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吹きぬける風が、木々の枝をゆらし
抱きしめたくても抱きしめられない存在が
蒼い空へと舞い上がり、消えていく
好き、という
はかない『記憶』
こぼれ落ちる
沢山の『希望』
望むと望まざるとに関わらず
強欲の都市と沈黙の森に
母なる時代の波が押し寄せ
目覚めの声が木霊する
海からのやわらかな風と
時を超越する空の色は
雨上がりの草原に浮かぶ
未来への絆
勝利も栄光もない
スーサシアの『祈り』の果ての
夢の終わりに
ひとつの聖なる微笑みを
◆◆◆◆◆
1. 祈り
遠くから潮騒が聞こえてきた。波が砕ける音だろうか……かすかに……。
潮騒と入れ代わりに『夢』が遠のいていく……。
海鳥の鳴き声が、急に近くで響いた。
彼はまぶしさに顔をしかめながら目を開いた。レースのカーテンが風になびき、縦長の窓から弾むような光が流れ込んでいた。
「おはようございます」
朗らかな女性の声だ。彼は目をこすり、上体を起こした。ぼんやりした意識のまま、声の主である女性を見つめた。彼女の衣装はメイドのものだったが、鮮やかな色彩が折り重なって美しい。
「朝食のご用意ができています。そろそろお目覚めになってくださいませ、タクヤさま」
タクヤさま? 僕のこと?
「えっと……ここは、どこ? あなたは、誰?」
女性は親しげな笑みを浮かべた。
「おふざけになってもダメですよ。いくらタクヤさまでも、時間だけは待ってくれません。さあ、今日は大切な日です。顔を洗って、元気なお姿でお願いします」
「は、はい……」
女性は念を押すように頷くと、着替えの用意が整えられたテーブルを身振りで示し、いったん扉の向こうに去っていった。
タクヤ……思い出せない……しかしそれが自分の名前らしい……半信半疑な気持ちで、あらためて部屋を見回した。天井が高く、全体的には簡素で美しいつくりだったが、ベットは金属製で、大仰な装飾が刻まれ、無言のうちに歴史ある威厳を漂わせていた。懐かしさと同時に、なぜか奇妙な嫌悪感がわき上がってくる。豊かなもの、豊かであること、その得体の知れない重みが、心の中の何かに触れると、刺すような頭痛が走った。
なぜ僕はここにいるのだろう……
彼は首を振り、痛みから逃げるようにベットを下りて、窓辺に向かった。カーテンをよけて外を眺めると、正面にはまぶしく光のあふれる海が広がっていた。顔をしかめ、視線を脇に移す。木々の葉が茂る公園と、その先に街並みが見渡せた。遠くの大通りにはたくさんの人や車が行き交い、建物は視界の限り続いている。海側の窓からでは街の全体は見渡せなかったが、大きな都市なのは間違いない。よそよそしくて、なんだか心のつながりの持てない眺め……
朝食の用意ができている、と言われたけれど、どこに行けばいいのだろう? タクヤは扉を探ってトイレを見つけると、腰掛けて用を足した。そし大理石の洗面台で顔を洗い、用意されていた空色の服に着替えた。
ほどなく、さきほどの女性が銀色のワゴンを押して部屋に入ってきた。キラキラと輝くような笑みを浮かべ、窓辺のテーブルに朝食を並べ始めた。
「タクヤさま、お待たせいたしました。御朝食でございます」
「は……はい……」
タクヤはすすめられるままに椅子に腰掛けて、パンを手にとってかじった。若草色の皿にのせられた、焼きたての温もりが感じられるパン。食欲などなかった。しかし口に入れてみれば、良き素材の香る美味しいパンであることは確かだった。
女性はバターとジャムの小皿をタクヤに勧め、オレンジジュースをコップに注いでから、脇の丸椅子に腰を下ろした。
「もしかしたら、タクヤさまは、本当に私のことをお忘れでいらっしゃるのかもしれませんね。メイドは何度も替わっていると聞いていますし、私もまだ先週からお世話させてもらっているばかりです。あらためて自己紹介させていただいても、かまいませんでしょうか?」
「は、はあ……」
「私、メリルと申します。よろしくお願いいたします。わからないことがありましたら、なんなりとお聞きになってくださいませ。とはいえ、私もまだわからないことばかりですけど。ご迷惑でなければ、どうか、ごいっしょに乗り切ってまいりましょう」
「乗り切る……ですか……」
「はい」
彼女の微笑みは疑うことを知らない素直さに充ちていた。
「もちろんご存じかとは思いますが、今日は王様が支援してらっしゃる美術大学への訪問と、マスコミの取材があります。いろいろとお忙しくて恐縮ですが、よろしくおねがいしますね」
彼女の微笑みは嬉しいけれど、タクヤにはさっぱり事情がわからない。王様? 美術大学? マスコミの取材?
