Susacian Prayer   1  2-4  5-7  8-10  11-13  14-17  18-21  22-25  26-28  29-32  33-34



5 海上誘拐


 キャンベル号は白く優美な船だった。近くに停泊している10隻ほどの船の中でも、この船だけが明らかに異質な外観で、輸送船という面白味のない呼び方はふさわしくなかったが、軍が民間用の高速船を譲り受けた『輸送船』なのは間違いなかった。
 タクヤたちの乗り込みが終了すると、すぐに力強いエンジン音が船体に響いた。しかしまだその段階では巡航速度の1/5も出していなかった。
 スタッフに導かれて、ラインと共にタクヤとユリが艦橋の航海室に入ると、船長らしいジャケットを着た女性が待っていた。
「ようこそ、キャンベル号へ、タクヤさま。私は船長のケセです。世界情勢は緊迫していますが、この高速艇なら必ず目的地まで安全な旅となりましょう」
 タクヤはとりあえず感謝の気持ちで頷いたが「問題は高速でユリの酔いがどうなの、ってことなんだけどな」と心の中で思った。そんな不安を見透かしたかのように、ケセ船長はすぐに言葉を続けた。
「ところで、ライン特佐と相談したのですが、船に弱いユリさんには、少し眠っていただこうかと思います」
「私、眠るんですか? 眠れるかな……」
「薬があるんですよ」とラインは当然のことのように口添えした。「民間でも医療用として使われおり、安全性は保証されています」
 ケセ船長も頷いた。
「この船はけた違いに速い高速船だけど、特別なバウンドをするのよね。特に今夜未明から嵐になる予報も出てるし、ここは何か手を打っておいた方がいいと思うわけ」
 タクヤはこのあやしげな話に眉を寄せて嫌悪感を示したが、ユリは他人に迷惑はかけたくないと思ったのか、素直に「お願いします」と頭を下げた。
「タクヤさまは大丈夫ですか?」
 筋肉質の女船長に敬語で質問されると、タクヤは妙に落ち着かない気分になった。
「僕はいいっス。ここまでの船でも大丈夫だったし、みんなが平気なら、たぶん大丈夫だと思うから」
「わかりました。しかし、つらいようでしたら、どうぞ、遠慮なく」
「了解っス」
「では、医務室へどうぞ」
 とラインがユリの手を取った。
「ちょっと待ってください。ラインさん、私、その前にやることが」
「なんですか?」
「タクヤさまに、祈りの治療を」
「ああ、なるほど」とケセ船長は頷いた。「だからあなたはついてきたんだものね。眠る前にやっておかないと、というわけよね。どうぞ、小さいけど医務室があるから使って。治療が済んだら、そのまま眠ってもらってかまわない。たぶん治療は30分ぐらいよね? だから高速巡航は……1時間後ね」
 ラインは無表情のまま頷いた。

 船の中にしてはゆったりした作りの医務室だった。そこにドクターはいなかったが、白衣の看護婦は一人いた。彼女の案内で、タクヤは冷たく堅い診察台に横になった。ユリはアーム式の丸椅子を引き出し、レバーで固定して腰掛けた。ユリは「気持ちを集中する必要があります」と看護婦に伝え、場を外してもらった。
 タクヤの患部は、昨日よりも広く青色になっていた。
「では、始めますね」
「よろしく」
 何も触れていないはずなのに、ユリの祈りがオイルのように足にかぶさってくる。

  遠くから聞こえてくる不思議な声。
  安らぎと、信じる想いを、破壊する何か。
  徐々に大きなうねりとなる。
  そこのあるのは白木の柱。
  少女がナイフで文字を刻んだ……

 またタクヤの足に激痛が走った。しかし今回はあらかじめ予想していたので、なんとか痛みに耐えた。
 タクヤがちらっと見ると、ユリはまた涙を流していた。あふれる涙を拭うこともせず、伸ばした手に祈りを集中して。

 祈りの治療が終了すると、ユリはラインに内線電話で連絡した。すぐに現れた看護婦とラインは、ユリを診察台とは別の点滴用ベッドに誘った。
 ユリは安全のため、ベッドにベルトで身体を固定させられた。
「もちろん自分ではずせると思いますが」と看護婦がユリに説明した。「何かありましたら、このボタンを押してください。私にコールが来ます」
「わかりました」
 軍人として医療教育も受けていたラインは、自らアンプルを開封し、ユリの白い腕をとって注射をうった。
「……タクヤさま……大丈夫でしょうか……」
 薄れていく意識の中で、ユリがつぶやいた。
 ラインはユリの耳元に顔を寄せ、そっとつぶやいた。
「大丈夫ですよ。ご安心ください。私たちがついています。ユリさん、あなたはとても美しく魅力的な方だ。あなたのような方をお守りするためならば、私はなんでもいたします。いえ、決して大げさに言っているのではありません。これは私の正直な気持ちです。あなたには昨日の疲れもあることでしょう。どうぞ安心して、ぐっすり休んでください」
 ユリは戸惑った。そこには仕事を超えたプライベートな感情が含まれていたから。しかし反論する力はすでになく、今はこの人たちの元でやすらぐしかないと諦めて、目を閉じた。

 キャンベル号に新たなエンジン音が響いた。今までとは全く異なる低音と高音が入り交じった激しい響きは、ジェット機のエンジン音によく似ていた。
 船はみるみる加速していく。舳先に当たるうねりの間隔が短くなっていき、強烈に船体をふるわせた。ガッガッガッと振動が連続し、このままでは船がどうかなってしまいそうなところで、すっと振動が弱まった。船首が浮いたのだ。
 まもなく船首だけでなく、船全体が宙に浮いた。数秒後に水面に触れ、コントロールされた滑らかな衝撃の後に、また宙に浮く。それは一度だけではなく、その後もずっと緩やかなバウンドの繰り返しだった。
 確かにこれではユリはとても耐えられないよ、とタクヤは思った。航海中は甲板に出てイルカの姿を探せるかな、と考えていたタクヤだったが、これほどの高速航行では甲板に出ることすらできない。
 タクヤは医務室にあった別のベッドに横になり、自分で腰だけベルトを締めてた。

