Susacian Prayer   1-2  3-5  6-8  9-11  12-14  15-17  18-21  22-25  26-29  30-33  34-36



『スーサシアの祈り師』


 白い風が
 沈黙の木々を揺らし
 聖なる存在は
 蒼い空へと消えていく

 愛に傷む
 『記憶』
 空まわりする
 『希望』

 肥大化した強欲の都市に
 母なる時代の波が押し寄せ
 目覚めの声が
 木霊する

 海からのやわらかな風と
 時を超越する空の色は
 雨上がりの草原に広がる
 未来への絆《きずな》

 勝利も栄光もない
 スーサシアの『祈り』の果ての
 夢の終わりに
 ひとつの聖なる微笑みを








  第一部


1 覚醒


 はじまりは『夢』だった。
 そこが夢の中であることは、彼自身も自覚していた。不安のない世界。面倒な義務や、ギスギスした人間関係など、嫌なことは何もない。だらしなくてもオールオッケー。

 げ、びーだ、めの、ぽの、すぴ、ぺよ、くーん、ひろひろ、がぎょ、ぐー、にょー、もへ……

 まるで子どもがデタラメに混ぜた絵の具のように、全てがドロドロと溶けあい、その開放感が心地よい。思い切って「えい」と身体を投げ出せば、特大クッションがふんわりと受けとめてくれる。その生地の新鮮なひんやり感。いつもそこにある母親のような匂い。
「この開放感にプラスして、おもいっきり『願い』も実現してみろよ」と、もう一人の彼が主張する。「けちけちするな、遠慮する必要は何もないさ」
 しかし、ほんとうの彼は「どうせ、夢は夢」と思う。ここで何かが現れたとしても、例えば、シャーベットや生クリームやスポンジケーキやメロンやイチゴが山盛りになった大皿が目の前に現れたとしても、あるいは胸の豊かな心優しい美女から「好きにしてください」とセクシーにささやかれたとしても、それは夢の中のことにすぎない。夢の中のトイレに何度通っても本当の尿意は解消されないように、どんな素敵ものが現れても夢では見るだけ。つまり『絵に描いた餅』なのだ。目覚めれば消えてしまう。
「どうせ、そういうものさ」と、本当の彼は思う。だから今は、混沌とした夢の世界の自由さを、手足を伸ばし、心いくまで味わうことにする。それだけでも、十分に幸せだから。夢の世界は全てがソフトで……


     ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

  
 やがて遠くから聞こえてきた、優しい女性の声。
 サラサラとした潮騒のような声だ。線が細く、しなやかな感じ。だから始めのうちは、ふわふわした夢とナチュラルに重なるかと思われた。
 しかし予想に反して、女性の声は逆の作用を及ぼした。ぼやけていた周囲の輪郭を、みるみるうちにくっきりしたものに変えていく。でたらめで自由な世界を、秩序正しく整えてしまう。

「おはようございます。……お・は・よ・う・ご・ざ・い・ま・す! ……もぉ、いつまでも起きないと、キスしちゃいますよ」
 彼がビクッとして目を開けると、そこにいたのは若々しい女性だった。白い前掛けを着けたメイドの服装だが、前掛けの下に着ているワンピースの衣装は、黒地に鮮やかな色彩の刺繍が交錯し、とびきり高貴な印象。
「さあさあ。いくら、いい季節だからって、そろそろお目覚めになってくださいませ、タクヤさま。今日は休日ではございませんよ」
 聞き覚えのない名前に、彼は首を傾げた。
「タクヤ……さま?」
「はい」
「それ、僕のこと?」
「もちろんですわ」
「えっと、ここは、どこ? ……あなたは、誰?」
 女性は姉のように親しげな笑みを浮かべた。
「あらあら、寝ぼけたフリをして、おふざけになってもダメです。いくらタクヤさまでも、時間だけは待ってくれません。さあ、今日はとても大切な日。顔を洗って、元気なお姿でお願いします!」
「大切な日?」
「お仕事も、お勉強も、両方です。ご存じのくせに」
「はあ……」
「よろしいですね?」
 女性は念を押すように頷くと、すっと立ち上がった。
「私も、正直、タクヤさまの寝顔をいつまでも見ていられたら幸せなのにな、と思いました。でも、本当にこれ以上のおねぼうは許されない時間なんです。衣装はこちらにご用意しました。すぐに朝食をお持ちしますので、お着替えを済ませてまっていてくださいね」
 ニコッと笑みを浮かべ、丁寧に頭を下げると、彼女は重々しい扉の向こうに去っていった。