「あの……なんだか、そういうこと、なにもかも、カンペキに、わからない感じなんだけど……」
「タクヤさまがご心配なさることはありませんわ。要するに、国際環境会議のためにイラフト国へ行ってらっしゃるお父さまの代わりに、ちょいちょいと、用意されたセリフを言っておけばいいだけですから」
「ちょいちょい?」
「そう……おわかりになりますね?」
あまりにもわからなさすぎる。タクヤは苦笑して、首を振った。
「ぜんぜんわかんないけど、まあ、ちょいちょいでいいのなら、そういうふうにすればいいってことなんだろうから、そういうことは、もしかしたらできるかもしれないけど……」
「いつものことですし、あまり難しく考えない方がよろしいですわ。タクヤさまも今年はいよいよ御成人ですが、今はまだ、ね」
メリルは澄んだ表情で頷いた。しかし逆にタクヤは悪い予感に捕らわれた。『成人』という言葉には、さらに複雑な何かが関わっているように感じられたからだ。
「メリルさん……あの、ひとつ、質問なんだけど、いいっスか?」
「もちろん、なんなりと」
「もしかして、僕の父さんって、有名人?」
メリルはずっこけて小さな丸椅子から転げ落ちそうになった。
「そ、それは、スーサシアの王様ですもの。誰よりも有名な方ですわ。そこまでお忘れになったわけではありませんよね?」
「いや……ごめんなさい……なんか、僕、ヘンな質問しちゃったみたいだね……」
タクヤは言葉を濁しながらも、まだ現実を受けとめられないでいた。自分の父親が王様なんて、嬉しい気もするけど、大変そうでもある。いずれにしても実感らしきものはまるでない。王様以外の具体的な父親のイメージがあるかというと、それも全くなかったが。
「タクヤさま、大丈夫ですか? なにか記憶を失うようなこと、なさいましたか? もしかして、昨日のお怪我……そうそう、お怪我の方はいかがですか?」
「え?」
メリルがタクヤの右足を指した。見ると、確かにふくらはぎの皮膚が青く変色していた。怪我というよりは、何かの病気のようだった。
「あまりよくないようですね」
「でも、別に痛みは感じないけど……」
「今日のお仕事は、お昼からに調整していただいて、午前中はまたお医者さまに診てもらってはいかがでしょうか? もしそのような段取りがよろしければ、さっそく私の方から手配させていただきますが?」
もちろんタクヤには『段取り』のことなど全くわからなかった。しかしわからないことに対していちいち質問していたら、いつまでたっても話が進みそうにない。ここは妥協して、素直に「うん、そうしてください」と頷いた。
メリルはさっそく電話でスケジュール調整の手配をし、王宮内診療所のドクター・シライにも直接電話をかけた。彼女は往診を頼もうとしたが、タクヤはその声を聞いて「自分で行くよ」とあわてて主張した。タクヤとしては、理由はなんでもいいから、とにかく部屋の外に出てみたかったのだ。
朝の支度を終えたタクヤは、メリルが書いてくれた簡単な地図を頼りに、王宮の廊下を下り、海辺の診療所に向かった。もちろん心配したメリルは彼女自身が同行するか、せめて代わりの者を探そうとしたが、タクヤはそれも強引に断った。
静かな王宮の廊下は、細い線で草花の描かれた漆喰の壁が、明るくさっぱりとした雰囲気で続いていた。部外者の進入は許されておらず、ときどき灰色の制服を着た警備の男たちの姿を見かける以外に人の姿はない。男たちの慇懃な敬礼に、タクヤも足を止めて頭を下げた。しかしそこで会話をすることはなく、そそくさと地図に示された目的地に向かった。
海辺の診療所は、王宮の敷地内にある関係者専用の施設だった。閑散とした入り口からロビーに入ると、待っている患者は一人もなく、タクヤに気づいた受付の男性は、すぐに真面目な態度で彼を診察室に招き入れた。微かに消毒薬の匂いが漂う診察室には、頭頂の禿げた男がデスクで書類を確認していた。ドクター・シライだった。
タクヤが診察用の丸椅子に腰掛けると、ドクターはさっそくタクヤの足を診た。
「ふむ、昨日よりも毒がまわっているようですな」
タクヤには記憶がなかったが、ドクターは昨日の診察の続きを説明してくれているようだった。
「僕には実感ないですけど、悪い状態ってことですか?」
「まあ、はっきり言うと、これに関してはあまりよくわかっておらんのですよ。ただ、昨日、あれから調べたんですが、王宮図書館の論文によると、ある種のヤマトアザミは、やっかいな毒を持ち、こういうふうになることがあるらしい。薬が効かず、祈るしかない……」
「え、祈るんですか?」
