は質問した。
「そりゃ、寒いよ。熱があるんだからさぁ」
陽子は周りを見回し、奥にあるもう一つのベッドに掛け布団を発見した。行って触れてみると軽くてふかふかの羽毛布団だった。毛布よりもこっちの方が絶対に気持ちよくて温かい。陽子は迷うことなくそれを持ってきて、啓吾の上にかけた。啓吾は礼を言うどころか、余計なことするなよ、と言いたげなまなざしをむけたが、実際には何も言わず、小さくため息をついて目を閉じた。
陽子は脇の丸椅子に腰掛けた。初めて入った救急外来の診察室だったが、こうやって息子と二人でいると(父親は廊下の椅子に腰掛けていた)、なんだか自分たちだけの空間のような気がしてくる。消毒くさい病院の匂いも、なんとなく懐かしい。
夜の病院と言えば、啓吾が小さい頃は近くの三輪医院におせわになっていた。老人から赤ちゃんまで診てしまう古いタイプの町医者だった。啓吾が小学一年の時、陽子がコンビニに買い物に出いてるすきに、帰ってみたら引きつけをおこしていたことがあった。あわてて毛布ごと啓吾を抱えて、道に走り出た。最初に通りかかった車を無理矢理止めて、三輪医院まで送ってもらったのだ。運転していたのは幸いにも親切なおじさんで、快く運んでくれた。あとでお礼を言いたかったけれど、あれ一度きりで以後は会っていない。陽子には名前や住所を尋ねる精神的な余裕もなかった。
三輪医院の大先生はもう何年か前に引退していた。現在は娘の旦那さんがあとを継いで、耳鼻科の専門医院になっている。耳鼻科の専門医院が近くにあることは、まあ悪いことではないけれど、内科は少し離れたところまで行く必要があり、昔より不便になったのは確かだった。ちなみに小児科ならばもっと遠くに行かなくてはならない。今、子育てするお母さんは大変だなぁ、と陽子は思わずにいられない。
この近所はここ10年でずいぶん変わってしまった。高速道路のインターの近くに郊外型の大きなスーパーができて、それを中心にリサイクルショップ、ビデオショップ、ホームセンター、スポーツ店、自動車販売店など、倉庫のような大きな建物が並んだ。田舎なので駐車場なんて作り放題。サッカー場のようなアスファルト敷きの駐車場を囲んで、巨大看板を掲げる店がつらなり、やがて近くに真新しい住宅も増えて、日本のバブル崩壊の流れに逆行した大味な繁栄がやってきていた。駅前が寂れ、人の流れは郊外の大型店に、というのはこの辺りのことだけではないらしいが、なんとなく良いような悪いような、陽子としては複雑な気分だった。
「ねえ、ケイちゃん、ノド乾かない?」
と陽子が啓吾に声をかけた。
「ああ、すこし」
「何か買ってきてあげようか。どうせ待たされるみたいだし」
「うん、ありがとう」
陽子は苦笑する。ありがとう、だなんて、本当はものすごくのどが渇いていたのね。そうならそうって、言えばいいのに。だって、そんなこと言えるのも、今のうちだけなんだから・・・。
診察室を出た陽子は、受け付けの女性に声をかけた。
「すみません、うちの子、のどが渇いたみたいなんですけど、何か飲ませてもいいですか?」
「ええ、もちろん」と女性は笑みを浮かべる。「お熱があるときは水分をたくさんとった方がいいんですよ」
「じゃあ、買ってこようと思うんですけど、このへんで自動販売機とか置いてますか?」
「通路の先のロビーに、カップの販売機はあります。もしペットボトルとかの方がいいのでしたら、いったん外の道に出て、右に曲がってすぐのところにあります」
陽子は後ろを振り返り、長椅子から立ち上がって話をうかがっていた父親に訊いた。
「どうかしら、やっぱペットボトルの方がいいわよね。横になってると、カップじゃ飲みにくそうだし」
「すぐ外にあるのかな?」
受け付けの女性は「はい、道に出るとすぐです」と頷いた。
「じゃあ、私、やっぱり外に買いに行ってくる。かまいませんよね?」
父親も「いいですか?」と女性に確認のまなざしを送る。
「どうぞどうぞ」
女性はやさしく微笑んだ。
「ね、お父さん、私が買いに行ってる間に先生が戻ってきたら、ちゃんとお父さんが説明してよね」
「わかってる。というか、あいつ、自分で説明するよ。子供じゃないんだから」
子供じゃないという、そのストレートな言葉が、陽子の心に突き刺さる。お願いだから今夜ぐらいそんなこと言わないで、と不満を述べたくもなる。そもそも「全く普段と変わらない冷静な父親」的態度が、まるで靴に入った小石のようにイライラを誘う。今日という日に、なんでそんなに冷静でいられるのだろう? 男ってそういうものなのだろうか?