 ……ここはどこだろう?……

 彼は記憶を探ろうとした。しかし無駄だった。どういうわけか、心地よい夢の中にいたこと以外、何も思い出せない。美味しいデザートや、セクシーな女性を願ってみようかと思ったけれど、どうせ夢だから無駄なんだ、と考えたことは憶えている。実際に、そんなものはここにはない。けれども、今、ここにあるものが、本来に正しいものなのか? このベッドや部屋が。よくわからない。
 自分は誰なのか? もちろん幼い子供ではない。生え始めた陰毛でドキドキする歳でもない。けれども、一人前の仕事をこなしている大人でもない。なにか、とても中途半端な感じ。大勢でゲームをするときのチームわけで、最後の方までチームが決まらないでいると、仲間はずれにされたような焦りを感じる。そういう気分に近かった。
 ここがどこか。
 自分が誰か。
 目をつぶって記憶を探ろうとすると、急にキリキリと頭が痛んだ。痛いだけでなく、底知れぬ恐怖まで襲ってくる。彼は内面にヒントを求めることを潔《いさぎよ》くあきらめて、弾みをつけてベッドを下りた。そして明るい窓辺に向かった。
 風になびくレースのカーテンをよけて縦長の窓から外を眺めると、眼下《がんか》には光に満ちた海原が広がっていた。日光をうけて海面が反射していたわけではないが、寝起きの目に晴れた海の風景は刺激が強すぎた。顔をしかめ、視線を脇に移す。白い防波堤がうねりながら遠くまで続いている。その内側には、オレンジ色の瓦《かわら》が目立つ家々や、スラリとした優美な高層ビルが密集している。大都市なのは間違いない。
 なんとなく見覚えはある風景だったが、具体的な記憶を思い出すまでにはいたらない。居たたまれない不安をかかえたまま、彼は光に麻痺した目をこすり、トイレを探した。部屋の奥まったところにあった扉を開けると、シャワーやトイレのある広い空間が見つかった。幸い生理的なことに関しては混乱しておらず、便器に座ると、すぐに一本の長いウンコがつるりと出た。
 出すべきものを出してしまうと、やっと気持ちが落ち着いてきた。そして洗面台の前に立ち、鏡に写る自分を見つめた。確かに自分だった。特別に厳しい人生経験を経てきたわけではないけれど、素直な向上心はちゃんとあります、といった感じのまっすぐな眼差し。悪くないし、少しはかっこいい気もする。そんなことを思ってみても、なお具体的な記憶は何も出てこない。悩み始めると、また頭痛が襲ってきて、あわてて洗面台で顔を洗った。タオルで顔を拭き、部屋に戻ると、あの女性が言っていたとおり、ベッドの横のテーブルに用意されていた服に着替えた。襟や袖口に複雑な刺繍がしてあったが、全体的にはシンプルなペイルブルーの衣装だった。

 やがてさきほどの女性が銀色のワゴンを押して戻ってきた。あふれるような笑みを浮かべて、窓辺のテーブルに朝食を並べていく。
「はい、タクヤさま、お待たせいたしました。ご朝食でございます!」
「あ、どうも……」
 彼は勧められるままにどっしりとした古めかしい椅子に腰掛け、小型の丸パンを手にとり、何も付けずに、無造作にかじってみた。焼きたての芳香ただようパンは、まだ食欲のなかったタクヤにも十分に美味しく感じられた。
 女性が「あらあら」と苦笑しつつオレンジジュースをコップに注ぐと華やかな香りが広がった。
「もしかしたら、タクヤさまは、本当に私のことをお忘れでいらっしゃるのかもしれませんね。メイドは何度も替わっていると聞いていますし、私も先週からお世話させてもらっているばかり。あらためて自己紹介させていただいてもよろしいでしょうか?」
「はあ……」
「私、メリルと申します」
「メリルさん?」
「はい。もともとは事務系で採用されたのですが、やっと念願《ねんがん》かないまして、今はこうして、ここに。どうかよろしくお願いいたします。わからないことがありましたら、なんなりとお聞きになってくださいませ。とはいえ、私もまだわからないことばかり。ご迷惑でなければ、ごいっしょに乗り切ってまいりましょう」
「『乗り切る』ですか?」
「はい」
 彼女は笑顔で頷き、テーブル脇の丸椅子に腰を下ろした。