「まあ、それで治ればいいが、症状が全身に回ると、ときには命の危険もあるとか」
「そ、そんな……」
タクヤとしてはわからないことだらけなのに、命の危機の話までされては困ってしまう。
「しかし、まあ、あまりご心配なく。正しく祈れば、効果はあるようですから。うちの娘が祈り師ですし、今日は来ていただいてちょうどよかった。きちんと祈りを受けてお帰りください」
ドクターは机に向かって、カルテにペンを走らせた。
「あの……」とタクヤは迷いながら言った。「もしよければ、ひとつ、質問なんだけど、いいっスか?」
「もちろんです。どうぞ、なんなりと」
「その『祈り』って、治療なの?」
ドクター・シライはずっこけて椅子から転げ落ちそうになった。
「あ、あたりまえじゃよ。まあ、昔は超能力治療などと、ヘンに言われていた時代もあったようじゃが、祈り師がきちんとした国家資格になってから、そういう疑問は珍しいですぞ。既に半世紀の歴史があることです。そうそう、新しいメイドさんも電話で言っておられたが、タクヤさま、記憶をなくされたとか?」
「そうみたいです」
タクヤは恨みがましく晴れた窓の外を睨んだ。
「それが部分的な記憶喪失ならば、一般的に言っても、さほど珍しい話ではないと思うが……」
「いえ、ドクター、正直言って、すっかり、なにも、憶えてないんです」とタクヤはドクターを見て、首をすくめた。「名前だって、みんながタクヤと呼ぶから、そうなんだろうけど……」
「いやはや、名前も思い出せないのですか?」
「はい。なんとなく自分の原点に戻ったみたいな、大切な何かが、風の中に消えていくような、そんな夢は見た気がするんですが……」
「夢というものは、いろんなことを示唆しておるのです。タクヤさまは、今は御成人前ですし、昨年王妃さまが亡くなられたことも、心の中でしこりになっているのかもしれません。実に優しく素敵な方でした。……まあ、必要ならば専門医を呼びますが、いずれにしても、治療は祈り師がすることです」
ドクターは書き上げたカルテをトントンとそろえた。
「さあ、ユリは防波堤のむこう、入り江のところにいます。このカルテを持って、行ってみてくだされ」
「え、ユリさん?」
「わしの娘、祈り師じゃよ。タクヤさまとは、歳も近いはず。少しユリの方がお姉さんだったかもしれませんな。タクヤさまは何年生まれでしたか?」
「う〜ん……」
「おっと、失礼」とドクターは苦笑した。「記憶喪失ということではしかたがありません。そもそも、考えてみれば17の御成人の年をお迎えのタクヤさまですから、ユリの方が一つほど年上でしょう。ま、何度か会ったことはあると思いますので、行けばおわかりになると思いますよ」
「僕が会ったことがある人?」
「ユリはスーサシアの祈り師として、王室の方には親しく出入りさせてもらってましたからな。それにタクヤさまとて、ここに来るのは初めてではありませんぞ」
「そ、そうですね」とタクヤはまた妥協を重ねた。「じゃあ、行ってきます」
タクヤがカルテを受け取ると、ドクターは立ち上がり、海側に出るドアを開けて簡単に行き方を教えてくれた。
ドアから外に出たタクヤは、診療所前の広々とした庭園を突っ切り、正面に見える壁のような防波堤に向かった。コンクリートの階段を駆け上がると、パッと目の前に青い海が広がった。その一瞬、身体が浮き上がったような気がした。
「海って、なぜこんなに特別なんだろう」
タクヤは無意識のうちに両腕を広げ、胸一杯に海からの風を吸った。午前の光をたっぷりとまとった、やわらかな風の匂い。
記憶がないことや、命の危機のあることさえ、この海の大きさに比べたら、全くどうでもいいことと思われた。海という、すべてが始まり、全てがつながり、すべてが還っていくところと比べたら……
防波堤の外の入り江に、桜色のワンピース姿の女性が屈んでいた。
タクヤは防波堤を降りて近づいていくと、彼女の前に一匹のイルカがいることに気づいた。女性が差し出す手に、海面から鼻先をあてて親しげに遊んでいる。
「すみません。えっと、君は、ユリさん?」
「そうですけど?」
「ドクターから、祈ってもらえって。これ、カルテなんですが」
「はい」と澄んだ瞳をした女性は立ち上がり、カルテを受け取って微笑んだ。「タクヤさまの足のお怪我は、やはり祈った方がよろしいのですね?」
やだなぁ、とタクヤは思った。この人も僕よりもずっと『僕の事情』にくわしそうだ……
「では、まいりましょう」と女性がそこを去ろうとすると、イルカが水面に口を出して「もう少し遊ぼうよ」と言った。
……え?
