Susacian Prayer   1-3  4-7  8-11  12-16  17-20  21-25  26-29  30-33  34-37  38-40






 僕はスーサシアという国を愛している。もちろんそれは愛国心と呼んでもらっていいはずだし、ある種の愛国心であることに違いはないのだが、そこにはいささか個人的な事情も含まれている。気恥ずかしいことだが、要するに僕にとっての愛国心とは、初恋だ、と思う。哲学的な概念ではない。僕の初恋の女性が善きスーサシア人だった、だから僕はスーサシアを愛している。ただそれだけ。もし彼女が別の国の人だったら、僕はその国を愛していたかもしれない。

 初恋というのは、今になってみれば昔のことだ。
 それでも、変わらないものがある。
 自転車の乗り方のように。二つしか車輪のない自転車に、最初に乗る子供は不安いっぱいだが、一度乗れてしまうと、もう乗り方を忘れるということはない。どんなに間隔が空いていたとしても、そこに自転車があれば、またすぐに乗りこなせる。
 
 ユリ。君の名を口にすれば、僕は昔と全く変わらないドキドキとした気持ちになり、君が残してくれたものの大切さを泣きたくなるような気持ちで思い出さずにいられない。君が清楚な姿でたたずみ、泣き、嘔吐し、笑い、抱きしめ、キスをした。

 しかも、あの混乱した状況において。血と死の匂いの漂う淡い緑の光の中、君は自らの命を危険にさらしてまでも、背負ったものに忠実であり続けた。

 一方、僕は、なにも知らなかった。「なにも知らない」という役を演じている道化そのものだった。

 僕は自分が道化であったことを肯定しようと思う。
 しかしそれは自虐的な意味ではない。
 ユリ、君の笑顔こそが、僕は何よりも好きだったから。
 スーサシアの聖なる祈り師の優しい微笑みが。











スーサシアの祈り師



  第一部


1 始まりの朝


 遠くから、潮騒が聞こえてきた。波がくだける音。サラサラと重なる。そして急に海鳥の鋭い鳴き声が響いた。
 僕は目を開けて、おだやかな夢の世界から、現実に引き戻された。

「おはようございます」
 光の向こうから聞こえてきたのは、女性の声だった。その声が初めて聞いたものかどうかは定かではなかったが、初めてと言っていいほど聞きなれない声なのは確かだった。しかも若い女性だ。僕はかすむ目をこすり、メイドの衣装を着た彼女に焦点を合わせた。
「ご朝食の用意ができておりますよ、タクヤ様」
「え?」
 僕はとまどった。それはそうだ。目の前の女性が誰なのかわからないし、自分の名前が『タクヤ』ということについても心当たりがない。
「どうされました、タクヤ様?」
「タクヤ……さま?」
 僕は首をかしげる。すると女性もそれにあわせて「タクヤ様?」と首をかしげた。その表情には、親しげなユーモアが感じられた。
「あなたは誰?」
「メイドのメリルでございますが、なにか?」
 メイドのメリル……心地よく転がる言葉。ころころ。しかし理解できない。僕はうつむいて考える。そう、きっとこれは、誰かが仕組んだいたずらにちがいない。僕を驚かせようと、こんな手の込んだことになっているのだ。絶対そうだ。
「ごめん、ちょっと、寝起きで頭が働かないんですけど、これ、僕のことをだまそうとしているでしょ? あんまり完璧なんで、ホント、混乱した。でも、もう十分だから。頼むから、やめて」
「あらあら、つらい夢でもごらんになりましたか?」
「夢を見たと言うより、これが夢でしょ?」
「これが、夢?」
 と、彼女は再び首をかしげた。僕は、とぼけるのはいいかげんにして下さい、と怒鳴りたくなったが、彼女の表情を見る限り、意図的にとぼけているようでもなかった。
「とにかく、もういいから、本当のことを教えて。マジで何も思い出せないんだ」
「今朝のタクヤ様は、ご様子がおかしいですわね。メリルは、ちょっと心配になってしまいます。お熱でも?」
 子供のようにいらつき始めた僕に向かって、彼女が白く細い腕を伸ばしてきた。僕の額に、よい匂いのするひんやりとした手の平の感触が伝わってくる。近寄った彼女の理知的な眼差し、その目の脇には小さなほくろが見えた。そういったささやかな事実が、残酷なほど決定的に、これが夢ではないことを証明していた。
「たしかに少しお熱、ありそうですね。とりあえずご朝食をお運びしたいのですが、食欲はございますか?」
 僕は、一瞬、食欲のことなんか考えている場合じゃないだろ、と反論したくなったが、言われてみると、腹はへっていた。咽も乾いていた。ジュースをがぶ飲みして、パンを食べたい。
「おなかは空いている」
「あら、それはよかったです」
 メリルは満面の笑みを浮かべて頷いた。
「では、こちらの台のほうに今日の衣装を用意いたしましたので、お着替えになっていてください。10分ほどで戻ってまいりますので。オーケー?」
「は、はあ……」

