Susacian Prayer   1  2-4  5-7  8-10  11-13  14-17  18-21  22-25  26-28  29-32  33-34



22 求婚


 会議が終わると、ライン特佐がタクヤとユリに声をかけてきた。
「ランチをごいっしょしませんか? 遅くなりましたが、お二人とも、お食事はまだですよね」
 タクヤは、その意外な申し出に戸惑ったが、これも半ば公式なつきあいなのかもしれないと考えて従うことにした。船の後部に位置するカフェテリアに移り、内線でマシーンにランチの件を伝えてから、バイキング式の料理を皿にとって、ブルーのテーブルクロスが美しく映える席に着いた。
「お二人とも無事にお戻りで、本当によかったです」
 ラインは珍しく笑みを見せた。タクヤは『この人に笑みは似合わないよな』と思ったけれど。
「長距離ミサイルでの攻撃は、やはりカケでした。お二人の身になにかあってからでは取り返しがつきません」
「でも、やっちゃったんだよね」
 タクヤはわざと突っかかるように言い、やけになってローストビーフを口に押し込んだ。
「悪に対して、報復は必要です。なにもしないことは国民が許しません」
「そういうふうに、なにかを『悪』って、簡単に断定できれば楽でいいよね」
 タクヤのストレートな発言に、ユリは手をそえて「まあまあ」と制した。
「わかってるよ、ユリ。ところでさぁ、ラインさん、肩の怪我、大丈夫っスか?」
「え?」
 ラインは意外そうな顔をした。服の上からでは怪我のことはわからない。
「ご存じなのですか?」
「だってあのとき、海賊に撃たれたでしょ?」
「ええ……幸い重要な骨や筋にはあたらず貫通したものですから。ご覧になりますか?」
 タクヤは苦笑し、手を振った。
「いえ、僕は別にご覧になりたくはないっス。とにかく大事でなくてよかったですね」
「ラインさん、お怪我、されたのですか?」
 ユリが心配そうにラインを見つめた。
「いえ、お恥ずかしい。大した怪我ではありません」
「ほら、ユリが薬で眠らされてるときだよ」とタクヤが説明した。「海賊と撃ち合いがあったんだ」
「そんなことが……」
 ラインは神妙にパスタを口に運んでから、ナプキンで口をぬぐった。 
「幸いやつらはプロでした。音も威力も最低限の武器で、肩を狙い、肩を射抜いた。見事な手際ですよ。さて、それはともかくとして、私はこの機会に、個人的なことをお話ししておきたいのですが、よろしいですか? タクヤさまと、ユリさん、それぞれに」
「は、はあ……」
 タクヤとしてはあまりラインの個人的な話など聞きたくなかったが、やはりこれも一種の『公式な話』なのかもしれない。
「まず、タクヤさま。私が彼らを『悪』と言うとき、正直申しあげて、私自身の個人的な事情が絡んでおります。その件に関してはアリューサ王もご存じですし、私も自覚しています。よろしければ、知っておいていただきたいと思います。
 龍人族のテロに関しては、以前から様々な悲劇が繰り返されてきましたが、先日の爆撃では王宮だけでなく、経済省と空港も破壊されました。経済省の爆破では、隣接する国立病院も被害を受けました。私には、多くの知り合いがいました。大学時代の友人や、職場の同僚だった者も。病院には、私の母も。みな、あの爆撃で死亡しました。もちろんこれは私の個人的な事情であって、それ以上のものではありません。国の政策も、軍事行動も、個人的な感情とは別次元のことです。しかし私は、彼らを『悪』と呼びます。なんの罪もない人々を、突然、殺してしまう。どんな理由があれ、そんなことが許されるわけがありません」
「でも……ラインさんの軍のミサイルは、彼らの市民にも犠牲を出したわけだよ」
「ですから、彼らにとって、私は『悪』でしょう。それは否定しません」
「それじゃあ、救いがないじゃん!」
「タクヤ王子、お言葉ですが、それが現実なのです。みんなが顔見知りで、仲良く生きることができたら、素晴らしいだろうとは思います。しかし現実は違う。人は力を持ち、力と力がぶつかりあう。この『世界』という入れ物の中では。みな、言葉も、信仰も違う。そんな中で、バランスを模索している。ときには殺し、ときには話し合いながら。いいですか、タクヤさま。あなたは大国の王子です。いずれ世界の緊張の最前線に立たなくてはならない。今回、龍人の地で見聞したことは、必ずよい経験となるでしょう。しかし我々の国の現実も、決して忘れてはなりません。彼らのテロや爆撃によるものだけでなく、経済の低迷による失業者たち、働き盛りの男たちが精神を病み自殺してしまう。そういう現実を、我々は目を背けずに見つめていかなくてはなりません」
「それは、まあ、正論だろうけどさぁ、でも……難しいよ」
 ラインは静かに頷いた。
「わかっています、難しいことです。今すぐに全て、ということではありません。よくお考えになってください。この成人の儀式の期間に、このような騒ぎが起きたことは、もちろん大きな犠牲ではありましたが、タクヤさまを将来の国王とするスーサシアにとっては、価値あることだったように思います」
「まあ、まあ、そうかもしんないけど……」
「さて」ラインはユリを見て微笑んだ。「次に、ユリさんに、私から、ひとつ」
「なんでしょうか?」
 ユリは姿勢を正して身構えた。
「タクヤさまにも同席していただいた上で、きちんと申しあげさせていただきます。ユリさん、私と結婚を前提に、おつきあいしていただけないでしょうか?」
「は?」
 ユリも驚いたが、タクヤは思わず椅子から滑り落ちそうになった。