 浅い眠りの夢と現実を行ったり来たりしていたタクヤだったが、ふと気づくと辺りが薄暗くなっていた。丸窓の外は、海は船長の予告した通り濃い雲に覆われた嵐になっており、波頭が風で白く飛ばされていた。
 船はあいかわらず大きなバウンドを繰り返しながら飛ぶような高速航行を続けている。
 と思ったら、すっとエンジン音が弱まり、バウンドがなくなり、海面に沈み込んで、普通の航行に変わった。やがて舳先がうねりを乗り越える衝撃もなくなり、船はほぼ停止した。
 まだ波のうねりによる微かな揺れは残っていたが、かなり安定した状態になった。きっとこれは休憩なんだろう、とタクヤは思った。タクヤ自身も、トイレに行ったり食事をしたりしたかった。ベルトを外してベッドを下り、医務室から外に出た。安心してトイレで用を済ませ、壁に貼られた館内地図を頼りに食堂へと向かった。
 食堂の入り口扉を開けると、なぜかそこでは芝居がかかったことが起きていた。グレーの服とマスクに身を包んだ大柄の人たちが、10名ほどの船員たちを部屋のすみに集めて縄で縛っていたのだ。グレーの人たちは、手にマシンガンを持っていた。
「どうしたの?」とタクヤは質問した。「演習か何か?」
 グレーの人が銃をタクヤに向けた。銃口を少しずらし、ババッと背後の扉を打ち抜いた。
「うわっ。な、なんだか、思いっきりマジみたいっスね……」
「オレたちはスーサシアの王子を誘拐する。おまえみたいだな? ちょうどいい。大人しく従えば殺しはしない」
「はあ……そりゃどうも……」
「わかったら、行くぞ!」
「ちちちちょっと、待ってもらえますか」
「なんだ?」
「行く、ってどういうことですか?」
「誘拐だ。もう言った」
「でもさぁ、いちおう、こういうことはラインさんに許可を……」
「許可など必要ない!」
 男は再びマシンガンをかまえた。
「わ、わかりましたよ。打たないでよ、危ないのに……」
「行くぞ!」
「ちちちちょっと、もしかして、僕一人?」
「あたりまえだ」
「あの、それはちょっと……、この足、わかります? 色が変わってるでしょ。祈り師の祈りを続けないと、僕は死んでしまうらしいんです。だから誘拐しても……」
「どこだ?」
「なにが?」
「なにがじゃない。その祈り師がどこにいるか、と聞いている」
「え?」
「祈りが必要なら、祈り師が同行しているはずだ。いっしょに誘拐する」
「そんな強引な……」
「憶えておいてもらおう、オレたちは強引なんだ。祈り師はどこだ。言わないと、こいつらを一人ずつぶっ殺す」
 別のグレーの男が、とらえられた人々に銃口を向けた。 
「さっさと言わないと、本当に一人ずつ殺す!」
 怯えた表情で固まっている人々の中の一人が、みんなに目配せしてから白状した。
「祈り師さまは、たしか医務室にいらっしゃいます」
「それはどこだ」
「下の階、通路の真ん中辺り……」
 グレーの男の一人が、すぐに走って階段を下りていった。すると拳銃の発砲声が響いた。
「くそ」
 男がもう一人、急いであとを追った。
 幾つか銃声が響いたが、すぐに静かになり、数分後には二人の男がぐったりとしたままのユリを腕に抱いて戻ってきた。
「よし、行くぞ。これで文句ないだろ」
「な、ないとは言えないけど……」
「さあ、ついてこい、若造」
 男は発煙筒を着火して床に転がした。なんの前触れもなく突然遭遇した本物の戦闘行為に、タクヤは全く抵抗する術を知らなかった。去り際にタクヤが振り返ると、煙の向こうの階段の脇に、肩を血で染めたラインの姿がわずかに目に入った。

 キャンベル号には、薄汚れた船が横付けされていた。全長は半分ほどの大きさの『海賊船』だった。その木製の古めかしい外観に騙された警備の者たちは、すでにみな麻酔銃を撃たれ縄で縛られていた。
 タクヤとユリは、フックで貼られたロープにつるされた篭で渡された。強引で素早い指図に、二人は揺れる篭に怖がっている間もなかった。移った先の船は古い木製だったが、中に入ると一変し、すべてが金属製になっていた。狭い通路を通り「さっさと歩け」と急かされながら、船内にある操舵室に導かれた。
 そこではリーダーのオミヤマ師と弟子たちが、海賊らしい荒々しさで二人を迎えた。
「これはこれは、自由の国へようこそ、スーサシアの王子。オレはまとめ役のオミヤマ師だ。このたびは、かわいい連れもごいっしょか。いいじゃねえか。高速艇がすっ飛んで行くから何かと思ったら、こんなに美味しそうなごちそうが待っていたとはな。先回りしてワナをしかけたかいがあったってもんだ、がはは」
 タクヤは自分たちが切り刻まれ、煮込みやステーキされて、この男の食卓に上るのかと想像して身体がふるえた。
「おい、なに、びびってんだ。べつに、おまえたちを食ったりしないぞ。金になる話ってだけだ。オレたちは、ただの善良な海賊だ。心配すんな。無意味に人を殺しはしない。国が滅ぶほどの要求もしない。わずかな金さえいただけば、すぐに帰してやるよ。ま、これがもし龍人たちだったら、そういうわけにはいかんだろうがな」
「そうだよ」とオミヤマ師の横の小柄な男が口をはさんだ。「オレたち、べつに悪い人じゃないぜ。自由が好きなだけさ」
「そうそう」と別の髭の男が言った。「ついでに自由には、ちょっとばかり金がかかるんだ。そんだけ。シンプル・イズ・ベスト。龍人たちといっしょにするなよな」
 オミヤマ師は豪快に「がはは」と笑った。
「さあ、皆のもの、嵐が静まる前にとっととずらかるぞ」
「おー!」

 海賊船は貧相な漁船風の外観にふさわしく、海に下ろしてあったブイを引き上げていった。ただの浮きダマのようだが、中には発信器が仕組まれており、高速船のレーダーに仮想障害物を発生させていたのだ。
 全ての回収作業が終了すると、外側の偽装が折り畳まれていった。バッタの羽根のように外装が仕舞われ、ハッチが閉じ、タンクに水が注がれた。船体が海に沈んでいく。波の影響のない海面下まで沈んだところで、モータが滑らかなうなりを発した。
 自艦の航行音を逆波長で消し去るオリジナルの発信器を働かせ、無音で基地に帰還していった。

 タクヤとユリは、航行室のポールにロープでくくりつけられた。ユリとひとつのポールにくくられたタクヤは、困ったような、嬉しいような、複雑な気持ちだった。両腕を後ろに回してしゃがんだ姿勢でいると、電動モーターの緻密な振動がポールから背中に直に伝わってくる。
「大丈夫?」
 とタクヤはユリに小声で聞いた。
「まだ頭が……重くて……」
「薬が残っている感じ?」
「うん」
「だから薬なんかよくないんだよ。もう少し眠る?」
「そうするかも」
「だね。いずれにしても、縛られててなにもできないし。まったく、なんだよ、海賊って。そんな話、きーてないっつうの」
「急いで届けなきゃいけない物だと思うんだけど、大丈夫かな?」
「ヤマトアザミ? それよりさぁ、今は僕たちの命の方が心配なんですけど」
「そ、そうだけど……」
「まあ、あのボスの言ってた人の命尊重のセリフを信じるしかないよね」
「うん……」
「ところで、さっきあいつらが言ってた、龍人って、なに?」
「そうか、それも思い出せないのね」
「ごめん、またヘンなこと質問した?」
「龍人はね、国際的なテロ組織で、環境過激派。昨日の爆撃も、龍人たちのせいってニュースでは言ってた」
「王宮を破壊したやつらってこと?」
 ユリは小さく頷いた
 昨日の爆撃の記憶……タクヤが意識の外へ追いやろうとしていたものが、急にリアルによみがえってきた。首の折れたメリルの不可解な頭の傾ぎ……
「僕、そいつらのこと、絶対許さない。事情はよくわからないけど、もしも自分が本当に王子なら、やれることを精一杯やる。やつらに対して、やるべきことをさ」
「戦争って意味?」
「必要ならね。ここを無事に出れたらの話だけど」
 ユリは、王子としてのタクヤが『戦争』という言葉を口にすることの意味と重さを考えた。
「私、人を殺すことは、よくないことだと思う。戦争って、いろんな人を巻き込んじゃうよ」
「でも、やられてばっかりじゃあ仕方ないじゃん」
「そうだけど……」
「ユリ、心配しないで」とタクヤは急に優しく言った。「わかってるから。うまく言えないし、なにもかも記憶にない僕だけど、なぜか『戦争が悲しいこと』なのはわかる」
「本当に?」
「ああ。不思議だけど。自分の中に刻まれている感じがする」
「善きことね」
「ねえ、ユリ、僕は思うんだけどさ」
「なに?」
「やっばり『王子』って、けっこう大変な職業だね」
 ユリはホッとして笑みを浮かべ、タクヤに身体を預けた。
「タクヤさまって、面白い人」
「僕のことは、タクヤでいいから。言ったろ?」
「うん、タクヤ……私、眠るね……」
「どうぞ」
「次に目が覚めたら、白馬に乗った王子様が助けに来てくれるといいな」
「それ、冗談になってないし」
「じゃあ、夢のなかで、助けてもらおう」
「だね。夢の中でなら、僕ももう少し頑張れると思う。……ごめんね、ユリ、なにもできなくて」
「ねえ……いつか、私たち……夢でもつながりあえるといいな。心が、つながって……」
「夢か。大丈夫だよ。きっとそうなるって。だって僕なんか、動物の言葉だってわかるんだ」
 タクヤは冗談のつもりで言ったのだが、ユリはその言葉には笑うことはなかった。湯にとける砂糖のように、そっと目を閉じて眠りに落ちた。