 どう考えても、見覚えのない部屋だった。どういうことなのだろう?
 しかし思い出せないのは、部屋や、名前や、メリルのことばかりではなかった。自分の過去に関する全てのことが、全く思い出せなくなっていた。ぼんやりと感じられることはある。学校に通っていたこと、友達がいたこと、なにかで楽しく騒いでいたことなど。しかし具体的なことは全く出てこない。
 まるで目が見えなくなったような気分になり、ふと前方に手をのばし、宙にある何かをつかもうとする。そこに『過去』があるかのように。ないことがわかっていながら、何らかの動きをしないでいられない。
 ここは、どこだろう? 贅沢な部屋だ。縦長の窓にかかったレースのカーテンが風でゆらめき、生地を照らした朝の光が湾曲した天井を神秘的な繭のように輝かせている。
 僕はベッドを降りて、窓辺に近寄ってみた。カーテンをよけると、目の前に海原が広がった。海面が日光を反射してまぶしい。天井を明るくしていたのはこれが原因だった。僕は顔をしかめ、視線を脇にずらすと、遠くまで海岸線が見渡せた。手前側には都市が見えた。ここからは海に近い部分だけしか見えなかったが、その奥にかなり大きな都会が存在していることは想像できた。
 見なれた風景のような気もするが、初めて見る風景と言われればそのようにも思える。どちらだろう、と自問すると頭痛が襲ってきた。
 記憶の悩みはさておき、身体が要求するものを自覚した。尿意だ。トイレに行きたい。緊急課題だ。室内に視線をもどすと、一瞬で赤黒くにじむ。光の落差がありすぎて視界ゼロの中、両手を前に伸ばし、壁際を探っていく。まもなく視界が戻り、隣の部屋まで歩いて、やっとレストルームへむかう通路の入り口を見つけた。
 その通路には、壁面にくぼみがあり、棒の形をした美術品が飾ってあった。彫刻や宝石の飾りがあるわけではなかったが、複雑で鋭い紋様が浮き出ていた。『龍剣(レプリカ)』と、ご丁寧に金属プレートで説明まで添えてある。レプリカを飾って、何の意味があるのだろうか?