「ダメっスよ、ラインさん。そういうのは、残念だけどダメ。理由があるんです。僕からは詳しくは言えないけど。ね、ユリ」
 ユリは、しかし意外に神妙な顔をして、考えをめぐらせていた。
「ラインさん、あなたのおっしゃりたいことの意味、どのように理解すればいいのかよくわからないのですが……」
「簡単ですよ。私は、あなたの瞳の美しさに恋をした、それだけです。これ以上言葉を弄するつもりはありません。シンプルに事実をお伝えするまでです。私は、ユリさんのことを、以前からよく知っていました。王に身近に使える者として、あなたの祈り師としての生き方についても。その上で、あえて申しあげているのです。実は、この件、王には相談しているのですよ」
「で?」
「前向きに考えていただけました。もちろん、ユリさんご本人の意向が、何よりも大切なことではありますが」
 タクヤはあきれた顔をして首を振った。
「ラインさんたちさぁ、王とか、祈り師とか、いろいろややこしいことはあるかもしれないけど、人を好きになったり、つきあったりってことは、気持ちの問題でしょ? つまり、ユリの気持ちってことがあるわけだからさぁ」
「もちろんです」とラインは真面目に頷いた。「ですから、こうして、私から、愛についての相談をさせていただいているのです」
 タクヤは心の中でヒッコリーの台詞『けっ、なんじゃあれは。ケツの穴が痒くなるわ』を思い出していた。こんなばかばかしいことはさっさと切り上げて、食事が済んだら席を立とうよ、とユリを見ると、ユリは頷いていた。
「ラインさん、ありがとうございます。私、前向きに考えさせていただきます」
「えっ!」タクヤは叫んだ。「ななななななにを考えてるわけ?」
「ごめん、タクヤ」
「ユリ、まさか、マジ?」
 ラインはホッとして、和やかな笑みを浮かべた。
「いえ、すぐにどうこうという話ではありません。ユリさん。まずお考えください。そして友人としておつきあいをしましょう。そこから始めてまいりましょう」
「ええ、そうですね」
 タクヤは立ち上がって、珍しいものを見るように二人を見た。
「つまり、僕は、じゃまってことかな。……みたいだね。……さよなら、ユリ」
「タクヤ、ホント、ごめん。あとで治療のときには私も行くから」
「それ、ユリが必要なことなの?」
「そういうわけでは、ないかもしれないけど……」
「だったらいいよ。ていうか、悪いんだけどさ、僕にも、心の中に大切にしたいもの、あったつもりなんだ。だからさ、お願いだから、これ以上、壊さないでくれるかな」
「タクヤ……」
「気にしなくていいよ。さようなら」
「あなたには、あとで説明するから」
「説明なんてしなくていい」
「でも……」
「ユリ、わかんないかなぁ、僕はさ、聞きたくないんだよ、説明なんか。わかる? 聞きたくないわけ」
「でも、私は聞いてほしい」
「勝手にしろよ。僕は聞かないから。絶対に。そんな説明なんか、聞かない。聞いても、なんにもならない。わがままかな? わがままかもしれないけどさぁ、いいじゃん、たまには僕だって。こう見えても、心の中にはいちおう、大切にしたいこと、あるし。それは、大切にすべきものだと思うし。もういいよ。わかってくれない人に、期待なんかしたくない。このことだけは、僕は絶対に妥協しない。ガキっぽいかもしれないけど、でもね、それくらい大切なものなんだ。……ユリには、わからないんだね……わかろうともしない……」
「わかってるよ」とユリの目に涙がにじんだ。「タクヤ……だから、私は……」
「悪いけど『わかってる』なんて言わないでくれるかな。そういうの、はっきり言って、いちばん酷いよ。あのね、ユリは『わかってない』 ちっとも。これっぽっちも!」
 タクヤは首を振って立ち上がり、椅子にぶつかりながら転がるように去っていった。
 ラインは一つ大きくため息をついて、優しくユリに話しかけた。
「ユリさん……彼は、どこまで知っているのですか?」
「私が悪いんです。とても中途半端に知らせてしまって」
「彼は、純粋すぎる。繊細で、一途で、あなたにすべてを求める。ですね?」
 ユリは鼻をすすり、小さく頷いた。
「気を落とさないことです。祈り師の仕事の意味、今はまだ、彼には理解できないでしょう。たとえ本当のことを伝えても、混乱してしまうだけです」
「ラインさんは、平気なのですか?」
「平気というか、これはめったなことでは打ち明けないことなんですが、ユリさんにはこの機会にお話ししておきましょう。私の母は、祈り師でした。私は祈り師の息子です。すべてを知っています。祈り師の仕事のつらさも、王との関係のことも」
「それは、昔から?」
 ラインはユリの問いに静かに頷いた。
「やはりそうだったのですね……あの御入院にされていた方が……」
「このことを先に話せばよかったかもしれません。ですが、私はまず、お尋ねしたかったのです。親のことなどぬきにして、正直な私の気持ちとして。だから、とても嬉しかったですよ。もしよければ、シャンパンでも?」
 ユリは戸惑い、首を振った。
「ごめんなさい、私、今は、タクヤさまのことも気になるし……」
「ですね。今はただ、あなたに『ありがとう』とお伝えしておきましょう。このあと、追悼式典に出席しますか?」
「はい、その予定です」
「その際、よろしければ私の母のためにも祈ってください」
「いわゆる、普通の祈りですよね。亡くなったお母様への」
「そうです」とラインは微笑んだ。「普通の祈り。祈り師としてではなく、一人の『親しき者』として」
「そうさせていただきます。あなたのお母さまの後輩としても」




