Susacian Prayer   1  2-4  5-7  8-10  11-13  14-17  18-21  22-25  26-28  29-32  33-34  付録短編

『スーサシアの祈り師』付録短編

『スーサシアの祈り師』とマナブ



  1 到着

 マナブは小学5年生の夏休みを、母親の実家の小さな町で過ごすことになった。海がそばにある町だ。そこの実家ではおじいちゃんとおばあちゃんが二人で暮らしていた。
 マナブの父親は、この夏は仕事が忙しくて御盆頃に四日間しか休みがとれない。だから先に七月のうちから、マナブと母親だけで旅立つことにしたのだ。

 ちなみに、この件に関して、親たちの間では議論があったようだけれど、マナブとしては住宅地の真ん中の面白味のないところでTVゲームなどして過ごすより、早く海に行きたかった。いっしょに父親が来ないのは寂しい気もしたけれど、ややこしい大人の都合に振り回されて、海で遊ぶ日数が減ることの方がはるかに大問題だった。
 それに、父親と一緒に行かないということは、つまり車ではなく列車の旅になるわけで、これがまた最高に楽しみだった。まだ乗ったことのない、かっこいい特急列車。……正確には乗ったことがないわけではなかったけれど、それはほとんど記憶にもない幼い頃の話だ。マナブがまだ赤ちゃんだった頃は、おばあちゃんの世話になるために、なんどか列車で行ったことがあるらしい。
 
 あまりに楽しみで、前の夜はよく眠れなかったマナブだが、張り切って乗ってみると、時間のかかる列車の旅は、それなりに退屈だった。30分ぐらいは興奮でいっぱいだったけれど、それを超えると、座っている身体がむずむずしてきた。
 七月の特急列車には、麦わら帽子や、カラフルなTシャツ姿の、いかにも夏休みふうの人が多かった。中にはワイシャツ姿の男の人もいて、そういう姿を見ると、ふと今も仕事をしているだろう父親のことを思い出したりもした。
 マナブの父親は工業デザイナーだ。一緒に暮らしているおじいちゃんも、元は設計技師だった。メーカーは違うが、二人とも自動車関係者だ。特におじいちゃんは、いまでもロングセラーを続けている、あるファミリーカーのたちあげに加わった一人であることが自慢だった。
 二人の大人は『不景気』についてよく話題にする。日本よりも安い人件費で海外生産するから、日本に仕事がなくなる、と。しかし戦後に培ってきた技術力は、そう簡単には負けはしない。技術力を高める努力を惜しんではいけない。それが越されたら、日本はおしまいだ。技術を高めて、世界の製造業のリーダーであり続けるべきだ。
 しかし、マナブは疑問に思う。地球温暖化のことは、テレビでよく観るし、チベットや南極の氷はどんどん解けているらしい。みんなで機械を作って、エネルギーを消費し続けて、それでいいのだろうか? 車は便利だし、特急列車はかっこいいし、夏休みに旅が出来るのは嬉しいことだけれど、それぞれにずいぶんエネルギーを使って、地球を苦しめているのではないだろうか?
 特急列車の中で、マナブはお弁当を買って食べた。美味しかった。でも、包み紙や、ひもや、箱など、全部ゴミになって、それを車両のゴミ入れに押し込むとき、食べたときの幸福感以上に、心が痛んだ。
「ねえ、おかあさん、ゴミ入れ、いっぱいだったよ」
 とシートに戻ってきたマナブは母親に言った。
「入った?」
「押し込んできた」
「そう、ありがとう」
「でもさぁ、なんか、すごいよね。一回ご飯食べただけで、あれだけゴミが出ちゃうなんて」
「ごめんね。本当は早起きしておにぎりとか作ってくればよかったんだけど、原稿を書いてたら遅くなっちゃって」
 マナブの母親は小説家だった。マイペースの創作活動で、ベストセラー作家にはほど遠かったけれど、それでも自分の本をすでに5冊出版している。まだまだ収入は少なかったが、新作を楽しみに待ってくれている読者は少なくなかった。
「お母さんってさ、いつもぎりぎりになって仕事するよね。僕もそうだからモンク言えないけどさ」
「あのねぇ、お母さんが書くことって、そのまえにたーくさん考えてて、それってすごく意味があることなんだからね。マナブは宿題やってないときに、宿題のこと考えてないでしょ?」
「考えてるよ」
「うそ。わり算のこととか、漢字のこととか?」
「ちがう。宿題、やらなきゃなぁ、やりたくないなぁ、でも、やんないといけないんだよなぁ、って」
 母親は微笑んで「なるほどねぇ、意外にお母さんとかわんないかもね」と言った。
「でしょ?」
「ところで、私が今度書いたお話、マナブにも読ませちゃおうと思ってるんだ。童話とは違うけど、もう五年生だもん、少し大人の内容でもいいよね。原稿持ってきたから、楽しみにしててね」
「げげー」
 とマナブは本気で嫌そうな表情をした。
「大丈夫よ、面白い話なんだから。わくわくするファンタジー小説よ」
「モンスターが出てきたり、魔法を使ったりするの?」
「そういうのは、あまりないかも」
「やれやれ。だからお母さんの本って売れないんだよ」
「ま、あまりないけど、少しはあるの。もっとほしかったら、ほら、マナブが読んで、ここはこうしてほしいとか、母さんに言ってね。あとで直すかもしれないから」
「そういう問題かなぁ。ねえ、僕が意見言ったら、バイト代くれる?」
「バイト代? そんなの千倍前払いしちゃってるみたいなもんよ。ほら、こうしてちゃんと夏休みの旅行、させてあげてるじゃない。ああ、もう、私って、な〜んて息子おもいの素晴らしい母親なんだろう!」
「……げげ、ついてけない、なんとかしてよ……」