 いろいろわからないことだらけだった。何がわからないというより、すべてがわからなかった。とにかくトイレを済ませ、服を着替える。すると先ほどのメイド姿の女性がノックをして入ってきた。
「お待たせしました、ご朝食でございます」
 彼女の朗らかな声に、僕は思わず苦笑してしまう。
「あら、どうしましたか?」
「いや、何でもないっす。ただ、あなたみたいな人が朝食を運んできてくれるのは、素直に嬉しいな、と思って」
「あら、ヘンなタクヤ様。さあ、テーブルの方へどうぞ」
 彼女は窓辺のテーブルに心地よい匂いを振りまく銀のワゴンを寄せて、薄青色の食器類を手早く並べ始めた。
 僕は、進められるままに革張りの椅子に腰掛け、丸パンに手をのばしてかじった。今朝焼いたのだろうか。外側はパリッとして、中はフワッとやわらかい。とても美味しい。
 子供のようにパンだけをかじっている僕を見て、彼女は苦笑しながらジャムやバターの載った皿を勧めてくれた。そしてティーポットから二人分のカップにコーヒーを注ぐと、僕のそばにカップを置いた後、彼女自身も丸椅子に腰掛けてコーヒーに口をつけた。
「とても気持ちのよい朝ですね」
「そ、そうですか?」
「春らしい感じがいたします」
「今、春なの?」
「ふふ、そうですね。若葉がまぶしい季節。今日あたりはもう初夏と言った方がいいかもしれません。いろいろなことが、大きく花開こうとしています。私にとっても、喜ばしい限りです」
 まるでプロポーズを受け入れた翌朝の少女のようなうっとりした姿に、僕はすっかりあきれて、むしろ恥ずかしいくらいの気持ちになった。幸い朝食はおいしかったので、ひたすら食べることに意識を集中した。
「タクヤ様にとっても今日は大切な一日です。どうか、元気なお姿でお願いしますね」
「えーと」僕は一度せきばらいしてから、あらためて彼女に質問した。「最初にはっきりしておきたいんだけど、これ、なんのいたずら?」
「は?」
「この、まるで王様か何かみたいな感じ」
「特に、いたずらということはなく、いつもの感じですが」
「じゃあ、あなたは誰?」
「憶えてらっしゃいませんか?」
「うん」
 僕はあえて残酷に肯定した。一瞬、彼女の表情が曇った。
「そうですか……。私もまだ先週からこちらにお世話になっているばかり。あらためて自己紹介させていただいてよろしいでしょうか?」
「お願いします」
 彼女は気を取り直し、笑顔を浮かべた。
「私は、メリル。タクヤ様の身のまわりのお手伝い、そしてスケジュール管理をふくめて、すべてを担当させていただく予定になっております」
「予定になっている、とは?」
「まだ始まったばかりですので。でも、がんばります。タクヤ様がお認めになっていただけたなら、私はきっと今までにない優秀なサポート役として、お側についていけると確信しております」
 いろいろ意気込んでいるようだが、とりあえず再度名前を確認してみる。
「あなたが、メリル。そして、僕がタクヤ。……オーケー?」
 僕が指を丸めて片手をあげると、彼女も嬉しそうに指を丸めた。
「もちろんオーケーですっ」
 その自信たっぷりな仕草に、僕はためいきをついた。
「くそ、なにも憶えてない。なんなんだよ。って、あなたにモンクをいってもしょうがないですね、すみません……」
「あらあら、難しくお考えにならない方がいいですわ。それよりも、今日はいろいろなスケジュールが押しております。そちらの方、どうかぬかりなく」
 僕はまるで床がスコンと抜けたかのような不安に襲われた。
「すけ……スケジュール? 聞いてないよ。なにそれ?」
「午前中はいつものように『お勉強』、午後からは美術大学への『訪問』と、国際環境会議に関する『取材』へのご対応。コメント用の台本が用意されていますので、それを読んでお答えいただくことになります」
「なんだそれ……」