6 カテナ村にて


「なあ、王子様よぅ、王子様ってのは、いったいどんな気分なんだ?」
 とオミヤマ師が、ユリと共にポールにしばられたままのタクヤに話しかけた。
「どうもこうもないよ。見ればわかるだろ。さんざんな気分」
「いや、だからさ、誘拐のことじゃねえ。普段の生活のことを聞いてるわけ。美味しいものとか食べれるかしらんが、自由がなくてしんどいだろ?」
 タクヤにはよくわからなかった。そもそも王宮で暮らしていた記憶を取り戻せなくて苦しんでいるのだ。
「よくわかんないよ……理由は……ここじゃあうまく説明できないけど」
「ま、そういうもんだ。外のことを知らねえと、わかりようがない。そりゃそうだ。たとえばな、赤って色があるだろ。赤のことは誰だってわかる。でもな、世の中がみーんな赤だったらどうだ。赤って言われても、わかりようがねえ。世の中にはいろんな色があるから、赤がどういう色かもわかる。そういうもんだろ?」
「ま……まあ……それはそうだけど……」
「ここにいるやつらはな、もともと多くはサラリーマンなのさ。ウソじゃないぜ。真面目で、勤勉で、優秀なやつらばかり……って、まあ、そこまで言っちゃうとウソっぽいがな、そんでも、半分ぐらいは本当だ。社会や、会社に奉仕してきて、それが正しいと思ってきたやつらだ。でも、それはな、大きな目で見れば自分自身の選択ではなかった。世の中にはいろんな色があるってことを、オレが教えてやったのさ。そして自分の意志で生きるという自由を、こうやって手に入れた。一つ言っておくがな、オレは強引な男だが、強制は嫌いだ。欲はあるが、贅沢したいわけじゃない。いい機会だから、おまえらもオレたちの生き方をよーく見ておけ。なんなら仲間にしてやってもいいぜ。これは冗談じゃない。それがおまえらの意志なら、否定はしない。ていうか、おまえら、そうやって仲よくつながれてると、かわいい夫婦みたいだな。結婚するなら、おれたたちが、伝統の海賊式で祝ってやるぞ。がはは」
 そしてオミヤマ師は、太い声でゆったりと歌いはじめた。

       久遠の夢よ
       蒼き天使の腕
       我を導け
       財宝はここに

       夜を裂く光の
       時の闇に溶け
       セノラの声
       甘き旋律に酔う

       腕がごろり折れ
       血がしたたる
       知らぬ者のあざけり
       世に充ちるとも

       財宝の記憶
       天使の笛よ
       我らを導け
       海原の果てに


 海賊船はうらぶれた漁港に入っていった。
 もちろん入港する前には海面に浮上し、再び貧相なトロール船の外見に戻っていた。船員たちも全員、いつのまにか漁師ふうのジャージ姿になっていた。
 嵐の余韻の黒い雲が、低空をかけぬけていく。カモメたちが風にあおられて港の上を舞う。
 近くの市場のような建物から、20人ほどの人々が集まってきた。空箱の積まれた台車を牽いたおばちゃんたちだった。そしてタクヤとユリが驚いたことに、本当に船から魚の下ろし作業が始まった。
 ぐらぐら揺れるタラップから岸壁に下り唖然と立ちつくしている二人に、大柄のおばちゃんが声をかけてきた。
「見なれない顔だね。どうしたのさ?」
 タクヤは一瞬躊躇したが、助けてくれるかもしれないと思い、小声で「誘拐されました」と言った。
 おばちゃんは「ああ、そういうことかい、だはは」と笑った。「だったら、ちょっと手伝ってくれるか。イワシのいいのをもって帰って団子にしようと思うんだ。雑魚は最後にまとめてガバッとシートに下ろされるから、二人でよさそうなの集めておくれ」
「あの、おばさん……」とユリが眉間にしわを寄せて言った。「私たち、誘拐されたんですよ」
「わかってるって」とおばちゃんはユリの背を叩いた。「カテナ村にようこそ。心配しなくてもちゃんと歓迎してあげっから。でも、ただメシってわけにはいかないよ。ちゃーんと働きゃ、おいしーイワシスープが待ってるってもんだ。さ、ほらほら、網が下りてきた。ぐずぐずしないで、大きいぷりぷりのを、たっぷりたのむよ。あたしゃ屈むと腰が痛くて」
 クレーンを操作していたのは艦長のオミヤマ師自身だった。
「おーい、みんなー、シケってたわりにはたっぷり採れてるからなー」
 魚をぎっしり詰めた網が下りてくる。村の人々と、カモメたちがそれを取り巻いている。ブルーのシートの上に網がつくと、船員によって紐がほどかれ、あふれるように魚がばらまかれた。
 タクヤがふと見ると、ユリの目は輝いていた。
「たくさんいるね」
「ああ、でもさぁ、魚なんか、みんな同じじゃん」
「そう? ほら、あの人が取ったハマチ、美味しそう。こっちのカマス、目がすごい、生きてるみたい。イカもいるよ。イワシは小さいのが多いね。団子にするなら、小さい方が骨が柔らかくていいかも。でも、おばさんは大きいのをとってこいって言ってたね」
「ユリって、こういうの詳しいわけ?」
「食べ物のことならまかせてって感じ。ずっとうちで作ってたもん」
「そうなんだ……ユリ、イワシって、どれ?」
「あなたの足下にいる丸っこい頭のは全部そう!」
 タクヤは数匹を手にとって「つまり、どれが美味しいかが問題なんだな、よし」と鼻にあてて匂いをかいだ。「ユリ、これが美味しそうな気がするけど?」
「匂いじゃわかんないよ。やっぱりあなたって、面白い人ね」
「そう?」
「さ、お仕事お仕事。働かざるもの食うべからずよ」
 おばちゃんは「これに入れな」と竹で編んだザルを二人に渡してくれた。