 特急列車からさらにローカル線を乗り継いで、母親の生まれ育った家に到着したのは、もう夕方だった。マナブはすぐにおばあちゃんの自転車を借りて、海を見に行った。泳ぐのは明日にするとしても、とにかく早く近くで本物の海を見たかったのだ。
 ジージーと蝉の鳴き声が響く丘の道を、強くペダルをこいで越えると、ぱっと前方に海が広がった。
 その一瞬、身体が浮き上がったような気持ちがした。毎年のように来ているところだけれど、いつも最初に見る海って、なぜこんなに特別なんだろう。列車の中から見ても特別だけど、こうやって波の音も海の匂いも感じながら見ると、またこれも特別。どんなものよりも大きくて、まっすぐな水平線。海自体が巨大な生物で、一年ぶりの再会をはたしたような気分。
 もう海水浴の人たちは引き上げ始めていた。まだ残っているのは、地元の小学生たちと、恋人ふうの男女が何組か。
 マナブは自分のことを、ちょっと中途半端な感じだよな、と思った。毎年のように来るこの海のことはよく知っているし、乗ってきた自転車は思いっきり地元ふうのカゴ付きママチャリだけど、でも、マナブ自身は遠くから来た旅行者だ。
 でも、それは仕方がないことだ、と思う。中途半端な立場でも。それが自分なんだし。こっちの従兄弟たちと会えば、少しは気持ちが変わるかもしれない。
 とにかくここまで来たら、早く海で泳ぎたかった。お母さんからも、おばあちゃんからも、今日は見るだけにしなさいと釘を差されてきたけれど、「ちょっとだけ」と思い、自転車を道の脇に停めて、コンクリートの階段から砂浜に下りた。サンダルを脱いで、素足で砂の上を歩くと、まだ日中の熱を留めているのが感じられて、その微妙な砂の感触がなんとも心地よかった。
 波打ち際に出て、足首まで水に浸かった。
 少しひんやりした。
 浜に寄せる小波の音と、100メートルほど沖にある岩場に寄せる波の音。遠近の二カ所の波音が、神秘的に重なって聞こえた。あの岩場は沖からの大きな波を防いでくれている。あそこに行くまでには、途中にかなり深いところもある。昔は恐かったが、去年、父親といっしょに泳いだとき、思い切って水中メガネが痛くなるほど潜り、海底にタッチして帰ってくると、急に気持ちが楽になった。自分の身長の五倍ぐらいの深さ。上からだと、ぼんやりと薄暗く見えて恐さはあったけれど、いったん底まで行ってしまうと、その不気味な深さに、むしろ不思議な親しみのようなものを感じた。
 それが、去年の夏。
 今年はどうなるだろう……
 
 再び自転車に乗って、海に飛び出ている地形のさきっぽに行き、岩をくぐる小さなトンネルを通って、反対側の海にも行ってみた。今は波が小さいので恐くはないが、こちら側は冬はなかなか大変なところだと教えられていた。冷たい季節風が吹きつけて、大波が打ち寄せるのだ。海苔を取る人が波にさらわれたこともあるらしい。
 そういう話を聞いてしまうと、今はおだやかでも、なんとなく近寄りがたい気持ちになってしまう。
 さらに道を進むと、松林があった。不思議な形の二本の松のところに、ベンチと祭壇があった。
 こんなのあったっけ?
 マナブは自転車を降りて、古びたベンチに腰掛けた。
 夕方の風が、気持ちよく吹き抜けていく。
 海の匂いがしみじみと感じられて、とうとう来ちゃったんだなぁとあらためて思う。地味な鳴き声に重なって、ときどき日中に鳴く蝉の強い声も混じったりした。
「こんにちは」
 マナブと同じ年ぐらいの女の子が、そこには立っていた。
「あ、はあ……こんにちは」
「このへんで猫、見なかった?」
「べつに見てないけど」
「おかしいなぁ……」
 と女の子は不安そうな表情をした。
「探してるの?」
「うん。もらったばっかりの子猫で、どっか遊びに行っちゃったみたい。そのうち帰ってくると思うんだけど……」
「どんな猫?」
「白と黒のモノクロ」
 マナブは笑って「そういう猫ってたしかにいるけど、モノクロって、なんかおかしいね」と言った。
「まあ、そうだけど」
「見つけたら、届けようか?」
 女の子は首を振って「大丈夫だから」と言って、走って去っていった。
 もし見つけたらどっちの方に連れていけばいいか知りたくなって、マナブはベンチの上に立って見回したが、もう女の子の姿はどこにもなかった。
 ほんの一瞬のことだった。彼女の顔や声までは印象に残らなかったが、今まで経験したことのない不思議な気持ちが、なんとなく心に残った。
 奇妙な女の子だった。