 正直に言うと、僕に課せられた義務に関しては、肯定しなければいけない条件反射的な心の動きを感じた。それこそが、内面でのリアリティを生み、僕を落ち込ませた。

「難しくお考えにならなくても大丈夫ですわ。ちゃんと文章がカメラのレンズに映るそうなので」
「僕が、カメラに映った文章を読めばいい、ってこと?」
「はい、その通りでございます。簡単ですわ。簡単すぎて、申し訳ないくらい。タクヤ様も、今年はいよいよ御成人ですが、今はまだね。うふ」
 メリルはいたずらっぽくウインクをした。
「御成人?」
「偉大な王になられる第一歩です」
 王? なに言っているんだろう、この人。
「何も憶えてない」
「あのぉ、もしかして、タクヤ様、今朝は『記憶喪失ごっこ』ですか?」
「いいえ、ちがいます」と僕は背筋を伸ばしてキッパリと答えた。「でも、もういいよ。否定したって始まらないんだろ、どうせ」
「あらあら、今朝のタクヤ様は、ご機嫌ななめ?」
「そういう問題じゃないです」
「お怪我の影響かしら」
「え?」
「少しお熱もあったみたいだし。いかがですか、右足の方?」 
 僕はズボンの裾を上げて、自分の右足を見てみた。そこは包帯が巻かれているわけでもないし、痛みもない。ただ、ふくらはぎが青黒く変色していた。手の平くらいの広さだ。普通の内出血とは違い、紋様のようなものがうっすらと浮き出ている。かなり不気味だ。
「いや、別に痛くはないけど……」
「今日のタクヤ様は、とてもヘンです。あらためて、お医者様に診てもらったほうがいいのではないでしょうか?」
「うん。お医者様がいるなら、僕だっていろいろ相談したい」
「わかりました。では、私メリルが、この優秀な政治力を駆使して、さっそくタクヤ様のスケジュールを調整してお見せしましょう。うふ」
 メリルは自信に満ちた理知的な表情でウィンクすると、さっそく壁際の内線電話を使って『タクヤ王子』のスケジュールの相談を始めた。本部の反応は煮え切らないものだったようだが、メリルの話術で強引に許可をもらうと、すぐさまドクターへも電話をかけた。
「タクヤ様が、今朝は、かなりヘンなのです。どういうふうにヘンかというと、頭がおかしいのです。足のこともありますし、また診察をお願いしたいのですが」
「いいですよ、拝見させていただきます」と受話器から漏れる向こうの声が僕にも聞こえた。年配か、あるいは初老人くらいの男の声だ。大声なのは、少し耳が遠いからかもしれない。
「では、さっそく往診をお願いします」
「行くのはいいのだが、やはり治療には『祈り』が必要だと思う。そうなると、こちらに来てもらわないと……」
 その声が聞こえた僕は、思わず話に割って入った。 
「じゃあ、僕が行きますよ」
「え?」とメリルは首をかしげた。
 え? 僕は何を言っているんだろう。どこに行けばいいかもわからないのに、気がつけば自分から行くことを宣言していた。
「まあ、僕の足がヘンと言っても、歩くのに支障はないみたいだし」
 メリルはにっこり微笑んで「では、そうしましょう」と頷いて受話器を置いた。
「メリルさん、案内してくれますね?」
 僕の問いに、彼女はあっさりと首を振った。
「私は、まだこちらで片付けなどがありますので。もし、診療所への行き方が思い出せないなら、地図を描いて差し上げますわ。私、そういうことが得意なのです」
 なぜか急に、理由のわからない悲しみがこみ上げてくる。
「いや、メリルさんに案内してほしいな……」
「わがまま、おっしゃらないで下さいませ。第一、朝から私がタクヤ様と歩いていて、つきあっているんじゃないかと勘違いされてしまったら困ります」
「そ、そりゃあそうだけど」
 メリルは冗談として言ったようだし、そのことは僕にもわかった。しかしなぜか僕はまったく笑えなかった。予感されることがあったからだ。もし、その予感が、もう少し強く、具体的であったなら、メリルの死を避けられたかもしれないのに。
 


2 診療所


 海辺の広場にある診療所までの地図を、メリルは楽しそうに微笑みながら描いてくれた。「階段を下まで降りてください」とか「人魚の彫刻があります」とか、心なごむコメントもにぎにぎしく足して。
「ほら、できましたよ。どうですか。私、こう見えて、画には自信があるんです」
 しかしどちらかというと、それは子供の落書きのようなものだった。
「どういう自信だか。とにかく、これ通りいけば着くんだね?」
「もちろんでこざいます。無事に行って帰ってこられましたら、今度はもっといろいろなところの地図を描いてさしあげましょう。私、絵を描くことが大好きなのです。うふ」
 少し無理をした感じの声を聞いて、さすがの僕も気がついた。メリルは僕に記憶がないことを、楽しみでやわらげようとしてくれている。
 感謝と、余計なことするなと言いたいいらつきと、両方をかかえつつ、僕は部屋から外に出た。