23 医務室


 放心したタクヤは、みんなにされるがまま、すべてに従った。追悼式用の白いガウンや、伝統的な髪飾り、歩く姿勢や受け答えの表情に関する細かい注意に至るまで。すべてどうでもいいことだった。投げやりな気分で、自分でも嫌になるほど下らないしゃれを言う。するとさも面白い冗談を聞いたかのごとく周囲が笑ってくれる。そんな反応にますます腹が立ち、子細なことでイライラをぶつけてしまう。靴がきついとか、袖が長いとか。そのたびに大騒ぎになり、かしこまった家臣たちが対応に追われる。あまりにも下らない大騒ぎに、タクヤはつい「早くしろよ」と語調を荒げる。そんな自分に自己嫌悪し、ますます気分が悪くなる。どっちに転んでもダメなものなら、心の抜けた人形のように従うしかない。儀式の用意を進める周囲の大騒ぎと、自分の個人的な内面は、全く別のものなのだという割り切り。そんな悟りに至ってみると、もう何に対しても本気で反発する気にはならなくなった。
 300人ほど集まった船内の追悼式に臨み、言われるままに王子を演じた。王の斜め後ろに立ち、王に倣って神妙に頭を下げたり、目を閉じたりした。

 心の中では、ユリのことだけを考えていた。

 ユリにとっての『大切な人』は、ラインだったのか?
 どうしてもそんなふうには思えない。
 ユリはその『大切な人』と、既に心が通いあっていると言っていたはず。
 なのにラインはあの場で『つきあってください』と言った。
 ということは、ラインとユリは、今までは関係がなかったことになる。
 じゃあ、どうして、ラインなのか?
 どうして、僕ではないのか?
 僕とユリは、ただの他人に過ぎないのか?
 それとも、僕とユリは、男と女としては親しくなれない理由があるのか?
 想いを肯定することは、病の治療によくないことだから?
 僕の命に関わることだから?
 だからあえてユリは離れようとしているのか?
 ……龍人族の泉で、たくさんの涙を流していたユリ。
 戦士たちの死に接して、僕たちは決意を新たにした。
 そして抱き合って、キスもした。
 どう考えても、ユリが選ぶべきはラインではなく僕のはず。
 祈りの治療は必要だが、完治することさえできればいいのだ。
 治療が終了すれば、患者と祈り師の関係も解消できるはず。
 だとしたら、ユリが急いで結婚を前提にラインを選ぶ理由はないのだ。
 なのに、なぜ?
 誰かに相談できればいいんだけれど。
 ヒッコリーさん?
 まさか。
 あの人に相談するなら、一人で悩んでいた方がましだ。
 ハワイさんやマシーンさんはいい人だけど、我々が旅で体験したことについては何も知らない。
 アリューサ王?
 ラインは王に相談したと言っていたけれど、それもヘンな話だ。
 一国のリーダーが、わざわざ家臣の恋愛相談にのったりするなんて。
 それもただの家臣ではなく、あの男は軍の幹部なのだ。
 もしメリルが生きていたら、きっと素直に相談できたのに……
 想い出さないようにしていた惨劇が、一瞬で心を支配する。
 ドクターはメリルの折れた首に触れただけで、治療しようともしなかった。
 ただ、ユリのところに行け、と。
 メリルはユリに癒された。
 笑みを取り戻し、天国に行った。
 僕は……逆に、ユリに、打ちのめされた。
 足の治療はしてもらったけれど、心は逆だ。
 ユリのように人を癒す立場になるって、そんなにややこしいことなのかな。
 やっぱり僕なんか、個人的に親しくなるべきじゃなかったのかな。
 王子であるということは
 普通の人とはいろいろ違っているのだろうけど……
 
 タクヤは二つの想いを抱いていた。
 ユリに対する憎しみ……もう勝手にしろよ、しらねーよ、と。
 その一方で、ユリと離れようとすればするほど、ますますユリのことが愛しくなってしまう自分もまた事実だった。
 憎しみと愛しさを行きつ戻りつしつつ、タクヤの心は血を流し続けた。
  
 追悼式のあと、部屋に戻ると、また着替えとなった。もう何度目の着替えになるだろう。タクヤは数える気すらしなかった。ハワイに言われるままに、新しい簡素な服に袖を通し、スケジュール通り医務室に向かった。
 最初に狭い超音波検査室で全身のスキャンを撮られた。寝ていればいいだけの簡単なもので、10分ほどで終了した。次に明るく広い治療室に移り、中央の診察台に横になった。普段は痛みもなく、あまり『病気』という意識はなかったが、このような場に来てみると、改めて本格的な病人の気分になった。男の看護士が「急に気分が悪くなったら言ってください」と説明しながら、腕に注射を打った。
 やがて午前の検査で世話になったドクターが治療室に入ってきて、事務的な声でタクヤに伝えた。
「しばらく横になっていてください。薬が広がるのを待ちます。一時間ほどしてから、治療を開始します」
「この治療って、一回だけで済むんですか?」
「わかりません。済むかもしれないし、何回か、かかるかもしれません」
「つまり、一回で治ってしまうこともあるってこと?」
「ある意味では、そうです。ただ、それは、治すというより、調和する、ということですが」
「ちょーわ?」
 ドクターは皮肉そうな笑みを浮かべた。
「心配はいりません。アリューサ王も経験なさっていることです。いずれ王自身も、こちらにいらっしゃると思います」
「なんだか、僕、良い予感がしないんだけど」
「予感は一つの『力』です。もしも良い予感がしないとしたら、タクヤさまの場合は少し手こずるかもしれません。いずれにしても、必ず通らなければならない過程です。リラックスしてお臨みください。お待ちのあいだ、雑誌でもお持ちしましょうか? あるいは音楽でも?」
 タクヤは首を振った。
「いいよ。いろいろ考えたいことがあるから」
「わかりました。では、私はこれで。また後ほど」

 この治療は、タクヤの足に局部的に集中していたヤマトアザミ薬の効果を、全身に拡大するためのものだった。取り除くのではなく、逆に広げること。一般的には、それは死の危険を意味する。しかしいくつかの段階を経ることで、高度な調和を持続的に実現することが可能となる。
 タクヤの意思も重要な要素だった。前向きで純粋であることは、必ずしもよいことではない。悪意や汚れも肯定し、狡猾になること。それを受け入れないと耐えていけない。悪しき負の感情は、すべて最初から人の心の中にある。善のみでなく、ダークなものまで、均等に解放していく。それらを全て自分自身で引き受けては心が壊れてしまうが、何らかの方法で外に発散する必要がある。だからこそ、システムが重要なのだった。その理想の実現は、極めて贅沢なことではあるが、スーサシアの王や王子ともなれば可能なのだった。
 食べることへの欲望、性的な欲望、攻撃の本能、これらをシステムとして『発散』していく。タクヤは国のリーダーになるために、このシステムを受け入れる必要があった。
 小一時間後に治療室に戻ってきたドクターは、看護士と共に一台のコンソールをタクヤの足下に持ってきて、車輪をロックした。コンソールからはアームがのび、治療用の光を当てる装置がついている。看護士はタクヤをうつぶせにしてから、アームの先を足にかざすよう調節した。ドクターはタクヤの耳元に語りかけた。
「ご気分はいかがですか?」
「う……ん……」
 ドクターはコンソールのダイヤルで、光の波長を調節した。
「タクヤさま、そろそろ、お望みの女性を一人お喚びすることができます。どなたでもかまいません。おっしゃってください」
「ユリ……」
「やはり、そうですね。待機してもらっています」
 ドクターがガラス窓の向こうに指で指示を出すと、すぐにユリが看護士に連れられ治療室に入ってきた。ユリは自分でガウンを脱ぎ看護士に渡した。裸になったユリは、診察台に腰を下ろし、倒れ込むようにタクヤの横に添い寝した。そして身体の向きを変え、手と足を回し、タクヤを抱きしめた。