 タクヤとユリに手伝いを要求したおばちゃんは、オミヤマ師の従兄弟だった。オミヤマ師の従兄弟は多いらしいが、その中でも特に親しい従兄弟らしい。その日の夕食は、おばちゃんの家に集まって、みんなで食べることとなった。タクヤとユリの監視役でついてきた二人の船員も、みんなに交じってイワシスープをご馳走になり酒も呑んだ。
「だいたいよ」とオミヤマ師は豪快に言った。「おれたちのシマを、あんなおしゃれでちんけな船で王子さんを乗せて行こうってことがまちがってらぁな」
「でも、私たち、本当に急いでるんです」
 とユリが反論した。
「そりゃそうだろうよ。そんなこたぁ、誰だってわかるよ。なぁ、おばちゃん」
「そうそう。ま、人生ってのはいろいろあるもんさ。じたばたしないで、今をしっかり楽しむこと。さ、王子さん、お代わり、よそうよ」
 タクヤはその呼ばれ方に戸惑いながらも「すみません、ありがとうございます」と食器を差し出した。
「美味しいかい?」
「はい、とっても」
「あんた、若いけど、なかなかいい男だね。なんなら、おばちゃんとこで働いてくかい?」
「なに言ってんだよ、ばばあ」とオミヤマ師がつっこんだ。「金を送ってもらったら、とっとと帰ってもらうんだからよ。こんなひょろひょろ、居着いたってなんの足しにもなりゃしねえ」
「金、金って、あんたも小人物だねぇ。出会いは大切にするのが神さまの思し召しってもんだよ。さ、たくさんお食べ。ほら、ユリさんって言ったか、あんたもお代わり!」
「いえ、私はもう……」
「ダメだよ、たくさん食べなきゃ。あんたなんか、いいお嬢さんなのに、オッパイちっちゃいじゃないか。たくさん食べて大きくしなきゃ、いい男、見つけられないよ」
「そ、そういう問題では……」
「おばちゃんはさ」と船員の一人がユリをかばって言った。「自分が太ってるから、若くてかわいい子を見ると余計に食べさせないではいられないんだ」
「おだまり。うるさいよ、あんた」
「いやしかし」とオミヤマ師が口をはさんだ。「おばちゃんは、あれだよな、確かにいい旦那は見つけたからな。なんてったって、セノラさんは、素晴らしい人だった。この村のすべてが、あの人から始まったんだ」
「けっ」とおばちゃんはなげやりに言った。「死んじまえば、いい人もなにもないよ。きまってるだろ、そんなこと」
「死んだんですか?」
 とタクヤは質問した。
「ああ。死んだ。バカだからだよ」
 おばちゃんは言い捨てた。
「あのなぁ、おまえよ」とオミヤマ師が代わりに説明した。「海賊ってのはな、一種の独立国家だ。でもな、人が集まって、今日から独立しますじゃ、世界は納得しねぇんだ。どうしても、なにか仕掛けが必要だった。で、セノラさんと12人の弟子たちが、戦争を起こしたわけだ。最初から負けるための戦さ。泣かせるだろ? こんなこと、説明するだけでもつれーよ。そんなすごい人たちのおかけで、我々は世界から消えた。世界の歴史から消えて、今はこうして、自由に生きている」
「バカだよ」とおばちゃんが断言した。「国家だとか、戦争だとか、歴史だとか、そんなのがいったい何だって言うんだ。イワシなんて雑魚だけど、一匹のイワシの方がはるかによくできてるよ。神さまの創ってくださったもの、ってことだ。わかるかい? 人間が作るものなんて、しょせんウンコみたいなもんだ。食って、出る。偉そうなこと言ったってね。私は神さまのすごさを忘れて、何でも自分たちでやってるようなことを言うやつを見ると、ほんと、頭のてっんから足の先まで、くそまみれだって思うよ」
 おばちゃんは、唖然としているユリの顔を見て、「いやいや、ごめんよ」と謝った。「美味しいものを食べてるときは、美味しい話にしなきゃね。……おいおい、誰だい、こんな話にしたのは。ま、いいよ、さ、わすれたわすれた。美味しいものをたくさん食べて、今日はゆっくり休むこと。神さまの恵みに感謝して」