 夕食の時、おじいちゃんは上機嫌で、一年間の町と海の出来事をしゃべり続けた。誰が死んで、誰が病気で……。そういうことはマナブにはよくわからなかったが、要するに不景気なのは、この町も同じようだった。
 とりあえず、ハマチの刺身と、キスのてんぷらは美味しかった。
 が、ここに少し問題があることを、マナブはすでに知っていた。この町に来て食べるものといったら、魚ばかり。美味しいけれど、三日も続けば、何か変化が欲しくなる。たまにはカレーライスやハンバーグが食べたくなる、というものだ……
 食べ終わって、母親とおばあちゃんが台所で片づけをしているとき、おじいちゃんがマナブに聞いた。
「マナブは、泳ぎはうまくなったか?」
「普通」
「フツウ?」
「ていうか、夏休みにプールがあるんだよ、学校って。そのときに通ってうまくなればいいんだけど、ほら、僕なんかずっとこっちだから、学校のプールでうまくなるのはムリなわけ」
「じゃあ、こっちでうまくなればいいな」
「そうそう。泳ぎの練習。あと、宿題も持ってきたし。できれば自由研究もやっちゃいたいし。僕ってけっこう忙しいんだよね」
「そうは言っても、なかなかできないものよね」
 と母親が、おじいちゃんのために大きな湯飲み持ってきて口をはさんだ。
「ねえねえ、あんたの子供がせっかくやる気なんだからさぁ、じゃまするようなこと言わないでよねー」
「ま、その調子でがんばってちょうだいよ」
「ところで」と台所で片づけをしていたおばあちゃんが顔を出した。「川辺さんとこのジュンちゃんやショウヘイくんは、今日は来ないのかい? たしか来るって言ってたような気がするんだけど……」
 ジュンちゃんとショウヘイくんは、マナブの従兄弟だ。
 ジュンちゃんは中学生の女子で、ショウヘイくんはマナブと同じ小五の男子。そしてもう一人、というかもう一匹、川辺さんのところにはタメスケというゴールデンレトリバーがいる。海をこわがらない賢いやつだが、何でも食べるウルトラ食いしん坊。
 寂しがりやのおばあちゃんは、マナブとマナブの母が来ただけでは、なんだか物足りなさそうだ。
「ちょっと電話してみるわ」
 と、おばあちゃんが電話のところに去ると、おじいちゃんはマナブに「将棋、するか?」と聞いた。
「いいよ」
「よし」
 おじいちゃんはテレビの横の棚から将棋セットを出してきた。
「女は、何かって言うと、にぎにぎしくないと満足しないよな。たくさん来たら来たで、あとかたづけが大変だって、愚痴を言うくせに」
「にぎにぎしいって、たくさん人が来ること?」
「まあ、そんなとこだ」
「うちのお母さんは、そういうのあまり好きじゃないってよく言うよ。わりと一人が好きみたい。僕が友達とかたくさんよぶと、……ま、たまにだったらべつに怒りはしないんだけど、あとでしっかり『こういうのはせいぜい一学期に一回ぐらいにしてよね』って言うんだ」
「そうか」とおじいちゃんはコマを並べ終えて、ジャンケンをして、「マナブが先にやれ」と指示してから、「お母さんはな、オレに似たのかもな、いいことだ」と言った。
 マナブがいつも通りに、まず守備を固めようとコマを動かし始めると、おばあちゃんが戻ってきて「8時になったら、みんな来るって」と電話で確認したことを報告した。
「8時だよ、全員集合」
 とおじいちゃんは言った。
「なに、それ?」
「昔、そういう面白い番組があったんだよ。たーたた、たーたー、たったーたん、たったー、たったらったたー。はい、角取り」
「えーっ、そそそそそんなぁ!」
「待ったは、二回だけがルールだったよな、さっさと待ったしちゃえ」
「違うよ、僕は三回。おじいちゃんはゼロ」
「おいおい、もう五年生だろ」
「だって、将棋も、ここに来たときしかやらないんだもん」
「夏の水泳みたいだな」
「ほんとだよ。ねぇ、待ったは三回まで。いいでしょ?」
「しゃあないな、いいよ。……ところで、なあ、マナブ」
「なに?」
「いっそ、夏休みの自由研究を『将棋』にしちゃったらどうだ?」
「やだよ」
「どーしてさ」
「そんなことしたら、毎晩おじいちゃんと将棋しなきゃいけなくなるじゃん」
「だからいいんじゃないか」
「だからだめなんじゃないか」

 そんな二人を横で眺めていた母親とおばあちゃんは、お茶を飲みながら子供の遊びについて語り合った。
「今の子たちって、テレビゲームなのよね。たしかに面白いんだけどね。もう将棋みたいなことは、しないなぁ。囲碁は人気アニメになったけど」
「テレビゲームって、目が疲れないかい?」とおばあちゃんは目を細めた。「いくら若いっていったって、ああいうのは絶対に目によくないと思うけど」
「どうかなぁ。わかんないけど、まあ、確かによくはないだろうけど、最近は、ほら、パソコンでインターネットとかもあって、私も文章を書くのは全部パソコンの画面にむかってだし、もう、そんなことは言ってられない時代になっちゃってるわよね。機械の性能も上がってきてるし。問題なのは、むしろ、そこかな。ほら、昔は目が痛くなって二、三時間で切り上げていたものが、いつまでもずーっと続いちゃって。私の知り合いのライターさんなんか、つまりゲームの批評とか雑誌に書いてる人だけど、一週間連続とか、へっちゃらよ。一日一回、コンビニに行くだけ。後はずーっとテレビゲーム。それこそ床屋さんみたいな専用のリクライニングチェアまで買っちゃってね」
「困った世の中よねぇ」
 とおばあちゃんは目尻にしわを寄せて苦笑した。
「でも、ま、こんなふうに、子供と田舎でのんびりして、将棋をしたり、星を見たりするのって大切よね。今回はね、私、マナブに読ませるお話も用意してきたんだ」
「自分で書いたやつかい?」
「そう。こういうことは初めてだけど、たぶんこっちで読ませることに、大きな意味があると思う。たぶんこの夏の旅は、マナブにとって特別なものになる」
「まあ、怪我しないように、ほどほどにね」
「だめだめ」と母親は大きく首を振った。「男の子は怪我ぐらい恐れてちゃいけないわ。命がけで闘うぐらいでないと」
 それを聞いて、おじいちゃんが横やりを入れた。
「優子は昔から言うことがでかいよな。夢みたいなことばっかり言ってて、どうなるかって心配したもんだが、夢みたいなことを商売にしやがるってんだから、世の中ってのはうまくできてるもんだなぁ。ホント不思議だ」
 マナブはうつむいた姿勢で次の手について悩みつつ「そういうところも、おじいちゃんに似てたの?」と聞いた。
「それは違うな。それだけは、誰とも似てないぞ。不思議なもんだ。マナブはどうだ? 夢みたいなこと、考えるか?」
「わかんない」
 網戸のむこうから、風鈴の音が聞こえてきた。
 マナブは、ふと、強烈に懐かしい気持ちになった。
 そして夕方に出会った女の子のことを思いだした。心に残った不思議な気持ち。初めて会ったのに、他人のような気がしない。ずっと前から知っているような……