 片隅に追いやられた『タクヤの意識』が思考する。
 
  ユリ、僕は頑張ったろ?
  なんでこんなことになっちゃうんだよ。
  みんな、間違ってるよ。
  こんなの、へんだよ。
  どーして、泣くんだよ。
  泉の水で濡れているわけじゃないんだろ?
  涙なんて似合わないよ。
  似合いたくないよ。

  ユリ……
  僕はここにいるよ……
  君は、どこにいるの……
  こんなに近いのに……
  遠く離れて……
  わからない……

  生きているものは
  みんな死ぬんだ。
  美しいものは
  みんな失われていくんだよ。
  だからこういうことは
  大したことじゃない。

  川縁に立ちつくしていた女の子。
  彼女は振り返ったとき
  なにかを言ったよね。
  なんて言ったの……
  ユリ、君は誰なの……
  僕の探している人は……
 
 旅人が、森の中の道を歩いていくと、奥に小さな広場があった。芝はあまり手入れされておらず、雑草も目に付いたが、真ん中にひとつ、白い石のテーブルがあり、その白さはとても印象的だった。
「どこから来たの?」
 そこにいた女性が旅人に問うた。
「ずっとさがしていたんです」
「私を?」
 白い石のテーブルの横には、白い石の丸椅子があった。旅人は腰掛けて、テーブルに肘をつき、彼女を見つめ「そうです」と頷いた。
「もうじき森に九月の雨が降るようですけれど、あなたは、傘は持っていますか?」
 彼女の声は、柔らかく包み込むように宙に消えていく。
 厚い雲が上空をおおっていた。
「傘ですか……」
 旅人は微笑んで彼女を見つめた。
「僕たちは、やはり傘なしではつらいでしょうか?」
「九月の雨なら、そんなに冷たくないかもしれない。いっしょに濡れてみましょうか……」
「え?」
「時間が」と彼女はつぶやいた。「あまり、ないのです」
 高い空を、鳥が音もなく飛んでいった。

 あまりにも、高い空を……

「だから僕は、来たんです」
「つまり『さよなら』を言うためにね。そうなのね?」
 彼女は悲しい表情で、彼女自身の細い腕を見つめた。
 旅人は首を振った。
「違います。さよならではなく、永遠の愛を確認するために。ほら、こんなに大きな森です。かなり迷いましたよ。でも、ここで、正しいんだと思う。ここ、なんですよね?」
 彼女は唐突に何かを感じたように、両目から涙をこぼした。
「あなたは、まだ前を見ようとしているのですね……」
「なぜ泣くのですか? 僕は、まちがっていますか?」
「美しいものは、みな失われていくのよ」
「え?」
「ただ、失われていくのです。あなたも、私も。それを受け入れて、ひとつになるしかないの。汚れていく身体に、真正直な心は添えてはいけないもの……」




       そんなの、嫌だ! 




 タクヤは無意識のうちにユリを否定し、身体を激しくけいれんさせ、気を失った。 
 ユリは診察台から降り、看護士から渡されたガウンを着て、ドクターに頭を下げて部屋を去っていった。
 ドクターはため息をつき、ユリと入れ替わりに入ってきたアリューサ王にむかって言った。
「予定どおり、とりあえず試してみました。しかしやはりタクヤさまは簡単ではないようです。まあ、王妃さまが亡くなられたときから、ある程度の予想はしていましたが」
「あまり時間はないぞ」とアリューサ王は言った。「龍人たちの攻撃が再開したら、またやこしいことになる。特に末端のテロは予測がつかんからな」
「彼らも、もう少し自分たちの命を大切にするよう、考えてくれればいいのですが」
「ま、そういうやつらだ、龍人とはな。それにしても、タクヤの頑固な心を開かせるためには、他に何が必要なのだ?」
「お急ぎになりたい王の気持ちは理解しますが、本人の好きな女性であるユリを持ってしても、この結果です。お身内の方々の努力や、単なる贅沢で、すぐに解放できるほど、彼の心の壁は弱くないと思われます」
「女たちが植え込んだものは根が深い、ということだな。全く、なにからなにまで苦労させよる」
 アリューサ王はイライラして首を振った。
 ドクターは冷たく理知的な態度のまま、提案を申し出た。
「やはり、医師としては、あの薬を使うことをおすすめします」
「そうだな。今日は、このまま続けられるか?」
「少なめに投与して様子を見る程度でしたら、十分可能です。ご許可いただけますか?」
「仕方がないな。イルカは二頭ぐらいでいいか?」
「とりあえず」
「では、手配しよう」
「なるべく良いイルカをご用意ください。やはり最初は、とても肝心です」
「わかっとる。しかし、なんとも贅沢なやつだな」
「一部はのちほど王にもおまわしいたしましょう」
「そうしてくれ」
 王は笑みを見せ、足早に治療室を去っていった。