 食事を終えた二人は、少し酔った監視役一人に案内されて、今夜泊まる家にむかった。
「ここは以前、リゾート地だったんだ。離れがいろいろあってね」とひょろりとした監視役は先に立って歩きながら、手に持ったランプを高く上げて木々の奥を照らした。「今は街道が汚染されてて客なんて来ないけど、ほら、泊まる家には不自由しないんだ」
「確かに小さな家があちこちにある……」
 タクヤのつぶやきに、ユリも頷いた。
「街道といえば、汚染は今もすごいから、君たちも勝手に逃げちゃダメだよ。ここから外に行く道は、土も水も化学物質で汚染されてる。ずっと前だけど、トラックの運転手たちに、原因不明の奇病が流行ってね。この先に集中していた化学工場が原因だった。いまは工場もなくなっちまったけど、汚染だけは残ってる。だから世界じゅうの人たちは、このあたりのことを忘れたがってるんだ。昔から住んでる住民のことも、いずれ病気になって死ぬと思ってる。ていうか、そういうふうに思いたがっている人たちがいるんだね」
「どういう意味ですか?」
 タクヤは素直に質問した。
「過去の問題を蒸し返すとさ、当然、化学工場のことが問題になるだろ。でも、そういうことにはしたくない人たちがいいっぱいるんだよ。金の問題もあるけど、化学工場では武器やコンピューターに使う薬品、医薬品、農薬なんかもたくさん作っていた。ほら、そういう人たちって……なんていうか、今の世の中の一番上の人たちじゃないか。そういう人たちがこぞって話題になってほしくないとなったら、やっぱり、話題にならないんだよね。マスコミも、スポンサーがダメと言えばそれまでだ。ひどい話だと思うけど、でも、我々は逆に、それを利用している」
「『利用』ですか?」
「自由のためにね」
「けど……」とユリが心配そうに言った。「そんなところに暮らしていて、みなさんの身体は大丈夫なんですか?」
「外に向けては、大丈夫じゃないふりをしている。うちらが捕った魚は、よそでは肥料にしか使われない。でも、どうだい? 美味しかったし、わりと、うまくやってる感じだろ?」
「ええ、そう見えます。むしろ、とても健康そう」
「ここだって万全というわけじゃない。けれど、忘れられた寒村のわりには、才能ある人が集まってるからね」と言って男はウインクした。「オレは、本当の仕事は何かわかるか? 実は絵描きなんだよ」
「おじさんって、海賊なのに、絵描きさんなんですか?」
 とユリは驚きを隠さなかった。
「それに、なんか、いい人みたいです」
 とタクヤも言った。
「海賊中は、いちおうなりきらないとね。でも海にいるときだけさ。そういうやり方なんだ。おかしいかい? まあ、ものごとのとらえ方は人それぞれだと思うけど、オレがここに生きてるのは、外の世界よりもずっとまともだと思うからなんだ。本当に、そう思うよ。とはいえ、外の世界と離れて、もうかれこれ10年は経つから、今の外の世界がどうなっているかはあまり知らないけれどね。でも、たまにニュースを見たりすると、ますます悪くなってるとしか思えない。オレは、ここに来て、心の底からよかったと思ってる」
「きっかけはなんだったんですか?」
 タクヤの好奇心に、監視係は苦笑した。
「話すと長くなるな。部屋に入って、茶でも飲みながら説明するよ。とりあえず、ほら、あの離れの小屋が今夜の君たちの宿だ」
 木々に囲まれた小さな家だった。ランプが扉を照らすと、木の表札に「A12」と刻まれていた。監視役がゴトゴトと鍵を開け、タクヤたちが中に入ると、微かに清らかな木の香りが感じられた。昔ながらの電灯を点けると、あまり広くはなかったが、白木の二段ベットのある清楚な部屋であることがわかった。
「いい感じのところですね」
「だって、本当にお客さんに使う部屋だもんな」
 監視役は満足そうに頷いた。
「森の中の静かな家……こういう方が、僕には王宮より似合ってる気がする……」
 タクヤのなにげないつぶやきに、ユリは悲しそうな表情をしたが、部屋の一角に小さなキッチンがあることに気付くとすぐにお茶の用意を始めた。
 タクヤがベットを見ると、きちんと清潔なシーツが用意されていた。窓のカーテンも汚れのないクリーム色だった。カーテンをよけて、木枠の窓を押し上げ、身を乗り出すと、遠くに小さく港の明かりが確認できた。冷えた夜気と共に、微かに波の音も聞こえてくる。以前も聞いたことがある波音……具体的な記憶はないが、不思議な懐かしさに包まれた。
 お茶の用意が済むと、それぞれにカップを持ち、丸椅子やベットの端に腰掛けた。監視役はリラックスして話を続けた。
「人ってのはさ、がんばってるときはいいんだよ。前向きに一生懸命になっているときは、なんだって素晴らしいもんさ。そうやって、いろんな便利なものを作り出してきた。車やら、クーラーやら、洗濯機やら、なんでもな。そのうち、機械のひとつひとつにまで人工知能が組み込まれるようになって、使い手が操作するより、まかせてしまった方がいいものになってきた。でも、だんだん不安にもなってくる。現実とのつながりがなくなってくる、って言うか……みんな、ヘンだって気がついているんだ。でも、いったん来ちまった道は、戻りようがない。不満があるなら、その不満も、人工知能で満足させよう、と、そんなことになってきちゃってさ。
 オレはね、もともとは絵描きだけど、そればっかりじゃ食べていけないから、仕事で人工知能の制作にも関わっていたんだ。ま、下っ端だったけど、オレがデザインしたもののなかには、今でも世界の人々が使っているものもある。そりゃ、もちろん、いいものを作れたときの喜びはあるさ。でも、ある日、オレは死んだんだ」
「え?」
 ユリとタクヤは声を合わせて監視役を見た。
「比喩とかじゃない。コンピューターに囲まれて仕事をしていたら、本当に心臓が止まってね。不思議だけど、10分ぐらい死んでいたらしい。そのとき、オレは神さまと会ったんだ。神さまは優しい人かと思ってたけど、これがずけずけと言うわけ。おまえのやっていることはなんなんだ、と。全部、無意味なことじゃないか、と。……わかってる。それは神さまだったけど、でも、いわゆる神さまじゃない。それはきっと、自分の本当の心が、神さまの姿をして現れたんだ。自分が、自分に言ったんだ。ちがうだろって。こんな生き方、ちがうだろってね。そのとおりさ。工場で働き、工場で作られたものにすみずみまで囲まれて生活し、工場で作られたものを食べて、工場で作られた薬で生きながらえ、工場で働く夢を見る。
 死から生還したオレは、どうしてもじっとしてられなくて、仕事を投げ出して海に行ったよ。ヒッチハイクだ。海の記憶を求めてさまよった。そして、マスコミが報じない自然の現実を見て、愕然とした。世界の海は、オレたちが知らない間に、こんなに汚されていたんだって。どこに行っても、プラスチックが浮き、油の膜が虹色に光っていた。オレは国を出て、ひたすら世界の海をさまよった。
 あるとき、カエルを食べる人々がいるって聞いたんだ。そういえばカエルなんて久しく見ていなかったし、カエルは水辺の生き物で、汚染に弱くて、そういう生き物がたくさんいるところなら、何かを発見できるかもしれないと思ったからだ。でも、そこで見たものは、まっとうなカエルじゃなかった。カエルだけでなく、人間もまた、変わり果てた姿だった。汚染による異変で、トカゲの肌のようになった人々。炎症が続き、汁がたれつづけている肌。生まれつき手がなかったり、指が片手に8本もあったり。オレはショックで言葉も出なかったよ。むちゃくちゃだった。なにもかもが、根本から狂っていた。でも、意外だけど、彼らの心はまともだった。たぶん彼らは、心がまともだったから、異変を身体で受けとめるしかなかったんだ。逆に言えば、身体が異変を受けとめてくれたから、大切な心は守られた。
 オレは彼らの案内で、森の奥の泉に連れていってもらった。世界で一番清らかな水の湧き出るところだ。そんなところが、あの汚染された人々によって守られているのかと思うと、皮肉に感じたし、なんて言うか、やたらと悲しかった。その泉が川になって流れ、海に落ちるところまで、一人で旅をした。そして、たまたま同じように悩んでやって来ていた旅人と出会ったんだ。
 ほら、オレともう一人、監視役でいっしょに夕食を食べたやつがいただろ。無口で印象は薄いかもしれないけど、あいつがこの村のことを知っていたんだ。知っていたというか、噂だね。カテナという独立した村があること。オレたちは半年探し回って、やっとここにたどり着いたのさ。この、貴重な、ひとつの現実にね」
 男は説明を終えると、カップをテーブルにおいて立ち上がった。
「じゃあ、オレは行くよ。あまりこんなこと話したって、人には言わないでくれよな。ダメってことはないんだけど、恥ずかしいからさ。あと、もう一度言っておくけど、逃げたりはしない方がいいよ。この村は汚染地帯に囲まれているからね。逃げるとしたら海しかないけど、この沖は危険な流れがあって、ちゃんとした船でないとぬけるのは困難なんだ。オレがこんなふうに君たちに正直に話したのは、つまり、逃げるとかそういうことではなくて、ここの真実に気がついてほしい、ってことなわけ。せっかくの機会だからね」
 男は口元に笑みを浮かべ、ユリにウインクして立ち上がった。
「ありがとうございます。でも、私たち、急いでいるのは本当なんです……」
「たぶん大丈夫だよ」と監視役は優しくユリに頷いた。「あんたたちの船は、紛争地帯の半島をぐるっと大まわりする航路だった。でも、陸路でぬけてしまえばずっと早く着くんだ。この村からは無理だけど、少し南に行ったところに駅がある。そこからだったら早いはずだよ。まあ、いろいろこっちの要求とかもあるから、すぐってわけにはいかないだろうけど、それでも話がちゃんと進みさえすれば、船で着く予定だったころには、目的地に着いているはずさ。だから、あまり心配しないで。強引にさらっておいてこんなこと言うのはなんだけど、今夜はゆっくり、よく休みなよ。明日からの旅のためにね。じゃ、おやすみ」

 監視役の男が去り、二人だけの『祈り』の時間。
 二段ベッドの下段にうつ伏せになったタクヤを前に、床に跪いたユリが、患部に手をかざし、目を閉じた。
「ねえ、ユリ」
「なに?」
「また、変な質問になると思うんだけど、ひとつ聞いておきたいんだ。いい?」
「いいよ」
「どうして、僕たちの国は、あんな攻撃、受けたんだろう?」
 ユリは目を開けて、いったん手を自分の膝に戻し、絹の布を折り畳むようなゆっくりした呼吸を繰り返した。
「非情なテロリストたち……狂った環境過激派……龍人たちの暴挙……」
「本当にそうなのかな?」
「さっきの監視役さんの話が気になるの?」
「そうかもしれない」
「私たち、とても豊かで、強い国に暮らしてきたよね。だから、環境保護の人たちのこと、頭がへんと思ってしまう。被害妄想で、過激過ぎると。でも、さっきみたいな話を聞くと、考えちゃうよね」
「自分の目で確かめてみたいな、僕も」
「本当の海を?」
「あのさぁユリ、本当の海は、あの人によれば『ここ』らしいよ」
「そうだったわね」
 ユリは笑みをもらした。
「ねえ、ユリ」
「ん?」
「こういう静かで気持ちの良いところに、二人でいられるって、いいね。僕はなんだかすごく嬉しいよ。ま、海賊に捕らわれている身ではあるけれど」
「そうね……」
「静かだよね」
「うん」
「いろんなこと、思い出せそうな気がする。『懐かしい』という気持ちは、僕にもわかるんだ。ただ、具体的なことが、なかなか……」
「あせらない方がいいよ。わからなかったら、また私に聞いて。なんでもわかることは教えてあげるから」
「ありがとう」
「そろそろ、始めていい?」
「うん、お願いします」
 やがてタクヤの足に、いつもの温かみが広がっていった。じわじわと全身まで広がると、また激しい痛みが襲ってきた。

  絡まりあう、悲しさ。
  答えはどこにあるのか。
  ユリはなぜ死んだのか。
  なぜその事実を知っているのか。
  教えてほしいことがある。
  なぜユリは暗い底に沈んでいくのか。
  別れの痛みが語る真実。
  時空を超えた聖なる微笑み。
  最期の強い輝き……