 地図を頼りに広い廊下を進んでいくと、庭園の見下ろせる踊り場にでた。庭園の先には海原も見渡せた。この広い庭園の西側に診療所があるはずだった。
 何か思い出せないだろうかと考えた僕は、手すりのそばにたたずみ、しばらく周囲を観察した。見たことがあるような、ないような、微妙な感覚。その先に踏み込もうとすると、また頭痛が襲ってくる。
 そこに一人の女性が走り寄ってきた。長い金髪で、僕と同世代くらいの女性だった。妙に嬉しそうに笑顔を浮かべている。
「あら、タクヤ様、ご機嫌うるわしゅう」
「あ、どうも……」
「朝からタクヤ様とお会いできるなんて、なんて幸運なことでしょう!」
 彼女の積極的な姿勢に、僕は腰がひけた。
「幸運ってほどじゃないと思うけど。君は……?」
「あらいやだ、泣く子も黙るミルシードでございます。お忘れですの?」
「今日、ちょっと調子悪くて、いろいろ忘れがちなんです、僕」
「なるほど。むしろ私の名前が思い出せないほど体調がお悪いとあっては、真面目に心配になってしまいますわ。で、今日はどちらまで?」
「診療所……って言うの? ドクターに診てもらうことになって」
「なるほど、そういうご事情ですのね。泣く子も黙るミルシードも、納得いたしましたわ」
「ねえ、その『泣く子も黙る』って、どういう意味?」
「あらいやだ。美しすぎてビックリして泣いている子も黙ってしまう、という意味に決まっているではありませんか」
「……」
 なんだろう、ふと懐かしさを感じた。前もこんなことは、あったような気がして。
「タクヤ様!」
「はい?」
「ちゃんと笑うべきところで笑ってくださらないと、私、恥ずかしくなってしまいますわ」
「あ、ごめん。なにせ、自分、今日は、あれが、あれなもので」
「はいはい。お医者様ですわね」
「そうなんだ。診療所って、この近くにあるんだよね?」
「ご案内いたしましょうか?」
 と彼女が僕の手をとって首をかしげた。実際のところ、ミルシードは素敵すぎて、僕は気持ちが混乱してしまう。髪や顔だけでなく、純白のブラウスの豊かなふくらみや、ロングスカートが似合うスラリとした足先まで。彼女は『美しすぎて』という形容を冗談として語ったようだが、僕がすぐに笑えなかったのは、そこに本気レベルの真実が存在したからでもある。 
「いや、近いなら、教えてくれたら、自分で行くので……」
 するとミルシードは残念そうに手を離した。
「では、あのふさふさの木の向こう側へどうぞ。私、本当のことを言いますと、すでに遅刻なの。数学の授業よ。『タクヤ様をご案内して差し上げたものですから』という言い訳作り、したかったな」
「そんな言い訳作りをしているより、早く行って、ちゃんと授業を受けた方がいいんじゃない?」
「おっしゃる通りね。でも、ひとつだけご提案。お昼ご飯、ご一緒しません? 庭園の東、バラの広間で」
 僕にはいろいろ予定が入っているようだったが、昼休みについては何も言われていなかった。
「い、いいけど」
「では、用意させますから、お楽しみに。だって私、タクヤ様の好物はバッチリ調査済みなの」
「好物?」
「ハンカチの天ぷらと、モグラの刺身ですわね!」
「え……あれ……そうだっけ……」
「あら、いやだ、冗談ですって。今日はやっぱりノリがお悪いですわ。ちゃんとお医者様に診てもらってくださいな。でも、お目にかかれてラッキーでした。お昼のこと、必ずよ。今はうるさい人たちもいないですし」
「うるさい人?」
 彼女は上方を指さして「マシーンさんとか」と言った。
 僕がその名前を、絶望的な記憶の中に探ろうとしていると、ミルシードは僕の肩をポンポンと叩いて
「ごめんなさい、私、すでに遅刻なの。では、またのちほど!」
 と、一瞬上品に腰を下げて、はずむように去っていった。
 