「どうしたんですか?」
息が止まるほど驚き硬直しているタクヤを見て、ユリが不思議そうに首を傾げた。
「タクヤさま?」
「だって、今、イルカがしゃべったよ」
「別にしゃべってないわよ。……クエックエッて、鳴いただけですけど」
「ホントに?」
「もちろんイルカだってしゃべるときはしゃべるよ」
とイルカは言った。
「ほら!」
「いえ、私には、ただいつもどおりクィークエッって、だいたいそんなふうに鳴いたとしか聞こえませんけど」
「ホントに?」
「ええ」
「ちょっとまって」とタクヤはしゃがんで、イルカに質問した。「君、名前は?」
「シロ。おっぽの傷が白く残ってるから、仲間はそう呼ぶよ。あんたは?」
「タクヤ」
「ふーん。で、どうしてタクヤなのさ?」
「んん……わかんないけど、特に深い理由はないと思う」
「困るなぁ、そういうの。なにか理由がないと、憶えにくいじゃないか」
イルカにそう言われても『タクヤ』という名前は自分で考えたことではなかったし、意味があったとしても今は思い出せない。
「憶えにくいって言われても、こっちが困るよ。そもそもイルカって、記憶力がいいんじゃなかったっけ?」
「あのさぁ、そういう勝手な思いこみ、どっからくるわけ?」
「別に、どこからっていうことはないけど」
「あのさぁ、個体の識別に関しては、意味や関連性がないと、イルカ的にすごく困るわけ」
「でも、べつに、関連性がないことだって、あったっていいじゃないか」
「いい悪いの問題じゃないわけ。オイラが困ることを言うっていうのは、イルカ愛護の精神に欠けてるし、そういうことは改善していくべきなんじゃないの、と、強く主張したいわけ」
「うん……じゃあ、まあ、いちおう考えておくよ」
イルカは急に笑った。
「ははは、いいんだよ、ベツに考えなくても。オイラ、退屈してたから、カンレンセイなんて言って、話をややこしくしてみただけだから。ははは。ほら、君、彼女に用なんだろ? 行っていいよ。ははは。でも、また遊びに来てくれよな。ちゃんと言葉の話せる人間って、めったにいないもんだからさ。ははは」
「……」
ユリはタクヤの顔をのぞき込んだ。
「大丈夫?」
「あ……ああ、なんでもない」
「どうしたの、なにか深刻なことでも話し合った?」
「ぜーんぜん。むしろ難しいふりをされちゃった」
タクヤは苦笑して頭をかいた。
「イルカが、難しいふり?」
「あいつ、イルカ愛護の精神を大切にしてもらいたい、ってさ」
「それは、いいことかもしれないけど……」とユリは首を傾げた。「それにしても、イルカと会話ができる人って、初めて見ました。さすが、王子様ね」
タクヤはずっこけて海に落ちそうになった。
「お、王子様ぁぁぁ?」
「だって、そうでしょ。あなたのお父さまは、この国の立派な王様です」
「まあ、みんながそう言うなら、やっぱりそうなのかなぁ……」
「どうしたの?」
ユリは誠実さのにじむ優しげな目でタクヤを見つめた。
「そのカルテに書いてあると思うんだけど、僕は、そういう記憶、全然ないわけ。目が覚めたらここにいた、って感じなんだ」
「足のお怪我と関係あるのかしら。でも、記憶の喪失は、精神的なものですよね……」
「ドクターは、昨年亡くなった王妃様のことが心のしこりになってるのかも、って言ってたけど」
「そうなの?」
「わかんないよ」とタクヤはうつむいた。「だって、母さんが死んだなんて、知らないし。どんな母さんかも憶えてないんだ」
ユリはそっとタクヤの手に手を添えた。
「すごく優しくて、謙虚で、素敵なかたでしたよ。私にとっても、大切なかた。亡くなられたときは、本当に悲しくて」