 祈りの治療が終わると、二人はそれぞれのベッドに横になった。
 上段に移ったタクヤは、木の柱に小さく「I LOVE Y」と昔の客のラクガキが刻まれているのを見つけた。思わず親指の爪で「I」の上に横線を付け加えた。タクヤの「T」。そしてユリの「Y」。やってみると、急に恥ずかしくなり、あわてて手を伸ばし、壁のスイッチを消した。
 無音の暗い空間。
 何かを探るかのように、タクヤはぼそぼそと下段のユリに語りかけた。
「ねえ、ユリは僕のお母さんのこと、知ってるんだよね?」
「うん」
「今、少しだけ、思い出したよ」
「え?」
「母さんのこと。くだらないことなんだけど。『トリミングってなに?』って聞かれて、写真を切って余分なところを捨てて、ちょうどいい大きさに調節すること、って僕は説明したんだ。でも、同じように写真の形を変えるのでも、現像によるサイズ変更もあるだろ? 大きくしたり小さくしたり。母さんには、その違いを理解するのが難しいらしくて。ユリは、わかるよね。トリミングとサイズ変更の違い?」
「まあ、わからなくはないけど……それが、お母さんとの想い出なの?」
「そう。ムチャクチャ具体的だろ? 笑っちゃうよ。ほんと、急にヘンなこと思い出すもんだよ。でもさ、そこにも、やっぱり顔と声はないんだ。ただ、写真を手渡したときの肌の感触だけ、妙にしっかりと憶えてる」
「トリミングって……何か意味があるのかな?」
「だから、写真を切ってサイズを変えることだって」
「言葉の意味はそうだけど……裏の意味は?」
「比喩なのかな」
「そう思わない?」
「わからないよ。ねえ、やっぱり、ユリが知っていること、少し教えてよ。僕も事実を知るのは恐いけど、おおざっぱな知識ぐらいはあった方がいいと思うんだ」
 ユリは「そうね」とつぶやき、しばらく考えてから話し始めた。
「私も、それほど頻繁に王宮に出入りしていたわけじゃないの……でも、タカコさまは、会うたびに優しくしてくれて、本当にすごくいい人だったよ。一つ一つの表情に思いやりがあって。噂では、子供の頃は貧乏していたこともあったって。だからこそ、自分の息子を、閉鎖された王族ふうには育てたくはなかったみたい。もちろん必要な時には正装して、家族そろって人前に出たりするんだけど、普段は王宮にいるのかどうかもよくわからなかった。全然別の離れた田舎で暮らしているという噂もあって。そんなこと、絶対にあり得ないと思っていたけど、こうしてあなたと二人でいると、そういう過去があっても不思議じゃないと思ってしまう」
「僕も、はっきり言って、あそこの堅苦しそうで、やたら贅沢な暮らしより、こういう小さな二段ベッドみたいな方が落ち着く。それに、なんていうか……」
「なに?」
「いや、まさか、こんなのは気のせいだと思うけど、さっきの監視の人の話もね、僕は、妙にわかる気がしたんだ。まるで、自分で経験したことのように……」
「ねえ、いくらなんでも、そこまではあり得ないと思うんですけど?」
「わかってる。たださ、不思議と、そんな気はしたんだ」
「タクヤの中に、いったい何が隠されてるんだろうね……」
「ユリは、祈ってくれる時、僕と心がつながったような気持ちになることない?」
「ありますよ。祈りって、そういうことだから。それが治療だから」
「そのとき、何を感じる?」
「感覚だもの、難しいよ。言葉では、うまく説明できない」
「そうか……だよな……」
「でも、お父さんとの共通点は感じるよ。だから、確かに王子様なんだ、と思う」
「どんなふうに?」
「表面的な感情の奥に、大国のリーダーでありながら、素直で正直なところがあるし、そういう気持ちを、自分で大切にしていらして。そしていつも、大きな覚悟から決して逃げない。だから魅力的なの」
「魅力的?」
「誤解しないでね。素晴らしいな、と感じるってことよ」
「ふーん、そうか。ユリは僕の父親のこと、詳しいのか」
「詳しくないよ」とユリはあわてて否定した。「でも、あなたのお母さんよりは、詳しいかも」
「え、王の妻である人よりも、王のことをよく知ってるってこと?」
「そ、そういう意味じゃなくて……」
 タクヤも笑って「冗談だよ」と言った。「どっちのことをよく知ってるかっていったら、王様の方ってことなんだろ。そりゃあ王様の方が表にでるだろうしな。わかってるから、あせらなくていいよ。それにしても、なんだかうちの母親って、いろんな意味で謎の人物っぽいんだな」
「優しい人柄の奥の、傷つきやすい本心は、誰にも見せなかったのかも。いろいろ立場のこともあると思うけど」
「やっぱ、やこしいみたいだね。だから早死にするんだ」
「でも、私は思うんだけど、あの方は、きっとあなたに、何かを残していると思う」
「何か? 例えば『トリミングについて質問した記憶』とか?」
「ううん、そういうことではなく、もっと大切な何か」
「大切な? どうして、そう思う?」
「理由はないけど、なんとなく。タカコさまって、そんな人だったなぁって気がして」
 タクヤは目を閉じて、しばらく考えてみた。しかし今はまだ、他に思い出せることはなかった。
「ねえ、ユリ?」
「ん?」
「ありがとうね」
「……え?」
「つらい時に手をさしのべてくれると、人って頼りたくなるだろ。それって、楽だけど、本当の意味では救われないよ。解決には、ならないと思う。でも、ユリは、頑張って祈ってくれて、話し相手になってくれて、こうやって一緒にいてくれる。それが、僕には、一番嬉しい」
「どうしたの、急にあらたまって」
「だって、ほら、ユリと二人っきりの夜だろ。これって、考えてみたら、特別なことかもしれないじゃん」
「そ……そうだね……」
「だから、ちゃんと言っておきたいんだ。本当に、ありがとう、ユリ」
「いえいえ、なかなかお役に立てなくて申し訳ありませんけど」
「そんなこと、言わないでほしい。一緒にいて、一緒に歩いていこうよ。明日もさ」
「そだね」
「だから、ありがとう」
「うん」
「おやすみ、ユリ」
「おやすみ」

 やがてタクヤは夢の中で、懐かしい声を聞いた。
 
 「時間が」と彼女はつぶやいた。「あまりないのです」
  真夜中の空を、鳥が音もなく飛んでいく。
 「わかっている。だから、僕はここに来たんだ」
  それは旅人。
  遠くを見ていた。
 「君の『さよならを』聞くために」

  涙の意味は、別れ。

  彼女は首を振る。
  母の夢は、遠い真実。
  形を変えて、時間をつなぐもの。

  終わろうとしている。
  始まろうとしている。
  わからない。
  誰にもわからない。
  宙を飛ぶ重い金属片。
  水に広がる血の色。

  「そんなのは嫌だ」
  旅人はうずくまって叫ぶ。
  「さよならは嫌だ、失いたくない」

  淑女は顔をゆがめ、残忍な笑みを浮かべる。
  喪失は、旅の本質。
  全ての希望は、喪失の序章。

  そんなのいやだ
  そんなのいやだ
  そんなのいやだ


 心の奥の深い何かが、夢の中でタクヤの胸を締め付けていた。何が夢で、何が比喩であるか、わからなくなっていたが、ただ『ここが始まりであること』だけは、無意識のうちに自覚していた。