 診療所で待ってくれていた医師は、白髪まじりの初老の男性だった。名前はドクター・シライ。
 診察台にうつぶせになった僕の足を、熱やしこりを確認するように慎重に手で探った。
「タクヤ様、痛みはどうですか?」
「いえ、特にないです」
「足以外の痛みは?」
「身体は普通ですが、頭痛がちょっと」
「ふむ。やはりこれは、ヤマトアザミの毒にまちがいなさそうですな」
「ヤマトアザミ?」
「王宮では、まだ栽培が続けられている、とか。秘術に関わる聖草として」
「身体には、よくないものなんですか?」
「うむ。場合によっては死に至ることもあるようです」
 僕はビクッと身体が震え、心臓が高鳴った。
「ま、まじっすか?」
「ご心配なく、と言いたいところですが、こればかりは、なんとも。ただ、今のところ、ご健康であられるようなので、急性期のショックはのがれたと言ってもいいでしょう。あとは、今後のことですが、タクヤ様ご自身は、ヤマトアザミについてどのくらい知っていらっしゃるのですか?」
「僕? 知らないっす。ていうか、一つ、本当のことを告白してもいいですか?」
「もちろん。私はドクターですから」
「じつは、記憶が、ないんです。朝起きたら。名前も、ここにいたという記憶も、全部」
 ドクターは一瞬、片方の眉を上げたが、それ上の反応は特になかった。
「私も医者として、ヤマトアザミの症状を多く見たということはないのですが、記憶に関する症状があっても不思議ではない」
「治りますか?」
 ドクターは診察台から離れ、机に向かって、一度大きなため息をついた後、カルテに記入を始めた。
「正直申し上げて、残念ながら、薬はありません。王宮にはこの分野に詳しい医師もいるはずですが、今は王に連れ添って国外です。ただ、症状を緩和する手段として『祈り』が有効なことは、まちがいないでしょう」
「つまり、薬がダメなら神頼み、ってこと?」
 ドクターはずっこけて椅子から落ちそうになった。
「祈りはもちろん、れっきとした治療ですよ。まあ、昔は超能力治療などと揶揄(やゆ)されていたこともあったようですが。とにかく、迷うヒマはない。今日から始めましょう」
「それ、僕が何かに祈るの?」
「いいえ。まあ、もちろんタクヤ様が祈っていただくのはいっこうにかまいませんが、治療としての祈りは、きちんと専門教育を受けた祈り師が施術いたします」
「はあ……」
「それにしても、記憶の全喪失というのは、あるいは王妃様が昨年亡くなられたことも、関係しているのかもしれませんな」
 とドクターはカルテにペンを走らせながらつぶやた。
「おうひさま?」
「あなたの母上様です。それもご記憶にない?」
「はい」
 ドクターは険しい表情を浮かべたが、すぐに気持ちを切り替え、書き上げたカルテをフォルダーにはさんで整えた。
「では、祈り師を呼びましょう」
「祈り師?」
「うちの娘がそうです。ユリと言います。タクヤ様とは、年齢も近いはず。たしかタクヤ様は御成人前なので、ユリの方がひとつくらい歳上でしょうか。憶えてらっしゃいますか?」
 僕は首を振った。
「まあ、会えば思い出すかもしれません。入江に行くと言って出て行きましたが……」
 立ち上がろうとしたドクターを制して、僕は質問した。
「自分で行ったら、ダメっすか?」
 また、唐突に、言ってしまっていた。なぜ自分で行きたいのかもわからないのに、いつのまにか言葉が勝手に口から飛び出ている。
 ドクターは苦笑しながら、「それもいいでしょう」と快くカルテフォルダーを渡してくれた。
「タクヤ様は、身体だけは元気そうですな。じつにいいことです。どうぞ、その扉から中庭に出て、目の前の防波堤を越えてください。その先に、入江が見えます。小さな桟橋があるのですぐにわかります。『祈り』については、カルテを見せればわかるようにしてありますので」
 僕のとっさの発言は、あるいは間違っていたのかもしれない。「間違い」というか、あるいは「場違い」というか。しかしドクターはそんな僕を、温かく容認してくれた。そのことが嬉しかった。
「ドクター、ありがとうございます」