 まずは朝食。記憶はないが、悩まなければ頭痛もしないし、身体は元気。食べ始めてみれば、食欲は結構あった。
「タクヤさま」
「あ、はい」
 タクヤはバターと苺ジャムを半々に載せたパンを口に押し込み、メリルに焦点を合わせた。
「もちろんご存じとは思いますが、今日は王様が支援してらっしゃる美術大学への訪問と、マスコミの取材がございます。いよいよタクヤさまも、お仕事の始まりということですね。期待しております」
「え、なんのこと?」
 タクヤにはサッパリわからず、まるで他人のスケジュールを聞かされたような気持ちになった。
「どうかなさいましたか?」
「なんだか、僕、そういうこと、なにもかも、カンペキに、わからないんだけど」
「しかし、ちゃんとお父様の指示通り練習したはずでは?」
「練習?」
「はい」
「ていうか、それ、僕にできること?」
「もちろんです。心配なさることはありません」とメリルは大きく頷いた。「難しいことではありません。要するに、国際環境会議で御不在中のお父様の代わりに、ちょいちょいと用意されたセリフを言っておけばいいだけですから」
 メリルが「ちょいちょい」と指先を回すと、タクヤもそれを真似た。
「ちょいちょい?」
「はい。シナリオがあります。憶えましたよね?」
 タクヤは首を大きく横に振った。
「知らない。憶えたかどうかも憶えてない」
「ま……まあ、あまり難しく考えない方がよろしいですわ。タクヤさまも、今年はいよいよ御成人ですが、今はまだ、お父様がいらっしゃいますからね。今日は練習みたいなものです、御成人にむけての」
 彼女は「わかってるでしょ」と言いたげにウインクした。しかしタクヤは『御成人』と聞いても、たくさんの輪ゴムを口に押し込んだような気持ちになっただけだ。
「メリルさん。ひとつ、質問なんだけど、いい?」
「もちろん、なんなりと」
「もしかして、僕の父さんって、有名人なのかな?」
 彼女はずっこけて丸椅子から転げ落ちそうになった。
「あ、あたりまえですわ。もう、タクヤさまったら、急に驚かせないでください。スーサシアの王様ですもの、それはもう、この国の誰よりも有名なお方ですわ」
「王様?」と彼は首を傾げた。「ガウンを着て冠《かんむり》している人、みたいな?」
「もちろん儀式のときはそういうお姿もなさいますが、我が国はいちおう議会もありますから、王の独裁ということはありません。ただ、才能ある王の影響力は、実際には議会を越えると言われていますが……」
「あ、そう。ふーん」
「どうしたのですか、そんな当たり前のこと質問なさるなんて?」
 タクヤは説明を聞かされても、なにも理解できない。自分の父親が王様だなんて、そんな実感はまるでない。しかし目の前にいるメリルのことを考えれば、やはりウソではないのだろう。
「憶えてないけど、僕がいちいち『それは違う』って言っても、何も変わらないんだろうね」
 とタクヤは肩をすくめた。
「そして、あなたが、メリルさん」
「はい」
「美しい人ですね」
「あ……ありがとうございます」
「独身ですか?」
 タクヤの問いに、メリルはまた丸椅子から転げ落ちそうになった。
「あ、あたりまえですわ。私、こう見えても、年齢はタクヤさまと二つしか違いませんのよ」
「うそ。もっと上かと思った」
 メリルは姿勢を正し「こほん」とせきばらいした。
「ちなみに、今日のタクヤさまは、午前の美術大学の件が終了しましたら、来週の試験に向けて猛勉強しなくてはなりません。なにしろ我が国の王子には『全国一○位以内』の成績が義務づけられているというのに、あろうことか、前回は屈辱の九○○○番以下。この歴史的汚名を、次回はなんとしても返上しなくてはなりません。私も残業覚悟、全力をつくしてサポートさせていただきます」
「なにそれ? 全国一○位以内って?」
「義務です」
「義務って、どういうこと? 聞いてないよ。ていうか、そもそも、僕、記憶がないんだよ。わかる? 試験なんて、無理にきまってるじゃん。できるわけない」
「タクヤさま、まさか今回は、記憶がないフリをして逃げるおつもり?」
「違います!」
 即答で断言するタクヤに、メリルは困ったように首を傾げた。
「本当に、本当なの?」
「本当だよ。真面目な話、試験とかは関係ないです。自分の名前も思い出せない……ここがどこかもわからない……考えると頭痛がする……いったい、どうしたらいいんだよ!」
 タクヤが本気で落ち込むと、メリルは同情の眼差しをむけた。
「あらあら、どうしてしまったのかしら。いくら勉強がお嫌いといっても、記憶を失うなんて……そんなに頭がおかしくなるほど猛勉強したわけでもないですし……」
 すると、部屋の電話が鳴った。プルルル、プルルル、というひかえめな電子音。王宮の内線専用電話だった。メリルが立ち上がって、木製の電話台に歩み寄り、受話器を取った。
「はい、王子の間ですが」
 その電話は、スケジュールを担当している王宮本部からの連絡だった。
 メリルは律儀にメモを取り、間違いのないように内容を確認してから、受話器を置いた。
「タクヤさま、急なことで申し訳ありませんが、本日、午前中は『お医者様の診察』に予定変更とのこと。楽しみにしていたお仕事デビューは中止になってしまいました。残念ですね」
「まじ? それ、まったく残念じゃない。むしろ、神さま感謝します、の気持ち。でも、そのあとは、やっぱり猛勉強?」
「もちろん猛勉強は必要ですが、しかし、もしも本当に記憶がないのなら、まず、そちらを解決する必要がありますわ。その件もあわせて、まずはお医者様にご相談ですね。ちょうどよかったと思います。朝食が済んだら、さっそく診療所にまいりましょう」
「でも、僕、なんでお医者さんのところに行くの? 病気?」
「昨日のお怪我の件です」
「僕は別にどこも痛くないけど。いや、頭痛はするけど」
 メリルは身体を傾け、テーブルの下のタクヤの右脚を指さした。
 タクヤは首を傾げつつ、椅子を後ろに下げて、ズボンの裾を引き上げてみた。確かに右脚のふくらはぎの一部が青く変色していた。
「これ?」
「はい。やはり、あまりよろしくないようですね……」
 と、メリルは眉を寄せ、複雑な表情を浮かべた。
 