自分の心の中のイライラから逃避するように、陽子は病院の外に出た。ぞくっとするほど冷たい夜気が一気に身を包む。見上げると星がきれいだ。
舗装された駐車場を下り、病院前の道に出ると、50ルートルほど先に自動販売機の明かりが見えた。あの受け付けの人は「すぐ」って言ってたけど、かなりあるじゃん。
人気のない夜道を、上着の襟を両腕で合わせて歩いていく。
自動販売機に関しては、実は小林家にはちょっとした縁があった。家の前に新しくバス停ができたとき(高校が新設されてバス路線が変更されたのだ)、業者が来て「自動販売機を設置させてください」と言ってきた。面倒ことはイヤだなと思ったけれど、特に投資も必要ないし、補充やお金の管理は半キロほど離れたコンビニの大沢さんがやってくれるとのこと。土地だけ貸せば、売り上げのなにがしかが入ってくるという美味しい話・・・のはずだった。「そういうサイドビジネスがあれば車も少しいいのが買えるな」とお父さんもにこにこしていた。
しかし実際は、決していいことばかりではなかったのだ。一番閉口したのが、空き缶やペットボトルを庭に投げ込まれること。その量がハンパじゃない。一般的に自動販売機を設置した家の庭にはそういうものが投げ込まれるものなのだろうか? どうも違う。うちの場合、特に「投げ込みたくなる」庭らしい。確かに普通は自動販売機を設置した家なら、そこに背の高い木を植えたりして、投げ込まれないように工夫するものだ。しかし小林家的には南側に背の高い木を植えるのは絶対にいやだった。せっかく広々した田舎にマイホームを持ったのに、そんな不健康でけちくさいことは絶対にしたくなかった。むしろオープンでありたかった。バスを待っているおばあちゃんにはお茶でもふるまいたい気分だった。まあお茶は行き過ぎでも、そこに集う人たちがよい気分でバスを待てるように、バラや沈丁花などを植えて、ささやかながらも憩いの場になるよう工夫した。そういう憩いので場あれば、ついつい飲み物も買いたくなるさ、という下心もないわけではなかったけれど。たしかにバスを利用する人数に比べたら、飲み物の売り上げはいい方だった。しかし一方で心ない人たちからの投棄は続いたのだ。
また、いくら別に管理者がいるからといって、おつりが出なかった人などはうちにやってくる。
体格のいいやくざ風の男に因縁を付けられたことがあった。
「千円札を入れたんだけど、何も出てこない、取り消そうとしても金も返ってこない」
そんなこと言われても、そういうことは管理している大沢さんに何とかしてもらうしかないわけだが、男は「時間がないんだ、すぐに金を返せ」と強い姿勢で陽子に迫った。
その日の午後、陽子は一人で家にいた。困ってしまった。こんなことでいちいち返金していたらたまらない。中を開けていっしょに確認すれば、本当に入れたかどうかわかるはずだが、大沢さんが鍵を持って来るまで待っていてくれそうにない。というか、電話で連絡しようとすると、男は大声で不満を述べて、電話をさせてくれない。要するに係の人が来てしまっては「いんねん」にならないからだろう。とりあえず陽子は外に出て、自動販売機のところに行った。自分で確認して、今の状態では購入のランプもついていないし、返金レバーを押してもなにも出てこないことを確認した。
「ほらみろ、千円札入れたら、そのままのみこまれちまった。何も出てこないだろ?」
あなた、入れてないでしょ? と陽子は言い返したかったが、恐くてそこまでは言えない。どうしたらいいのかな、千円渡して引き取ってもらうしかないのかな、と悩んでいると、自転車で啓吾が現れた。中学からの帰りで、黒い詰め襟の制服姿だった。
「どうしたの?」
「この人が千円のみこまちゃった、っていうの」
「開けてみればいいじゃん」
「でも、大沢さん、すぐ来てくれるかなぁ・・・」
「自分で開けられるよ。鍵、預かってるんだから」
「え?」
「知らないの、母さん? こないだお父さんがスペアキーを業者の人から預かってたよ。取ってくるから、待ってて」