24 釣り報告とイルカの利用


 ヒッコリーは釣竿を持って船内をうろうろしていた。いちおう『王子のご友人』としてマシーンから渡されたパスカードを首から下げていたが、うす汚れた老人が美しい廊下を歩いていると、船内のスタッフはみな怪訝そうに振り返った。ヒッコリーはそんな人々に釣竿を見せて「餌をもらいにいくんじゃ、ははは」と言い訳した。
 職員以外立入禁止区域のセンサーも、ヒッコリーのパスなら通過できた。なるべく人目に付かないように、物陰を選び、素早く移動した。食料庫、厨房を経て、下層の機関室への入り口を見つけて入ると、唸るような機械音が聞こえてきた。劇場ほどの大きな空間に、動力系の機械が所狭しと詰め込まれていた。ヒッコリーはスチールの通路を伝って、足音を忍ばせて奥に進んだ。
 予想はしていたが、なかなか複雑な仕組みだった。長距離用のディーゼルエンジンと、滞在中に動力源となるガス系システム。船内のクリーンな印象は原子力によるものかと予想したが、そうではなかった。意外に脆いものかもしれない。ヒッコリーはささやかな幸運を感じた。
 一番大きな機械音を発している四台の発電器の奥に、巨大な水槽があった。機関室に向いた面が強化ガラスになって透けていた。中には十頭ほどのイルカが泳いでいた。ちょうど係のものが水槽の天井を開け、ビニールの担架を使ってイルカを引き上げている最中だった。二頭引き上げたところで作業が終了した。
 ヒッコリーはすたすたと近づいていった。
「あの、すまんけど、餌をわけてもらえんかの?」
「は?」
 男たちは驚いて振り返った。
「ワシ、外で釣りでもしようと思っとるのだが、いい餌がなくての」
 男たちはとまどいを隠さなかった。
「ここにはないよ。厨房でもらいな」
「ていうか、あんた、誰?」
「こんなとこでなにしてんだ?」
 ヒッコリーは苦笑して「怪しいもんじゃない」と手を振った。「王子といっしょに旅をしてきた者じゃ。こう見えて、あいつとはいろいろ苦労を共にしてきた仲での。しかし今はやることなくて退屈なんじゃ」
「そうならいいけど、でもあまりうろうろしない方がいいっスよ。王様を怒らせると、取り返しがつかないことになるから」
「そう、ここは立入禁止!」
 ヒッコリーは苦笑して頷いた。
「わかっとるよ、すまんすまん。ところで、そのイルカは、王子様に使うのか?」
 男たちは顔を見合わせた。
「知らないっスよ」
「でも、ま、他に考えようはないけどね」
「あんたには関係ないと思うけど」
 ヒッコリーは手をあげて「いい、いい」と言った。「邪魔して悪かった。ワシも餌をもらいに厨房に行くことにするよ。じゃあな」

 ヒッコリーは厨房に寄ることはなく、釣竿を持ったままマンスフィールド号を降りた。警備の人たちにパスを見せても信用されず、確認用の機械ゲートを通ってやっと信用された。
 老人は港の食堂まで歩き、そこから公衆電話をかけた。ツーコアに教えてもらっていた番号で、セントガルの中継所につながるはずだった。オペレーターに用件を伝えてから、ホールにいたウェイトレスにコーヒーを頼み、10分ほど電話の近くの席で待つと、公衆電話から呼び出し音が鳴り響いた。ヒッコリーは受話器を取って「ワシだ」と言った。
「もしもし、セノラさんのお知り合い方ですか?」
 プレーリー・ダンのなめらかな口調が、無線を中継したような遠い声で聞こえた。
「ああ、そうじゃ。今日はな、ほら、天気が良くて、魚がよく釣れそうじゃ。報告せんといられなかったんじゃ」
「それはそれは。今は、港ですよね?」
「港だからってバカにできんぞ。イルカがおった」
「えっ?」
「大漁かもしれん。もう料理が始まったようじゃ」
 プレーリー・ダンが沈黙した。『イルカを料理する』ということの意味について、慎重に思考した。はっきりとは口にできない秘密が、そこには隠されている……
「では、やはりあの噂は、本当だったのですね?」
「そういうことじゃ。だからな、急いだ方がいい。いくらあいつでも、耐えられるのは二、三回じゃろう」
「そんなに危険な橋を、本当に渡ると思いますか?」
「むこうにとっても、時間はないのじゃ。また騒ぎが起こってバタバタしたら、たぶん全てストップしてしまう。国に戻る前に片づけてしまうつもりだろう。あいつが本気で変わってしまったら、こっちとしても終わりじゃ」
「なるほど」
「急ぎで鮮魚を頼む。問屋はセントガル水産、ナンバー432000で」
「それだと……明日の夜明けの納品になりそうですが、よろしいですか?」
「間違いないか?」
「ええ、それだけ時間をもらえれば、必ず。セントガル水産、ナンバー432000。了解しました。おそらく、かなり重くなるので、気をつけて」
「あのな、わけがあって、そんなに重いものはいらん。フグがいた。いっしょに料理するから、送ってもらう分は二キロぐらいで十分じゃ。できれば長い釣り糸をいっしょに入れておいてくれると助かるが」
「え、フグですか?」
「美味いが、危険なものじゃ。パンパンにふくれとる」
「……なるほど。針は?」
「三つかな。それで足りるだろ」
「わかりました。で、着いたら、すぐに料理しますか?」
「料理は始めようと思うが、食べるのはどうかな……。ワシの料理は下手だ。あいつには食べさせたくない」
「あいつとは?」
「あんたも会ったことがあるやつじゃ」
「あのお若い人たちのことですね」
「うむ、そういうこと」
「なるほど。そこが難しいところですね?」
「ま、考えてもダメなら、運を天にまかせるしかないが」
「食べるときは、また改めて連絡をもらえますか?」
「いや、難しいと思う。誰だって腹が減ったら、それどころではないだろう」
「では一つ、お守りをいっしょに入れておきましょう。願いは通じると思います。なにかありましたら、そこに祈ってみてください」
「神頼みなんてワシらしくないが、ま、入れたいなら入れといてくれ」
「いちおう大物が釣れたときのために、マスコミ発表はいつでもできるよう手配しておきますよ。そういうことは、私たちは得意ですから。良い天気が、しばらく続くといいですね」
「ああ。昔のように、肝心なときに大荒れにならんことを祈っとるよ」
「昔は……そうだったんですか?」
「ああ。知らんか?」
「あまり詳しいことまでは。なかなか話題にしてくれる人がいませんから」
「伝説と、現実には、いつも少しばかりギャップがあるもんじゃ」
「その話、私はもっと聞きたかったです」
「ははは、ま、昔のことじゃ。気にすることはない。これからはな、おまえたちの時代じゃ。託せる者たちがいて、ワシは幸せじゃよ。そう思っとる。じゃあな。頼んだ件、よろしく。あばよ」