 タクヤは一人で王宮内診療所に向かった。メリルは同行しようとしたが「一人で歩いた方がいろいろ思い出せるかもしれないから」とタクヤがむりやり主張して断ったのだ。代わりに彼女は彼が迷わないように簡単な地図を描いてくれた。
 まずは螺旋階段を下り、広々とした回廊に出る。白っぽい壁面には、シンプルな草花の文様がどこまでも続いており、明るく清楚な雰囲気が感じられる。ところどころに立つ衛兵以外に人影はなく、海から吹き込む風がパタパタと初夏らしい音をたてていた。
 タクヤは歩きながら、だんだんと不思議な気持ちになった。初めて通る場所のような気はしないのに、自分の居場所と言えるほどの親しみは持てない。『憶えていない』というよりは、むしろ自分の内側から『否定する何か』がわき上がり続けているような奇妙な苦しさだった。

 広い踊り場に出ると、たまたま通りかかった金髪の若い女性が、うれしそうに挨拶してきた。
「あら、タクヤさま、ごきげんうるわしゅう」
「あ、どうも」
「朝からタクヤさまとお会いできるなんて、なんて幸運なんでしょう!」
 大きく目を見開いた女性の積極的な姿勢に、タクヤは逃げ腰になった。
「……えっと……あなたは……」
「ミルシードでございます。今日はどちらまで?」
「診療所で診てもらうことになって」
「海辺の?」
「はい……たぶん……」
「じゃあ、あとで、私もうかがってよろしいかしら?」
 なんで君が、とタクヤは言いそうになったが、豊かな胸をおおう純白のブラウスや、スタイルの良さを際立たせる黄色いスカート、宝石をあしらった髪飾りなど、普段着ながらも身分の高い女性であることは明らかだったので、いちおう「かまいませんが」と丁寧に頷いた。
「本当に?」
「でも、僕は診察を受けに行くだけですよ」
「こんな時間に、お一人で?」
「ま……まあ、そういうこと……だよね……」
「なにか具合が悪いことでも? あまり、そのようには見えませんけど?」
「ちょっと、脚の方がね」
「あら、脚だけなら、大丈夫ね」とミルシードは目を輝かせた。「安心しました。ねえ、よろしければ、お昼には下の庭園でご一緒しません?」
「え?」
「ランチを。だって、ほら、今はちょうど、うるさい人たちもいないことですし」
 彼女は意味ありげに上の方を指さした。その意味まではタクヤにはわからなかったが、ランチをいっしょに食べるくらいなら、特に問題があるとは思えなかった。
「いいですよ」
「あら! タクヤさま、今日は珍しく素直なのね。ミルシードは嬉しゅうございます。あー、もう、野暮《やぼ》な授業さえなければ、このままずっとご一緒させていただくのに。残念。では、お昼にとびきり美味しいものを用意させますわ」
「美味しいもの?」
「おまかせください。タクヤさまの好物はバッチリ調査済み。ハンカチの天ぷらと、モグラの刺身ですわね!」
「え……そうだっけ……」
「あら、いやだ、冗談ですって。ごめんなさい、私、もうすでに遅刻なの。では、またのちほど!」
 女性は淑やかに腰を下げて、はずむように去っていった。