そうだったかしら・・・・と陽子は考えてしまう。日中に家にいることが多いのは私なのだから、鍵を預かったのなら私に言っておいてくれなくては。
啓吾はなかなか帰ってこない。陽子はおしゃべりでごまかそうと必死になる。
「場所がわからないのかも、うちって、ほら、いい加減だから、そういうことってよくあるの。特に、お父さん! 車の鍵とか、いつもどっか置いちゃって、いざってときに探し回るの。おたくも、そんな感じじゃありません? 申し訳ありませんわね。開ければちゃんとお金は出てくると思いますので、少しお待ちくださいね。機械って、やっぱり信用おけないところもありますからね。カンペキってことはないですよね。中に入って、どこかに詰まるってこと、この機械も一度もなかったってことはなくて、今までも二回ぐらい、ほら、この道の角を曲がったところにあるコンビニのご主人が管理してくれているんでけど、あちらにお願いして開けてもらったら、やっぱり紙幣がねじれて詰まっていたって、そんなことも実際にありましたから、今度もきっと開けてみれば、おたくのお金が見つかるって思いますの。お急ぎなのはよくわかりますが、やはりこういうことは確認することも大切な仕事ですからね、ご迷惑おかけして本当に申し訳ないと思いますが、うちの息子が鍵を見つけて戻ってくるまで、ちょっとお待ちくださいね」
啓吾の姿を見てから勇気がわき、しゃべりが調子に乗ってきた陽子だった。
やがて家の裏側から出てきた啓吾は、思いっきり息を切らしていた。「はい」と鍵はちゃんと持ってきてくれた。陽子は気がついた、家にあるなんて嘘だったのだ。裏から回って走って、コンビニまで鍵を取ってきてくれた。さすがサッカー部!
機械の扉を開けると、案の定、札は詰まっていなかった。
「すみませんけど、ありませんね」
「おいおい、ありませんね、じゃねーよ。オレは本当に入れたんだから。詰まったんじゃなくて、もう奥に入っちゃってんじゃないの? 電気かなんかの故障じゃないの? 修理屋を呼ばないと正しいことはわからないんじゃないの? とにかく、オレはね、そこまで待てないわけ。とりあえず金は立て替えといてよ。オーナーだろ、それが筋ってもんだろ」
陽子は「ふー」と大きなため息をついて啓吾を見た。
「おじさん」と啓吾は毅然とした態度で言った。ダッシュしてきたせいか、目がはつらつと輝いている。「ほんとうは、金、入れてねんじゃねーの? そういうの、困るんだけど。はっきり言っとくけどさ、うちの父さん、県警だよ。県のケイサツショ。もしもこれ以上なにか言うなら、とりあえず警察の人に来てもらうしかないと思うんだけど、それでもいいのかなぁ?」
「嘘つくな」
「ほんとほんと、警察の人って、まあ、いつもせっせと働くとは限らないけど、うちの父さんの声がかかったりしたら、かなり話がデカくなっちゃうよ。これ、マジだから、悪いけど」
男は「ちぇ」と悪態をついた。「金を入れたのは本当だけどよ、こっちだって時間がねえんだ。千円ぐらいでいつまでも関わってるわけにはいかねんだよ、バーカ」
男は虚勢を張り、いかにもちんぴら風のがにまた姿で去っていった。
陽子は安心感から力が抜け、膝ががくがくと震えてきた。
「大丈夫だよ、母さん」と啓吾は言う。「ああいうやつ、態度でかいけど、権力には弱いんだ。県警って言っとけば、もう二度と来ないよ」
「そうかなぁ・・・」
「大丈夫、大丈夫。ま、ジミに信号整備とかしてたって、県警は県警だからね」
陽子は夜道にぽつんと立っている自動販売機のところまで来ると、そこにアクエリアスのペットボトルがあるのを知ってホッとした。風邪で熱があるときには、やっぱりスポーツドリンクでしょう。