 8時になって、川辺さん一家が車でやってきた。マナブの母親の妹一家。マナブの母親の名前は優子で、妹は美野里。マナブは「ミノリおばちゃん」と呼んでいる。姉よりずっと早くに地元の人と結婚して、こちらで家庭を持った。
 まず黄色いワンピースがまぶしい中学生のジュンちゃんが上がってきて、明るい笑顔で言った。「マナブ君、こんなに早く来ちゃって、今年は一ヶ月ぐらいいるの?」
「そうみたい。よろしくね」
「よろしく」
 いっしょに来た内気なショウヘイくんも、いっしょに「よろしく」と言った。
 マナブとショウヘイくんは学年が同じで上下関係がないだけに、ちょっと関係構築が複雑な感じだ。
「スイカ持ってきたの。冷えてて美味しいよ。食べるでしょ?」と車からスイカを出してきたミノリおばちゃんが言った。
「良一さんは、仕事かぁ」と最後に太郎おじさんが缶ビールのパックを下げて入ってきた。「よ、ナマブくん、しっかり学んでいるかね?」
 するとジュンちゃんが父親を殴るふりをして「何いってんの、このバカオヤジ。そういうオヤジギャグ、最低よ。デリカシーのかけらもないんだから」
「ははは、すまんすまん。田舎に住んでると、そういうのはさっぱりなぁ」
「もう、やだ、この人」とジャンちゃんはあきれた。「マナブ君、スイカ食べたらさ、こんな大人おいといて、蛍でも見にいかない?」
「蛍?」
「山のふもとの方ならまだ見れそうだし」
「いくいく」
 太郎おじさんは、自分の家のように腰を下ろした。さっそく持ってきたビールを開けて、マナブの母親のコップに注ぎ始めた。
「お姉さん、どうぞどうぞ。お元気でしたか? 本はいつも読ませてもらってますよ。去年は忘れたけど、今年はぜひサインしてもらわないとな」
「サインなんか妹にしてもらっておいてくださいよ。どーせ、大して違わないんだから」
 そんな大人の会話の横で、マナブは、将棋と、スイカと、蛍と、従兄弟たちの間で戸惑っていた。まず、スイカ。おいしい。将棋は、適当に済ませてしまいたいけど、負けるのはイヤだ。途中で中断か……
「ね、おじいちゃん、将棋はまた明日でいい?」
「蛍、見に行くか?」
「うん」
「したら、車、運転してやるかな」
「いいですよ」と太郎おじさんがあわてて言った。「僕が連れてきます」
「だって、もうビール飲んでるだろうが」
「じゃあ、うちの家内が……」
「いいの、車じゃなくて」とジュンちゃんが宣言した。「大人はゆっくり飲んでればいいじゃん。私たち、歩いて行くから。蛍を見に行くのは、歩いて行くからこそいいのよ、ね!」
 マナブは素直に頷いた。

 二人の従兄弟に連れられて、外灯のある道から、川沿いの小道におりた。しばらく歩くと、つーっと光るものがマナブの前を横切った。たくさんはいなかったけれど、確かに蛍だった。葉にとまっているところを、マナブは手でおおって捕まえた。けれども、なんだかもう数が少ないし、採ったりしては申し訳ない気がして、広げた手のひらに載せて、そこから飛び立たせるにまかせた。
 手のひらの上でゆっくりと明滅していた蛍が、ふわっと星空に飛び立っていく。
 マナブは立ち止まって見送った。
 一年ぶりの海の町。しんとして、少し悲しい夏の夜気を感じながら、蛍の行方を闇に消えるまで目で追った。
 あの闇の向こうには、なにがあるのだろう?
 蛍を見送るって、お墓参りのときと似た気持ちになるな……


 人って死ぬんだと、マナブは、ふと気づく。
 お母さんも、お父さんも、おじいちゃんも、自分も、学校の友達や、先生も。
 それだけではない。テレビに出ている有名人も、世界一のお金持ちも、みんないつかは死ぬのだ。
 当たり前のことだ。知らないわけではなかったけれど、そのことを本気で考えたことは、今までなかった。生まれて初めて、本当のことに気が付いた。

 いつか全てが、終わってしまう。

 みんな、知っているのだろうか? テレビで笑顔を見せているタレントや、落ち着いた声でニュースを語るアナウンサーも、いつかは自分たちが死ぬということを、知っていてあんなふうに笑ったり語ったりできるのだろうか? 悲しい気持ちを隠して、仕事として演技をしているだけなのだろうか?