 まったく「本当に自分の好物がハンカチの天ぷらとモグラの刺身だったらどうしよう」と思ったじゃないか、とタクヤは少し腹を立てながら道を急いだ。記憶のない人をからかってはいけないのだ。冗談なのか本当なのかわからないから。これ、よく憶えておこう……と思ったけれど、この記憶もまたいずれは消えてしまうのだろうか?
 メリルの地図通りに踊り場から階段を下ると、王宮の海側に広がる庭園にたどり着いた。眼前の防波堤に囲まれて、静かな湖面のように芝生が整えられ、ところどころに庭木や東屋が散在している。庭園の奥の方に、王宮関係者専用の診療所があった。白い漆喰壁と縦長のガラス窓が印象的な、さわやかな雰囲気の建物だった。
 タクヤが小石の敷かれた通路をたどり診療所に入ると、閑散としたロビーの受付にいた白髪の老人が「お待ちしておりました」と立ち上がり、慇懃《いんぎん》な態度で王子を迎えた。老人が奥の部屋の看護スタッフに声をかけると、すぐに緊張した面もちの二人の看護婦が現れ、タクヤに向かって深々と頭を下げた。相手が緊張していると、タクヤも思わず顔が引きつってしまう。
 彼女たちに導かれ、タクヤは消毒薬の匂いの漂う診察室に入った。ブラインドで散らされた光が部屋いっぱいに広がっている。北側の窓だけはブラインドが巻き上げられ、緑の木々が鮮やかに覗いていた。その窓辺のデスクに向かって本を読んでいる白衣姿の男がいた。
「ドクター・シライ。タクヤさまがお着きになりました」
 看護婦の声に、ドクターが振り向いた。
「ああ、タクヤさま、我が診療所にようこそ。では、さっそく診察台の方に」
 タクヤが促《うなが》されるままに診察台に仰向けに横になると、初老と言えるほどでもないが十分にベテランと見えるドクターがデスクを離れ、節くれ立った手でタクヤの脚に触れた。
「どれどれ、診せていただきましょう。ふむ、しこりはないが、表面が広がっている……昨日よりも毒がまわっているようですな」
 タクヤには記憶がなかったが、ドクターは昨日の診察の続きを説明してくれているようだった。
「僕には実感ないですけど、つまり、悪い状態ってことですか?」
「痛みは?」
「特にないです」
「熱や、吐き気は?」
「ないですが、朝から頭痛がちょっと」
「ふむ。はっきり言うと、これに関してはあまりよくわかっておらんのです。雑菌が入っても似たようなことになる場合がありますが、これは明らかに違う。私の見立てが間違いなければ、やはりこれはヤマギアザミによるものでしょう」
「ヤマギアザミ?」
「王室に伝わる聖草です。しかし、それが本当となると、残念ながら薬はありません。ただ、祈るしかない」
「祈るんですか?」
 タクヤは不安げに顔をしかめた。
「それで治ればいいが、症状が全身に回ってしまうと、命の危険もあるようです」
「そ、そんな……」
 タクヤとしては思い出せないことばかりなのに、いきなり『命の危険』と言われても困ってしまう。
「しかし、どうかご心配なく。正しく祈れば効果はあるようですからな。うちの娘が祈り師です。まだなり立てですが、腕は悪くないはず。今日はしっかり祈りを受けてお帰りください」
 ドクターは診察台から離れ、回転式の椅子に戻ると、カルテにペンを走らせた。
「あの……」とタクヤは上体を起こして言った。「ひとつ、質問なんだけど、いいですか?」
「もちろんです。どうぞ、なんなりと」
「その『祈り』って、つまり、神頼みみたいなこと?」
 ドクターはずっこけてペンを持ったまま椅子から転げ落ちそうになった。
「れっきとした治療ですよ。昔は超能力治療などと揶揄《やゆ》されていた時代もあったようですが、今では十分に歴史があることです。そうそう、新しいメイドさんもさきほど電話で心配しておられたが、タクヤさま、記憶をなくされたとか?」
「なんだか、そう……みたいです」
 タクヤは横を向き、窓の外の明るい庭を恨《うら》みがましく睨《にら》んだ。
「まあ、それが部分的な記憶喪失ならば、一般的に言っても、さほど珍しいことではないと思いますが」
「いえ、ドクター、正直言って、すっかり、何も憶えてないんです! 名前だって、みんなが『タクヤ』と呼ぶから、そうなんだろうけど」
「いやはや、名前も思い出せないのですか?」
「はい。なんとなく、生まれる前の自分に戻ったみたいな、心地よい夢を見ていた記憶はあるんです。でも、目が覚めたら、なにもかもすっかりこんな感じで。思い出そうとすると、頭痛もするし」
 突然、タクヤは泣きそうになり、歯を食いしばった。
 ドクターはペンを持った手をあごにあてて、タクヤを見つめて考え込んだ。
「タクヤさま、夢というものは、いろんなことを示唆《しさ》しておるものです。今は御成人前でいろいろ難しいときですし、あるいは昨年、王妃《おうひ》さまが亡くなられたことも、心の中でしこりになっているのかもしれません。必要ならば心の専門医を呼びますが、いずれにしても治療は祈り師がすること。とにかく、今日はせっかくいらしたのですから、じっくり祈りを受けてお帰り下さい。よろしいですね?」
「はい……」
 ドクターはカルテに数行書き足したあと、優美な装飾のほどこされた薄紫のフォルダーにはさんで閉じた。
「ユリは海の方にいます。今、お呼びします」
「いいえ、僕、自分で行きますよ」
 と、タクヤは急にベッドから飛び降りた。そして、外に出ようとした看護婦に手を振り、自分自身を指さした。
 脚の病変と、記憶がないこと以外は、いたって健康そうなタクヤを見て、ドクターは微笑んだ。
「いい天気です、それもいいでしょう。このカルテをお持ちください。ユリは、あの防波堤を越えたところ、入江のあたりにいるはずです」