でも、と、ふとまた余計なことを考えてしまう。啓吾はペプシコーラが好きだった。小さいときからサッカーのあとはコーラを飲みたがり、母親としては歯が弱くなる気がしてあまり歓迎はしなかったのだが、試合のあとには「おつかれ」と言って買ってあげたものだ。小学生の時はコカコーラでもペプシでも気にしなかったものだが、中学に入ってからペプシ派になった。うちの自動販売機に入っていたのがペプシだったということもあるのだけど、基本的に強いものより弱いものを応援するタイプなのだ。それは父親ゆずりの性格だった。父親も「金で選手をかき集めるジャイアンツが大嫌いだ」と言って、プロ野球は日本ハムを応援している。陽子は自分の知り合いの中で日ハム・ファンを一人も知らなかったが、父親には日ハムつながりの友人が結構いるようだった。そういう集まり(?)には意外に若くてかわいい女の子もいるらしくて、日ハムファンの飲み会から帰ってくると幸せそうに顔がほころんでいる。妻としては嫉妬を通り越して苦笑してしまう。
サッカーに関しては「うちの息子は鹿島アントラーズの本山選手みたいだ」と母親・陽子としては思っていた。口数は少ないけど、リフティングやドリブルはなかなか上手い。まわりとコミュニケーションとるよりも、個人プレイで状況を打開するタイプ。それでいてリーダーっぽく出しゃばることはない。「ルパン三世」の石川五右衛門のような格好良さ。なんで自分の息子が、朗らかな母親の性格とは正反対の性格なのか、陽子にはさっぱり理解できなかったが、試合で相手ディフェンダーを巧妙に抜いたりすると、思わず興奮して悲鳴のような声援を送ってしまう。啓吾は身体は細くてあまり筋力がある方ではないけれど、あれだけボール扱いが上手かったらプロにだってなれるんじゃないかな、と陽子は密かに期待していた。マスコミに追いかけられるJリーガーの母親! しかし高校に進んでからはサッカーとは正反対の、ゲーム中心の不健康な生活になってしまった。いつも顔色が悪く中学時代のような輝きがない。パソコンも新しいノート型のを買って、デザインしたり、音楽を作ったり、小説みたいなものを書いたり、とにかく一人で時間を忘れて熱中している。黙っていると風呂にはいることも忘れて、明け方まで部屋でなにかしている。さすがにこれには父親もキレて、以来、ゲームを巡る家庭内戦争が続いている。中学時代の啓吾は、確かに一番輝いていた。あのまま大人になっていってくれれば言うことないのに、なかなか思い通りにはいかないものだ。とりあえず薬物とか窃盗とか、大きなトラブルとは縁がないのでましだとは思うけれど・・・。
スポーツドリンクを一本買った陽子は、お父さんも何か飲むかしら、と思った。しかし家を出る直前までのんびりお茶を啜っていたことを思い出し、必要ないわね、あの人は、と結論した。自分も冷たいものはあまり飲みたくないし、かといってこの時間に缶コーヒーなども飲みたいとは思わなかった。
やはり心残りなのはペプシコーラだ。啓吾は明日から受験で東京に行ってしまう。合格したら家を出ていってしまうのに、こういうときこそ一番好きだったものを買ってあげたいと思うのは親バカというものだろうか。自動販売機にはコカコーラしかなくて、啓吾がひいきにしているペプシはない。見回してもこの辺りに自動販売機はこれ一台だけだった。しかしコカコーラとペプシの違いなんて、熱があるときに大きな問題じゃない気がして、陽子はお金を追加し、ペットボトルのコーラも一本買ってしまう。だいたい150円の飲み物に、いちいち迷っていてもしょうがない。今夜は15000円ぐらいものだって、ダメもとでポンと買ってあげたい気分なのだ。役に立てばラッキーだし、そうでなくてもベツにかまわない。可能性があることには、今は躊躇なくチャレンジする。そういうポジティブさって素晴らしいし、その精神の源泉になってくれている啓吾は、やはり陽子にとって大切な存在なのだ。
冷たい二本のペットボトル。三人家族で二本のペットボトルというのは中途半端な気分だったけれど、こういうときに自分がさっぱりしたくて人数分買ったりすると、あとでいろいろ文句を言われるものなのだ。「なんで欲しいっていってないものまで買ってくるんだよ」「そういうのは気が利くっていうんじゃなくて、お節介っていうんだ、欲しかったら自分で買うよ」そういうことはさんざん経験してきた。思い出すと腹が立つ。三人だから三つというような考えはもうしない。いいのだ、それで。もちろん陽子としては決して納得はできなかったし、今だって罪悪感のようなものを心の底では感じているけれど、旦那や息子に自分の考えを押しつけても上手くいかないという、これは経験から学んだ現実だった。