 急に現実の全てが、ゲームの中の世界のような、全て作り物に過ぎないような気持ちに襲われる。悲しいけれど、それを否定できるものは、何かあるのだろうか?
 見上げると、そこにあるのは夜空の星々。北斗七星が見えた。何も語らず、いつも同じ形だ。この世の中で唯一の救いのように思えてしまう。
 星の立場になって考えれば、人の一生なんて、蛍のまたたきのようなもの。
 淡く光って、消えていく。
 それとも人は、死んでも、心は消えずに、どこかに残り続けるものなのだろうか……
 

  2 海


 翌日は、さっそく午前中から、マナブと、そしてジュンちゃんとショウヘイくんの三人で、自転車で海に泳ぎにいった。マナブの母親は持ってきたノートパソコンのインターネット接続など、こちらでの滞在の準備を始めた。今は夏休みモードで、特に新作を書く予定はなかったけれど、原稿直しやメールの返事など、雑多な作業は継続するつもりだったのだ。
 海は朝からよく晴れた。あまりに晴れすぎて、30分も日光をあびると肩がひりひりしてくるほどだった。
 しかし水は少し冷たかった。まだ七月だからだろうか。おだやかな晴天が続くと、もう少し温かくなってくるものだ。しかしそれはそれで、また問題がある。八月に入り水温が上がると、赤潮で水が汚れることが多いし、だいたいそういう頃になるとクラゲがたくさんやってくる。
 だから我慢さえできれば、少しぐらいひんやりしているぐらいがいいのだ。水中メガネだけして、三人で泳いでいく。浮輪は一つ持っていくが、それは獲物を入れるカゴを下げておくため。マナブも去年から浮輪なしで、泳いで従兄弟たちについていけるようになった。あまりバタバタしないで、息を吸うときだけ手足に力を入れる。あとは脱力して、海にとけ込む。走るのではなく、のんびり歩く気分。呼吸さえ乱れなければ、おだやかな海はとても心地よいところだ。日光が差し込み、大きな岩の間に広がる海底の砂が白く輝やいて見える。
 ときどき思い切って潜ると、形のよい大きな魚が悠々と前を横切っていったりする。実際には20センチほどの魚でも、水中で見るとマグロのように立派に見えてしまう。ギョロッと大きな目が恐いのはカマスだ。いつも三匹ほどで連れだって泳いでいるが、身を守るための群というよりは、虐める相手を物色している不良仲間のように見えてしまう。浅いところにも深いところにもいるフグは、かわいい。むなびれをヒラヒラさせて、がんばっているわりにゆっくりしか進まない。捕まえやすそうだし、実際に釣りをしててもよく連れてしまうフグだけれど、もちろん毒があるので食べられない。
 海は深いところほど水温は低い。当たり前のことだけれど、おだやかな入り江ではほんの1メートルでもはっきり違いを感じる。急にぶるっとするほど冷たくなるときがある。それでも海底の砂に近づくと、白い砂の美しさに心がなごみ、さほど寒さを感じない。ムリな姿勢になって水中から上を見ると、キラキラと水面が光っている。最高に美しい。海面を水中から見るほど美しいものって、他にこの世にあるだろうか。しかし息が苦しくて、長くは見ていられない。だからよけい美しいと思えてしまうのかもしれない。
 海面のきらきらも美しかったけれど、ジュンちゃんの泳ぎも、しなやかでかっこいいとマナブは思った。普段話をしているときは、小さいときの延長のような子供関係だったし、水着は紺の地味なものだったけれど、体つきや泳ぐ姿は、なんだかもう大人の女性のようだった。マナブは水中メガネをしているのをいいことに、ついついジュンちゃんのしなやかな姿をじろじろと目で追ってしまった。 
 沖の岩にたどり着き、三人で上がる。おだやかとはいえ、岩に上がるときはそれなりに波の上下動に翻弄される。水の動きに逆らわないように、かつ、手や足を切らないように、慎重に水から上がる。
「まだ、水、冷たいね」
 とマナブはジュンちゃんに言った。
「でも、天気、いいから。曇ったら最悪だけどね」
 ここよりもさらに沖で泳ぐ地元の少年たちの姿が見えた。中学生ぐらいの男の子たち。小学生っぽい子も混ざってはいるけど。
「僕、この先って行ったことないよ」
 とマナブは言った。
「いいよ、行かなくて」ショウヘイくんは嫌そうに首を振った。
「あっちにいる人たち、知り合い?」
「うん」
 内気なショウヘイくんらしい。きっといつもお姉ちゃんに守ってもらっているんだろうな。べたべたではなくても、なんとなくは。でも、そのジュンちゃんも、今年からは中学生。大丈夫なのかな?
「これ、食べていいよ」
 とジュンちゃんが、いつのまにかカゴから出したウニを割ってマナブに差し出した。
「よく割れたね」
「楽じゃないけど、コツはあるし。このへんはウニぐらいしか採れないからね」
 もちろんジュンちゃんが言う「採る」とは、食べられるもののことをさしている。
「だって海水浴場だもんね」
「すっごい田舎だけど、いちおうね。でもまだ七月だから、うまく探せばサザエぐらいいるかも。全然いないようでも、岩の間とかにいたのが一晩で移動したりするし」
「僕も少し真面目に探してみようかな」
「僕は……」とショウヘイくんは沖の少年たちをちらっと見てから言った。「戻って、魚釣りしようかな」
「ショウちゃんはあまり泳ぐの好きじゃないもんね」とジャンちゃんは優しく言った。「いいよ。マナブ君はどうする?」
「ジュンちゃんは?」
「私は日焼けするから、海の中の方がいい」
 マナブは微笑んで頷いた。
「それ、うちの母さんといっしょ。母さんも子供のときは一日じゅう海の中にいたって。おなかがすいたら自分で食べるもの探して」
「この入り江だと食べ物まではムリだけど、波が静かだから安心して泳げるよね。のんびり、ぶらぶらーと」
「僕も、のんびりぶらぶらーがいいよ。僕ってストレスが貯まっててさ」
 ジュンちゃんは笑って「行こう」と言った。濡れた髪をかき上げて、水中メガネをかけ、しなやかに海にとけ込んだ。