2 祈り


 一人で診療所の外に出たタクヤは、早足で広々とした庭園を突っ切り、正面に見えていた壁のような防波堤に向かった。真っ白な漆喰《しっくい》の階段を一気に駆け上がると、目の前に紺色の海が広がり、一瞬、身体が浮き上がったように感じられた。無意識のうちに両腕を広げ、太陽の熱をまとった海風を胸一杯に吸い込んだ。少しねっとりとまとわりつく感じ、それが妙に懐かしくて心地よい。
 眼下の入り江には、桜色の衣装を着た女性が見えた。砂浜から伸びた木製の桟橋があり、その突端で水面に屈《かが》み、一人で何かしている。
 タクヤは緊張した。若い女性に声をかける行為だから緊張したのか、憶えていない過去と関係があるのか、それは彼自身にもはっきりしない。
 タクヤが階段を降りて近づくと、女性の前の水面に一匹のイルカが見えた。イルカが彼女の手に鼻先をあてて遊んでいるのだ。
「すみません。君は、ユリさんですか?」
「そうですけど」
 振り向いた女性の、優しさと聡明さが同居した美しすぎる瞳に、タクヤは思わず息をのんだ。
「えっと、なんだっけ……そうそう、ドクターから、祈ってもらいなさいって。これ、カルテなんですが」
「はい、わかりました」
 女性は立ち上がり、タクヤが差し出す薄紫のフォルダーを受け取った。その場で開き、ドクターの記述に目を走らせた。
「タクヤさまの脚は、やはり祈った方がよろしいのですね?」
 淑《しと》やかに首を傾げる魅力的な女性を前にして、タクヤは本気で戸惑った。この素敵な人も、タクヤ本人より『タクヤさまの事情』に詳しいらしい。
「ドクターの指示なので、いちおう。よくわからないけど、よろしくです」
 ユリが真面目に頷き「お力になれるよう頑張ります。では、さっそくまいりましょう」とその場を去ろうとすると、イルカが水面に顔を出して「ねえ、もう少し遊ぼうよぉ」と奇妙な声で叫んだ。ねっとりした液体を引き伸ばすかのような、それでいて鋭さのある声。