 医務室の隣の部屋で、イルカの加工が始まった。タクヤが気を失っていなければ、イルカたちの叫びが聞こえただろう。
 まずレーザーで数カ所の神経が切断される。脳への悪影響をなしに身体の動きを止めるにはこれが一番よい。そして頭部切開を行う。麻酔などの薬剤は一切使わない。クリーンな状態で脳を利用する必要があったからだ。脳に向かう動脈にヤマトアザミ薬を注入し、通過後の静脈から血液を抜き去る。その間、約5分。すぐに脳は死ぬ。そのあいだに溜まった500ccほどの血液を、小瓶に分けて遠心分離器にかけ、目的の成分を抽出する。
 もちろん活性のある成分を、この単純な作業だけで純粋抽出することはできないが、これ以上の加工は有効成分を失わせることになる。動物にイルカを使うことにより、不完全な加工であっても人体への悪影響がないことは十分確かめられている。
 最後にフィルターで白血球や赤血球を濾し、イルカ二頭から生産された液体は20ccほど。
 その半分が生理食塩水に混ぜて、タクヤへ点滴が始められた。

  え、なにこれ?
  いい感じかも。
  どこまでも走っていけそう。
  でも、ベツに走らなくてもいいけど。
  ていうか、なんでも、できそう。
  発想がいくつも分岐し、それぞれにきらめく。
  大きな車輪が、ブンブン。
  強い。
  楽しい。
  充実。
  そう、充実とは、このこと。
  豊かな成果。
  優雅な船。
  ユリが平凡に見えてしまういい女。
  人々の笑顔。
  労働と報酬。
  豊かな暮らしのために。
  豊かな未来のために。
  幸福のために。
  創造の喜びはここにある。
  本当の喜びとは成長することだ。
  そうだよね。
  幸せな気分。
  輝く人生。
  自由。
  カイホウ……
  とても気持ちがいい。
  とけてしまいそう。
  無駄な力が抜けていく。
  軽く、強く、しなやかに。
  これで、いいのかな?
  いいみたい。
  悩んだり、苦しんだり、そればっかりなら
  なんのために生きてるのかわからない。
  やっぱ、楽しまなくちゃ。
  もっと生産して
  豊かになって。 

  生きるって、幸せなこと。
  ややこしいことは、忘れよう。
  人の不幸や、失われていくことなど
  後ろを向いて悩んでもしかたがない。
  幸福を目指そう。
  豊かさを目指そう。
  大切なのは今が充実していること。
  まずはそこから。
  それは生きているということ。
  充実感に身をまかせて。
  世界は、どこまでも無限に、美しい……


 タクヤが目を覚ますと、すでに夜になっていた。無音のベッドの上だった。誰かが自分の部屋に戻してくれたらしい。部屋には誰もいない。部屋の明かりは消され、月明かりだけが斜めに入り込んでいた。
 遠くから波の音が、微かに聞こえていた。どこかの窓が開いているのかなと、タクヤは一瞬思ったが、頭がしびれて、身体を動かしてまで確認する気にはならなかった。自分に起きた具体的なことを考える気にもなれなかった。
 今日の治療や、その後の変化のことも。いろいろあった人間関係のことも。
 変わってしまったことは、ないわけではない。けれど、それがいいことなのか、悪いことなのか、今は疲れすぎて考える気がしない。
 透明の大きなボールを抱え込んだかのように、毛布を抱え込んで身体を丸める。
 ベッドに横になったまま、月明かりを眺めて。
 波の音という、海からの癒しの届けものが、いつまでも部屋の中に響いていた。