救急外来の扉を開けると、再び病院の匂いと温かさに包まれた。まだ旦那は一人で通路の長椅子に腰掛けている。陽子が「先生来た?」と訊くと、「まだにきまってるよ」と旦那はぞんざいに首を振った。
「ケイちゃん」と陽子は診察室に入って言った。「飲み物買ってきた。スポーツドリンクがいいと思うんだけど、コーラも、一応ね。熱がある時って、こういうのも美味しいかもしれないと思って。あなた、コーラ好きでしょ。好きな方、飲んでいいわよ」
「そっちでいい」
啓吾は布団から指を出してスポーツドリンクを指さした。
「じゃあ、ちょっと起き上がりなさいよ。お母さんが開けてあげるから」
「いいよ、別に開けなくて」
啓吾は起き上がると、いらついた仕草で空色のペットボトルを陽子の手から奪った。陽子自身も、余計なこと言っちゃったな、とは気づいたけれど仕方がない。
啓吾は粗野な手つきでキャップをねじり、鼻を啜ってから、ボトルを口に当てて一気に半分ほど飲んだ。
「先生、おそいわね」
母親のつぶやきに、啓吾は応えず、ため息をつく。当たり前のことしか口にできない無能な母親に、いつものイライラを感じているみたい。先生が遅くなるのはわかっていること。そう言い残して去っていき、ベッドで横になっていていいと言ったのだから。それはまあ、そうだけど。啓吾のイライラは、陽子にも理解はできた。今夜は特別な日だし、もっと気の利いたことを母親としても言ってあげたい。ロール・プレイング・ゲームの主人公の母親だったら、もっと神聖で意味深な詩のような言葉を語ったろう。「あなたは、私たちの愛の結晶なの、風邪などにまけず、大きく羽ばたくのです・・・」
なんだか考えれば考えるほどヘンな感じよね、今日の私って、と陽子は一人で苦笑し、座っていた丸椅子から立ち上がった。
「お父さんがコーラ飲むかもしれないから渡してくるね」
「・・・ああ・・・」
しかし、これも予想された反応ではあったのだ。陽子の旦那だって、ロール・プレイング・ゲームの主人公の親ではないのだ。素敵な台詞など望むべくもない。
「おまえ、なんでこんな寒い日にコーラなんかかってくるんだ?」
長椅子の横に腰掛けた陽子にむかって言った口調は、べつに激しく妻をなじるようなものではなかったけれど、当たり前のことを当たり前のように口にする。その言葉がどれほど陽子を傷つけるか、全く気が付きもしないで。
「いいじゃない、熱がある時はこういうのも美味しいかなと思っただけ」
「普通はスポーツドリンクだろ」
「わかってるわよ、そんなこと!」
突然の妻のヒステリーに、父親は「なに怒ってんだ、ばか」とおもわず反発する。
「いいでしょ、べつに。たかが150円のジュースぐらいで、いちいち文句いわないでよ」
「おいおい、オレは、ただ自分の感想を言っただけで、文句なんか言ったおぼえはないけど?」
「い・い・ま・し・た」
「・・・」
またこのパターンだ、と陽子は思い、激しく悲しくなる。きっと一生私たちはこういうすれ違いを続けるのだ。全然理解し合えない。女性の感情や、去っていく息子への愛情のことなど、この人は理解しないのだ。せめて理解しようと、努力の姿勢ぐらい見せてくれたら感謝する気にもなるのに。実際は、むしろ逆。わざとそういうことから話をそらそうとする。それは男の人なりのテレなのかもしれないし、あるいはただの個人的な性格の現れであって、悪意があるわけではないのかもしれない。しかし陽子にとっては、悪意そのものだった。そしてまた、余計なことを思い出す。あの秋の休日、結婚20年の記念日にディズニーランドに行って、なんとそこで嬉しそうに携帯テレビを取り出してプロ野球観戦を始める大バカ。ますます腹が立つ!