3 祈り


 庭園を横切り、白い漆喰の石段を上がると、視界いっぱいに海原が広がった。まるで身体が宙に浮いたような気分になる。その先は断崖のようなコンクリートの壁となり、眼下にはおだやかな磯が広がっていた。
 入江はすぐにわかった。木製の桟橋があり、そこに桜色の衣装を着た女性が屈んでいたのだ。海面に手を延ばし、何かをしている。
 僕は彼女を遠くから見ただけで、急に緊張した。思い出せない過去と関係があったのか? あるいはその人が遠目にも魅力的な女性とわかったからか? 
 白いペンキがぶ厚く塗られた手すりをつたい、コンクリートの階段を降りて入江に近づくと、彼女もこちらに気がつき、肩まである黒髪をしなやかに揺らせて立ち上がった。
「タクヤ様、ごきげんうるわしゅう。今日は、こんなところまで、どうされましたか?」
「君が祈り師の人ですか?」
「はい」
「ドクターが、これを」
 カルテフォルダーを手渡すと、彼女は中を確認した。
「やはり、タクヤ様には『祈り』が必要なのですね……」
「すみません、なんか、めんどうをかけちゃって」
「いえ、そんな、とんでもございません」
「あなたの名前は、えっと……」
「ユリです。何度かお目にかかったことはあったはずですが、いえ、カルテに書いてありますね。『記憶がない』と。本当ですか?」
「そうなんです、困ったことに」
「私のことも?」
「はい。さっきなんか、ドクターがうちの母親のこと、話してくれたみたいだけど、それすら憶えていなくて。亡くなったって、本当?」
「はい。昨年のことです。とても悲しいできごとでした」
「そんなことも思い出せないなんて、僕、かなりヤバイ気がする」
「いろいろご心配のようですね。私、まだまだ経験不足ながら、精一杯の『祈り』をさせていただきますので、どうかよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしく、です」
「では、さっそく、まいりましょう」
 彼女が入江を去ろうとすると、海から奇妙な声が響いた。
『ねえ、もう少し遊ぼうよぉ』
 そこに人がいただろうか? 僕が驚いて視線を向けると、海面に顔を出しているイルカがいるだけだった。
「イルカ?」
 僕が指を指して質問すると、ユリは頬を染め、秘密がばれてしまった少女のように頷いた。
「はい。親しいのです。輪投げをして、遊んでおりました」
「しゃべるの?」
「いえ、しゃべりはしませんけど」
 僕は海面に近づき、屈んで話しかけた。
「おまえ、しゃべるのか?」
『ははっ、当たり前だろ』
「名前は?」
『シロ。尾が白いからね。あんたは?』
「僕? えっと……タクヤ」
『ふーん、で、どうしてタクヤなのさ』
「知らないよ。ていうか、そんなこと、僕に聞かれても困るし」
『おいおい、困るのはこっちだよ。名前には関連性がないと憶えにくいじゃないか』
「別に関連性のない名前だってあったっていいだろ?」
『いい悪いの問題じゃないよ。個体の識別(しきべつ)に関しては、関連性ってやつがないと、イルカ的にすごく困る。イルカを困らせるということは、つまりイルカ愛護じゃない。おまえイルカ的に最低なやつと結論』
「わかったよ、なにか関連性を考えておけばいいんだろ。いちいちうるさいイルカだな」
『ま、いいってことよ。からかっただけだから』
「はあ?」
『言葉が理解できる人間は、あまりいないもんな。気にしなくていいよ、ははっ、ははっ、ははっ』
 イルカは爆笑しているらしい。
 僕は攻撃的な視線でイルカをにらみつけた。
「タクヤ様?」
 と人間(ユリ)の声。
「え、は、はい」
「大丈夫ですか?」
「うん、ゼンゼン大丈夫。僕は問題なし。あいつが最低なだけ」
 しかし彼女の表情は、僕たちのがさつなやりとりとは無縁のものだった。桜色のやわらかな衣装を着た美少女が、両手を胸の前で組み、うっとりした眼差しでこちらを見つめている。
「さすが、王子様ですわ。イルカと会話がおできになるなんて。私、生まれて初めて見てしまいました」
 僕はおもいっきりずっこけて海に落ちそうになった。
「やめてくれよ。こんなの、大した意味ないよ。ていうか、君は、今の会話、理解できないの?」
「もちろんです。お二人で『くえっくえっ』って」
「なんなんだよ、その『くえっくえっ』って。また頭痛がしてくる」
「すみません。では、お二人さえよければ、祈りの部屋の方へ」
「お二人って?」
「イルカさんと、タクヤ様」
 そう言われてはしかたがないので、僕はもう一度イルカに声をかけた。
「僕たち、大切な用があるので行くから」
『大切な用ってなんだよ』
「祈りを受けなきゃいけないんだ」
『エッチなことか?』
「エッチじゃない!」
『じゃあなんだよ』
「し、知らないよ。僕だって、初めてなんだから」
『初めてなのか?』
「初めてで悪いかよ」
『なーんだ、そうか、初めてか。そうかそうか。ははっ、ははっ』
「むかつくやつだな。おまえ、いつかぶっ殺す!」
 僕が屈んで小石を拾い投げつけようと身構えると、イルカは朗らかに笑いながら、くるっと身をひるがえして水面下に去って行った。

 僕はイルカに対してかなり本気でむかついていたわけだけれど、会話の内容を知らないユリは淑やかに微笑みながら僕を導いてくれた。防波堤を越えて、さきほどの診療所の建物に戻る。そして診察室は別棟の、四角い建物に入っていった。そこが祈りの部屋だった。
 明るくシンプルな室内には、中央に白木の治療台が一つ。そこに紫色のタオルが敷かれていた。窓辺につるされたウィンドベルが、ときおり澄んだ音色を響かせている。
 僕は靴を脱いで治療台に上がると、ユリに言われるままにズボンを脱ぎ、うつぶせに寝た。
「こんな感じ?」
「はい」
「では、よろしくです」
 ユリはズボンを折りたたんで篭に置くと、壁際に並べられた茶色いガラスボトルの一本を取りあげて、中身を手の平に垂らした。すがすがしい香りが広がり、そのオイルのようなものを僕の患部にぬり広げた。優しくしなやかな指使いが伝わってくる。
「今日は、最初なので、軽めを心がけてやってみますね。それでも30分ほどはかかると思います。お時間は大丈夫ですか?」
「時間のことなんか、僕に聞かれても困るけど、まあ、気にしないで、思いっきりやっちゃってください。別に痛いことでもないんでしょ?」
「痛みは、あると思います」
「『祈り』なのに?」
「『祈り』だからです」
「そ、そうですか……」
「ねえ、タクヤ様。私たちが、自分自身の、真の存在を受け入れるということは、痛みでもあるのです。それを受け入れていくことこそが、祈りの第一歩となります」
「なんか、難しいんだね……」
「いいえ、心配はいりません。思考することは、タクヤ様には、全く必要ありません。祈りは、思考することではありません。受け入れることです。さあ、まずは、リラックスなさって、身体と心の力をぬいてください」