25 嵐の前夜


 ユリは王の間で、スタンドライトだけ点けて、ピアノに向かっていた。ユリは既存の名作を弾くよりも、自分で思いつくままに即興を奏でる方が好きだった。祈り師として、自分の内面を見つめる時間を持つことは大切なことなのだ。
 初めて弾く王の間のピアノは、少し調律がおかしかった。しばらくは我慢して弾いていたが、気持ちが高まってくると、いくつかのはずれた音だけはどうしても何とかしたくなってきた。
 マシーンに連絡して来てもらった。
 ハーブティのポットを持って現れたマシーンは、いつもの律儀な話し方で「今夜は月がとてもきれいです」とユリに言った。
「ですね。海が輝いて見えます」
 ユリはピアノを離れ、窓際のソファーに腰を下ろした。壁一面の強化ガラスの向こうは、さえぎるものもなく月夜の海が広がっていた。
「すみませんが、明かりをつけさせていただきます」
 マシーンはルームライトをつけて、ピアノの脇にかくされていた専用のスパナを取り出し、ユリが気になるといういくつかの音の調整を始めた。
「ユリさんがいらっしゃる前に合わせておけばよかったのですが、王妃さまが亡くなられたあと、このピアノはずっと誰にも触れられないままでした。すみません」
「私こそ、こんな時間にお願いしちゃってすみません。マシーンさんもお元気そうでなにより」
「それしか取り柄がありませんから。ワタクシよりも、なによりも、タクヤさまとユリさんが無事に戻られたことこそ、最も喜ばしいいことです」
「タクヤさまは?」
「部屋でお休みになっています。一日のうちに最終治療までしてしまうのですから、あの若いドクター、なにを考えているんだか」
「でも、あまりうまくいかなかったようですね」
「はい。こういうことは、そもそも、急いではならないのです。タクヤさまの身体のことはもちろんですが、これから30年、40年にわたって、人々を導く正しさを見極めなくてはならないのですから、簡単なことではありません。目先の予定に気を取られず、状況を見極めた柔軟な対応をしていかないと……」
「マシーンさんは、お堅いようで、ときどき柔軟な発想をするんですね?」
 マシーンはにこっとして「この弦だ」とつぶやき、スパナに力を込めた。弦の余韻がわずかに上昇した。他の弦の倍音を鳴らし、正確さを確認した。
「ユリさん……タクヤさまは、あなたのことを、本当に慕ってらっしゃいますね?」
 ユリは立ち上がり、ポットの茶をカップに注いだ。一つをマシーンのためにピアノの側の小さなテーブルに置き、もう一つは手に持って窓辺のソファーに腰掛けた。
「マシーンさんはどう思います? 私はどうしたらいいんでしょうか?」
「ワタクシは王宮の問題児なのです。なぜ問題児かというと、すべてを知っていながら、なにもよいアドバイスをユリさんにしてあげることができないからです」
「私、自分でもわからないの」
「ひとつ、お聞きしてもよろしいですか?」
「どうぞ、マシーンさんなら、なんでも」
「ユリさん自身は、タクヤさまのことを、どう思っていらっしゃるのですか?」
「マシーンさんは……龍人族の女王ユリさんのこともご存じなのですよね?」
「はい、そうです。あの方もかつては王宮にいらっしゃいました。よく存じ上げております」
「あの方が、私に忠告してくれました。『タクヤさまを大切に想うように』と」
「なるほど」マシーンはなかなか合わない次の弦を微調節しながら言った。「その意味は、わからなくもありません」
「私は、どうしても、自分の感情よりも、祈り師としての立場を優先してしまうのかもしれない。タクヤさまのこと、どう思っているかよりも、どう思うべきかが、先にきてしまう」
「ユリさん……ワタクシの率直な意見を申しあげてよろしいですか?」
「お願いします、ぜひ」
「ワタクシも女王ユリさまと同じことを申しあげたいです。あなたにとって、王の存在はなによりも大切なものかもしれません。しかし、あなたの心の中に、しっかりとタクヤさまとの関係の重さのようなものが存在しているのも、また事実のようです。新しい時代のためにも、タクヤさまとの想いを大きく育てていくわけにはまいりませんでしょうか?」
「確かに、そうできたらいいのだけれど……」
「ワタクシは問題児な上に、頭の回転も悪くて申し訳ないのですが、どうしてそのように考えられないのかがわかりません。たとえ時間がかかっても、そのように考えることは、一番よいことのように思われますが」
「タクヤさまは、私のすべてを求める人なの。それはとても素晴らしい純粋な想いだけど、それに応えることは、私にはできません」
「努力をしてみては?」
「できない」とユリはきっぱりと首を振った。「だって私は、祈り師なのよ」
「しかし、いずれタクヤさまも、ご自身で祈り師を育てる立場になられるでしょう。そうなれば、いろんなことも受け入れないわけにはまいりません。またそれは、意外に早く訪れることになるかもしれません」
「そうだけど……」
 ユリの目から、急に涙がこぼれた。
「マシーンさん……ねえ……それって、いいことなのかな?」
「ワタクシには、いいことかどうかは、わかりません。ただ、そういうものだと申しあげるしかありません」
 マシーンはそれ以上は何も言わず、残りの弦の調律を続けた。
 マシーンは心の中で思った。やはりユリさんは、本当にタクヤさまのことを大切に考えているのだな。はかなきものの美しさに、マシーン(機械)という名の自分ですら、涙がにじんでしまう。ピアノの調律をしながら涙ぐんでしまうなんて、本当に自分は王宮一の問題児だ……

 マシーンが去ると、ユリは再び明かりをスタンドライトだけにして、切々とピアノを弾き続けた。
 やがて王が戻ってきた。
 王はしばらく立ち止まってピアノを聞いてから、ユリに歩み寄り、後ろから腕をまわした。そしてユリの頬にキスをした。
「悲しそうなピアノだ」
「すみません」
「謝らなくていいよ、ユリ。私が、つらくなる」
「少し音が狂っていたので、さっき、マシーンさんに調律していただきました」
「彼は器用な男だからな」
「はい」
 ユリは鍵盤の上の指を止めた。
「王様」
「ん?」
「私が勝手にこのピアノを弾いたこと、お怒りにならない?」
「いや。むしろ、嬉しいよ」
「なぜ?」
「ユリは、ずっと死にいく妻の代わりになって、私を支えてくれた。このピアノもまた、いつかはユリに弾かれる運命だったのだ」
「とても素敵なピアノです」
「そうだな」
「でも、私はいつも、二番目……」
「死人に嫉妬するのはやめよう。今、私が愛しているのはユリだけなのだから」
 ユリは身体をねじって、王の身体に腕を回した。
「私、わからないんです」
「なにが?」
「なにもかも」
 王は屈んで、ユリを抱きしめた。
「心配することはない」
「だって……」
「私では、不満か?」
「そうじゃないの。逆だったらよかったの。あなたが、もっと悪人の、おバカな王様だったら、私は、どんなに楽だったことか」
「私だって、同じだよ。おまえが、かわいいだけの女で、祈り師としての関係だけで満足していたられたら、どんなに楽だったことか」
「この想いがなかったら、きっと今日のタクヤさまだって……」
「気にするな。あれは簡単なことではない。多くのことが関係しているのだ。わかるだろ?」
 ユリは間近に王の目を見つめた。
「ねえ、王宮に濃い霧がかかった日のこと、まだ憶えてます?」
「ああ。肌寒い陰鬱な日だったな。でも、ユリは輝いていた」
「私、本当の愛を見つけたと思って、はしゃいじゃって。初めてのことが、あんなに怖かったはずなのに、済んでみたら嬉くて」
「あのときに、それは違うと、はっきり言えればよかったな。けれど、私には、どうしても言えなかった」
「言うべきことを言わないで、絶対に言ってはいけないことを言ってしまったのですよね。いけない王様です」
「そうだな」
「二人だけしか、知らないこと。濃い霧に隠されて……」
「そう、二人だけだ。あれから私は、たくさん苦しい思いをしたよ。人を愛することが、これほど苦しいこととは知らなかった。この私が、本気で人を愛することができるなんて。ユリに、教えてもらったんだな」
「王様の人生には、余計なことでした?」
「かもしれない。けれどな、私は、ユリに会えたことを喜んでいる。どんなことよりも、一番喜んでいるよ。その苦しみが、火に焼かれるようなものだろうと、私は喜んで受け入れる。トリスタンのように若くはないが、想いは変わらない。今は、ユリを失うことだけが、一番の苦しみだ」
「ね、もっと、違う運命のもとで出会えていたら、私たちは幸せになれたと思いますか?」
「そうだな。タイミングか……あるいは、王や、祈り師でなく、名もない牧童と村娘であればな。私が、王の威厳も、立派な船も、なにもなくても、ユリは、私が私だとわかってくれたかな?」
「もちろんです。そうでなくては、私はこんなに深く、あなたのことを好きになったりしません。私はあなたの外側の現実を愛しているのではありません、あなたの内面があってこそです」
「ユリ、そんなに幸せそうな顔をしてくれるな。おまえを再婚というかたちで、受け入れることができればよいのだが」
「王妃が生きていらっしゃった頃から、私は祈り師としての関係を持っていました。再婚者としては、許されないことです」
「わかっているが、そのユリのまっすぐな気持ちが、私にはまぶしすぎる」
 王はユリを抱きしめた。二人がどんなに強く抱きあっても、身体と心は、王とユリのまま。もっと強く抱き合って、自分が自分であることなど、全て壊れて、身体も心も一つになりたいと、王も、ユリも、同じ願いを重ね合わせた。