 ……え?……

 イルカを見て硬直しているタクヤにむかって、
「どうしたのですか?」
 とユリが不思議そうに首を傾げた。
「今、イルカがしゃべったよ!」
「別にしゃべっていないですわ。クエックエッて、鳴いただけですけど」
「ホントに?」
『もちろんイルカはしゃべるよぉ』
 とイルカは断言した。
「ほら!」
 タクヤに問われ、ユリは首を横に振った。 
「いえ、私には、ただいつもどおりクィークエッって、そんなふうに鳴いたとしか聞こえませんけど」
「ちょっとまって」とタクヤはしゃがみ込み、あらためてイルカに質問した。
「君、言葉をしゃべれるの?」
『当たり前だろ』
「名前は?」
『シロ。尾の傷が白く残ってるから、仲間はそう呼ぶよぉ。あんたは?』
「タクヤ」
『ふーん。で、どうしてタクヤなのさぁ?』
 記憶のないタクヤとしては、それは困った質問だった。
「わからないけど、まあ、たぶん、深い理由はないと思う」
『あのさぁ、困るな、そういうの。なにか理由がないと憶えにくいじゃないか』
「憶えにくいって言われても、こっちが困る。それに、そもそもイルカは記憶力がいいんじゃないのか?」
『やだなぁ、そういう勝手な思いこみ、どこからくるわけ?』
「別にどこからってことはないけど」
『あのさぁ、個体の識別《しきべつ》に関しては、意味や関連性がないと、イルカ的にすごく困るわけ。わかるぅ?』
「べつに関連性がないことだって、あったっていいじゃないか」
『ていうかさぁ、いい悪いの問題じゃないわけ。あんたね、オイラが困ることを言うってのは、イルカ愛護の精神に欠けているし、そういうのは改善していくべきじゃないの、と、強く主張したいわけ。わかるぅ?』
「う、うん、じゃあ、まあ、いちおう、考えておくよ」
 タクヤが渋々頷くと、イルカは豪快に笑いだした。
『ははは、いいんだよ、べつに考えなくても。オイラ、退屈していたから、カンレンセイなんて言って話をややこしくしてみただけだから、ははは。ほら、君、彼女に用なんだろ? 行っていいよ、ははは。また遊びに来てくれよぉ。言葉の話せる人間って、めったにいないもんだからさぁ』
「……」
 イルカに笑われて、呆然《あぜん》としているタクヤの顔を、ユリが心配そうにのぞき込んだ。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ、なんでもない」
「なにか、深刻なことでも話し合いました?」
「ぜーんぜん。ていうか、あいつ、『イルカ愛護の精神を大切にしてもらいたい』ってさ。いきなり、ずうずうしいやつだ」
「ずうずうしい?」
「ああ。そんなこと言うなら、こっちこそ『タクヤ愛護の精神を大切にしてもらいたい』って感じだよ。いろいろ大変なんだから」
 ユリは笑みを浮かべ、目を輝かせた。
「それにしても、すごいですね、私、イルカと会話ができる人って、初めて見ました。さすが、タクヤさまですね!」
 タクヤはずっこけて海に落ちそうになった。
「タクヤさま、って、あのー、やっぱり僕って、そういう人物なわけ?」
「だって、あなたのお父さまは、この国の王様です。タクヤさまはその唯一の血のつながったご子息」
「みんながそう言うなら、やっぱりそうなのかなぁ」
「どうなさったの?」
 誠実さのにじむユリの眼差しに甘えて、タクヤは正直に語った。
「そのカルテにも書いてあると思うんだけど、僕、そういう記憶、全部なくなっちゃった。目が覚めたらここにいた、って感じなんだ。君のことも初めて会った気がする。ごめんね。でも、実際は違うんだろ?」
「え、ええ……あまり親しくさせていただいたわけではございませんが」
「悪いけど、僕、そういうこと、全く憶えてない。思い出そうとすると頭痛がするし」
「脚のお怪我と関係あるのかしら。でも、記憶喪失は、精神的なものですよね……」
「ドクターは『昨年亡くなった王妃さまのことが心のしこりになってるのかも』って言ってたけど」
「そうなの?」
「わからないよ」とタクヤはうつむいた。「王妃様って、僕の母親なんだろ? 母さんが死んだと聞かされても、それでも何も思い出せない。どんな母さんかも、憶えてない。なんなんだろ、これ」
「王妃様は、お世辞でなく、本当に素敵な方でしたよ。私にとっても大切な方。亡くなられたときは悲しくて」
 それは慰《なぐさ》めの言葉だったはずだが、タクヤには逆効果だった。母のことも、ユリのことも、全く思い出せない自分に、ますますいらだちがつのった。
「もぅ、おまえが悪いんだぞ」と、タクヤはイライラのはけ口を求めてイルカにむかって叫んだ。「バカイルカ!」
 水面から顔を出して二人を見ていたシロは、もともと小さな目を、点のようにしてつぶやいた。
「あんた、いきなり、あれてるなぁ」