7 ヒッコリー老人


 タクヤは久しぶりに深く眠った気分で目が覚めた。しかし身体には逆に重い疲労が蓄積していた。父さんは「若いんだから疲れたりしないだろ」とよく言ったが、そんなことはない。むしろ未完成な身体は、たっぷり疲労を感じる……
 父さん?
 また、急に思いだした、くだらない記憶。
 ずいぶん庶民的な発言のような気がして、タクヤは思わず苦笑した。
 父と子の関係、それは世間では、美しく語られるときもある。しかしタクヤ自身の場合は、美しいものではない。タクヤが漠然と記憶しているのは、愛というより、落胆と無関心。
 そんな冷めた思いが、逆にあの悲惨な王宮の爆撃の記憶と重なった。不思議な色彩の衣装を品よく着こなしていたメリルの死。その現実が、王である父親に理解されることはないだろう……。
 もちろん爆撃を実行した人々のことは憎い。しかしそもそもの原因は誰にあるのか? タクヤの父が王であるなら、その根本となる原因と無関係ではないはずだ。
 
 とんとん、と誰かが窓を叩いた。
 タクヤがベットから下りてカーテンを開けると、小さな男の子が外にいた。タクヤは窓を押し上げた。
「おはようございます。よく眠れた?」
 いつもの役割であるかのように、男の子はタクヤに聞いた。
「ああ、おはよう。なんか、捕虜っていうより、旅に来てくつろいでるみたいだ」
「ふーん。ねえ、朝御飯できてるからさ、食堂まで下りておいでって。その部屋についているシャワーとか、使っていいし。使い方、わかるよね? 出すだけだから」
「出すだけなら、まあ、大丈夫だと思うけど」
「食堂までね、森の中に立て札とかあるから、ちゃんと見て来てね。じゃあね。まってるよ」
 タクヤが頷くと、男の子は走り去った。
 声を聞いたユリがベットから顔を出した。
「おはよう。なんか、私、すっごく眠っちゃったかも」
「僕もだよ。ねえ、シャワー使えるらしいよ。僕、ささっと終わらせて、外で待ってるから。で、変な人が入ってこないか見張っててあげるから、ユリはゆっくり支度したらいい」
「ありがとう」
 タクヤは速攻でシャワーをあび、ヤマトアザミが隠されている袖なしジャケットを着て外に出た。寝起きの身体に、朝の冷たい風が心地よく感じられた。
 昨夜は気がつかなかったが、小屋の前は小さな広場のように開けていた。地面の芝はあまり手入れされておらず、雑草も目に付いたが、その開けた空間には白い石で作られたテーブルと椅子があり、そちらの方はきちんと掃除されていた。タクヤはそこに腰掛けてユリを待った。
 テーブルにひじをついて森の音に耳をすませると、鳥たちの鳴き声が折り重なって聞こえてきた。白い雲が上空をおおっているせいか、小鳥たちのさえずりはくぐもったように響いた。小鳥のさえずりも『言葉』として聞き取れるだろうか、とタクヤは集中してみたが、そうはならなかった。そもそも言葉が聞き取れるときは、集中などしなくても自然に聞き取れたのだ。小鳥のさえずりは、イルカや犬とはちがうようだ。哺乳類ではないからか? しかし植物であるトウモロコシとは話すことができた……
 ユリが戸口から出てきた。タクヤが立ち上がって近寄ると、まだ彼女の髪が濡れているのがわかった。透き通るような表情のユリは、手を後ろに組み、口元に笑みを見せた。
「タクヤ、ほんとうは、あなたは、どこから来たの?」
 ユリは目の前のタクヤを見ているのに、遠くを見るような眼差しをしていた。
 タクヤはその質問にはうまく答えられず、代わりに自然に口に出てきた言葉をつぶやいた。
「ずっと君を捜していた」
「私を?」
「そう」
「なぜ?」
「そうなるべきだったから。そしてもう一生、離れたくない」
 海からの風が、木々の枝をゆらした。タクヤは手を伸ばし、ユリの濡れた髪先のかかる肩にふれた。壊れやすい大切な何かを守るように。
 二人を隔てる距離は、決して軽んじていいものではないと思われたけれど、この瞬間、タクヤは衝動を抑えきれず、ユリを両腕で抱きしめた。
 しかしユリは一瞬の戸惑いの後、両腕を身体の間に差し入れてもがき、タクヤから離れた。
「ご、ごめんなさい」
「どうしたの?」
「だって、私は、あなたの祈り師だから」
「え?」
「あなたに触れてはいけないの。個人的な想いを持って触れては」
「でも、仕事と気持ちは、分けて考えれば……」
「そういうわけにはいかないのよ!」とユリは急に声を荒げた。「だって、私があなたと個人的な関係になってしまったら、私はあなたへの祈りの力を失うかもしれないの。そしたら、どうなるの? あなたは死んでしまうのよ!」
 ユリの目から溢れた涙は、すぐに滝のように頬を伝った。
「だから、ごめんね、タクヤ」
「ユリ……」
 タクヤはそれ以上、何も言えなかった。『好き』という、本当のことを、本当とは認められない現実。ユリとのつながりを大切さにしたいのに、抱きしめることはできない苦しさ。
 ユリは鼻をすすって「さ、ご飯食べにいこうよ」と、むりに明るく言った。
「うん……そうだね」
「でも、どこにいけばいいのかな?」
 タクヤは小道の脇にある木の札を指さした。
「立て札が続いてるんだって。男の子がさっき説明してくれた」
「そう?」
 ユリは何かを振り払うように、早足で歩き始めた。
「ほら、あそこにも立て札があるよ」
「待ってよ」と、まだ気持ちの整理がつかないタクヤは、走って追いつき脇に並んだ。「あのさぁ、僕の足の病気って、うまくすれば、治るものなんだろ?」
「うん……たぶん……」
「治ったらさ、でさ、こんな妙な旅が無事におわったらさ、僕たち、ちゃんと個人的にどこか行かない? 動物園とか。僕が動物たちの言葉、通訳してあげるから」
 ユリは苦笑した。
「足が治ったら、きっとその不思議な能力も、消えてなくなると思うんですけど」
「ははは、わかってるよ。ボケてみただけ」
「私もよ。つっこんでみただけ」
 ついさっきの涙が嘘のように、生気を取り戻したユリの美しい顔がそこにあった。
「やっぱ僕たちってなかなかいいコンビかも。あのさ、このノリで、街に出て、そのうち酒とかも飲んじゃおうよ」
「そうだね。大人になったらそういうのもいいかもね。でも……」
「なに?」
「私はひとつ、昔からの夢があるんだ」
「どういう?」
「大したことじゃないの」
「いいから、言いなよ。なんでも喜んで協力するし。王子が協力するって言ったら、これはかなり本物の協力だよ。予算に糸目はつけないよ」
 ユリは首を振った。
「簡単なの。あのね、私んち、王宮の裏側にあって、あまり友達とかもいなくて、よく一人で海を見てたんだ。あの防波堤のさきっぽから」
「ああ、あそこね」
「あそこからよく夕日を見てた。いつか誰かと二人で見たいなと思ってた」
「そんなん、簡単じゃん。僕だったら毎日でもいっしょに見てあげる」
「でもねでもね、ただ見ればいいってもんじゃないのよ。ちゃんと心を清らかにして、幸せを感じて、相手と心がつながっているような気持ちでいっしょに見るの」
「昨日も、そんな感じだったけどな」
「そ、そうだけど、あれは祈りで疲れてたし、それに……」
「わかってるって。『好きな人と二人で見る』ことが大切なんだろ?」
「う、うん……」
「そのうち、もしかしたら、僕たちも、そういうことになるかもしれないよね」
「えっと……」
「でもさ、僕たちがそんなふうにしてたら、あのイルカのシロが海からチャチャ入れてきそうだけど」
「あー」
 ユリは両手で頭を抱えた。
「私、あのイルカさんにゲロしちゃったのよね。許してくれるかな?」
「ゼンゼン大丈夫だよ。言っただろ。あいつ、べつに服は汚れなかったって」
「そうだけど」
 タクヤは笑いながら、ユリの夢のささやかさにあきれて、そんなの絶対に簡単に実現できると思った。二人で夕日を見るだけだなんて。それも、ユリんちの裏の海で。簡単すぎる。もっともっと難しい願いでもいいのに。ユリのためなら、なんだって叶えてあげるのに。ユリのことを、この世界で誰よりも幸せにしたいのに。
 タクヤは、そんな自分の想いを、少なくとも自分の心の中の問題としては、100パーセントまっすぐに肯定できた。ユリを愛し、ユリの声を聞き、ユリと笑いながら歩く。そういったことのひとつひとつが、いつの間にかタクヤにとって、何よりもかけがえのない大切なものとなっていた。ユリとのつながりだけは、迷いもなく完全に信じることができた。それこそが、記憶のないこの世界に生きる意味のすべてだった。