「別に、あなたに飲んでもらわなくていいから。私、飲みます」 陽子は白いキャップをねじって、コーラを口にする。甘すぎるし、冷たすぎるし、炭酸の刺激が強すぎる。こんなものを真冬の夜の自動販売機で売っていること自体が法律違反じゃないのと思ってしまう。実際に冬にはコーラの販売量が減ることは陽子としても知っていることだったが、いちおう入れておかなければならない事情があることも知っていた。世の中というものは、どうしてこうねじ曲がったことばかりなのだろう? もっと、好きなら好き、嫌いなら嫌いとはっきり言えるような、さっぱりとわかりやすい社会がいいのに。息子を愛しているなら、愛していると言わせてもらったっていいはず。かまってあげたい気持ちがあふれているなら、かまわせてもらったっていいじゃない。150円のジュースを一本余計に買ったからといって、いちいち無神経な台詞なんか聞かされなくてもいいのに。
一口飲んでもてあましている陽子の手から、旦那がボトルを受け取って少し飲んだ。
「やっぱ、冷たいな。なにか温かいものでも買ってくればよかったのに」
「缶コーヒーしかなかったのよ。こんな時間に缶コーヒーとか、飲みたくないでしょ?」
「うちの自動販売機に、ホット・はつみつレモンってあるだろ。あれ、なかなか好きなんだよ」
「あなたって、ときどき子供みたいに甘いものが好きよね」
「仕事で疲れて夜中に帰ってきてさ、家の前で一人、ホット・はつみつレモンを買って飲む。あれが、すごくホッとするんだよね」
「そんなこと言って、仕事で残業して遅く帰ってくることなんて年に何度もないじゃない。昔のあなたって、もう少し緊張感のある人だと思ったけど」
「まあ、公務員だからな。緊張しててもはじまらないよ。むしろ別の精神的苦労があってね、ホット・はつみつレモンが癒してくれるわけ」
「・・・」
なんだか私たちの夫婦の間には100万光年ほどの距離があるな、と陽子が悲しい気持ちで思いをめぐらしたところで、通路の奥から医師と看護婦がスタスタと早足でやってきた。
「すみません、お待たせしちゃって。中ですか?」
「そこのベッドに・・・」
医師と看護婦は診察室に入った。医師はカルテを見て名前を確認した。
「えっと、小林クン、どうかな?」
啓吾は自分でベッドから下りて丸椅子に座った。看護婦はすぐに電子体温計を啓吾に渡した。医師は席に着くと、懐中電灯で啓吾の喉をのぞき込んだ。
「いつ頃から悪くなりましたか?」
横にひかえた陽子が、すかさず説明した。
「二、三日前から調子は悪そうにしていたんですけど、熱が出たのは昨日からみたいです。本当は学校をお休みするべきだったんですけど、この子は明日から東京に受験に行くので、今日が試験前は最後だからって、無理に学校に行って、帰ってきて夕食を食べたら妙にぐたっとしているから、熱を測ったら39度もあったんです」
医師はボールペンでカルテに記載しながら「明日から受験なの?」と質問した。
「正確には、試験は明後日からです」と啓吾がぼそっと答えた。「いちおう、明日のうちにいっとかないと」
「何校ぐらい受けるの?」
「三校」
「じゃあ、しばらくむこうにいることになるのかな?」
「そうっす」
「そうかぁ、それはちょっとこまったね・・・」
「無理かとは思うんですけど」と陽子が口を挟んだ。「すぐに治るお薬があったら、少し高くてもそれをお願いしたいところなんですが」
医師は苦笑した。
「そういうのはないですよ、お母さん。風邪はね、昔も今も自分の身体が戦って治していくしかないものです。薬はそれをサポートするだけ。とりあえず今日は風邪薬と熱冷ましを出しておきますが、我慢できるようだったら、熱はあまりむりに下げないで、温かくしてぐっすり休んだ方がいいでしょう。汗をかいたら下着とかを取り替えてね。で、明日は、また午前中に来れるかな?」
「大丈夫っす。明日中にむこうに着けばいいので」
「じゃあ、明日また来てください。今は時間外で薬局が閉まっているので、三日分しかお薬が出せないんですよ。旅行中は足りなくなると思うし、もし明日になってもまだ39度ぐらいの熱が続いているようだったら、症状緩和のお薬の入った点滴なども考えましょう。カルテにそういうふうに書いておきますからね」
「先生」とまた陽子が口を挟んだ。「今日は点滴とかはいいのですか?」
「小林クン、水は飲める?」
啓吾は頷いた。