 お昼過ぎになって、マナブの母親も自転車で海辺に来た。パソコンの調子が良くないらしく、ちょっとイライラしていた。憂さを晴らすように一人で海に入って、見ている方が心配になるほど沖まで行き、30分ほどで人数分のサザエを採って戻ってきた。なんだか子供の遊びとは違う雰囲気がありありだった。大人の『漁』という感じだった。水中で見るとわかるのだが、人魚のように身体を動かし、10メートルぐらいは一気に潜ってしまう。
 浜でマナブの母親が持ってきてくれたおにぎりを食べながら、ジュンちゃんは「泳ぎ、教えてくださいよ」と言っていたが、すでにマナブの母親の頭はパソコンのトラブルのことでいっぱいだったようだ。「ま、そのうち暇になったら」とだけ言って、一人で先に戻ってしまった。

 
 夕方になると、天気が崩れてきた。夕立雲が空をおおい、マナブは二人の従兄弟と別れて、全力でペダルをこいた。家に着く頃には大雨になった。雷もすごくて、マナブは息を整えながら玄関から雨を眺め、こんなに古い木造の家に雷が落ちたら火事になるのではないかと心配になった。
 玄関の前には小さな畑があった。キュウリやトマトをおじいちゃんとおばあちゃんが育てている。細かい砂をたっぷり含んだ土は水はけがよくて、どんな野菜でも簡単に育つらしい。
 そのキュウリの葉っぱが、うす暗闇の中で、大粒の雨が当たって弾かれたようにゆれている。
 マナブが部屋に入ると、
「明日は天気が悪いみたいだな」
 とテレビの天気予報を見ていたおじいちゃんが言った。
「夕立だけってことじゃなく?」
「この雨もそうだけど、冷たい空気が上空に流れてきてて、不安定らしい。しばらく雲が多くて、雨が降りやすいってさ」
「じゃあ、今日、ジュンちゃんたちと泳ぎにいったの、正解ってことだね」
「明日は雨だったら、しょうがないから、マナブはおじいちゃんと将棋だな」
「やだよ」
「なんで」
「ていうかさぁ、僕は夏休みだけど、おじいちゃんは仕事でもしたら?」
 おじいちゃんは苦笑した。
「まあ、そりゃそうだけど、年寄りは毎日が夏休みだからなぁ」
「少しはいいけど、将棋はせいぜい一日一回まで。それ以上はしたくないよ。疲れるんだもん」
「じゃあ、他の時間は何する?」
「いろいろあるよ。宿題したり、昆虫採集したり、魚釣りしたり、ぼーっとしたり」
「雨だったら、虫捕りにはいけないんじゃないか。雷も鳴るぞ」
「だったら、ほんと、もう最悪なにもないときは、お母さんが書いた小説でも読んでみるよ」

 マナブは開け放した窓からぼんやり雨の庭を見ていると、昨夜のことが思い出された。ジュンちゃんたちと蛍を見に行ったこと。
 今、おじいちゃんはテレビを見ている。家の中には夕飯の魚の煮付けの匂いが漂っている。もうじきみんなでご飯を食べるだろう。特別なことではないけれど、とくに不満も悲しみもない、いつもと同じ時間。でもそれは、永遠のことではないのだ。今日は、今日だけで、終わってしまう。
 そしてみんな、いつかは死んでしまう。
 それは逃げられない事実。
 信じたくなかったけど『あたりまえのこと』なのだ。あまりにもあたりまえすぎて、だから誰も口にしないのだろうか? マナブ自身も、それに気がついたからといって、例えば簡単に夕食の話題にできるとは思わなかった。そっと心の中に隠して、いつも通りの小学五年生を演じる。
 みんな、同じだった。

 おじいちゃんはおじいちゃんを演じ、お母さんはお母さんを演じている……


 夕食のあとで、マナブは母親から原稿のプリントアウトを渡してもらった。かなりの分量で、夏休み中に読み切れるか難しいと思ったけれど、別に読み切れなかったら読み切れなかったで仕方がないし、というか、もし面白くなくて途中で飽きちゃったとしても、それは僕が悪いんではなく母さんが悪いんだ、と考えることにした。
 テレビのある部屋でおじいちゃんと将棋を一回したが、作戦的に無茶をして負けてしまった。海で泳いで疲れた、と言いわけして、早めに歯を磨き、おばあちゃんが布団を敷いてくれた部屋に行った。
 すぐに布団に横になってみたが、日焼けでほてった身体がうずいて、なんとなく落ち着かない。
 マナブは部屋の明かりを消し、布団の横の電気スタンドだけを点けて、自分のバックに入れておいた分厚い原稿を取り出した。

『スーサシアの祈り師』

 タイトルはだいぶ前から母親の仕事部屋に張ってあったからよく知っている。ずっと、読みにくいタイトルだなぁ、と思っていた。英語風に発音すればいいらしいが、よくわからない。校正用にプリントアウトした紙を、作業が終わったらメモ用紙としてドサッとくれるので、ところどころ読んでみたこともある。しかし最初からきちんと読むのは、これが初めてだった……
 