それは慰めの言葉だったはずだが、タクヤには逆効果だった。母のことも、ユリのことも、何も思い出せない。そんな自分に疼くようないらだちを感じた。
ユリに連れられて入った、祈りの部屋。
白木の椅子とテーブルの置かれた明るくサッパリとした空間だった。開け放たれた窓辺には、色とりどりの風鈴が下がり、ときおり吹き込む南からの風に澄んだ音色を響かせている。
タクヤは靴を脱ぎ、紫色のタオルのひかれた診察台に、仰向けに横になった。
「最初なので『軽め』を心がけてやってみますね。それでも30分ほどはかかるでしょう。お時間は大丈夫ですか?」
「お時間? えっと……そんなこと僕に聞かれても困るけど……ま、気にしなくていいっス、好きなようにやっちゃってください」
「では、リラックスして、身体の力を抜いて、横になっていてくださいね」
「はい」
ユリはタクヤの右足の青い患部に手をかざし、じっと何事か念じ始めた。
実際には手が触れたわけではない。しかしタクヤには、すぐに明確な何かが伝わってきた。それは防波堤から海を見た時のような、広くて、大きいものに包まれていく感覚。ずっと昔、幼い頃、夏の日に、砂浜に横になって、そのときに感じた、砂に混じった、濃い潮の匂い。現実を超えた、遠くにつながる記憶の糸。
少しずつ右足が温かくなっていき、その熱はじわじわと全身に広がり、やがて額から汗がしたたった。
突然、予想外の激痛が患部を襲った。
「いてっ!」
タクヤは思わず首をねじってユリを見上げた。
しかしユリは祈りに集中し、手をかざしたままだった。半開きの目から、涙を流していた。両目からあふれ、まっすぐに頬を伝っていた。なぜ? なぜユリはなぜ泣いているのだろう……
タクヤはユリの努力を無にしてはいけないと思い、元の姿勢に戻った。警戒しつつも、祈りを受け入れる体勢に戻った。
再び熱が広がってきたとき、激しい音を立てて地面がゆれた。
地震?
不安になって再びユリを見上げると、すでにユリは我に返り、辺りを見回していた。
「え? どうかした?」
とタクヤは、これも治療の一部なのか、という疑問を持ったまま質問した。
「今、なにか地震のような……」
するともう一度、ずしんと不可解な響きで建物がゆれた。祈りとは関係ない、現実の振動だった。タクヤはサッと鳥羽が立ち、奇妙な不安に襲われ、診察台を下りた。スリッパを履いて、窓辺から外をうかがってみた。遠く街の方に煙が上がっている。
三度目のそれは、王宮の丘に落ちた。ミサイルだろうか。上空から空気を引き裂く音がしたと同時に、大地が縦に弾み、窓ガラスが一斉に砕け散った。
「ぐわっ!」
窓辺にいたタクヤは、爆風を受けて吹き飛ばされた。着弾地点から数百メートルは離れていたが、その程度の距離では気休めにもならない。巨人の腕で殴られたような衝撃だった。
倒れて意識を失いかけたタクヤを、悲鳴を上げてユリがだきしめた。
二人はよろめきながらも、ガラスの破片を避け、急いで診察台の下にもぐり込んだ。
「なに、あれ? わけわかんない……」
ユリは新しい涙を流していた。それは爆撃の悲しみで泣いていたのではなく、あまりにも驚きすぎ、突然襲ってきた死の予感に、涙の止め方がわからなくなっていたのだ。
タクヤは耳が麻痺していた。ぼんやりとした意識の中で、必死でユリを抱きしめた。そして、これはきっと夢なんだ、とつぶやいた。すべてが、おっきな、夢なんだ。そもそも、自分が王子様なわけないし。ミサイルが飛んでくるなんて、ありえないし。ここで戦争が起きるなんて、そんなこと、全然聞いてないし。
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