 食堂はかつてのリゾート施設をそのまま活用したもので、木造の大きな建物だった。今は漁師仲間が共同で食事をとる場となっているようだ。
 中に入ると、昨夜のおばちゃんと、その仲間のおばちゃんたちがコーヒーを飲んでいた。
 タクヤとユリが「おはようございます」と挨拶すると、大声でしゃべっていたおばちゃんが振り返った。
「よー、おはようさん。よく眠れたかね」
「はい」とユリは素直に応えた。「とても静かないい部屋でした」
「ほんとほんと」
 タクヤも相づちを打った。
「ほら、むこうのテーブルにスープやコーヒーがあるから、かってに自分でとって食べな。男たちはもう漁に出ちまったから、今日は私らが監視役だよ。って言っても、たぶん朝のうちだけだろうけどね」
「朝だけ?」
「ほら、あんたたち、急いでるって言ってたろ。だから身代金をまけてあげたんだ。出血大サービスの特別取引で、たぶんじきに交渉がまとまるだろうよ。そしたら、駅まで送ってあげるからね」
「駅ですか?」
 ユリは確認するように聞き返した。
「ああ。金鉱の町が南にあってね。そこから砂漠を横断する急行列車に乗れば一日で着いちまう。昼の列車に間に合えば今日中さ。そんなわけだから、安心してたくさんお食べ」
 そこまで説明して、ふとおばちゃんは立ち上がった。
「そうそう、トマトスープにカラス貝を入れるかい? 採れたてで美味いよ」
 ユリはタクヤの顔を見て「駅だって、つまり列車ね」と再度確認してから、大きく頷いた。「ぜひお願いしま〜す!」
「ははは、そうこなくっちゃ」
 おばちゃんは大鍋のスープを小鍋に取り分けてストーブの上にのせた。そしてザル一杯のカラス貝をほおりこんだ。
 タクヤとユリが、サラダやパンやコーヒーを持ってテーブルにつくと、じきにおばちゃんが小鍋と取り皿を運んできてそこに置いた。
「カラス貝の特性スープ。熱々をめしあがれってなもんだ」
 鍋の蓋を開けると、香草やオリーブオイルの香りと、カラス貝の香りが心地よく広がった。さっそく取り皿にわける。まだ殻は熱かったが、タクヤはフォークで身を取り出して食べてみた。
「うまい!」とタクヤは叫んだ。「おばちゃん、これ、マジでうまいっス!」
 仲間との席に戻ったおばちゃんは「あんた、やっば、なかなかいい王子さんだね」と言った。
 おばちゃんの仲間の一人が「でも捕虜なんだから、残したらただじゃおかないよ、折檻するよ」と言うと、みんながドッと大笑いした。
 ユリも美味しい自然の恵みを頬張り、幸せそうに目尻を下げた。

 二人が朝食を食べているところに、一人の小柄な老人が自分のスープ皿を持ってやってきてテーブルについた。
「ワシは、ヒッコリー。あんたら、スーサシアの王子とそのお連れの方じゃな?」
「正確には、お連れっていうことではなくて、僕の病気を看てもらっている人ですけど」
 とタクヤはユリのことを説明した。
 ユリは鍋を指さして貝を勧めようとしたが、老人は手を振って断った。
「いきなりなんじゃが、あんたたちの国は、ずいぶん大きな物をたくさん作ったの。けど、ワシは、あまり大きな物は持たない主義じゃ。たくさんの物を必要とするほど、我々の人生は長くはない。ワシはこの歳になって思うのだが、金を得て、物を所有するということは、むしろ、むなしくて、悲しいの。自分が物を持っているということが、とてつもなく悲しい。死は、別れじゃ。すべてとの別れじゃ。たくさんの物を持ったからといって、死んだら何も持っていけはせん。別れねばならん。むなしく、悲しい。ワシはな、最近よく夢を見る。生きてきたことのむなしさをかみしめるような、とても悲しい夢じゃ。働いたって、食べたって、家族を持ったって、家族に愛されたって、そんなことは、みんないつか消えてなくなる。むなしいだけじゃ。ワシも死ぬと、この苦しみから解放されるのかと思うと、早く死にたいと思うわけじゃ。人が死に、生まれ、また死んでいく。あっという間のできごとじゃな。なあ、若いお二人、あまり大きな物をたくさん持ったり、作ったりするのはおやめなさい。これは忠告でもあるし、人生の先輩のワシからの、心からの願いでもある」
「ヒッコリーさん、でしたね」とユリは言った。「おじいさんはずっとこの村に住んでいるんですか?」
「ああ、ずっと昔から。この村ができる前から。いろんなことがあったよ。ワシの娘たちは、みんなこのあたりの工場で働いて、早くに死んじまった。医者たちは原因不明と言っておったが、三人とも同じ病気だった。はっきりしとる。でも、まあ、それは過去のことだ。ワシが今、あんたたちに言っておきたいのは、身体の喜びではなく、心の幸福を求めなさい、ということじゃ」
 タクヤとしては、特に反論したい気持ちにはならなかった。言いたいことはなんとなくわかる。しかし、知らない老人がいきなり朝食のテーブルにやってきて、こんな深刻な話をすることが理解できない。
「ヒッコリーさん、別に僕、おっしゃることを否定しませんが、でも、なんつうか、朝からずいぶんつらそうに見えますよ。僕らで力になれることがあったらしますけど」
「そんなことはいい。身体は、まあ、具合の悪いところだらけじゃが、それが神さまの思し召しなんじゃ。特に、この膝の痛みはな」
 ユリはスプーンを置いて、すっと立ち上がった。
「ヒッコリーさん、膝、看てあげます」
「え?」
 ユリは老人に座る向きを変えさせ、その前に跪いた。そして手をかざした。
「右の膝……みたいですね?」
「わかるのか?」
「しばらくじっとしていてください。痛みが走るかもしれないけれど、がまんして」
 ユリは目を閉じて、意識を集中した。
 しばらくは何もおきないまま時間が過ぎた。じきに老人の身体の中で変化が現れた。膝から温かみを感じ始めた。触れていないのに、まるで包まれたかのようなやわらかな温かみが膝から全身に広がっていき、その温かみはじわじわと温度を上げ、下がり、また上がった。
 何度か変化を繰り返したあとに、突然、関節の骨が分解されたのかと思えるほどの痛みが起こり、膝から全身に駆け抜けた。
 激しい痛みであったが『祈り』の意味を知っていた老人は、顔をゆがめただけで耐えた。
 峠を越えると、おだやかな温もりが患部に残った。
「あんた」と、老人は祈りを終えたユリにつぶやいた。「知っとるね?」
 ユリは気持ちを落ちつけるかのように、深く呼吸を繰り返した。
「そうか。あんたは、知っとる人じゃったのか……」
 老いた目に涙が浮かんだ。
「ありがとう、だいぶん、よくなった」
 老人は椅子から立ち上がると、ユリの肩を叩き、静かに食堂から出ていった。
 その後ろ姿を目で追ったタクヤは「また自分だけ何もわからないまま取り残された」と、悲しく残念な気持ちになった。






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