  3 帰路


「なんだか、あまり将棋もできなかったなぁ」
 とおじいちゃんはマナブに言った。
「しょうがないじゃん。もんくがあるなら、母さんに言ってよ。僕なんかずっと原稿を読まされてたんだから」
「まあまあ」とおばあちゃんが言った。「昼は海でたっぷり泳いで、夜は真面目に小説を読んで、マナブには最高の夏休みだったわよね」
「う〜ん、まあ、それはそうなんだがなぁ」と不満そうなおじいちゃんに、マナブの父親がやってきて声をかけた。
「先に荷物は積み終わりました。そろそろ行こうと思うんですけど」
「やれやれ、夏休みも終わりか、早かったな」
「おじいちゃん、それは僕のセリフだって!」
 とマナブのつっこみも、すっかり馴れたものになっていた。
「ははは、また来年も来いよ。来ないと将棋が強くならないゾ」
「そうそう」と、おばあちゃんも同意した。「また来年もいらっしゃいね」
「わかってるって、じゃあね」
 しかしマナブが車に乗ろうとすると、そこに母親の姿はなかった。
「あれ、母さんは?」
 マナブは父親に質問した。
「さっきまでいたのに。なにやってんだ、あいつ」
 父親はいつも通りいらついた声で言った。
「みてくる」
 マナブが走って玄関に戻り、おばあちゃんに質問すると「忘れ物とか言って、部屋に戻ったみたいよ」と返事があった。
 マナブは家にあがって「母さん、どこ?」と大声で言った。
「こっち!」
 母親は奥の部屋で、仏壇を開けて中をのぞき込んでいた。
「なにしてんの? お祈り?」
「ほら、ここにライターがあったと思ったんたけど。でも、ないのよ」
「ライター? 煙草でも吸うの?」
「いや、煙草はやめたからいいんだけど、ちょっと必要で」
「おじいちゃんのでいいんじゃないの。むこうの部屋に灰皿といっしょに置いてあるよ」
「でも、それを持ってったら、おじいちゃん困るじゃない」
「困らないよ。禁煙すればいいだけじゃん」
「そっか」
 母親は肩をすくめて、仏壇を閉め、おじいちゃんのライターを探しに行った。そしてすぐに叫んだ。
「なんだ、これじゃないの!」
「え?」
「仏壇に置いといたライター。もう、おじいちゃんたら」
「あの人にモンク言ってもはじまらないよ。おじいちゃんは勝手になんでも使う人だから」
「まあね」
 母親はライターをジーンズのポケットに入れて「じゃ、行こう」と言った。

 マナブはあらためておじいちゃんとおばあちゃんに「さようなら」と手を振った。
 三人が車に乗ると、父親がフロントガラス越しに「ありがとうございました」と頭を下げて、車をスタートさせた。
「今日はあまり道は混まないと思うんだけどな。川辺さんちに寄っていくか?」
「マナブ、あんたは寄りたい?」
「うん……ていうか、お母さんの原稿、みんなにも渡さない?」
「それは、やっぱり本にしてからにしたいな」
「じゃあ、僕も本にしてから読めばよかった?」
「マナブはいいの」
「そ、そういう問題かなぁ……」
「オレもまだ最終稿は見せてもらってないんだよな」と父親は少し不満げに言った。「いつもはオレに相談するのに、今回はマナブなんだな」
「どちらも私の大切な人ですから」
 母親は窓を開けて、涼しそうに目を細めた。
「さて、どこにも寄らないなら、このまま高速道路をめざすぞ」
「ちょっと、まって。私、少しだけ海に寄りたいの」
「海ぃ?」
 父親の声がうらがえった。
「べつに泳ぐわけじゃないの。長くかからないから。お願い」
「はいはい。では、最後の思い出作りは、どちらの海にいたしましょうか?」
「分かれ道のコンビニのところ」
 そこは、この夏のあいだ、何度も寄ったコンビニだった。
「あんなところでいいのか? ボーとするなら浜の方に行くぞ。それとも買い物でもするのか?」
「私とマナブで、あそこから海まで歩いていくから」
「は?」
「わかるでしょ」
 父親はため息をついた。
「なるほどね。それを教えたくて、マナブに読ませたんだな?」
「そうなの」
「じゃあ、しかたないな。オレはいない方がいいんだろ?」
「いてもいいけど……」
「作家としておまえがやりたいことに、オレは口をださん方がいいんだ。で、時間はどのくらい? なんならオレは写真でも撮ってうろうろしてるけど」
「30分ぐらいかな。そのぐらいしたら海辺の方に迎えに来てよ」
「30分か。ちょっと中途半端だな。ま、いいか。ワイフからも子供からも解放されてぼーっとするひととき、けっこう幸せだしな」
「素直には喜べない気もするけど、でも、とりあえずありがとう。ご理解感謝します」
 車がコンビニに着くと、母親は仕事用のショルダーバックを持って、マナブを誘って下りた。
「じゃあ、また、あとでね」
 とマナブは運転席の父親に手を振ってドアを閉めた。 