 タクヤはユリに導かれ、防波堤を越えて診療所に戻り、同じ建物の一角《いっかく》にある祈りの間に入った。そこは白木の椅子と診察台の置かれた清楚な部屋だった。窓辺に下げられたウィンドベルが、ときおり透明な音色を響かせている。ちょうど看護婦たちが部屋を整えてくれたところだった。ユリが丁寧に「ありがとうございます」と礼を述べると、彼女たちは深く頭を下げて退室していった。
 二人だけになると、ユリはタクヤに「さあ、診察台へどうぞ」と導いた。
 タクヤは「お願いします」と、ユリの指示通りに靴を脱ぎ、紫色のタオルの敷かれた診察台に仰向けに横になった。
「ようこそ、祈りの間へ、という感じですね。私も、ちょっと緊張しちゃいます。祈り師としては、私なんか、まだ新人ですし、タクヤさまがお相手となれば当然ですね。とりあえず、今回は『軽め』を心がけてやってみます。それでも三○分ほどはかかるでしょう。お時間は大丈夫ですか?」
「お時間?」とタクヤは首を傾げた。「そんなこと僕に聞かれても困るけど、ま、気にしなくていいと思う。好きなようにやっちゃってください」
「では、好きなようにやっちゃいますね」とユリは笑みを浮かべた。「ご存じと思いますが、祈りというものは、病気の原因によっては、かなり痛みが生じることもあるものです。ですが、それも治療のため。強い痛みが襲ってきても、私を憎まず、我慢なさってくださいね。さあ、まずは全身の力を抜いて、楽になさってください」
 タクヤの身体をさすりながら優しく説明してくれたユリだったが、右脚の青い患部に手をかざして何事か念じ始めると、それまでとは全く異なるピリピリとした緊張が漂い始めた。
 実際に手が触れたわけではない。しかしタクヤの脚には、不思議な温かみが広がってきた。それは防波堤から海を望んだときのような、広くて、大きいものに包まれていく感覚。ずっと昔、夏の日に、砂浜に横になって感じた、濃い塩の匂い……
 ユリが念じる声が、徐々に小さくなっていく。それに反して、右脚からの熱は勢いを増し、全身に広がっていった。額から汗がしたたってくる。そして、突然、斧で断ち切られたかのような激痛が患部を襲った。
「いてっ!」
 タクヤは思わず首をねじり、ユリを見上げた。
 祈りに集中しているユリは、じっとして動かない。前に垂れた髪の奥、その半開きの両目からは、とめどなく大粒の涙が流れている。あの美しい瞳から、ぽろぽろと。そして胸の装身具からは、神秘的な緑色の光が発せられ、前の空間を淡く染めている。

 ……これが『祈り』ということか……

 タクヤはユリの聖なる努力を無にしてはいけないと思い、警戒しつつも、再び祈りを受け入れる体勢に戻った。
 あらためて脚から熱が広がってきた。痛みが襲ってきてもいいようにと、今度は両手を握りしめて身構えた。

 数回の激痛をやり過ごし、波紋のように全身に広がった熱が、ゆっくりと収まっていく。
 祈りが終わろうとしていた、そのときだった。
 不気味な音と共に、地面が振動した。
 地震?
 あるいは、これも祈りの治療なのか?
 タクヤが再び身構えて手を握ると、ユリの声が聞こえた。
「タクヤさま」
 その細い声に、タクヤが恐る恐る見上げると、すでにユリは我に返り、キョロキョロと辺りを見回していた。装身具からの光も消えていた。
「ユリ、どうかした?」
「今、なにか地震のような」
 するとまた、不可解な響きと共に、建物が揺《ゆ》れた。一瞬の強い衝撃であり、揺れが持続する地震とは明らかに違う。隕石でも落下したかのようだ。
 タクヤは不吉な予感に襲われ、横になっていた診察台を下りた。靴を履いて窓から外をうかがうと、遠くに立ちのぼっている煙が見えた。
 空を見上げると、動く点が見えた。巡航ミサイルだった。次の瞬間、空気を引き裂く音がしたと同時に、大地が縦に弾み、周囲の窓ガラスが一斉に砕け散った。
「ぐわっ!」
 窓辺にいたタクヤは容赦なく吹き飛ばされた。王宮の丘を直撃したミサイルは、診療所から百メートル以上離れて着弾したのだが、それでも巨人の腕で殴られたような爆風はタクヤを正面から襲った。
 壁に背を打ち意識を失いかけたタクヤを、悲鳴を上げてユリが駆け寄り、強く抱きしめた。
 二人はよろめきながら、タオルでガラスの破片を払いのけ、診察台の下にもぐり込んだ。
「なに、あれ? わけわかんない」
 ユリは涙を流していたが、それは、突然襲ってきた破壊の力に、涙の止め方がわからなくなっていたからだ。
 タクヤは耳が麻痺し、混乱した意識の中で、ユリを抱きしめながら「これは夢なんだ」と念じた。すべてが、おっきな、夢だ。祈りの治療も、脚の病気も、王子という立場も、すべて夢。僕は何も憶えていない。ミサイルが飛んでくるなんて、そんなことなにも聞いてない。





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 ペイルブルーの優雅な文様で知られるスーサシアは、王室と議会制民主主義が調和した古き良き大国。列強諸国のリーダーたる経済力、軍事力と共に、聖なる祈り師のシステムなどの伝統も王室内で継承されていた。

 一方、豊かな先進国から離れると、汚され破壊されていく環境という、逃げようのない現実が広がっていた。汚染された海や、身体の異変。問題意識を共有して立ち上がった『龍人族』は軍事力を備え、国境を越えて過激な活動をスタートさせていた。

 人々を巻き込む時代の転換点。そんなある朝、スーサシアの若き王子であるタクヤは、目が覚めると一切の記憶を失っていた……

-原稿用紙換算740枚。(C)Naoki Hayashi 2010-