 ユリは僕の下肢をさすりながら、おだやかに説明を続けたが、いったん沈黙し、やがて小声で何事か念じ始めると、ふっとシリアスな緊張が伝わってきた。
 実際に手が触れていたわけではない。しかし僕の足には不思議な温かみが広がり始めた。それは、まるで子供の頃によく食べた飴の味のような素朴な懐かしさ。しかし同時に、世の中の憎しみを封じ込めた残忍なエキスが埋まっているかのような、独特の違和感も伴っている。
 ユリが念じる神秘的な声が、徐々に小さく、そして速くなっていく。ユリの意思が、まるで透明な触手のように入りこんでくるのがわかる。それは有無を言わせぬ絶対的な何かだった。足の皮膚を破って入りこんでくる。足の内側からユリの思念がねっとりと細胞に絡んでくる。
 すると突然、神経の断面に酢を塗られたかのような激痛が走った。
「いてっ!」
 僕は思わず首をねじり、ユリを見上げた。
 祈りに集中しているユリは微動だにしない。前に垂れた髪の奥、その半開きの両目からは、涙が流れていた。あの美しい瞳から、とめどなく。そして、胸の装身具からは、緑色の光が発せられていた。胸の前の空間を、淡く緑色に染めている。まるで等身大の女神のようだ。

 ……これが『祈り』ということか……

 僕は、ユリの聖なる努力を無にしてはいけないと考え、再び祈りを受け入れる体勢に戻った。
 あらためて足から熱が広がってくると、今度はどんな痛みが襲ってきてもいいように、両手を握りしめて身構えた。

 数回の激痛をやり過ごし、全身に広がった熱が、ゆっくりと収まっていく。
 祈りが終わろうとしていた、そのときだった。不気味な音と共に地面が振動した。
 地震?
 あるいは、これも祈りの治療なのか?
 僕が痛みに備えて手を握りしめていると、ユリの細い声が聞こえた。
「タクヤ様、今の、なに?」
 僕が上体をねじって見上げると、ユリはすでに我に返り、キョロキョロと辺りを見回していた。装身具からの光も消えていた。
「ユリ、どうかした? 終わったの?」
「はい。でも、今、なにか地震のような」
 するとまた、不可解な響きと共に、建物が揺れた。何かをたたきつけられたような一瞬の強い衝撃。地震とは明らかに違う。
 僕は不吉な予感に襲われ、治療台を下りた。靴を履いて、窓から外をうかがうと、遠くに立ちのぼっている煙が見えた。
 ふと何かを感じ、空を見上げる。そこに小さな点が見えた。煙と光を後ろから吐き出している空の中の黒点は、みるみるうちに接近し、次の瞬間、我々のすぐ近く、王宮の丘に直撃した。空気を引き裂く音がしたと同時に、大地が縦に弾み、周囲の窓ガラスが一斉に砕け散った。
「ぐわっ!」
 窓辺にいた僕は、容赦なく吹き飛ばされた。着弾地点は診療所から百メートル以上離れていたはずだが、巨人の腕で殴られたような爆風は容赦なく僕を襲ってきた。
 壁に背を打ち意識を失いかけた僕を、悲鳴を上げてユリが駆け寄り、強く抱きしめてくれた。
 僕たちはよろめきながら、タオルでガラスの破片を払いのけ、治療台の下にもぐり込んだ。
「なに、あれ? わけわかんない」
 ユリは涙を流していたが、それは、突然襲ってきた破壊の力に、涙の止め方がわからなくなったからだ。
 僕は耳が麻痺し、混乱した意識の中で、ユリを抱きしめた。そして「これは夢なんだ」と念じた。すべてが夢。目が覚めたら、また普通の生活に戻っているはず……





つづく>>