 夏の濃い光が、コンビニの四角い建物をすっぽりと包み込んでいた。その焼けたアスファルトの駐車場から、海辺に降りる小道があった。母親はマナブを雑木林の中の小道に導いた。
「マナブにはね、ここで、お葬式に参加してもらおうと思います」
 と母親は少しおどけて言った。
「お葬式?」
「ま、最近死んだ人じゃないんだけどね」
 小道は木々の間を尾根のように続いていた。あちこちから蝉の声が響くが、その声は断続的で、もうひところの活力あふれる鳴き方とはちがっていた。
「私と、川辺のおばさん、二人姉妹なんだけど、子供の頃、仲のいい従姉妹がいたの。かわいい子だったんだから。私たちのもう一人の妹みたいな感じで。優しくて、思いやりがあって、夢があって。私とその子、小説とか音楽が好きでね、よくいっしょにいろんなこと語りあったんだ。ここは田舎で、なんにもないけど、外国の小説や音楽だったら、都会に住んでても田舎でも同じじゃない。だから、そういうのを書けば、田舎出身でもちゃんと作家になれるわよ、って」
「その人も小説を書く人だったの?」
「まあね。でも、子供の頃に語り合っていたことは、そんなに具体的なことじゃなくて、ぼんやりとした夢ばっかり。どんなお話が面白いかとか、素敵な恋とか、善人が犯人だったりとか、えらい人が夢に破れて死んでいくとか。いろんな想像したんだ。楽しかった。でも『テーマが必要よ』って彼女はいつも言ってたな。その通りよね。
 でね、大人になって、彼女は早くに結婚して東京に行ってしまったの。もう小説とか、そういうことは子供の頃の夢、って感じで。私はそのへん、こだわりがあったから、結婚とかもすごく遅くなっちゃったけどね。
 でも、その子、新居でおかしくなっちゃった。今思えばシックハウスってことよ。精神が不安定になって、薬を飲んでいたら、免疫異常まで出てきて。難病ってことだけど、生まれつきではなく大人になってから難病になるなんて変な話よね。それまでは特にそういうこともなかったんだから。入院してもなかなかよくならなくて、だんなさんも、彼女の親も、たくさんお金を使ったみたい。でも、そういうのって、根本的に間違ってたのよ。今から考えるとね。だって、家とか食べ物とかの化学物質が原因での異常なのに、それに気がつかないで薬つかっていたら、悪くなるばかりだもの。そしてね、死んじゃったの」
 小道はなだらかな斜面となって海辺へと下っていた。
 平らになってからも、砂浜に出るまではもう少し松林が続いていた。
 そこに来て、母親は足を止めた。
「ほら、見て。ここの松って、きれいに並んで立っているでしょ。まわりは普通の松林だけど、この道のならびだけ、まるで計画して植えられたように。ま、たぶん最初はそうだったんだろうね。で、道の奥には神様を祭るほこらとかもあったのかも。子供の頃に探したけど、今はもうそういうあとは残ってないんだ。でも、なにも残ってなくても、なんとなくわかる。ここは、とても神聖な場所なの。ここでね、私は従姉妹と、いろんなストーリーとか、語りあった。空想の中で、登場人物をそれぞれの木に見立てて。この木は誰々で、こっちの木を憎んでいて、あっちの木から好かれていて、とかね。今の私は、そういうふうに計画的にはストーリーを作っていないけど、なんていうのかな、こういう神聖な場所があることが、とても大切なことなの。現実的にも、心の中にも」
 母親は道の真ん中で、深呼吸をして、目をつぶった。
「マナブ、波の音が聞こえる?」
「うん」
「昔も聞こえた。今も聞こえるね」
「……」
「ここから始まったの」
「なにが?」
「すべて」
 母親はマナブの肩を抱き、一本の松の木に誘った。
「ほら、その木の裏側を見て」
 マナブが身体をまわしてのぞき込むと、木の皮にナイフで文字が刻まれているところを発見した。かなり古いもので、判読は難しかったけれど、マナブにははっきりと読めた。
「祈り師 ゆり」
「そう。『祈り師』っていうのは、彼女が考えた空想上の役割で、ユリっていうのは、彼女自身の名前」
「死んじゃった従姉妹?」
「そう」

 二人は松の木のトンネルから、まぶしい光のあふれる砂浜に出た。
 母親はバックに入れてきた原稿を取り出した。
 風で飛び釣らないように砂を少し掘って、中に紙をばらけさせて置いた。何枚かをくしゃくゃにして先に置き、他をぱらっと上に乗せて。
 そしてジーンズのポケットから、おじいちゃんのところから取り返してきたライターを使って、紙に火をつけた。
「いいの?」
 マナブはあせって質問したが、母親はやさしく微笑んだ。
「大丈夫。オリジナルはパソコンに入ってるから。ただ、届けたくて。これが、お葬式。マナブといっしょにね」
 もちろん、これがただのプリントアウトであることはマナブにも理解できたが、自分が一枚一枚めくって読んだのは、この原稿なのだ。それが燃えていくのは、やはり激しく心が痛んだ。
「マナブのこと、ユリに伝えたかった。ユリのために書いた作品と共にね」
「僕は……けっこう感動したよ」
「ユリのおかげ。そうでしょ?」
「うん」
「いっしょに祈ってくれるかな」
「あ、そういうセリフ、あったよね」
「『普通の祈りです』」
「そう、それそれ」
「そうよ。これも、普通の祈り」
「いいよ」
 マナブは母親がするのと同じように、燃えていく原稿にむかって手をあわせた。
 母親は穏やかにつぶやいた。
「ありがとう、ユリ。……あなたの輝き、忘れないよ。少しでも、形にしたかった。遅くなってごめんね。これが精いっぱい。許してくれるかな。……さようなら、ユリ……」
 マナブも、なにか一言添えようとしたが、何も言えなかった。
 そんなマナブを察し、母親は小さな肩を抱きしめた。

 
 帰りのドライブの途中、高速道路を走る車の中で、マナブはふと思い出した。
 もしかしたら、ユリには会っていたのかもしれない。あの最初の日、猫を探していた女の子……
 彼女のことは、従兄弟のジュンちゃんたちに質問しても「わからない」と答えていたし、そのあとも一度も会わなかった。
「ねえ、お母さん」
「ん?」
「昔、ユリさんって、猫を飼っていたことない?」
「あるわよ」
「それって、もしかして、白黒?」
「そうだけど、なんで?」
 マナブは急にうれしくなったが、その理由は誰にも話さない方がいいと思った。
「ううん、なんでもない。なんとなくね」
「このへんは白黒の猫が多いからな」と父親が口をはさんだ。「ところで、どうだった、マナブ。今年の夏休みは?」
「よかったよ」


 よかった。
 たくさんのことが、心に残っている。
 悲しいこともあった。
 でも、成長したような気はした。
 たぶん、すごく。

 今こうしているあいだも、日本中で自動車が高速道路を走っている。 
 ガソリンを燃やし続けている。
 小型車でも満タンで40リットルくらい。
 帰り着くまでには、マナブの体重分ほどのガソリンが燃えて無くなってしまう。
 いつか、こんな贅沢なこと、続けられない時代が来るかもしれない。
 ガソリンを燃やせない時代。
 ガソリンだけでなく、多くのエネルギーを浪費できない時代。
 そんな将来のために、自分になにができるのか。
 わからないけど、でもあきらめない。
 ユリが残してくれた輝きが、ここにはあるはずだから。