 西の空の月は、夜明け前に雲に隠れた。北の低気圧に吸い寄せられた生暖かい風が、不気味に吹き抜けていった。
 マンスフィールド号の停泊する港からは、丘を隔てた反対側に漁港があった。嵐の予報を聞き、早めに漁を切り上げて帰還してきた漁船が、岸壁への横付けを始めている。漁師たちは船を下りると、台車に積み上げた魚の箱を降ろし、煌々と明かりのついた市場に運んでいった。
 二人の男がセントガル水産の冷蔵倉庫に入っていった。中で数台のフォークリフトが作業している大型の倉庫だ。男たちはナンバー432000の箱を探し、持ってきた箱と入れ替えた。事前に調べる時間はなかったので、箱のサイズは大きく異なる。重さも新しい方が重い。しかしナンバーのシールはそっくりだった。二人の男は作業を終えると、すぐに立ち去った。
 夜が明けてきた。
 市場ににぎわいが増してきた頃、セントガル水産の配送車が市場にやってきた。マンスフィールド号むけの専用車で、料理人を同乗させていた。料理人は車を降りると、一人で市場を歩き回って魚を買い求めた。そのあいだに配送車は冷蔵倉庫に入り、ナンバーに基づいてあらかじめ指定された箱を選んで積み込んでいった。
「あれ? これは鮮魚になってるけど、鮮魚は料理人が選ぶんじゃなかったか?」
 セントガル水産のドライバーが、ナンバー432000の箱を手に取って言った。
「そうだけど、たまにあるんだよ。外国からの輸入品の場合はね。これは海老だと思うが、ずいぶん重いな。保温剤でもたっぷり入ってるんだろう」
「えっと、ナンバー432000。ま、確かにナンバーは正しいからな」
「そうそう、ナンバーさえあってれば、中が違ってても俺たちの責任じゃない。持って帰りゃ、あとは料理人が何とかするさ。だいたい、キャビアが海老になってたって、料理ぐらい作れるだろう。臨機応変だよ、料理なんて」

 オミヤマ氏の海賊船は、海中に潜行したまま、ゆっくりとイラフト国に近づきつつあった。 
「また嵐か! なんだか俺の行くとこはいつも嵐が吹き荒れるな」
 オミヤマ師は、朝一番の天気予報を知らされて豪快に言った。潜行中の艦橋には、そんな声もよく響きわたった。
「艦長、ベータ型潜水艦発見しました。一時の方向、距離25000」
 ソナー係がヘッドフォンを外して、艦長に伝えた。
「さっきのやつだな。オレたちを付けてくる潜水艦は、やつだけか?」
「ですね。港の駆逐艦には、対潜哨戒ヘリも搭載されているかもしれませんが」
「そういうのに来られる前に、余計なやつとはサヨナラすべきだな。そろそろこのへんで海溝に沈むことにすっか」
 オミヤマ艦長の指示で、おとり用の低速ミサイルが発射された。それは母船の音と動きを模し、イラフト国からは離れ、徐々に海溝に沈んでいった。
 実際の母船は、スクリューを止めたまま、しばらく慣性航行を続けた。
 ベータ型潜水艦の発する音響が消滅してからも、海流を計算して4時間の漂流を続けた。ときどき海面にアンテナを伸ばしGPSで位置を確認した。十分な安全を確認してから、低速でモーターを作動し、ゆっくりとセントガルの港に近づいていった。

 森に暮らす女王ユリは、予感を感じ、早くに目覚めていた。
 まだ薄暗いうちに家を出ると、一人で丘に登り、泉の水で身体を清めた。
 夜明けの光が、眼下の砂漠をオレンジ色に染め、手前の森からは、早起きの小鳥たちのさえずりが初々しく響いた。
 女王ユリは、今日が『歴史に刻まれる日』になることを予感していた。
 今日という日は、おそらく、勝者も、敗者もない。
 地殻のひずみが起こす、地震のようなもの。
 大地震が悲惨であるように、悲惨な日になるに違いない。
 予感を感じる心には、結論となる『シーン』が見えていた。
 海中に広がる血。
 海辺にたたずむ一人の少年。
 だから、すべては、正しい。

 女王ユリ自身は、どうなるかわからない。
 南の風の歌に、耳を澄ませる。
 亡くなる者への想いが、ほとばしる。
 距離も時間も超えた『痛み』。
 女王ユリも、心の血を流す、一人。
 勝利も栄光もない祈りの果ての夢の終わりに、願わくばひとつの聖なる微笑みを。







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