「吐いたりして水分とれないようなら点滴しますが、基本的にはスポーツドリンクとか飲めるようなら点滴は必要ないです。今日出すお薬をお飲みになって、水分をたっぷり取って、今日は早めに休んでください。それが一番いいと思います」
医師はしゃべりながら、すらすらとカルテを記載し、さっと看護婦に渡した。
「では、看護婦さんからお薬が出ますので、私はこれで。おだいじに」
医師は去り際に、受け付けの女性に「3A病棟で呼ばれたので行ってくる」と声をかけ、早足で廊下の奥に消えていった。
「医者って、忙しそうだなぁ」
後ろ姿を見送った啓吾の父親は、まったりと穏やかな表情で苦笑した。
陽子は看護婦から薬を説明してもらって受け取り、受け付けの女性に「預り金」を渡した。夜間は計算が出来ないので五千円預けて、後日精算ということだった。明日また来るのなら、そのときでいいとのこと。
「ありがとうございました」
と小林一家の三人はそろって頭を下げた。
啓吾も上着を着て、あとは帰るだけというとき、まだ陽子の手には半分以上残ったコーラのペットボトルがあった。
「ねえ、しょうがないから、これ、捨ててくるわ。通路の奥にトイレがあったわよね?」
旦那はすぐに頷いた。
「遠くじゃないよ。すぐそこ。左側」
陽子は早足で通路を進みトイレをみつけると、女性用の扉を開けて入った。ペットボトルのキャップを開けて、洗面所にコーラを流した。白い洗面台に、茶色の液体が泡と共に流れていく。その液体を見ていたら急になにかがこみ上げてきた。吐くのかと思って、陽子はとっさに洗面台にかがみこんだ。しかし喉からはなにも出てこない。出てきたのは、涙だった。両目からほとばしってくる。
もったいないのは確かだけど、150円のコーラなんかべつに捨てたっていいのに、と思う。またいくらでも買えるのだ。トラック一台分のコーラを捨てたって、いい大人が泣いたりはしないわよ、普通。
陽子は横に腕を伸ばし、入り口の扉を少し押して、隙間をつくる。そして少し声を大きくして伝える。
「私、トイレに入ったら、したくなっちゃったかも。先に車に戻っててもらっていい?」
旦那から「いいよ」と気のない返事が返ってくる。
ぶらぶらと二人が去っていく足音が聞こえてくる。
陽子は激情を身体の中にため込みすぎていた。そのはけ口もない。緊張がとぎれ、氷のように冷たい洗面台にへたり込む。
ねえ、なんでよ?
なんで、こういうことになっちゃうのよ?
なんで東京に行っちゃう前に、私が買ってきたコーラを「あー、うめー」って飲んでくれないのよ?
私の大切なものが、トイレの洗面台に流れていくのよ!
洗面所の下水に流れていってしまう!
それでいいわけ?
そんなのってひどすぎない?
いくらなんでも、あんまりだと思わない?
ねえったら!
妻はずいぶんトイレに時間がかかっているようだったが、それはそれで別にいいのだった。車に戻った二人は、父親は運転席、啓吾はバックシートに座り、アイドリングするエンジンからの温風が吹き込む暗い車内で、ぼそぼそと会話を続けた。
「熱が下がればいいけどな」
「平気。本命は、まだ先だし」
「母さんについてってもらうか?」
「冗談じゃないよ」
「ちゃんと、栄養とれよな」
「わかってるって」
「ま、すきにしろ」
「ところでさ」
「ん?」
「母さん、大丈夫かな」
「なんで?」
「なんか、ヘンじゃん」
「まあな」
「困るんだよね、ああいうの」
「女なんてそういうもんさ」
「そうかもしれないけど」
「ま、心配すんな」
「うん・・・」
「オレがついてるし」
「・・・」
「それより、おまえ、せっかく行くんだから、ちゃんと受かってこいよな」
「そだね」
啓吾はドアにもたれて、冷たい窓ガラスにほてった額を当てていた。今日の高校で、美人のMの割りきったような態度に接したことが、彼には不思議なほど遠い過去の出来事のように感じられた。
車のガラス越しだったが、目を凝らすといくつか星が見えた。啓吾は小さいときに両親と夏の星を見たときのことを、急にはっきりと思い出していた。母親が「星っていつ見ても変わらないのよね」と言うのを聞いて、なに当たり前のこと言ってんだろう、バカみてーと思ったものだが、こうしてガラス越しに星を見ていると、星ってたしかに昔のまんま、なんにも変わっていない。そういうのも現実にあるんだな、と、彼は自分でも理解不能なほどしみじみ思った。変わっても変わっても、まだまだ全然変わりたりないと感じる自分と、全く変わらない星空のギャップに、温かくなりはじめた車内で一人苦笑して。
|